アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

TVアニメ『モブサイコ100 Ⅲ』(2022年秋)第8話の演出について[考察・感想]

 *この記事は『モブサイコ100 Ⅲ』「08 通信中② 〜未知との遭遇〜」のネタバレを含みます。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

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第1期(2016年)と第2期(2019年)に続き,大きな注目を集めているONE原作/立川譲総監督『モブサイコ100 Ⅲ』。特に先日放送された「08 通信中②〜未知との遭遇〜」は,宇宙人との遭遇という突飛な物語として元々人気があった上に,第2期の伝説回「05 不和〜選択〜」を担当した名アニメーター・伍柏諭が腕を振るったとあり,SNSでも大いに話題となった。BパートのUFO内のシーンもさることながら,Aパートの暗田トメを中心とした繊細な演出が光る名話数である。詳しく見ていこう。

 

トメちゃんの憂鬱

物語は,犬川,猿田,雉子林ら「脳感電波部」の部員が暗田トメをUFO探しに誘い出し,「泥船山」山中に向かうところから始まる。前話で部員たちのやる気のなさに嫌気が差して「脳感電波部」を解散していたトメは,誘いに乗りながらも少々テンションが低い。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

冒頭,カメラは車外からトメのアンニュイな表情を写した後,車内へ移動して今度は斜め後ろから彼女を捉える。爪をいじる仕草からやや退屈気味な内心がうかがえるが,その表情は見えない。自然,視聴者はその表情を“想像”することになる。一度見せていた表情をあえて隠し,手の仕草だけで心の動きを示す。視聴者にトメの心情を伝達すると同時に,その読み込みをも促す上手いシーンだ。

その後,一行は車を降りて徒歩で移動するが,早々に道に迷ってしまい,やがてトメと部員たちは言い争いを始める。UFO探しに対する自分の真剣な気持ちを理解しない部員たちに,トメは感情を抑えきれなくなる。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

トメの背後から写したカットは,トメ,竹中,犬川,猿田と山の木々が画面に対して斜めに描かれており,山道の複雑な傾斜とも相まって,画面全体に不安定感を漂わせている。テレパシストであることを疑われた竹中の苦々しい表情と,トメの感情の昂りを前に動揺した犬川の表情もいい。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

「真剣な気持ちを踏みじにられた私の気持ちなんて,アンタ達にはわからないのよ…わからないのよ!」と叫びながら感情を爆発させるトメ。ちょっとした“トメサイコ100”の図だ。カメラはその悲痛な表情を捉えた後,にわかに上昇して俯瞰から全員を捉える。山中にトメの声と鳥の羽音が響く。地形をうまく利用した構図とカメラワークによって,言い争いの緊迫感が的確に描き出されている。

 

トメちゃんの高揚

トメは「帰る!帰ります!」と言ってうずくまり,その場を動こうとしない。しかしモブが「トメさん,一緒に歩きましょう」と声をかけると,「わかったわかった。歩けばいいんでしょ!」と言って山道を進み出す。今泣いた烏が,というくらいの変わり身の速さだが,この後のトメの描写がとてもいい。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

環境音に代わって軽快なBGMがインし,一行はまるでハイキングでもするかのように山頂を目指す。ここでもカメラはトメの表情を写さず,吊り橋で小走りになったり,廃線の線路の上を軽快に歩いたり,草葉に手を触れたりする仕草だけを捉えることで,“本当は部員達と楽しい思い出作りをしたい”という彼女の本音を描き出している。なお,このようにトメが山登りを楽しむ描写は原作にはなく,この一連のシーンはアニメオリジナルである。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

ハイキング気分を楽しんでいたトメは,部員らが本当にUFO探しをしようとしていることに気づく。ここでカメラは改めて彼女の憂鬱な横顔を捉える。

トメはUFOとの交流という自分の「妄想」に部員たちを巻き込んでしまったことに罪悪感を抱いている。それに対し,竹中と部員らは自分たちが「本気」であることを熱く語る。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

この時,カメラはトメの背後からトラックアップし,山頂の全員を捉える。先ほどの山中の斜めの構図と違い,こちらは全員が地面に対して垂直に立つ構図になっている。トラックアップによる画面の“凝集”と垂直の安定感が,彼らの心が一つになりつつあることを示しているようでもある。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

この後,彼らはモブの超能力の力を借りて本当にUFOを本当に呼び出し,「世界観」があまりにも違いすぎる宇宙人と遭遇し,UFO内に案内される。

 

“部活”の思い出(そして霊幻さんの退屈)

はたして,UFOの内部は「脳感電波部」の部室とそっくりの風景だった。「未知との遭遇」とは言っても,SF超展開になるわけではなく,結局は“日常風景”に帰るというところがいかにも『モブサイコ100』らしくて面白い。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

トメと部員たちは,宇宙人との交流という願望を叶えると同時に,部活の思い出作りをもかなえた。このシーンにおける本作ならではのポップなーーそして少々猥雑なーー色彩設計は,これまでどちらかと言えば燻った印象のあった「脳感電波部」の思い出作りが,この上なく華やかな形で成就したことを示している。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

その一方で,唯一の“大人”である霊幻は彼らの姿を眩しそうに見やりながら,山中に置いてきたレンタカーのことを気にかけてしまう。トメたちのポップカラーの青春の一幕と,霊幻の力の抜けた表情。このなんとも言えない脱力感のあるコントラストも『モブサイコ100』らしくて実にいい。

「08 通信中②〜未知との遭遇〜」より引用 ©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅲ」製作委員会

かと思えば,犬川“拉致”時に登場するモンスターの背動バリバリの疾走シーン(上図はAjin-進の原画)など,アクション的にも見応えのある画を挿入してアニメファンの目を楽しませるところも憎い。

 

伍柏諭の技

台湾出身の伍柏諭は,『Fate/Apocrypha』(2017年)の「22 再会と別離」,及び,先述した『モブサイコ Ⅱ期』(2019年)の「05 不和〜選択〜」の単独演出によって,日本のアニメファンの間で名を馳せたアニメーターである。

『モブサイコ100 Ⅱ』「05 不和〜選択〜」より引用
©︎ONE・小学館/「モブサイコ100 Ⅱ」製作委員会

どちらかと言えばアクション中心だったこの2つの話数と比べ,今回見てきた「08 通信中②」は日常芝居が中心だ。作画カロリーは相対的に少ないのではないかと思われるが,その分,繊細な演出技術が映えた。その意味でも,伍の新たな側面を垣間見ることのできる貴重な話数だったと言える。

ちなみにキャラクターデザイナーの亀田祥倫によれば,伍は第2期5話で絵コンテをある程度ラフに仕上げ,各アニメーターの采配に任せる手法をとっていたらしい。*1 今回の第3期8話も同様の手法をとったと推測される。ちなみに伍自身も,『Fate/Apocrypha』22話の制作に関して「それぞれのアニメーターごとの作家性や得意分野をイメージしながら,カットごとに当て書きのような形で絵コンテを進めていきました」と言っている。*2 アニメーターの個性を最大限に発揮させるアニメ作り。おそらくこの辺りが伍柏諭演出の魅力の源泉なのだろう。

ちなみに亀田によれば,第1期と第2期では総作監制をほとんど機能させておらず,各話演出担当に采配を任せる体制だった。一方,第3期では「シリアスな展開が続くので,絵柄に差がないほうが内容が入ってきやすい」などの配慮から,亀田が総作監を担当し,作画の統一感を図っているらしい。*3 特に今後の「最終章」からは一気にラストまで駆け抜けることが予想されるため,今回の第8話のような,アニメーターの個性が炸裂した日常回は最後になるかもしれない。

 

さて,諍いを起こしながらも「脳感電波部」が成し遂げた青春の“思い出パワー”は,この後の「最終章」において,主人公モブの“思い出パワー”へと引き継がれていく。アニメ班の技を堪能しつつ,この物語の結末を見届けようではないか。

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:ONE/総監督:立川譲/監督:蓮井隆弘/シリーズ構成:瀬古浩司/キャラクターデザイン:亀田祥倫/美術監督:河野羚/色彩設計:中山しほ子/撮影監督:古本真由子/編集:廣瀬清志/音響監督:若林和弘/音響効果:倉橋静男,緒方康恭/音楽:川井憲次/アニメーション制作:ボンズ

【キャスト】
影山茂夫:伊藤節生/霊幻新隆:櫻井孝宏/エクボ:大塚明夫/影山律:入野自由/花沢輝気:松岡禎丞/芹沢:星野貴紀/暗田トメ:種﨑敦美/ツボミ:佐武宇綺/米里イチ:嶋村侑/郷田武蔵:関俊彦/鬼瓦天牙:細谷佳正

【「#8 通信中②〜未知との遭遇〜」スタッフ】
脚本:
立川譲/絵コンテ・演出・作画監督:伍柏諭
原画:小堀史絵林祐己吉田奏子佐藤利幸佐竹秀幸瀬口泉土上いつき山本荒井和人五十嵐海刈谷仁美簑島綾香久武伊織中村七左篠田知宏橋本有加AJin-進Weilin ZhangBlu ShadeChrisJulian BVincent ChansardVercreekmyounBONONogyaPPP

 

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商品情報

月刊MdN 2018年10月号(特集:アニメの作画)[雑誌]

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*1:「アニメスタイル015」,pp.31-34,スタイル,2020年。

*2:「MdN 2018年10月号」,p.73,エムディエヌコーポレーション,2018年。(ボールドの強調は引用者による)

*3:「月刊ニュータイプ」2022年12月号,p.77,KADOKAWA,2022年。

劇場アニメ『すずめの戸締まり』(2022年)レビュー[考察・感想]:“girl meets herself”ー廃墟の中で,彼女は彼女と出会う

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。また『雨を告げる漂流団地』と『ぼくらのよあけ』の内容にも一部触れておりますのでご注意ください。

『すずめの戸締まり』公式Twitterより引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

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新海誠監督『すずめの戸締まり』は,ラブストーリー,ロードムービー,マスコットキャラ,妖怪バトルなど多くのエンタメ要素を盛り込みながら,これまで以上に高いポピュラリティを獲得することを狙った作品だ。しかし同時に本作は,同監督の『君の名は。』(2016年)と『天気の子』(2019年)がフィクションの形で迂回してきた〈震災〉というテーマを真正面から扱ったセンシティブな作品でもある。はたして新海は,“エンターテインメントで震災を語る”という難題にどう取り組み,どこまで成功したのか。

 

あらすじ

九州のとある静かな町に暮らす高校2年生の少女・岩戸鈴芽は,ある日,旅の青年・宗像草太と偶然出会う。彼は災禍をもたらす世界の「扉」を閉ざしながら旅をしているのだという。やがて2人の前に,不思議な猫・ダイジンが姿を現し,草太を椅子の姿に変えてしまう。鈴芽と草太は,逃げるダイジンを追いかけながら各地の「扉」を閉ざしていく旅に出る。

 

廃墟と共に

「未来都市は廃墟である」

こう断言したのは外でもない,建築家の磯崎新であった。彼は垂直方向に屹立するーーつまりポジティブなーー構造物を創造する建築家でありながら,「未来」というポジティブと「廃墟」というネガティブを無媒介に接続してしまったのだ。

1931年生まれの磯崎は,少年時代に戦災による都市崩壊を目の当たりにした。それは単なるアクシデント=偶発事ではなく,むしろ事物の普遍的な本質として,彼の心に深く刻み込まれた。磯崎はこう述べる。

私はおそらく生涯,建築をつくりつづけることになるだろう。その過程でつくられた建築は,生物が死を迎えるように,いつかは廃墟になる。いや立ち上がった瞬間から既に廃墟に向かって歩みはじめる。その関係を見据えるならば,それが構想されたときから,既に廃墟をみずからのうちに包含しているとみてもいいのではないか。建築は廃墟として構想されることが可能になる。当然ながら,それは未完でありつづけるし,壊れつづけることになろう。*1

少年時代の磯崎が見たものは戦争の暴力がもたらした廃墟だったが,災害や時の経過がもたらす廃墟も本質的に変わりはない。すべての人工構造物は,すでに・常に〈廃墟〉を含み込んでいる。廃墟は,そしてそれをもたらす巨大な力と時は,人に抗いようのないものとして常にそこにある。その意味で,僕らは廃墟の中で,廃墟と共に生きている。にもかかわらず,あるいはだからこそ,建築は作られ続けていく。

新海が『すずめの戸締まり』の廃墟の風景によって描こうとしたのも,第一にそのような〈廃墟の遍在〉というペシミズムだったのではないか。むろん,戦中世代ではない新海にとっての廃墟は,表面的には磯崎の目に映っていた廃墟とは異なるだろう。しかし彼が「日本という国自体が,ある種,青年期のようなものを過ぎて,老年期に差し掛かっているような感があった」*2 と述べる時,彼の念頭には,磯崎のものと同じ〈廃墟の本質〉があったと思われる。戦争の暴力か,災害や時の経過か,といった作用因の表層的な違いとは関係なく,事物の根本的本質を構成する〈廃墟の普遍性・遍在性〉。磯崎と新海は,世代を超えて同じ感性を共有していると言える。

というのも,新海は本作の企画書の中でこうも述べているからだ。

災害については,アポカリプス(終末)後の映画である,という気分で作りたい。来たるべき厄災を恐れるのではなく,厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている,そういう世界である。*3

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界。災害と,それがもたらす崩壊とが,潜在的な可能性として,そして確かにあった過去として,すでに・常に内包されている世界。その象徴が,この作品の中で印象的にーー時に美しくーー描かれる廃墟なのだろう。

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

新海の美術チームが描く繊細な廃墟は,人の構造物に内在する〈廃墟〉のリアリティに確かに迫っている。廃墟そのものだけではない。作中で描かれる田舎町の建物の風化の度合い,ルミが働く場末のスナックの猥雑感,あるいは芹澤の乗る中古車や鈴芽の椅子の壊れ具合までもが,そうした〈廃墟性=力と時間〉のリアリズムを具現しているように思える。

ところで,今年は偶然にも“団地”を舞台にした劇場アニメ作品が2つ公開されている。石田祐康監督『雨を告げる漂流団地』黒川智之監督『ぼくらのよあけ』だ。どちらも,廃れゆく昭和時代の団地への郷愁を描いたという点が共通する。

『雨を告げる漂流団地』公式Twitterより引用 ©︎コロリド・ツインエンジンパートナーズ

特に『雨を告げる漂流団地』は,団地を擬人化することで,構造物に対するヒューマンな感情移入を促した点でたいへん興味深い。確かに僕らは廃墟に“感情移入”をすることがある。そこには,かつてそこに人々が生きていたという痕跡が遺されているからだろう。廃墟は,人々の過去の営みを内包しながら,時と共に僕らの生活圏の中に蓄積していく。それは今を生きる人々の営みに隣接しつつ,時に人々の愛惜,あるいは哀惜の対象となる。

そして『すずめの戸締まり』における新海のユニークネスは,その廃墟を「悼む」という感情動詞で捉えようとした点にある。彼によれば,「扉を閉ざす」というモチーフは,「場所を悼む」という意味を担っているのだという。

かつて栄えていた場所や街が,人が減って寂れていったり,災害で風景が失われてしまったり。最近そういう場所が日本中に増えているなという実感があったんです。そういう「場所」を悼んだり鎮魂したりする物語ができないかとイメージしたとき,自ずと出てきた作品舞台が,人のいなくなった寂しい場所,つまり,廃墟だったんです。*4

ただ郷愁を覚えるだけでなく,廃墟という事物に霊を見出し,能動的に悼み,鎮める。こうした新海のユニークなアニミズムは,地震頻発国に生き,廃墟の潜在的可能性をより身近に感じる僕らの感性に強く訴えかけるものだろう。

 

重なる廃墟と日常

そしてだからこそ,新海は廃墟を外在的な異空間ではなく,あくまでも内在的な現実空間として描こうとしたのだろう。特に印象的なのは,「扉」を閉める際に,廃墟とそこで生きた人々の日常が重ね合わせられるシーンだ。廃墟の中で「扉」を発見した後,鈴芽と草太はかつてそこで暮らしていた人々の営みを想起する。すると扉に「鍵穴」が現れ,草太の持つ鍵によって扉を閉ざす=鎮めることができるようになる。これはおそらく,終盤の草太の言葉によって明かされる「人の心の重さが,その土地を鎮めてるんだ」*5 という“設定”と関連するのだろう。廃墟を人の営みから排除された外部世界として描くのではなく,あくまでも人の営みと重ね合わせようとする演出意図がうかがえる。

ラストシーンの「常世」の廃墟にも同様のシーンがある。草太が燃え盛る町を前に祈りの言葉を捧げると,かつてそこで営まれていた日常の風景が鈴芽の目前に浮かび上がる。少々長くなるが,小説版から引用してみよう。

燃える夜の町が,薄いカーテンを透かしたかのようにゆらゆらと揺れていた。瓦礫の黒と炎の赤が溶け合うように淡くなっていき,代わりにゆっくりと,瑞々しい色彩が浮かび上がってくる。

それは朝日に照らされた,かつてのこの町の姿だった。色とりどりの屋根が陽射しを反射し,道路には何台もの車が走り,信号機の赤や青がちらちらと瞬いていた。ずっと奥の青い水平線には,白い漁船が光を散らしたように浮かんでいた。空気は澄み渡り,来たるべき春の予感をたっぷりと含んでいた。そこには生活の匂いも豊かに混じっていた。味噌汁の匂いがあり,魚を焼く匂いがあり,洗濯物の匂いがあり,灯油の匂いがあった。それは早春の,朝の町の匂いだった。*6

廃墟の風景の上に,二重露光のように重ね合わせられる日常の風景。映画を観た人であれば,この文章の通りの風景が映像化されていたことがわかるだろう。実は,当初の脚本と絵コンテには,ここに引用したような日常風景のシーンはなく,制作段階で敢えて付け加えられたらしい。

常世については,そこを燃えている町として表現すること自体にも,不安がありました。そのようなビジュアルを見たくない人も,少なからずいるに違いない。でも,やはり鈴芽の行く常世はそのような場所でなければならないと思いました。鈴芽の心の中では,町はまだ燃えているのだと。だとしたら,鈴芽はそこで何をすれば良いのか。ミミズを封印するだけで良いのか。考えていくうちに,鈴芽はその場所にあったはずの声を聴かなければいけないのではないかと思い至りました。*7

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

「その場所にあったはずの声」とは,この廃墟に昔暮らしていた人々の「おはよう」「いただきます」「いってきます」「ごちそうさま」「いってらっしゃい」という〈日常の声〉である。燃え盛る廃墟と,そこに重ね合わせられる日常のシーンが,本作で最も強烈なーー人によっては過酷すぎるーー印象を放つことは言うまでもない。それは明確に東日本大震災の被災地を想起させるからだ。だからこそ,新海もこのシーンの描写には相当な覚悟が必要だったのだろう。燃える廃墟とかつての日常を重ね合わせる。10年以上を経た今でも,この風景に耐えられない人はもちろんいるはずだ。新海はそれを敢えて行った。この英断が,本作に決定的な重みを付与したことは間違いない。

こうした文脈では,「扉に鍵をかける」という所作が,家の鍵や自転車の鍵をかける所作と重ね合わせられているシーンも意味深い。

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

「鍵をかける」=「場所を悼む」ことは,特殊な魔術的所作ではなく,あくまでも日常的な所作の延長である。この作品において,廃墟も,その廃墟を「悼む」所作も,僕らの日常と地続きのものとして描かれている。まさしく,新海自身が語った「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界こそが,この作品のコアメッセージに他ならない。

しかし,はたしてこの作品がそれを十分に伝えきれているかということになると,若干の留保が必要ではないか。というのも,「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」はずの世界は,「常世」という“異世界”の中で,妖怪バトルのごときパワフルなアクションによって思いのほかあっさりと救済されてしまうからだ。都市の地下深くに潜在していた震災の可能性は,まるでなかったかのように人々の目から“隠蔽”されてしまう。エンターテインメントに擦り寄ったスペクタクルな“救済物語”が,新海が伝えようとしたコアメッセージーー「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界ーーを少なからず希釈してしまった(ゆえに,僕らはインタビューなどの情報からメッセージの濃度を補充しなければならない)感は拭えない。

ここには新海誠,あるいはすべてのアニメ制作者のジレンマが明確に示されている。廃墟および厄災と共に生きるというコアメッセージは深い意味を持っている。エンターテインメントという媒体を用いれば,そして“新海誠”というブランド力をもってすれば,それが広範囲の層にリーチする可能性は確かに高まる。しかしその分,そのインパクトが弱められてしまう危険性も避け難い。はたして,こうしたテーマが十分な強度で同程度のリーチを得ることは,エンターテインメント作品にとって可能なのか。アニメは僕ら日本人のトラウマをどこまでリアルに伝えることができるのか。

 

girl meets herself

さて,新海が描こうとしたこの過酷な世界観の中で,主人公・岩戸鈴芽の成長はどう描かれているだろうか。最後にこの点を確認してみたい。

まず大前提として押さえておくべきは,この作品が“ラブストーリーではない”という点だ。あるいはより正確に言えば,“少なくともこれまでの新海作品におけるラブストーリーとは異なるものになるはずだった”といったところだろうか。「鈴芽の夢」「草太との出会い」「ラストの常世」の流れを追ってみよう。

物語は鈴芽の“夢”から始まる。星が異様に輝く空の下,雑草に覆われた廃墟の中を幼い頃の鈴芽が母の姿を求めて歩いている。母親を見つけられずうずくまる鈴芽の元に,白いワンピースを着た女性が姿を表し,鈴芽に優しく語りかける。鈴芽はそれを母親だと思う。彼女は夢から覚め,普段通り自転車で登校する。道すがら,草太の姿を見みかけた彼女は思わず「きれい…」とつぶやく。一見,多感な少女の一目惚れに思える。しかしすれ違いざま,彼女は草太の姿に“何か”を感じる

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

彼に廃墟の場所を教えた後,鈴芽はいったん学校に向かうが,途中で思い直したように廃墟に向かい,「あの,わたしー!あなたとー,どこかで会ったことがあるような気がー!」と叫びながら草太を探す。どうやら彼女は夢の中で見た女性と草太とを結びつけているようだ。

この謎はラストシークエンスで明かされる。幼い頃に開いた扉から「常世」に入った鈴芽は,ミミズを鎮めた後,草太から白いロングシャツを身体にかけてもらう。それはまるで白いワンピースのように見える。その後,鈴芽は常世を彷徨う一人の少女を見つける。それは幼い頃に「常世」に迷い込んだ彼女自身(以下「すずめ」)だった。母を見つけられずに泣きじゃくるすずめに,鈴芽は優しく声をかける。そう,夢の中で母だと思っていた女性は,12年後の自分自身だったのだ。したがって,草太との最初の出会いで感じた“何か”も,結局は自分自身を再帰的に認識したもの,ということになる。

鈴芽はすずめに常世で拾った「椅子」を手渡しながらこう言う。

あのね,すずめ。今はどんなに悲しくてもね,すずめはこの先,ちゃんと大きくなるの。だから心配しないで。未来なんて怖くない!あなたはこれからも誰かを大好きになるし,あなたを大好きになってくれる誰かとも,たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど,いつか必ず朝が来る。あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと,決まっていることなの。

不思議そうな顔で「お姉ちゃん,だれ?」と問うすずめに,鈴芽は「私はね,私は,すずめの,明日」と答える。鈴芽は「12年間生きた」という端的な事実によって,つまり自分の未来を示すことによって,過去の自分を救う。廃墟に重ね合わせられた過去の人々の「おはよう。いただきます。いってきます。ごちそうさま。いってらっしゃい」という日常的な挨拶を,彼女は叔母や友人たちと12年間交わし続けることができた。素朴だが,かけがえのない日常を生きられたという事実こそが,災害という過酷な運命を経験した自分自身の救いとなるのだ。

このことは,常世の中で神に向かって呼びかけた草太のセリフとも呼応する。

命がかりそめだとは知っています。死は常に隣にあると分かっています。それでもいま一年,いま一日,いまもう一時だけでも,私たちは永らえたい!猛き大大神よ!どうか,どうか!お頼み申します!

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界において,限られた小さな日常を生き得た。広大な大地の上に,小さな小さな〈日常〉という痕跡を遺し得た。この事実を認識することこそが,廃墟=過去の人々を悼み,自分自身を救うことになる。これが,長い旅の中で鈴芽が果たした成長である。

結局,草太との出会いは自分自身との出会いだった。要するに,これはラブストーリーという回路を経由した〈自己認識〉あるいは〈自己救済〉の物語なのだ。“boy meets girl”ならぬ,“girl meets herself”の物語と言ってもいいだろう。そもそも恋愛とはそういうものなのかもしれない。人は多かれ少なかれ,恋愛対象の中に己自身を見出している。精神分析学を持ち出すまでもなく,僕らは恋愛対象を経由した自己認識を日常的に行っている。この〈他者を経由した自己認識〉という回路を,タイムリープという大道具を用いてファンタジーに仕上げた点に新海のアイディアがある。そしてこの辺りが,これまでどちらかと言えば伝統的な“boy meets girl”(この呼称そのものからわかる通り,それは多分に男性主体の物語である)を描いてきた新海作品と大きく異なる点だ。

しかしここでもまた,少々の留保が必要である。というのも,本作で新海は“boy meets girl”と“girl meets herself”の間で揺れ動いているように思えるからだ。

ラストシーンを思い出してみよう。自転車で登校する途中,坂を降る鈴芽が,坂を登る草太と再会する。鈴芽は草太に「おかえり!」と声をかける。かつて「常世」の廃墟に生きた人々の「おかえり」と重ねることで,鈴芽が草太とかけがえのない〈日常〉を生きていくことを暗示した重要なシーンだ。

しかしこのシーンには,新海が自身のテーマに対して抱いていたアンビヴァレントな態度が見え隠れしているように思える。というのも,この際の鈴芽と草太の構図は『君の名は。』と『天気の子』のラストシーンと非常によく似た構図になっているからだ。“坂道での再会”というモチーフをリサイクルすることによって,まるで伝統的な“boy meets girl”(あるいは“girl meets boy”と言ってもよいが)に回帰してしまっているように見える。新海が“boy meets girl”を完全に脱去し,“girl meets herself”の物語に徹し切れていないという印象を抱いてしまう。

左:『君の名は。』より引用 ©︎2016「君の名は。」製作委員会
右:『天気の子』より引用 ©︎2019「天気の子」製作委員会

このことは,新海自身の発言からもうかがえる。劇場用パンフレットに掲載されたインタビューで,彼は「最初に『すずめの戸締まり』というい作品を作ろうと思ったときに,今回は恋愛ではない映画にしたいというのがありました」*8 と述べている。しかしその一方で,企画書では「ターゲットとする観客を想定するのだとしたら,ラブストーリーを求める十代に向けるもちろんだが」とも書いているのだ。おそらく興行的な配慮(したがって,新海自身の判断ではない可能性ももちろんある)もあってか,“boy meets girl”を求める若者にリーチするという“下心”が隠しきれていない。“boy meets girl”と“girl mees herself”の間で揺れた新海のアンビファレンツが,ラストシーンをどっちつかずの印象にしてしまった可能性がある。

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界の中で,彼女は自分自身を救済した。『すずめの戸締まり』という作品に込められたこのメッセージには,極めて強い説得力がある。しかし今のところ,新海誠が本当にやりたかったことは,彼が本当に望んだ形で示されてはいないように思える。

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作・脚本・監督:新海誠/キャラクターデザイン:田中将賀/作画監督:土屋堅一/美術監督:丹治匠/音楽:RADWIMPS陣内一真十明/音響監督:山田陽/音響効果:伊藤瑞樹/制作:コミックス・ウェーブ・フィルム

【キャスト】
岩戸鈴芽:原菜乃華/宗像草太:松村北斗SixTONES/ダイジン:山根あん/岩戸環:深津絵里/岡部稔:染谷将太/二ノ宮ルミ:伊藤沙莉/海部千果:花瀬琴音/岩戸椿芽:花澤香菜/芹澤朋也:神木隆之介/宗像羊朗:松本白鸚

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
3.5 4.5

5.0

4.0
CV ドラマ メッセージ 独自性

4.0

3.5 4.0 3.5
普遍性 考察 平均
4.0 4.0 4.0
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

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商品情報

*1:磯崎新「廃墟論」(『磯崎新建築論集 2 記号の海に浮かぶ〈しま〉ー見えない都市』,岩波書店,2013年に所収。)

*2:劇場特典「新海誠本」,p.6。

*3:同上,p.4。

*4:『すずめの戸締まり』劇場用パンフレット,p.14。

*5:以降の映画のセリフの引用は,小説版を元に修正したもの。

*6:新海誠『小説 すずめの戸締まり』,pp.341-342,角川文庫,2022年。

*7:「新海誠本」,p.13。

*8:劇場用パンフレット,p.15。

2022年 秋アニメ 中間評価[おすすめアニメ]

*この記事にネタバレはありませんが,各作品の現時点までの話数の内容に言及しています。未見の作品を先入観のない状態で鑑賞されたい方は,作品を先にご覧になってから本記事をお読みください。

 

今年も残すところ一月半。2022年秋アニメもほとんどの作品がクール半ばまでの放送終えている。今回も,現時点までの当ブログ最注目作品を五十音順に(ランキングではないことに注意)いくつか取り上げてみたい。

なお「2022年 秋アニメは何を観る?」の記事でピックアップした作品は,タイトルを茶色にしてある。 

www.otalog.jp

 

1 『異世界おじさん』

isekaiojisan.com

新型コロナウィルス感染拡大に伴い,放送が夏クールから秋クールにシフトされたため,当ブログでも秋アニメとして扱うこととする。本記事執筆時点では第6話までの放送が終了している。以下に「2022年 夏アニメ 中間評価」の際のコメントをペーストしておく。

異世界帰りのおじさんと甥のコメディという設定の妙に加え,子安武人(おじさん)と福山潤(甥のたかふみ)のシュールな掛け合いが癖になる秀作ギャグアニメだ。特に子安武人のキャスティングは,このキャラクターにとって最適解だと言えるだろう。独特なテクスチャーの作画もとてもいい。異世界モノのテンプレートに対するオルタナティブとして,このジャンルの底知れぬポテンシャルを感じさせてくれる作品でもある。

 

2 『機動戦士ガンダム 水星の魔女』

g-witch.net

女性主人公学園モノ決闘,そして百合風味と,これまでのガンダムシリーズにはあまり見られなかった成分をふんだんに盛り込んだ意欲作。多くの要素を含みながらも,全体としてきれいに整合性が保たれているため,ストレスなく物語を追うことができる。その意味で,“ガンダム初心者”向けの安定感のあるシリーズと言える。いやあるいは,後半の話数で何らかの“超展開”が起こるのか。

 

3 『サイバーパンク エジランナーズ』

www.cyberpunk.net

Netflixにて全話配信済み。ポーランドのアクションRPGゲーム『サイバーパンク2077』をベースとしたスピンオフアニメで,海外でも人気の高いTRIGGER今石洋之が監督を務めるということもあり,当初から期待度の高かった作品。TRGGERらしい,ギラギラとしたスピード感のあるアニメーションと“日本アニメ”の風味の融合体が,みごと海外向けに“翻訳”されている。そしてラストにかけてのエモーショナルな演出。間違いなくTRGGER今石の最高傑作の一つとなるだろう。

 

4 『SPAY×FAMILY 第2クール』

spy-family.net

新たなキャラクター・ボンドがフォージャー家に加わり,いっそう賑やかさを増した本作。第2クールに入って諸々こなれた感もあり,特にアーニャの絡むギャグシーンなどは第1クールよりもテンポがよくなったように思える。今後も安心して見続けられるシリーズになりそうだ。しかしその一方で,アニメならではのサプライズ演出が見られることを期待してしまう。この制作陣の力量であれば,第1クールで見られたような良質なアニオリをそれなりの頻度で繰り出しても問題ないだろう。今後に期待だ。

 

5 『チェンソーマン』

chainsawman.dog

絶大な人気を誇る藤本タツキの原作に,今をときめくMAPPAの制作,及び「一社提供」という近年の深夜アニメでは異例の製作方式と,放送前から大きな話題を集めた作品。意図的に抑えられた演出は特に原作勢の間では賛否が分かれているが,個人的には,抑制された芝居とヴァイオレントなアクションで〈静と動〉のコントラストを描く本作の演出方針は高く評価したい。

 

6. 『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』

diy-anime.com

「何を観る?」の記事ではピックアップしなかったが,魅力的なキャラクター丁寧な作画ユニークな舞台設定と,なかなか見どころの多いオリジナルアニメだ。ビッグタイトルが多い今期にあって決して派手な存在感の作品ではないが,この手の良質な小品が定期的に生まれてくるのが日本の深夜アニメのいいところだ。第1話と第2話の演出に関して,以下の記事を参照いただきたい。

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7. 『ぼっち・ざ・ろっく!』

bocchi.rocks

制作陣の自由な解釈が炸裂し,極めて表現力豊かなアニメーションに仕上がった傑作。デフォルメとリアル,ギャグとシリアスの配分がほどよく,毎話飽きさせない作りをしている。「何を観る?」の記事でもコメントしたが,同じガールズバンドを描いた『けいおん!』と比べてみるのも面白いかもしれない。特にキャラ(クター),主要舞台(学校/ライブハウス),楽器の扱い方などにおいて,両作品の間には大きな違いが見られる。第1話から第3話の演出について,以下の記事を参照いただきたい。

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8. 『モブサイコ100 Ⅲ』

mobpsycho100.com

原作をリスペクトしつつも,ほぼオリジナル作品として楽しめるほど制作陣の豊かな解釈が施された本作。第1期・第2期の制作方針を踏襲しつつも,第3期では亀田祥倫が総作監として全話をチェックし,作画の統一を図っている。「第3期ではシリアスな展開が続くので,絵柄に差がないほうが内容が入ってきやすい」という配慮があってのことらしい(「月刊ニュータイプ」2022年12月号掲載のインタビューより)。つまり作画の統一感が,物語が佳境に入ったことを示している。この辺り,あえて総作監を置かずに,アニメーターの自由裁量に任せた第1期・第2期と比べてみるのも面白いだろう。ともあれ,僕らはとうとうこの物語の結末を目にすることができるわけだ。第1期と第2期のレビューは以下の記事を参照していただきたい。

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9. 『ヤマノススメ Next Summit』

yamanosusume-ns.com

これまでと同様,各話でアニメーターの個性がはっきり出る作り方をしており,毎話制作陣のテクニックを見るのが楽しみな作品だ。また吉成鋼のEDアニメーションも本編に合わせて毎話変化するため,実質“Cパート”を観るのに近い楽しみがある。アニメーターたちの技を堪能しつつ,末長く楽しめる作品になるだろう。

 

以上,「アニ録ブログ」が注目する2022年秋アニメ9作品を挙げた。今回は当初の期待作が豊富だったこともあり,いつもよりも多めのピックアップとなった。最終的なランキング記事は,全作品の放映終了後に掲載する予定である。

アニメを“書く” ーグーテンベルクの比較的小さな銀河系の中でー

近所の町の本屋がおしゃれスーパーになっていた。また一つ,町から活字文化が姿を消した。

…というのはやや感情的に過ぎるノスタルジーかもしれない。以前と比べれば電子書籍の比率は(当初の予想より限定的とは言え)増しているだろうし,そもそもニッチ分野の書籍ならネットで買う方がはるかに便利だ。一般的な町の書店が減少し,店主の趣味を全面に押し出した超個性的な書店だけが生き残る,というのは必然的な流れなのだろう。そう言えば,かの槙島聖護だって「紙の本を買いなよ」とは言ったが,「町の本屋で買え」とは言わなかったのだ(もっとも,読書の感覚体験を重視する彼は,そのように主張してしかるべきなのだが)。

とは言え,現代文化から文字のプレゼンスが相対的に低下しているかのように感じることは確かだ。読むよりも見る,書くよりも撮る。そしてブログよりも動画。かく言う僕も,YouTubeでアニメのレビューをしようかと考えたことがある。だが5秒考えてやめることにした。性に合わないというのもあるが,やはり〈書き言葉〉という媒体にこだわりたいというのが一番大きな理由だ。

ひょっとしたらYouTube等を使って,身振り手振りを交えた話し言葉で語った方が,アニメのような映像文化を伝えるのに適しているのかもしれない。そしてその方が,現代のネット世界ではアピール度が高いのかもしれない。アニメという媒体の性質上,“読者”よりも“視聴者”の獲得に注力すべきなのかもしれない。でも僕は,あえて〈書き言葉〉で伝えることを選択した。

実は,僕は当初ブログの文体を敬体(です・ます調)で書いていたのだが,後に常体(だ・である調)に変えたという経緯がある。おそらくマジョリティであろう敬体のブログから一線を画したいという気持ちと,このブログにあえて〈書き言葉〉性を付与するという意図があってのことだ。

アニメレビューでは必要に応じて主要なカットの画像を補助的に引用しているものの,書き言葉,特に常体の書き言葉でアニメを語る際には,いろいろな制約が生じる。画像の特定の部分を指で差し示したり,声のトーンで感動を伝えたりすることができない。場合によっては「マジやばいっす」の一言が最適解であるような場合にも,常体の書き言葉ではその都度それなりに適切な表現に置き換えなければならない。

しかし制約があるからこそ,あるカット,あるシーンの面白さや魅力を伝えるべく,語彙や表現を試行錯誤する。同じカットを何度も何度も観直しながら,何度も何度も思考をめぐらす。自然,1つのカットやシーンについての“分析解像度”も増していく。観ながら書き,書きながら観て,推敲してはまた観直す。先日書いた『ぼっち・ざ・ろっく!』の記事では,第1話から第3話までを5回は観直しただろうか。部分的には10回以上観返したカットもある。そのようにして出来上がった言葉が,ジェスチャーや声のトーンよりも的確に伝えられる何かがあると僕は確信している。書き言葉固有の説得力があると確信している。その“何か”や“説得力”の実体については,ひとまず当ブログの読者の皆さんに判断を委ねておこう。

このブログではしばしば主張していることだが,古いメディアよりも新しいメディアが優れている,あるいはその逆である,という考え方は,それ自体が“古い”。古いメディアと新しいメディアが共存できる状況が“新しい”のだ。だから現代の音楽視聴シーンでは,ストリーミングとCDとカセットとレコードが共存している。アニメを語る言葉も同じだ。「ブログはもう古い。これからは…」と言われるようになって久しいが,ブログが映像発信に完全にとって代わられるといった思考は,かつてのCD全盛時代の「レコードは終わった」的思考と同じくらい安直だ。ブログの相対的な存在感が縮小したことは確かだが,その存在意義が減退したわけではない。いやむしろ,映像文化時代だからこそ,〈書き言葉〉媒体としてのブログのユニークな意義はクロースアップされてしかるべきなのだ

だから僕は今後も〈常体の書き言葉〉でアニメを語る。

思えば,アニメを“語る”という言い方はするのに,アニメを“書く”という言い方はしない。だからこそ,ここではあえて言おう。このブログはアニメを“書く”ブログであると。

TVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022年秋)第1〜3話の演出について[考察・感想]

 *この記事は『ぼっち・ざ・ろっく!』「#1 転がるぼっち」「#2 また明日」「#3 馳せサンズ」のネタバレを含みます。

「#3 馳せサンズ」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

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はまじあき原作/斎藤圭一郎監督『ぼっち・ざ・ろっく!』は,隠キャ生活を脱出すべくギターを始めたぼっちこと後藤ひとりが,コミュ障を克服しながら女子高生ガールズバンドとして活躍していく姿を描いた“きらら枠”TVアニメである。ユニークな構図・デフォルメ・モーションなどによって,ぼっちのコミカルなキャラを豊かに演出した本作は,アニメーションの楽しさを改めて教えてくれる良作である。今回の記事では,「#1 転がるぼっち」「#2 また明日」「#3 馳せサンズ」の演出を詳しくい見ていこう。

 

ぼっち in boxes

アニメ版で目を引くのは,主人公・後藤ひとりのキャラである“ぼっち”感を多彩な空間描写で表現している点だ。

「#1 転がるぼっち」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

まず斎藤圭一郎絵コンテ・演出「#1 転がるぼっち」の冒頭では,押入れに引きこもってギターを演奏するぼっちの姿が描かれる。ここでは「押入れ」という狭小空間によってぼっち感が演出されている。カメラに写り込む様々なプロップやライトとノートパソコンの光源(後述するライブハウスのライトを連想させる)によって,空間の狭隘感とぼっちの孤独感が的確に演出されている。一方,その後の教室のカットでは,広角気味のアングルで広く捉えた教室の遠景にぼっちを配置することで,ぼっち感が演出されている。〈狭/広〉という対照的な構図でぼっちのキャラが視覚化されているのが面白い。本作の演出手法の幅の広さを窺わせる。

さらに面白いのは,この「押入れ」の狭小空間がゴミ箱=段ボール=ライブハウスというアソシエーションに発展していく点だ。

「#1」の初セッションで虹夏に「ド下手」と言われ自信をなくしたぼっちは,ライブ本番の直前にゴミ箱に引きこもってしまう(この際のカメラアングルもすこぶる面白い)。虹夏とリョウの説得によって,ぼっちは「完熟マンゴー」の段ボールの中で演奏することになる。冒頭の「押入れ」のぼっち感がゴミ箱と段ボールによってそのまま引き継がれている。

「#1 転がるぼっち」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

一方,もう1つの「箱」であるライブハウスは,もう少し複雑な意味を担っている。

ぼっちは虹夏に連れられて訪れたライブハウス「STARRY」を見るや,「この暗さ,この圧迫感…お…落ち着く〜」と独り言ちながら,この狭小空間に並々ならぬ親近感を覚える。小規模キャパのライブハウスは俗に「箱」と呼ばれるが,ぼっちにとってライブハウスは,まさに押入れやゴミ箱や段ボールと同じように落ち着くことのできる「箱」なのだ。

「#1 転がるぼっち」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

しかしライブハウスは,押入れや段ボールとは違い,孤独に引きこもることができない場所だ。そこには他のバンドメンバーがいて,観客がいる。そこは音楽の楽しさを他者と共有する空間なのだ。「#2 また明日」で,ライブハウスのアルバイトをする虹夏とぼっちのやりとりを見てみよう。

虹夏:あたしね…このライブハウスが好きなの。だからライブハウスのスタッフさんがお客さんと関わるのってここと受付くらいだし。いい箱だったって思ってもらいたいって気持ちがいつもあって。[中略]あたし,ぼっちちゃんにもいい箱だったって思って欲しいんだ。楽しくバイトして,楽しくバンドしたいの。一緒に。

虹夏のこのセリフの後,ぼっちはバンドの演奏を見ながら次のようにモノローグを始める。

ぼっち:会場が一体になって,お客さんも演者も楽しそう。それに比べて私のライブは…お客さんは2000円も払って見に来てるんだよね。そんな人たちに…今の私のままじゃ,次もグダグダなライブをするんだろうな。少しずつでも変わる努力をして,一緒に楽しくしたい。

左・中:「#2 また明日」より引用/右:「#2 転がるぼっち」より引用
©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

隠キャを脱出したいと願うぼっちは,やがて押入れという“箱”から,ライブハウスという“箱”に少しだけ世界を広げていくのだろう。ぼっちにとってライブハウスは,押入れのように親密な〈閉鎖的内部〉であると同時に,少しだけ社会性を求められる〈開放的外部〉でもある。ライブハウスのバンドマンたちを照らすライトの光源が,押入れでぼっちを照らすライトの光源と似ているのも偶然ではないかもしれない。

 

背動,スクウォッシュ&ストレッチ

山本ゆうすけの絵コンテ・演出による「#3 馳せサンズ」は,この作品のアニメーションとしての面白さを存分に出した名話数だ。まず,押入れ,ゴミ箱,段ボールに続いてぼっちのぼっち感を生み出す「謎スペース」のシーンを見てみよう。

相変わらずクラスメイトと会話ができないぼっちは,掃除道具が置かれた「謎スペース」でひとりお昼を食べる。そこに通りかかった郁代をぼっちが覗き見する。郁代の陽キャオーラに当てられたぼっちは「アイデンティティの崩壊」を起こしてしまう。

「#3 馳せサンズ」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

背景を少しずつ動かしながら,頭を抱えるぼっちにトラックアップしていき,実写映像の風船破裂と「ペチョ」の音で落とす。背動&トラックアップによる緊張感,実写の異化効果,「ペチョ」音のコミカルさを連係させた,技巧的な演出だ。

さらに「STARRY」でのアルバイト風景のシーン。郁代の陽キャオーラたっぷりのバイト姿に打ちのめされたぼっちは,再びゴミ箱に引きこもり,再びアイデンティティを喪失。「その日入った新人より使えないダメバイトのエレジー」を歌い始める。

「#3 馳せサンズ」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

ぼっちの入ったゴミ箱が突如スクウォッシュ&ストレッチし始め,ぼっちがギターをニュルッと引っ張り出して演奏を始める。やがてぼっちは幽霊のような姿になってリョウの目の前で昇天していく。短いが,非常に目を引くシーンである。

本来ハードなはずのゴミ箱やギターが飴細工のように自在に変形する様は,まるでディズニーアニメを観るような楽しさがある。同じ女子高生ガールズバンドアニメでも,楽器をあくまでもリアルなギアとして扱っていた山田尚子『けいおん!』(第1期:2009年)などとは対照的だ。『ぼっち・ざ・ろっく』と『けいおん!』は設定に共通点の多いアニメだが,こうした細部の演出の差異を楽しむのも一興だろう。

 

デフォルメとリアリティ

こうした,スクウォッシュ&ストレッチのような“崩し”に対し,独特なリアリズムの考え方がうかがえるのも『ぼっち・ざ・ろっく!』の特徴だ。

まず本作では実写画像が多用されている。「#2」では「青春コンプレックスを刺激する歌」の説明,「#3」では,クラスメートの「ペープサート」,先述の「アイデンティティ崩壊」の風船,「ダブル黒歴史ぼっち弾き語りversion」演奏カットの背景に実写の画像(写真)が用いられている。

左:「#2 また明日」より引用/中・右:「#3 馳せサンズ」より引用
©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

アニメーションと実写の融合は古くから行われている手法である。その意図は作品によって様々だが,アニメーションの中に実写という異質な媒体を挿入して“衝突”させることによって,視聴者を一時的にアニメの外へ連れ出す一種の〈異化効果〉が得られるということもあるだろう。あるいは表現の多様性を広げるための〈遊び〉の要素と言えるかもしれない。『ぼっち・ざ・ろっく!』における実写の意義については,いかようにも解釈ができるだろうが,一つ言えるのは,本作が〈デフォルメ〉と〈リアリティ〉の両方に注意深く配慮した作品であるということだ。

「#1 転がるぼっち」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

そもそもこの作品は,実写画像だけでなく,背景にフォトリアルな美術を用いたカットが多い。むろん,作業工程を減らす意図で写真からコンバートしている可能性もあるが,少なくとも視聴者に対する効果としては,実写画像と同程度の強い〈リアリティ〉の効果をもたらすことは間違いない。

「#3 馳せサンズ」より引用 ©︎はまじあき/芳文社・アニプレックス

リアルな描写を要所に配置することで,どれほどデフォルメされていても,“この現実の中に確かに存在している”というキャラクターの実在感や現実感が確保される。この物理的な現実感を基盤に,キャラクターの心情のリアリティも成り立っている。デフォルメや漫符の連続の中に挿入されるふとしたシリアスな表情も,デフォルメとリアリティのバランスがうまく調整された設計がベースにあるからこそ,現実感を伴った効果的な“アクセント”となる。

 

本作は,今後の話数でも多彩な演出手法を繰り出してくることが予想される。ストーリーの面白さやキャラクターの魅力もさることながら,細部の演出を存分に楽しめる良作だ。アニメ班の技術を細部まで味わい尽くそう。

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:はまじあき/監督:斎藤圭一郎/シリーズ構成・脚本:吉田恵里香/キャラクターデザイン・総作画監督:けろりら/副監督:山本ゆうすけ/ライブディレクター:川上雄介/ライブアニメーター:伊藤優希/プロップデザイン:永木歩実/2Dワークス:梅木葵/色彩設計:横田明日香/美術監督:守安靖尚/美術設定:taracod/撮影監督:金森つばさ/CGディレクター:宮地克明/ライブCGディレクター:内田博明/編集:平木大輔/音楽:菊谷知樹/音響監督:藤田亜紀子/音響効果:八十正太/制作:CloverWorks

【キャスト】
後藤ひとり:
青山吉能/伊地知虹夏:鈴代紗弓/山田リョウ:水野朔/喜多郁代:長谷川育美

【「#1 転がるぼっち」スタッフ】
脚本:
吉田恵里香/絵コンテ・演出:斎藤圭一郎/作画監督:けろりら

【「#2 また明日」スタッフ】
脚本:吉田恵里香/絵コンテ:斎藤圭一郎/演出:藤原佳幸/作画監督:助川裕彦

【「#3 馳せサンズ」スタッフ
脚本:
吉田恵里香/絵コンテ・演出:山本ゆうすけ/作画監督:中村颯

 

商品情報

 

TVアニメ『Do It Yourself!!』(2022年秋)すてっぷ①(第1話)とすてっぷ②(第2話)の演出について[考察・感想]

 *この記事は『Do It Yourself!!』すてっぷ①とすてっぷ②のネタバレを含みます。

『Do It Yourself!!』オープニングアニメーションより引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

diy-anime.com


www.youtube.com

現在(2022年秋)放送中の米田和弘監督『Do It Yourself!!』は,ものづくりを通して新たな価値を見出す女子高生たちの姿を描いたオリジナルアニメである。キャラクターのデザインやモーションなどが丁寧に作り込まれている一方で,大胆な舞台設定と構図で人間関係を暗示するなど,ユニークな技が冴える良作だ。原作付き作品の中に強者が勢揃いする今季にあって,決して派手な作品ではないが,だからこそあえてその魅力を語っておく必要があるだろう。今回の記事ではすてっぷ①「DIYって,どー・いう・やつ?」すてっぷ②「DIYって,だれかと・いっしょに・やるってこと?」の演出を詳しく見ていく。

 

オートメーションとDIY:映像で見せる

冒頭,この作品の舞台である新潟県三条市の景色が映し出された後,住宅街の俯瞰映像に空中を飛び交うドローンが姿を現す。自動運転のバスが走り去った後,カメラはまるで「のび太の家」のような少し古風な家を画面中央に捉える。主人公せるふ(結愛せるふ)の住む家だ。

『Do It Yourself!!』すてっぷ①「DIYって,どー・いう・やつ?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

今よりも少しだけテクノロジーが進んだ世界。ナレーションのないこの数十秒のシークエンスの中に,リアルとほんの少しのSF,そしてDIYとオートメーションという対比関係が既に示されている。セリフに頼らずに世界観とテーマを提示するという,映像作品としての“正解”を示した優秀なシークエンスだ。こうした世界観のコントラストの中で,“便利になっていく世の中であえてものづくりをする”という素朴な価値観が打ち出されていくことがわかる。話数の限られたオリジナルアニメの冒頭として,理想的な作りだと言えるだろう。

 

ぷりんとせるふ:高低差で見せる

そしてこの世界観のコントラストは,ぷりん(須理出未来)とせるふのキャラにそのまま反映されている。成績優秀なぷりんは有名高校「湯々女子高等専門学校(湯専)」に合格し,エリートコースを歩んでいる。せるふは「湯専」には受からず,滑り止めで受けた「潟々女子高等学校(潟女)」に通い,のんびりと日々を過ごしている。ぷりんはそんなせるふのスローライフにイライラしながらも,常に彼女を気にかけている様子だ。「未来はAIによるフルオートメーション化。人間は手作業どころか,何もしなくてよくなるのよ!」と豪語するぷりんは,毎日自動運転のスクールバスで通学している。それに対し,せるふはのんびりと自転車に乗りながら「何もしなくてよくなる未来かー。何もしなくてよくなったらー何しようかなー」と独り言つ(ともにすてっぷ②のセリフ)。

『Do It Yourself!!』すてっぷ②「DIYって,だれかと・いっしょに・やるってこと?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

この2人の関係性が〈高低差〉で表されているのがとても面白い。2人の家は坂道の途中にあり,せるふの家よりもぷりんの家(門やキーロックがオートメーション化されている)の方がやや高みにある。したがって帰宅時などの会話は,常にぷりんがせるふを見下ろすような構図になる。

『Do It Yourself!!』すてっぷ①「DIYって,どー・いう・やつ?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

 

さらに面白いのは,2人が通う「湯専」と「潟女」のロケーションだ。どういうわけか,前者が後者を内包するような構造になっており,校舎に高低差もある。自然,湯専にいるぷりんは潟女のせるふや「DIY部」を見下ろす構図になる。

『Do It Yourself!!』すてっぷ①「DIYって,どー・いう・やつ?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

エリート高に通うぷりんと平凡高に通うせるふとの“上下関係”を物理的に視覚化した,少々えげつない構図だ。文字通りの“上から目線”である。しかし見過ごしてはならないのは,2人が自宅で窓越しに会話するカットでは,この〈高低差〉が(家の立地には高低差があるにもかかわらず)まったく存在せず,2人の目線のレベルが等しくなっている点である。

『Do It Yourself!!』すてっぷ①「DIYって,どー・いう・やつ?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

幼馴染であるせるふとぷりんは,小さい頃は同じ目線で向き合い,同じ目線で遊んでいた。常にせるふのことを気にかけるぷりんの苛立ちは,ぷりんそのものに対する苛立ちであるというよりは,ぷりんが自分と同じ高校に進学しなかったことで〈同レベル目線〉が崩れてしまったことに対する苛立ちなのかもしれない。おそらく,彼女はせるふを見下ろしたくなどないのだ。自宅の窓越しの会話は,2人が心の“ホームポジション”に立ち戻っていることを暗示しているのかもしれない。このような人間関係の機微を物理的なロケーションで示す手法は,高く評価されて然るべきだ。

 

デフォルメとリアリズム:ディテールで見せる

そして言うまでもなく,本作最大の見どころはDIYの作業風景だ。YouTuberとしても活躍するスワロ監修のもと,工具の造形や動作,それを扱うキャラクターの所作が丁寧に再現されている。

『Do It Yourself!!』すてっぷ②「DIYって,だれかと・いっしょに・やるってこと?」より引用
©︎IMAGO/avex pictures・DIY!!製作委員会

松尾祐輔の適度にデフォルメされたキャラと,細部まで描きこまれたDIYギアが違和感なくなじむ。これはひとえに,キャラクターのモーションが丁寧に作り込まれているからだろう。近年,『けいおん!』(2009年),『ガールズ&パンツァー』(2012年),『スーパーカブ』(2021年)など,アニメらしい柔らかなデフォルメキャラ(多くは女の子)と工学系のハードなギアが出会う物語の系譜が出来上がりつつあるが,こうした作品において〈デフォルメ〉と〈リアリズム〉のマッチングが成功するための1つのポイントが,キャラクターのモーションだと思われる。『Do It Yourself!!』はその辺りを十分にクリアしている作品だ。

 

先述したように,決して派手な存在感のアニメではないが,細部まで読み解いていくと色々なものが見えてきそうだ。「2022年 秋アニメは何を観る?」の記事では挙げなかった作品だが,最終話まで見届けようと思う。

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:IMAGOエイベックス・ピクチャーズ/監督:米田和弘/シリーズ構成・脚本:筆安一幸/キャラクターデザイン:松尾祐輔/プロップデザイン:米森雄紀加藤けえ/DIYデザイン・監修・指導:スワロ/美術監督・設定:岡本有香/色彩設計:坂上康治/撮影監督:浅黄康裕/編集:定松剛/音響監督:郷田ほづみ/音楽:佐高陵平(Hifumi,inc.)/アニメーション制作:PINE JAM/オフィシャルパートナー:株式会社 髙儀/オフィシャルサポーター:三条市/製作:DIY!!製作委員会

【キャスト】
せるふ:
稲垣好/ぷりん:市ノ瀬加那/くれい:佐倉綾音/たくみ:和氣あず未/しー:高橋花林/ジョブ子:大森日雅/法華津治子:かかずゆみ

【すてっぷ①スタッフ】
脚本:
筆安一幸/絵コンテ・演出:米田和弘/作画監督:松尾祐輔

【すてっぷ②スタッフ】
脚本:
筆安一幸/絵コンテ:笹木信作/演出:ソガメグミ/作画監督:江畑諒真茂木海渡新井博慧

 

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2022年 夏アニメランキング[おすすめアニメ]

*この記事にネタバレはありませんが,各作品の内容に部分的に言及しています。未見の作品を先入観なしで鑑賞されたい方は,作品を先にご覧になってから本記事をお読みください。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』第12話「黄金」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

秋が急激に深まる中,今年の夏アニメも最終話の放送がほぼ終了し,すでに秋アニメの放送が始まっている。ここで恒例通り,2022年夏アニメの中から特にレベルの高かった7作品をランキング形式で振り返っておこう。

www.otalog.jp

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7位:『ちみも』

anime.shochiku.co.jp

カナヘイ原案によるかわいいキャラクターデザインうえのきみこのコメディ,そして監督ぴのあるとの柔らかな演出が見事にマッチした良作。丸みを帯びたキャラクターが細やかに動く様は,アニメーションの本来的な楽しさを伝えていた。惜しむらくは放送時間。夕方や日曜の朝など,キッズアニメの時間帯に放送した方が評価は高かったのではないだろうか。ともあれ,ロングラン作品として長く楽しめるポテンシャルを持った作品なので,続編をぜひ期待したいところだ。

 

6位:『組長娘と世話係』

kumichomusume.com

八重花(お嬢)と霧島が回を増すごとに絆を深めていく様子,そして2人がそれぞれに重要な変化を遂げていく姿が繊細に描かれていた。“幼女と野獣”というコンビは,それ自体としては珍しくはないが,丁寧な演出と細谷佳正と和多田美咲の抜群の演技力により,非常に魅力的な作品に仕上がっていたと言える。本作も続編が待ち望まれる。

 

5位:『シャインポスト』

shinepost.jp

本記事執筆時点ではまだ最終話が放送されていないが,第11話の段階でランクインが妥当と判断した。当ブログでは当初注目していなかったのだが,各所での評価が高かったため試聴を始めたところ,その表現力の高さに驚かされた。特に歌唱シーンにおける表情やモーションの作り込みは,近年のアイドルアニメの中でも抜きん出てクオリティが高いと言える。グループアイドルが「絶対アイドル」としてのソロアイドル=偶像に憧れる,という構図もユニークだ。及川啓監督の代表作となることは間違いないだろう。

 

4位:『サマータイムレンダ』

summertime-anime.com

抜群の作画力読者の心をつかむ演出,そして的確な引きと,多くの点で高いクオリティを見せた秀作。途中の展開でややダレた感も否めないが,全25話をたっぷり使った構成は原作の魅力を不足なく伝えたと言える。特に最終話では,丸々1話を使って“勝利”の後の世界を描いていたのがよかった。話数の制約のせいで最終話近辺で走り気味になる近年の作品と比べ,余韻をたっぷり味わえる最終話になったことは評価に値するだろう。

 

3位:『よふかしのうた』

yofukashi-no-uta.com

サイバーパンクのような輝度の高い色彩によって,原作の「夜」の魅力を一味違う形で伝えたアニメ。アニメが色で伝える媒体であることを再認識させてくれる傑作だった。夜守コウ役の佐藤元と朝井アキラ役の花守ゆみりの落ち着いた演技と,七草ナズナ役の雨宮天のダミ声との相性も絶妙だった。この3人の奏でるハーモニーが,彼ら/彼女らの“友だち”とも“恋人”ともつかない距離感をうまく表現していた。エモいアニメとはこういう作品のことだろう。原作もまだ続いている作品だ。「探偵さん」の活躍を見届けるためにも,ぜひ続編を制作してもらいたい。

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2位:『リコリス・リコイル』

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錦木千束×井ノ上たきなのバディを中心としたキャラ(クター)の魅力に加え,第1話から最終話まで,一瞬たりとも視聴者を飽きさせない脚本力。おそらく近年のオリジナルアニメの中でも,最も大衆的な成功を収めた作品と言えるだろう。華やかなルックとは対照的に,後半の「人工心臓」をめぐる緊迫した物語が適度なシリアス味を加えつつ,最終話ではきっちりおどけてくるといった“オチ”も絶妙だった。過度な鬱展開をあえて避け,“ハッピーエンド”で終止符を打ったのも,制作者が現代の視聴者の感性を的確に捉えていた証拠だろう。SNSでの盛り上げ方も実にうまく,ネットでの考察祭りの規模で言えば,2011年の『魔法少女まどか☆マギカ』に匹敵するのではないだろうか。その意味でも稀有なオリジナルアニメとなったことは間違いない。

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1位:『メイドインアビス 烈日の黄金郷』

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「温かい闇」というヴエコの言葉がすべてを物語っていた『烈日の黄金郷』。これほど凄まじい「憧れ」と「絶望」を描き切ることができるアニメ制作環境は,おそらく日本以外ではあまり見られないだろう。特に第7話と第8話における「成れ果ての村」の呪われた成り立ち,および第10話から最終話までの,喰らわれつつ喰らい尽くすファプタの「烈日」の姿は,制作陣自身が「憧れ」という名の狂気に憑依されているのではないかと思わせる迫力だった。その一方で,第10話ではレグとファプタの〈涙〉のアニオリ演出で盛り上げるなど,エモーショナルな表現の繊細さも際立っていた。そして『烈日の黄金郷』で特筆すべきは,やはりファプタ≒イルミューイ役の久野美咲の演技だろう。イルミューイの苦悩とファプタの怨嗟を見事に演じ切った彼女は,文句なしに今年のMVPである。

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● その他の鑑賞済み作品(50音順)
『Engage Kiss』『RWBY』『ユーレイデコ』『シャドーハウス』『プリマドール』

 

以上,当ブログが注目した2022年夏アニメ7作品を挙げた。

実は1位の『メイドインアビス』と2位の『リコリス・リコイル』の順位は大いに悩んだ。中盤の話数まではほぼタイの評価をしており,最終的にはオリジナルである『リコリス・リコイル』に軍配が上がるだろうという心算だったのだが,上述の通り,『メイドインアビス』の第7話以降の演出が並外れてよかったために,最終的にこの順になった次第である。

次の秋クールは,当ブログが推すオリジナル作品は少ないが,続編や原作付き作品に期待大のものが多い。2022年秋アニメのおすすめに関しては以下の記事を参照頂きたい。

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TVアニメ『メイドインアビス 烈日の黄金郷』(2022年夏)レビュー[考察・感想]:「憧れ」ー禁忌と聖性の彼岸へー

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』公式Twitterより引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

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つくしあきひと原作/小島正幸監督『メイドインアビス 烈日の黄金郷』(以下『黄金郷』)は,2017年夏に放送された第1期テレビアニメ,および2020年に公開された『劇場版メイドインアビス 深き魂の黎明』の続編であり,原作第6巻から10巻までの内容を基にしている。前作にも増して過酷さと残酷さを極める物語は,本作のライトモチーフである「憧れ」という価値が,常識的な善悪の価値とは無縁であることをはっきり示している。『メイドインアビス』という作品が類稀な“怪作”であることを改めて印象付けた作品となった。

 

あらすじ

深界五層で黎明卿ボンドルドと決着をつけたリコレグナナチの一行は,白笛となったプルシュカメイニャを連れ,深界六層「還らずの都」への「絶界行(ラストダイブ)」を敢行する。何者かの侵入によってプルシュカを奪われたリコたちは,やがて誘われるようにして「成れ果ての村」にたどり着く。そこは独自の「価値」のシステムが支配する,奇妙なコミュニティだった。はたしてこの村の成り立ちとは…

 

語る声=ミュトス:ヴエコ

ヴエコは語る。

第1話「羅針盤は闇を目指した」の冒頭は,「イルミューイ,私ね,あなたに出会うまで探してたものがあったの」というヴエコのモノローグから始まる。これを皮切りに,彼女はワズキャン率いる「ガンジャ隊」がアビスに到達するまでの経緯を静かに語り出す。

実はこの第1話冒頭のシークエンスは,原作の章立て順から改編されている。『黄金郷』は原作の第6巻から第10巻の内容に相当するが,「羅針盤は闇を目指した」は第8巻の冒頭部分であり,本来はリコが「ドグープ(目の奥)」でヴエコと出会った後に語られるエピソードである。アニメではこのエピソードを第1話の冒頭に置くことで,時系列を把握しやすくするだけでなく,『黄金郷』においてヴエコたち「ガンジャ隊」の物語が主旋律となることを告知している。

このことは,小出卓史が手がけたOPアニメーションの構成からもうかがえるだろう。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』ノンクレジットオープニング映像より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

冒頭,カメラはヴエコとリコを真正面からアップで捉える。ここで早速,ヴエコ≒リコという等式が提示される。OPの前半では,上下や左右の画面分割によってガンジャ隊とリコさん隊が対比させられ,ガンジャ隊もかつてはリコさん隊と同じように希望に満ちた冒険者であったことが示される。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』ノンクレジットオープニング映像より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

また,映像冒頭のリコの主観カットと最後のヴエコの主観カットも面白い。このカットの挿入により,物語全体がリコの視点とヴエコの視点に挟まれた“枠構造”を成しているかのような印象を与える。

さらに第1話Bパートでは,「絶界の祭壇」に飛び込むヴエコとリコのカットが重ね合わせられる。Bパートラストでは,「祭壇」から飛び出したリコたちを正面から捉えたカットに,ヴエコの「私たちはとうとう辿り着き,そして二度とそこから戻れなかった」というナレーションが添えられることで,ヴエコ≒リコの等式がいっそう補強される。

第1話「羅針盤は闇を目指した」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

かくして,ヴエコはリコたちの冒険=サイドAに重ね合わせるようにして,ガンジャ隊の冒険=サイドBを語り始める。彼女は終始,ガンジャ隊の運命を語る主体=ミュトスとしての役割を演じ,その散文詩のような静かな語りが『黄金郷』という物語の基調となって響き続ける。

とりわけ『黄金郷』の中でも際立って陰鬱な第7話「欲望の揺籃」第8話「願いの形」の回想は,もっぱらヴエコの視点から語られる。彼女のアルトの声は,不気味に未来を予言するワズキャンのバリトン,持ち前の理智で皆を導き諭すベラフのテノール,そしてケビン・ペンキンの美しい音楽と奇妙に調和しながら,「成れ果ての村」の呪われた成り立ちを語り始めるのだ。

 

聖体拝領,あるいは/そしてカニバリズム

はたして,ヴエコのミュトスが語り出したのは,見るも残酷な“聖餐”の儀式であった。

ここには〈食〉という行為にまつわる,本作の極めてユニークな感性が深く関わっている。周知の通り,『メイドインアビス』ではアビスの原生生物を素材にした食事シーンが多く描かれる。未知の領域の冒険となれば,当然,未知の素材の食事が必然となる。そこを捨象せず,丁寧に描いているのが本作の魅力の一つだ。

ところで食事シーンと言えば,それ自体が既に日本のマンガ・アニメの“伝統芸能”として確立されており,様々な作品中に頻繁に見られるモチーフだ。特に数々の珍味に挑む『メイドインアビス』の食事シーンは,野田サトル『ゴールデンカムイ』(2014-2022年)のそれとも似た原初的な貪欲を感じさせもする。過酷な世界の只中で,食われる前に食うという生存のあり方。両作品共に,グルメマンガにも引けを取らないほど豊かな食を描きながらも,綺麗事のレベルを超えた,生きること,生の渇望そのものの即物性に迫っていると言っていい。

したがって『黄金郷』で,〈食〉と対をなす〈排泄〉のシーン(それもリコの)が2度も描かれるのも偶然ではないかもしれない。繰り返すが,アビスでの食は“綺麗事”ではないのだ。生きるために不可欠な〈食〉には,それと等しく不可欠な〈排泄〉が必然的に伴う。これは『ゴールデンカムイ』にも共通することだ。原作第3巻にある二瓶鉄造のセリフを見てみよう。

勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし,糞となってバラ蒔かれ山の一部となる。理想的な最後だ。*1

このセリフは北海道の過酷な自然における生のあり方を説いたものだが,これは〈食う〉ことと〈食われる〉ことが間近に隣接した「アビス」の自然にもそっくりそのまま当てはまると言えるだろう。*2

左:第1話「羅針盤は闇を目指した」より引用 /右:第4話「友人」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

そして『黄金郷』という過酷な物語のユニークネスは,この〈生きるための食〉という,この上なく単純明快な一次的欲求の有り様を,こともあろうにカニバリズム的な儀礼にあっさりと接続してしまった点にある。

「欲望の揺籃」によって「子どもを産む」という欲望=願いを叶えたイルミューイは,かつて愛玩していた「ヤドネ」によく似た子どもを産むようになる。しかしその子どもには栄養摂取の器官が存在しないため,産まれてすぐに死んでしまう。この子どもを,かつて「あの子は必ず我々の救いになる」と予言したワズキャンが「ミズモドキ」に冒された隊員の治療のための“食材”にする。人の形をしていないとは言え,紛れもなく食人(カニバリズム)の所業である。

第7話「欲望の揺籃」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

イルミューイの子どもに栄養摂取の器官が備わっていなかったということは,〈食う/食われる〉という自然の摂理から排除されていたことを意味している。イルミューイの子らは,最初から一方的に食われる“贄”として存在してしまっていたのだ。それはかつてボンドルドによって“贄”にされたプルシュカの運命に匹敵するか,ともすればそれよりも遥かに苛酷なものかもしれない。ここにおいて,〈食〉という行為は自然界の摂理から逸脱した異常な様相を呈する。

第7話ラストでワズキャンがヴエコに言う「大丈夫,みんなにも振る舞ったさ!」というセリフがおぞましく響くのは,「振る舞う」という言い回しによって,彼が最初からイルミューイの子を贄として見ていたことをあからさまに示しているからである。この時のワズキャンを恐怖の目で見つめるヴエコの表情が印象的だ。

第7話「欲望の揺籃」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

第8話で,ワズキャンはヴエコの前で何の屈託もなくイルミューイの子を“調理”する。まるで日常的な料理シーンででもあるかのような軽やかなSEが却って恐怖を煽り立てる。かつこのシーンは,先行する第2話「還らずの都」における「ミゾウジャク」の調理と食事のシーンを否応なく想起させてしまう。〈生きるための日常的な食事〉と〈生きるための異常なカニバリズム〉が接続される。根源的タブーを敢えて表現するという,原作者つくしあきひとの度し難い意思を感じる描写であり,かつまたそれに真正面から向き合うアニメ班の気概を感じさせもする。

上:第2話「還らずの都」より引用/下:第8話「願いの形」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

さらに,このカニバリズム行為の中に宗教的な暗示がある点も見逃せない。

『メイドインアビス』の物語では,「アビス」という大穴が一種の信仰対象になっていることが早くから暗示されている。*3 そして第1話のヴエコのセリフによれば,ワズキャン率いるガンジャ隊は何らかの理由で故郷を追われ,「名もなき神」を求めてさすらう流浪の民であり,ユダヤの選民思想にも似た動機に突き動かされている。ワズキャン,べラフ,ヴエコを指す「三賢」という言葉も,一般的な意味での“三人の賢者”であると同時に,キリスト教における「東方の三賢者」を思わせる呼称だ。だとすれば,イルミューイの子の肉を喰らうことは,パンと葡萄酒=キリストの肉と血を食す宗教的なイニシエーションを暗示しているとも解釈できる。事実,第8話にはガンジャ隊の人々が子を産み落とすイルミューイに祈りを捧げているカットが挿入されている。

第8話「願いの形」より引用 ©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

ところで極限状態におけるカニバリズムという行為は,それ自体としては,現実の歴史上もフィクション史上も,決して目新しいことではない。アステカ帝国の「人身御供」,テオドール・ジェリコーの絵画『メデューズ号の筏』(1818-1819年)のモチーフとなった「メデューズ号」の難破事件(1816年),マイケル・サンデルが『これからの「正義」の話をしよう』で言及したことでも知られる「ミニョネット号事件」(1884年)*4 など,事例には事欠かない。*5 また,太平洋戦争時,極度の飢餓状態に置かれた兵士の食人への渇望を描いた大岡昇平『野火』(1952年)などは,そうしたカニバリズムの文学的表象の一つである。

そしてこの種のカニバリズムにおいては,食べることの肯定的・生産的な側面と,否定的・破壊的な側面の二面性が必ずと言っていいほど問題となる。岡田温司『キリストの身体』によれば,ユダヤ=キリスト教の世界において,この両義性が象徴的な形で表れているのが「アダムとエヴァの原罪」と「聖体拝領」である。楽園に住むアダムとエヴァは,「知恵の実」を食べることで原罪を背負う。これを「中和化」するのが,聖体拝領だというのだ。

原罪における食事の負の遺産,これを中和化し償うというのが,まさしく聖体拝領,つまりキリストの身体を食べることのひとつの理由である。キリストの身体を食べることによって,アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまったという罪が,ひとまず帳消しにされるのである。その意味で,原罪の食と聖体拝領の食とは,対照的で補完的な関係にある。*6

また岡田によれば,聖体拝領はコミュニティ維持の機能も担っていた。「同じパンとワインをともに食する聖体拝領は,共同体の構成員の結束を高め,さらに社会のヒエラルキーを強化する装置として機能することにもつながるのである」*7

予言者ワズキャンは,こうしたカニバリズムの〈悪徳の聖性〉に依拠しつつ,自分が導く民たちを救い,「成れ果ての村」という独自の「価値」システムが機能するコミュニティを築こうとしたのかもしれない。しかしベラフとヴエコは,むしろその〈聖性の悪徳〉に耐えることができなかったのである。

しかし『黄金郷』という物語には,そうした〈聖性/悪徳〉という道徳的価値をも喰らいつくし,焼き尽くす「烈日」が登場する。「果てぬ姫」ファプタである。

 

叫ぶ声=パトス:ファプタ

ファプタは叫ぶ。

ヴエコのアルトの物語り,ワズキャンのバリトンの予言,べラフのテノールの諭しを,イルミューイ=ファプタの叫ぶ声が劈く。パトス(情念)がミュトス(神話)を引き裂く。

ファプタはイルミューイの末の娘として(それはイルミューイ自身の生い立ちと同じだ),意味の分節のない叫びとともに生を受ける。彼女は叫びとともに破壊に明け暮れる。

第8話「願いの形」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

ファプタの誕生の叫びは,第7話におけるイルミューイの産みの叫びと同じく,周囲にいる者の心を大気ごと引き裂くかのようである。イルミューイとファプタの両方を久野美咲が演じたことの最大の意味がここにある。

第9話「帰還」で成れ果ての村への侵入をはたしたファプタは,呪詛の言葉を放った後,村の破壊と民の虐殺を始める。ファプタは聖体拝領によって維持されていた仮初めの秩序=村というコミュニティを破壊する。ファプタの破壊行為は,一見,成れ果ての住人たちのカニバリズムを道徳的に断罪しているように見える。しかしファプタ自身が,成れ果ての住人を喰らいつつ原生生物に喰われ,原生生物を喰らい返すために成れ果ての住人たちを喰らうという,カニバリズム的祝祭の渦中に身を委ねているのだ。彼女は,かつて栄養摂取器官を持たず,〈食う/食われる〉という摂理から除外されていた兄弟姉妹たちに代わって,自ら〈食う/食われる〉の中に身を投じている。それは禁忌(悪)を断罪した(聖)というよりは,悪を遥かに凌駕する情念で悪を喰らい尽くそうとした,と言う方が正しいかもしれない。

左:第10話「拾うものすべて」より引用/中・右:第11話「価値」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

そして成れ果てたちの身体とその想いを喰らったファプタは,やがて母を解放するという「役目」のその先に,新たな「価値」を見出す。

今も役目が突き動かしてくる。こいつらを滅ぼし,母を解放せよと。だが…この熱は,この火の色はなんだ…!この役目の先に何が隠れているというのだ…!そこに『価値』があるというのか。*8

〈食う/食われる〉という自然の摂理,“善悪の彼岸”に身を投じながら,身体すら相対的な「価値」として流通させるコミュニティのシステムを無効化し,相対的な価値やシステム内道徳の〈外部〉へと至ろうとする。ファプタは,「宿命の終わりに…君の価値を君自身で決める時がくる」というベラフの思いに呼応するように,成れ果てを滅ぼすという「役目」の“彼岸”,つまり「憧れ」という絶対的な「価値」を己自身の中に見出そうとする。彼女は成れ果てたちを喰らうことで,その想いである「憧れ」をも喰らい,己の身に引き受ける。

あこがれをいだいたおろかものども。ファプタは母の代弁者であり,おまえたちだ。進むべき道を闇に見て,ここまで来たおろかものだ。ファプタは…!おろかものでよいそす!役目を果たし…ファプタは行く!この火はファプタ自身がくべた!止められるのなら!止めてみるそす!!*9
もちろん,この絶対的な「価値」=「憧れ」は,リコの「憧れ」でもある。第12話「黄金」で,ワズキャンに「ここに来れてよかったかい?」と聞かれ,満面の笑みで「めちゃくちゃ!!来てよかった!!」と答えるリコは,ワズキャンの所業,成れ果ての村の呪われた成り立ち,そしてその結末のすべてを知った上で,その先にある「憧れ」の価値を全肯定している。

アビスの底には,地上の人間の尺度で測られる“善と悪”はもはや存在しない。万人に共通する“教訓”の類もない。個々のキャラクターが,己が信ずる道を突き進む多声的な物語があるだけだ。しかしだからこそ,個々のキャラクターの心情と信念に寄り添った深い物語が可能となるのだろう。そしてそのポリフォニックな声,価値観,物語がより合わさること(ワズキャンの言葉を借りれば「積み重ね」)によって,やがて大穴の障壁を突破しうる「憧れ」へと結実していくのだろう。

現実の僕らも,多かれ少なかれ,コミュニティやシステムの外部にある何らかの価値に憧れている。他者の判断の目に晒されることのない,絶対的に私的な価値に憧れている(そう言えばファプタは「目が多いのすかんそす…」と言っていた)。しかし,僕らは実際にコミュニティやシステムの外部に生きることは叶わない。だからこそ,その「欲望」の成就を『メイドインアビス』のような可能世界に求めようとするのだろう。それは今ここにある現実そのものではないが,決して不可能な現実でもないのかもしれない。ひとまずは,ファプタたちに僕らの「憧れ」を仮託しておこう。

最後に,本作の語り部ヴエコのモノローグでこの記事を締めくくりたい。

二度とは戻らない望郷の彼方ー真の闇の中に,誰にも見つけられなかった光は,確かにあった。でもそれを手にするのは,誰でもない。あなたから生まれた黄金は,価値というくびきから解き放たれて,いま旅立とうとしている。愛こそが呪いだと知っているのに,行く末には闇しかないと知っているのに。だからだろう。だからあんなにも眩しいのだ。*10

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:つくしあきひと/監督:小島正幸/副監督:垪和等/シリーズ構成・脚本:倉田英之/キャラクターデザイン:黄瀬和哉Production I.G),黒田結花/デザインリーダー:高倉武史/プロップデザイン:沙倉拓実/美術監督:増山修関口輝インスパイアード/色彩設計:山下宮緒/撮影監督:江間常高T2 studio/編集:黒澤雅之/音響監督:山田陽/音響効果:野口透/音楽:Kevin Penkin/音楽プロデューサー:飯島弘光/音楽制作:IRMA LA DOUCE/音楽制作協力:KADOKAWA/アニメーション制作:キネマシトラス

【キャスト】
リコ:
富田美憂/レグ:伊瀬茉莉也/ナナチ:井澤詩織/メイニャ:原奈津子/ファプタ:久野美咲/ヴエコ:寺崎裕香/ワズキャン:平田広明/ベラフ:斎賀みつき/マジカジャ:後藤ヒロキ/マアアさん:市ノ瀬加那/ムーギィ:斉藤貴美子/ガブールン:竹内良太/プルシュカ:水瀬いのり/ボンドルド:森川智之

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
5 5

5

5
CV ドラマ メッセージ 独自性

5

4 4 5
普遍性 考察 平均
4.5 4.5 4.7
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

*1:野田聡サトル『ゴールデンカムイ』3巻(電子版),p.166,集英社,2015年。

*2:『メイドインアビス』と『ゴールデンカムイ』は,食,排泄,味覚,嗅覚など,一次的欲求や身体的感覚の描写において共通点が多い。〈過酷な自然環境における冒険〉という物語が要請するモチーフ群と言えるだろうか。物語の類型分析の事例として興味深い。

*3:例えば原作第3巻p.128のナナチによる「アビス信仰」の説明など。

*4:Sandel, Michael J.: JUSTICE What's the Right Thing to Do?, Farrar, Straus and Giroux. (マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう』,pp.44-47,早川書房,2010年。)

*5:カニバリズムに関しては,以下の書籍などを参照。
- Sanday, Peggy Reeves: DiVine Hunger: Cannibalism as a Cultural System, Cambridge University Press, 1986. (ペギー・リーヴズ・サンディ(中山元訳)『聖なる飢餓:カニバリズムの文化人類学』,青弓社,1995年。)
- Monestier, Martin:    Cannibales histoire et bizarreries de l'anthropophagie hier et aujourd'hui, le Cherche midi éd., 2000.(マルタン・モネスティエ(大塚宏子訳)『図説 食人全書 普及版』,原書房,2015年。)
- 中野美代子『カニバリズム論』,ちくま学芸文庫,2017年。
- 橋本一径編『〈他者〉としてのカニバリズム』,水声者,2019年。

*6:岡田温司『キリストの身体』,p.62,中公新書,2009年。

*7:同上,p.83。

*8:第11話「価値」より。

*9:同上。

*10:第12話「黄金」より。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』ファプタ〈キャラ(クター)〉考察

*この記事はネタバレを含みます。

『メイドインアビス 烈日の黄金郷』公式HPより引用 ©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

終盤の話数に入り,ますます苛烈さを極めていく『メイドインアビス 烈日の黄金郷』。この最終局面で,完全に主役を食う大立ち回りを演じているのが「成れ果ての姫」ファプタである。今回の記事では,この類まれな〈キャラ(クター)〉の魅力を分析してみよう。ポイントは久野美咲の演技である。

なお,本記事における〈キャラ〉〈キャラクター〉という用語に関しては,以下の記事を参照頂きたい。

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〈キャラ〉としてのファプタ

幼女と魔獣

ファプタの造形の基本は幼い少女だ。可愛らしさとしての〈幼女性〉をベースとして,耳や尻尾など,つくしあきひと特有のケモノ要素が加味されている。その意味では,ナナチと同じ"ケモノ系成れ果て"なのだが,ナナチがぬいぐるみのように愛くるしい姿であるのに対し,ファプタは4本の腕,鋭い鉤爪,頭部の3つのギザ歯,頭部の赤いツノなど,どちらかと言えば〈魔獣〉としての要素が強い。いくつかの房に分かれて広がる尻尾から,「九尾の狐」のような妖怪を連想する人もいるだろう。

第4話「友人」より引用 ©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

幼女=可愛らしさと魔獣=恐ろしさの共存。聖と邪,狂気と正気、光と闇など、常に相対立するものを同居させることが多い本作ならではのキャラと言える。ナナチとは違った魅力を持つキャラとしてファンも多く,「〜そす」という独特の言い回しから,「そす子」の愛称で呼ばれることもある。今後,フィギュア等での商品展開が積極的になされていくことが予想される。すでに製作が発表されている商品もいくつかある。

 

久野美咲:幼女と魔獣のアマルガム

この幼女×魔獣としてのファプタのキャラに命を吹き込んだのが,久野美咲の卓越した声の演技だ。久野と言えば,どちらと言うと"可愛い幼女ボイス"というイメージが強い。しかし実際には彼女の演技の幅はとても広く,ファプタの〈幼女〉面はもちろんのこと,ふだんはあまり聞かない低めの声によって,その〈魔獣〉の面も見事にこなしている。そして後述する第9話において,久野の〈魔獣〉キャラの演技〈怨嗟〉というキャラクターの演技に転じていく様は,『烈日の黄金郷』においてもっとも見応えのあるシーンと言っても過言ではない。

 

〈キャラクター〉としてのファプタ

久野美咲:イルミューイの遺伝子

ファプタの造形は,"母"であるイルミューイの褐色の肌や無垢な少女性,「子どもを産みたい」という強い願望,そしてそれを利用し命を搾取した者たちへの"呪い"を受け継いでいる。アニメ版ではイルミューイとファプタをともに久野美咲が演じることにより,その"意志の継承"が原作よりも前面に押し出されているのが大きなポイントだ。

上:第11話「価値」より引用/下:第10話「拾うものすべて」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

ファプタはイルミューイの意志を継ぎ,彼女の産んだ子を食らった成れ果ての住民を恨み,彼らを殲滅して母を解放したいと願っている。というよりも呪っている。ファプタのキャラクターは,「成れ果ての村」の成立と崩壊を語った『烈日の黄金郷』という物語そのものなのだ。したがって久野のダブルロール・キャスティングは,単に"親子だから同じ声優にした"という以上に,物語と分かち難く結びついた深い演出上の効果を持っている。例えば,第8話「願いの形」でファプタが産まれた直後,成れ果ての者たちを虐殺するシーンのつんざくような叫び声は,第7話「欲望の揺籃」におけるイルミューイの出産時の声を即座に連想させる。

左:第7話「欲望の揺籃」より引用/中・右:第8話「願いの形」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

イルミューイの産みの苦しみと,この世に生を受けたばかりのファプタの怨念とを接続した見事な演出だ。そしてこの壮絶な場面のディレクションに応えた久野の力量にも感服する。ちなみに久野は,同クールで放送されている足立慎吾監督『リコリス・リコイル』にも出演しており,"見た目は幼女だが中身は大人"というねじれた役どころを見事に演じている。今期は,久野美咲という役者の存在感を見せつけられたクールでもある。

 

久野美咲:怨嗟の声

ファプタという〈キャラ〉を形成していた久野の演技が,文字通り〈キャラクター=物語〉へと一気に転じるのが,第9話「帰還」における〈怨嗟〉のシーンである。

レグの火葬砲が開けた穴から成れ果ての村=母の胎内へと入ったファプタは,自分を熱狂的に見つめる成れ果てたちに向かってこう語りかける。

お前たちを 許さぬ
兄弟を…ファプタを…旨そうに睨め回したお前たちの目を許さぬ
お前たちの口を
母と同じ言葉を使い 祈りを吐く
その口を許さぬ
お前たちの姿を許さぬ
我が身可愛さに母を冒涜し続けた
お前たちの その存え続けた命を許さぬ
お前たちの意思を許さぬ
喜びも 悲しみも 営みも断じて継がせはしない
塵芥の一つに至るまで
お前たちの存在を決して許さぬ
すべて 忘れぬために生まれた
この日を この時を どれほど待ちわびたか
覚悟する間も許さぬ
根絶やしにしてくれる

第9話「帰還」より引用
©︎つくしあきひと・竹書房/メイドインアビス「烈日の黄金郷」製作委員会

怨念の塊を詩にしたようなこのセリフを,久野はふだんの演技からは想像もつかないような低ピッチの声で演じている。この声は,ファプタの〈魔獣〉のキャラというよりは,イルミューイから継いだ〈呪いという物語〉のキャラクターから導き出された声ではないだろうか。放送後,久野はTwitterで次のように発言している。

母を想い,成れ果てたちを呪い,身を焼き尽くしながら破壊する。そんなファプタのキャラクターを久野は類稀な演技力で演じきっている。

言うまでもないことだが,マンガやラノベ原作のアニメの〈キャラ(クター)〉の造形において,声優の演技の貢献度はとても大きい。『烈日の黄金郷』キャスティングは,単に“イメージ通り”というだけでなく,原作勢を含めた視聴者をよい意味で裏切ってくる点が面白い。その意味では,今回紹介した久野美咲のファプタ以外にも,平田広明の「ワズキャン」寺崎裕香の「ヴエコ」後藤ヒロキの「マジカジャ」市ノ瀬加那の「マアアさん」などもとても面白い〈キャラ(クター)〉だ。彼ら/彼女らの活躍を最後まで見届けよう。

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:つくしあきひと/監督:小島正幸/副監督:垪和等/シリーズ構成・脚本:倉田英之/キャラクターデザイン:黄瀬和哉Production I.G),黒田結花/デザインリーダー:高倉武史/プロップデザイン:沙倉拓実/美術監督:増山修関口輝インスパイアード/色彩設計:山下宮緒/撮影監督:江間常高T2 studio/編集:黒澤雅之/音響監督:山田陽/音響効果:野口透/音楽:Kevin Penkin/音楽プロデューサー:飯島弘光/音楽制作:IRMA LA DOUCE/音楽制作協力:KADOKAWA/アニメーション制作:キネマシトラス

【キャスト】
リコ:
富田美憂/レグ:伊瀬茉莉也/ナナチ:井澤詩織/メイニャ:原奈津子/ファプタ:久野美咲/ヴエコ:寺崎裕香/ワズキャン:平田広明/ベラフ:斎賀みつき/マジカジャ:後藤ヒロキ/マアアさん:市ノ瀬加那/ムーギィ:斉藤貴美子/ガブールン:竹内良太/プルシュカ:水瀬いのり/ボンドルド:森川

 

商品情報