アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメレビュー覚書:『星合いの空』(2019年)における空間演出について

タイトルやPV,そして「中学生のソフトテニス部」という題材から予想される“爽やか青春ドラマ”の印象を見事に裏切った『星合いの空』。本作のテイストの方向性は,第1話における夏南子の「あんたさぁ,なーんか闇深そうだね」というセリフによって決定付けられたと言っていいだろう。この“闇”を孕んだ登場人物の心理を描写するにあたり,本作がユニークな空間描写を活用している点も注目に値する。

幾何学的構図の演出

まず特長的なのは,様々な構造物を活用しつつ幾何学的な構図を多用している点だ。主に女子テニス部が使うテニスコートは,男子テニス部の練習場よりも高い位置にあり,常に「激つよ女子」が「激よわ男子」を見下す位置関係になっている。

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第2話より引用 ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

女子部と男子部の“カースト”的上下関係と空間的位置関係の,このあからさまとも言える対応関係は,物語前半において極めて強い印象を放つ構図となっている。

また人物どうしの距離の描き方も秀逸だ。時に構造物等も援用しながら,人と人との距離感を効果的に描き出している。

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第1話より引用(補助線は筆者によるもの) ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

このシーンでは,画面右側の構造物がパース線を構成し,客観的な物理空間を作り出している。それに対し,画面左側では(手前から)御杖夏南子,桂木眞己,新城柊真が等間隔に並び,その立ち位置自体が別のパースを構成しているかのように錯覚させている。信頼関係が生まれる前の人物どうしの心の距離を見事に表していると同時に,構造物が構成する客観的なパース線に対し,人物が構成する擬似パース線が複雑に交差することで,不安に満ちた画面構成を演出している。

狭小空間の活用

一方,室内等の狭小空間の使い方も非常に効果的だ。まず「生徒会」のシーンが独特である。一般に,アニメに描かれる生徒会の「部費会議」は,広々とした教室にロの字形に並んだ机に座った状態で行われることが多いが,この作品では敢えて狭い空間に生徒たちを詰め込む構図にし,意図的に狭隘感を演出している。

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第1話より引用 ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

また男子ソフトテニス部が部室代わりに使用している更衣室も狭隘感の創出に大きく寄与している。カメラは必ずこの狭い空間のどこかに具対的な場所を占めており,視聴者は部員たちの精神的・身体的な衝突を至近距離で観察することになる。

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第1話より引用 ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

本作ではこうした室内の狭隘感が極めて特徴的で,これが屋外の広々としたテニスコートで行われる練習シーンと綺麗なコントラストを成しているのである。

そしてこの狭隘感が最も活かされるのが,この作品の基調ともなっている“闇”の部分の描写だ。心理的な不安が描かれるシーンでは,カメラのチルトやレンズの効果によって,狭小空間のパース線が不規則に歪められる。

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第1話より引用 ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

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第4話より引用 ©赤根和樹・エイトビット/星合の空製作委員会

もちろんこうした画面演出自体は珍しいものではない。しかし本作が“爽やか部活モノという表層の下に闇を潜在させたアニメ”であることを考えた時,〈幾何学空間〉〈テニスコートの広々とした空間〉〈狭小空間〉という多様な空間描写の切り替えが,そのテーマに即した見事な演出になっていることがわかるだろう。派手さはないが,その作り込みの点で目が離せない作品となりそうだ。

アニメレビュー覚書:〈集合生命体〉のヴァリアンツ

*この記事は『ドラゴンボールZ』『新世紀エヴァンゲリオン Air / まごころを,きみに』『ガン×ソード』『キルラキル』『シドニアの騎士』『PSYCHO-PASS』の内容に触れています。ご注意下さい。

他者を取り込み,他者を排除することで,唯一絶対の存在になろうとする〈集合生命体〉のキャラクター類型。マンガ・アニメ史においてほぼ常に主人公と対峙する“敵”として描かれてきたこの類型には,マンガ・アニメなどの表象文化における〈個/非-個〉に関する問題意識が色濃く反映している。

 

『ドラゴンボール』セル,魔人ブウ

ドクター・ゲロの作り出した人造人間「セル」は,他の人造人間を吸収することにより進化し,最終的に「完全体」となる。また魔導師ビビディの作り出した「魔神ブウ」も,界王神や己自身を吸収することで「純粋」体へと進化していく。

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「完全体」となったセル(『ドラゴンボールZ』第161話より引用) ©️バードスタジオ/集英社・フジテレビ・東映アニメーション

「敵を吸収することによって強くなっていく」という設定は〈集合生命体〉の類型としては最もシンプルなものだが,これは「一戦ごとに勝者が敗者を排除しながら頂点を目指し,最後に一者だけが勝者となる」という勝ち抜き戦のメタファーに他ならず,ジャンプ作品の代名詞とも言える「トーナメント方式」をキャラクターとして体現している興味深い例である。

ちなみに悟空の側も味方と「フュージョン」することで強力な力を得るという技を持つが,これはどちらかと言えば元の個体の個性を残した〈協力〉関係に近く,アニメでは合体後の声を2人の声を二重にするなど,合体前のそれぞれの人格が保持された状態を演出している。セルや魔神ブウのような,他者を完全に取り込んでしまう〈吸収〉とは対照的である。 

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを,君に』(1997年):サードインパクト後の人類

物語の終局において,世界の惨劇に絶望し発狂するシンジ。彼の搭乗するエヴァ初号機を依代として発生した「サードインパクト」の後,全人類は個体としての存在を保てなくなって液状化し,その魂は「黒き月」へと集められていく。しかしそのその刹那,シンジは「“他人”の恐怖」を受け入れ,心の壁=ATフィールドが個と個を分つ世界への回帰を望む。

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『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを,君に』より引用 ©カラー/Project Eva. ©カラー/EVA製作委員会 ©カラー

本作における「人類補完計画」はアニメ史上最大の謎であり,その仔細は未だ不明である。しかしそれがどのような形を取るのであれ,「個としての人間存在を無化し,集合個体へ進化すること」が事の本質であるように思われる。このような〈個の無化〉をシンジはきっぱりと否定する。それは好きな人の首を絞め,好きな人から「キモチワルイ」と言われてしまう世界だが,“みんな”という〈個〉が存在を保っている。この世界を守ることこそが(この時点での)本作の主人公の選択だったのだ。 

『ガン×ソード』(2005年)カギ爪の男

 「カギ爪の男」の目的は「宇宙創成を初めからやり直し,全人類に自らの思想を共有させること」であり,その“超展開”的プログラムは〈集合生命体〉の意志そのものである。その不気味な理想は,彼が穏やかな声で語る「みんなで同じ夢を見ればいい」という言葉の中に表されている。そこでは個人の具体的な苦悩と幸福は捨象され,ディストピアさながらの「幸福」の元にすべてが抽象化されてしまっている。

これに対峙する主人公・ヴァンとその一行は,高邁な理想も夢も共有していない,いわば烏合の衆だ。カギ爪の男からすれば矮小な存在に過ぎない彼ら小市民たちが,小さいけれどもかけがえのないものを守るために戦う。本作は〈非-個〉に抗う〈個〉という『エヴァンゲリオン』のテーマを継承しつつも,それをより明朗に“人間臭く”描いた名作であった。

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第13話より引用(キャラクターデザインの木村貴宏によるイラスト) ©2005 AIC・チームダンチェスター/ガンソードパートナーズ

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『キルラキル』(2013-2014年)生命戦維

地球外生命体である「生命戦維」は太古の地球に飛来し,人類に寄生してその進化を促した後,人類に「服を着る」という習性を残して休眠状態に入った。人類の進化が十分達成された今,生命戦維は人類の生命エネルギーを取り込んで地球を覆い尽くし,新たな種子を宇宙に拡散させて繁殖しようとしている。そんな生命戦維の目論見に加担するのが鬼龍院皐月の母・鬼龍院羅暁である。

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第21話より引用 ©TRIGGER・中島かずき/キルラキル製作委員会

母・羅暁の野望を阻止すべく立ち上がる皐月は,主人公・纏流子にこう語る。

世界は一枚の布ではない。“何だかよくわからないもの”に溢れているから,この世界は美しい*1

彼女の言葉に表されているのは,「何だかよくわからない」が,かけがえのない小世界を守ることの尊さであり,満艦飾家のような「何だかよくわからない」市井の人々を意図して丁寧に描くのもそこに理由がある。

『シドニアの騎士』(2014-2015年)落合

この作品に登場する「融合個体」は,科学者・落合が未知の生命体「奇居子」 と人間と掛け合わせから作り出した新生命体であり,複数の他者を吸収することで進化する生命体というわけではない。しかし「融合個体」に意識を転送し,シドニアの民を無き者にしようとした落合の目的は,自らが究極の生命体となって永遠に生き存えることにより「人類という種族全体の救済」を実現することであった。これはまさしく「人類補完計画」や「カギ爪の男」と同じ〈集合生命体〉のプログラムに他ならない。

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弐瓶勉『シドニアの騎士』十四,p.2。講談社,2015年。 ©︎Tsutomu Nihei 2015

主人公の谷風長道ら「シドニアの民」たちは落合の野望を打ち砕き,彼が蔑んだ「限りある命と世代交代」によって種を存続する道を選ぶ。

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『PSYCHO-PASS』シビュラシステム

市民の精神状態を「サイコパス」と呼ばれる数値で管理し,個人の能力に適した職業適性と幸福実現の手段を提供する「シビュラシステム」。犯罪者になる危険性を「犯罪係数」として数値化し,値が高い人物を「潜在犯」として事前に処理することで,極めて高度な治安維持を実現している。

しかしその実態は,ユニット化された人間の生体脳による高度な演算システムであり,シビュラシステムによって犯罪係数を計測できない=システムの外部にいる「免罪体質者」の生体脳を取り込むことで,その外縁を常に拡張し続けている。

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第17話より引用 ©サイコパス製作委員会

シビュラシステムの1ユニットと化したかつての潜在犯・藤間幸三郎の悦に入った講説は,まさに〈集合生命体〉の欲望そのものである。

他者の脳と認識を共有し,理解力と判断力を拡張されることの全能感!神話に登場する預言者の気分だよ。何もかもがわかる。世界のすべてを自分の支配下に感じる!*2

一方,藤間にシビュラシステムに参与するよう求められながらもそれを拒否した槙島聖護は,その異常な行動とは裏腹に,『ガン×ソード』や『キルラキル』における市井の人々と同じ“人間的,あまりに人間的”なキャラクターである。

僕はね,この人生というゲームを心底愛しているんだよ。だからどこまでもプレイヤーとして参加し続けたい」*3 

自己にとって異質な外部を取り込むことでより完璧なシステムへと更新され,かつ社会を成立させるための“システム”として人間社会を覆い尽くし,個を内包してしまうシビュラシステムは,〈集合生命体〉の狡知として最も洗練されたものに他ならない。ある者はあくまでもその外部に留まらんと死を望み,ある者はその内部で踊らされ,ある者は敢えてその内部でシステムに抗う。〈集合生命体〉をキャラクターではなく世界設定そのものに仕立て上げた本作のアイディアは大いに称賛に値する。

 

今後も〈集合生命体〉の系譜を継ぐキャラクターはいくつも生み出されていくことだろう。それは相変わらず生の人間の“敵”であり続けるのか,それとも時代と共に社会意識が変化し,その距離感も変わっていくのか。

*1:『キルラキル』第22話の鬼龍院皐月のセリフより。

*2:『PSYCHO-PASS』第17話の藤間幸三郎のセリフより。

*3:『PSYCHO-PASS』第17話の槙島聖護のセリフより。

アニメレビュー覚書:〈戦闘美少女〉のヴァリアンツ

綾波レイ,月野うさぎ,ウテナ,プリキュア,鹿目まどか…

この国では〈戦う少女〉たちの姿が幾度となく量産され再生産され続けてきた。彼女たちにつきまとう〈セクシュアリティ〉という記号は不変か,それとも可変か。

 

〈戦闘美少女〉のセクシュアリティ

かつて斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』の中で,日本のマンガ・アニメにおける〈戦闘美少女〉の類型に注目し,そこに日本のオタク文化特有の「多形倒錯的なセクシュアリティ」の存在を指摘した。*1 確かに日本のマンガ・アニメ文化には,主にこの2つのメディアにおいて自律的に反復され強化された〈戦闘美少女〉という類型が存在する。それは欧米流のタフなアマゾネス風のヒロインとは異なり,“高い戦闘能力を有しながらも同時に可憐である”というある種の矛盾を孕んだ特殊な類型であり,現在進行形で生み出されているマンガ・アニメのヒロインの多くが,この類型の伝統を継承していることは否定できない。

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

 

しかし一方で,斎藤の前掲書出版からすでに20年近くの歳月が経ち,今やマンガ・アニメをめぐる表現の事情も大きく様変わりしていることも間違いない。マンガ・アニメにおけるヒロインの表象は多様化し洗練度を増し,相変わらず〈セクシュアリティ〉という要素を部分的に担いながらも,もはやそれを中核とはしない様々なヴァリアントが生まれているのではないか。

『鬼滅の刃』竈門禰豆子:〈不動明〉の系譜

ごく最近の例を挙げるとすれば,『鬼滅の刃』(2019年)の竈門禰豆子が面白い。主人公・炭治郎の妹である禰豆子のデザインは明かに“美少女”のそれであり,とりわけアニメにおいてはその〈セクシュアリティ〉の記号も明確である。この点に関しては監督の外崎春雄の言葉が興味深い。

体つきに関しては,鬼になっても女の子らしい雰囲気を損なわないようにしています。[原作者の]五峠先生の画は『むちっとした身体のデザイン』も特徴の1つかと思うので,そこを大事にしようと。禰豆子は着物を着ているので,ふくらはぎや脚の描き方をこだわろうと思いました。*2

 外崎が禰豆子の〈セクシュアリティ〉をはっきりと意識してデザインを指示していることが明らかだ。

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第一話より引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

その一方で,禰豆子というキャラクターの最大の魅力は,その文字通りの“鬼の形相”にあり,この点が従来の戦闘美少女の〈可憐さ〉とは一線を画したデザインになっている。さらにヒロインである禰豆子に宿敵である「鬼」の力を持たせることで,単純な勧善懲悪の図式を崩し,「鬼と人との間にあるキャラクター」という位置づけにしたことも重要である。「敵と戦うために敵の力を手に入れたことにより,敵と味方の間に立たされる」という運命は,永井豪の『デビルマン』(マンガ・アニメ共に1972-1973年)の主人公・不動明の造形を継いでいる。

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鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

 

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」:〈戦闘美少女〉の死

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2018年)の主人公ヴァイオレットは,(少なくとも見た目上は)華奢な身体や抑制された感情表現などによって,『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996年)の綾波レイの系譜に連なるキャラ造形であり,その意味で典型的な〈戦闘美少女〉の伝統を間違いなく継承している。両者とも戦闘時に負った物理的外傷をアイコン(ヴァイオレットは義手,綾波レイは包帯)としているの点も示唆的である。

しかし彼女が紛れもない〈美少女〉として描かれていながらも,そのデザインからはセクシュアリティの要素が慎重に排除されている点は重要だ。いかにも良家の子女然とした彼女の風貌は,アニメのヒロインの平均値からすれば明らかに肌の露出度が低く,まるで人形のような存在感である。*3

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公式HPより引用

外伝の『永遠と自動手記人形』(2019年)においてヴァイオレットが“男装の麗人”として登場するのも興味深い。これは両性具有への欲望のような〈多形倒錯的セクシュアリティ〉というよりは,いわば“宝塚の男役”的な〈ユニセックスな美〉の表象と言えるのではないか。

そして決定的なのは,ヴァイオレットが〈戦闘美少女〉の類型伝統を継ぎながらも,戦闘そのものを放棄したヒロインであるという点である。彼女は原則として,終戦後に迎えた平時において戦闘をしない。その代わりに,他者の手紙の代筆を通して「愛してる」という言葉の象徴的な意味を探し求めるという,この上なく“非戦闘的”で“文系的”な営みが彼女の人生を満たしているのだ。

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これからもマンガ・アニメはセクシュアリティを核にした〈戦闘美少女〉を量産し続けていくだろう。しかしその一方で,禰豆子とヴァイオレットの例からわかるように,セクシュアリティ以外の要素を含み込むことでセクシュアリティの軛から放たれたヒロイン像が産み出されていくことも容易に想像できるのだ。

*1:斎藤環『戦闘美少女の精神分析』2006年,ちくま文庫(太田出版の単行本は2000年刊行)

*2:『鬼滅の刃』Blu-ray第一巻特典ブックレットより。

*3:むしろ成熟した女性として描かれるカトレア・ボードレールが“セクシー担当”になっているのも興味深い点だ。

TVアニメ『バビロン』(2019年)第1~3話レビュー:ダークホースはハケンに?

*このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©野﨑まど・講談社/ツインエンジン

babylon-anime.com

現在(2019年)上映中の『HELLO WORLD』の脚本家・野﨑まどの同名小説が原作。

今回の記事では第1話から第3話までの所感を簡単に認めておきたい。『ロード・エルメロイII世の事件簿』のレビューの際にも述べたが,僕はふだん各話毎にレビューを書くことはない。書くとすれば,あまりのクオリティの高さに驚き,黙っていられなくなった時である。

作品データ

(リンクはWikipedia,もしくはアットウィキの記事)

東京地検特捜部の検察官・正崎善は,部下の文緒厚彦とともに,厚生省が告発した「アグラス事件」を捜査していた。その最中,2人は押収した捜査資料の中に「F」の文字が大量に書かれた書類を発見する。その書類を作成した因幡という准教授を訪ねるも,彼はすでに麻酔薬で変死を遂げていた。この事件に,実験的行政区画「新域」の域長選挙に出馬する大物政治家・野丸龍一郎が絡んでいることを察知した正崎は,その後,文緒の自死と謎の女の暗躍に翻弄され,やがて人の心に潜む〈死の欲動〉という恐るべき現実を突きつけられることになる。

野﨑まどの跳躍

完全にダークホースだった。

失礼を承知で言うなら,制作スタッフの座組に派手さはない。鈴木清崇は『Infini-T Force』(2017年)に続き,本作が二度目の監督作品。「文芸担当」の坂本美南香は製作会社ツインエンジンの所属という以外はほとんど情報がない。制作会社のREVOROOTはツインエンジンの子会社だが,2016年創立という若い会社である。だからというわけでもないのだが,以前の「2019年秋アニメは何を観る?」の記事ではこの作品を敢えてピックアップしていなかったのだ。

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しかし僕はこの時,スタッフ一覧の中にあって不気味な異彩を放つ,〈野﨑まど〉という名に目をとめるべきだったのだ。

物語は『ひぐらしのなく頃に』(原作ゲームは2002年)を思わせる製薬絡みの事件と,それを追う正崎&文緒のバディの活躍から始まる。ここまではミステリーものとして穏当な導入であるが,第1話にしてすでに,絡み合う死者の毛髪のような「F」という文字塊で視聴者を仰天させてくる。

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第1話より引用 ©野﨑まど・講談社/ツインエンジン

そこから物語は急展開し,文緒の謎の自死,謎の女の登場,『CHAOS;HEAD』(原作ゲームは2008年)の「ニュージェネ」を思わせる“集団ダイブ”シーンと次々と不穏な事件をたたみかけ,第3話は齋開化による「死の権利」という異常な思想信条の演説で唐突に終わりを迎える。

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第3話より引用 ©野﨑まど・講談社/ツインエンジン

比較的ノーマルな事件の発生から始まり,一気に異常な思想信条の吐露まで繋げる。これを3話でやり遂げる跳躍力,野﨑まどという人のストーリーテリングだ。

思えば野﨑は,『正解するカド』(2017年)でも目も眩むような“超展開”を疲労していた。ややもすると置いてけぼりを食らう彼の跳躍力は,ミステリーである『バビロン』においてはかなり功を奏しているように思える。

第2話の衝撃:富井ななせのセンス

そして本作の魅力はストーリ―テリングの強さだけではない。その画作りと演出にも目を見張るものがあるのだ。

第2話は正崎が謎の女「平松絵見子」を聴取するシーンが中心である。第1話や第3話と比べると動きのある派手なシーンが少ないのだが,絵コンテ担当の富井ななせは,大胆なカメラワークとテンポでカットを繋げることで独自のスピード感を出すことに成功している。

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第2話より引用 ©野﨑まど・講談社/ツインエンジン

このシーンは本記事を書くきっかけとなったものだ。人物を大胆に斜めに切り取りながらも,視線でカットの繋がりを保持しているのだが,最後にピントをずらしたカットを入れることで視線の繋がりを敢えて壊している(この時「平松」は空調の吹き出し口を見ているが,これはおそらく彼女の逃亡と奥田の死と関連があると思われる)。

これ以外にも,聴取の際の「平松」のセリフを回顧シーンの「平松」に語らせるなど,第2話には様々な技巧を凝らした名シーンが続出する。

ところがこの回の絵コンテを担当した富井ななせに関しても情報が異常に少ない。『かくりよの宿飯』(2018年)第一九話の絵コンテと第二四話の演出を担当しているらしいのだが,それ以外の情報は少なくとも僕が調べた限りでは見当たらない。SNS上では誰かのペンネームではないかとの噂も流れており,この人物の存在自体が『バビロン』のミステリーの一部なのではないかと邪推したくなるほどだ。

〈曲世愛〉というアモルファス

先日の第3話は「平松絵見子」こと曲世愛の不気味なカットで終わった。正崎の視線を感じてこちらを振り向く曲世の動きと表情が,おそらく2コマ打ちと思われる“ヌルヌル感”で表されている。

1コマ打ちや2コマ打ちの“ヌルヌル感”を非現実性の描写に用いた例としては『CLANNAD』(2007年~)の「幻想世界」などが想起されるが,『バビロン』第3話においても,様々な〈女〉に変化する曲世のアモルファスな存在感が“ヌルヌル感”によって見事に表されている。こればかりは静止画像では伝えることは不可能なので,第2話の富井ななせの絵コンテとともに,是非実際に観て頂きたい。

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第3話より引用 ©野﨑まど・講談社/ツインエンジン

深夜アニメの醍醐味は,ダークホースの出現にあると言っても過言ではない。派手な宣伝も座組もなく,こんな風に僕らを驚かせてくれる作品こそが傑作なのかもしれない。こんな作品に今後もたくさん出会えることを期待しようではないか。

劇場アニメ『空の青さを知る人よ』(2019年)レビュー[考察・感想]:回帰する場所

*このレビューはネタバレを含みます。また,同監督の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』と『心が叫びたがってるんだ。』の内容にも触れていますのでご注意ください。

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公式HPより引用 ©2019 SORAAO PROJECT

soraaoproject.jp

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(2011年,以下『あの花』と省略),『心が叫びたがってるんだ。』(2015年,以下『ここさけ』と省略)に続く,超平和バスターズ原作による「秩父三部作」の三作目である。劇場アニメが多産された2019年にあって決して派手な存在感を持つ作品ではないが,三部作の集大成として深いテーマ性を持った作品に仕上がっている。とりわけ〈秩父〉という場所については,長井,岡田,田中の最終解が示されていると言っていいだろう。

 

作品データ

(リンクはWikipedia)

高校2年生の相生あおいは姉のあかねと共に秩父の山に囲まれた町に住み,ベーシストになるべく勉強そっちのけで日々練習に明け暮れている。2人は13年前に両親を亡くしており,あおいの親代わりになる決意をしたあかねは,恋人の金室慎之介と上京する夢を諦めてしまっていた。自分のせいであおいを秩父の「牢獄」に閉じ込めてしまっていると感じたあおいは,姉を解放すべく,高校卒業後に東京に出る決心をする。そんなある日,演歌歌手のバックミュージシャンとなった慎之介が13年ぶりに帰郷し,あかねと再会をはたす。そして時を同じくして,13年前の「しんの(高校時代の慎之介のあだ名)」があおいの前に姿を表すのであった。

キャスティングの妙

毎度アニメのメインキャストに俳優が起用されることについては一抹の不安が伴うものだが,本作に限っては杞憂だったと言えるだろう。まず,30代の金室慎之介と高校時代のしんのを見事に演じ分けた吉沢亮。単に声質や台詞回しがよいというだけでなく,慎之介としんのの内面の違いをきっちりと消化した名演技だった。声優業は今回が初めてだったというが,とてもそうは思えない技術力である。早見沙織を思わせる吉岡里帆の声質は,しっかり者だがフワッとしたあかねの雰囲気にぴったりだった。NHK大河などで子役から活躍している若山詩音は,相生あおいの跳ねっ返りな性格をうまく演じている。大物演歌歌手の新戸部団吉を演じた松平健は,プロの声優とまったく遜色ない演技力で観客を驚かせる。

失礼を承知で言えば,これまで“ヘタウマ”的な味を期待されることの多かった俳優キャスティングだが,本作ではそれとはまったく違う方向性が提示されたように思う。つまり,本業の声優のようにこなれていたり特定の色が付いたりはしていないが,きちんと演技はできるキャスト。キャスティングの選択肢の多様化は,業界にとって有益なだけでなく,作品鑑賞の幅も広げてくれるに違いない。

ベーシストあおいの孤独

作品の内容に目を向けていこう。

この作品における「ベーシストあおい」というキャラクターは実に魅力的である。高校2年生の華奢な女の子でありながら,彼女の太い眉や勝ち気な表情には,ベースという楽器の持つ“硬派さ”が象徴的に表されている。

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公式HPより引用 ©2019 SORAAO PROJECT

そんなあおいのリアルな演奏シーンは本作の見どころの1つでもある。楽器の演奏シーンのリアリティと言えば,『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)の「ライブアライブ」,『けいおん!』(2009年),『響け!ユーフォニアム』(2015年)など京都アニメーション作品が有名だが,本作でも,あおいの少々荒々しいが自信に満ちた演奏が見事に描写されている。長井によれば,この演奏シーンはロトスコープ(実際の人間のモーションをカメラで撮影したものをトレースしてアニメーションにする技法)で制作されており,これには相当な労力を要したそうである。*1

劇場パンフレットのキャラクターデザイン紹介によれば,「すべては彼女がベースを手に仁王立ちしている画から始まった」というから面白い。つまり本作において「あおい」というキャラクターとベースという楽器は不可分であるということだ。したがって当然,あおいがベースを選択したことには物語上の意味がある。

あおいはしんのたちのバンド活動に影響を受け,幼い頃にベースという楽器を選択している。もちろんその選択を,合理的理由付けとは無関係の,単なるセンスの問題として片付けることは可能である。しかしそれでは,あおいの心理を内在的に観察しているだけであって,『空青』という物語における彼女のキャラクターの意味を把握したことにはならない。どうして『空青』という物語で,彼女はベースを選択したのか。

ベースはギターなどと比べるとソロ演奏に適さない楽器だ。もちろん,ベースギターによるソロ演奏というものが存在することは事実だが,一般的には,ギター,ドラム,ボーカルなどと共にユニットを組むことによって初めてその真価が発揮される。しかし,あおいはベースを選択しておきながら,高校の同級生たちとバンドを組むことは拒んでおり,あたかも自ら孤独であることを望んでいるかのように思える。しかしだからと言って,彼女が“孤高のベーシスト”を気取ろうとしたわけではない。あおいはベースという楽器を選択することによって〈孤独〉という心の空白を呼びこみながら,実はそれを埋めてくれる存在を欲していたのだ。それがしんのという存在であったことは言うまでもない。 

それは最初は,〈恋愛〉という感情として分節される以前の,もっとあやふやな感情であったかもしれない。しかしベーシストとしてギタリストしんのと共に演奏したい(つまり「目玉スター」になりたい)という願望は,すでに幼少期から彼女の中に芽生えていたのである。そんな彼女の〈孤独〉という空白を,13年後に現れたしんのが埋める。そしてあおいは「二度目の初恋」をするのである。

しかし,しんのは地縛霊のようにあやふやな存在であり,なおかつしんの=慎之介は姉であるあかねの恋人である。それは「二度目の初恋」であると同時に,「二重の失恋」を予感させてしまうものだ。彼女の心の空白は,どのように埋め合わされるであろうか。

ギタリスト慎之助の挫折

一方の慎之助は,〈夢を諦めたギタリスト〉としてあおいと対比させられる。それは“俺,必ずビッグになるからな!”という挫折型キャラクター類型として描かれている。彼の偶然の帰郷は,あおいにとっては自身の不吉な未来の予兆でもある。

しかしーーこれこそがこの物語における“30代”という年齢設定の妙なのだがーー慎之助の挫折は最終的なものではない。だからこそ13年前のしんのは,彼自身の前にも姿を表す(この点が,めんまが当初じんたんの前にしか姿を見せなかった『あの花』との決定的な違いである)。彼は過去の自分に叱責されることで自己修復的に挫折を乗り越えようとする。“完全に老成した賢者が過去の過ちを省みつつ退場し,すべてを若い主人公に託す”という物語が〈特定世代犠牲型〉のハッピーエンドだとすれば,『空の青さを知る人よ』は“若者とともに中年も成長する”という〈全世代救済型〉のハッピーエンドなのである。

〈回帰〉というテーマ

そして『空の青さを知る人よ』の最も大きな見所は,こうした主人公たちの心の葛藤と成長を〈秩父〉というユニークなトポスを舞台に描き,〈束縛・解放・回帰〉という〈意識の運動曲線〉を描き出すことで象徴的に表した点である。

超平和バスターズは,これまでの2作でも〈回帰する場所〉というモチーフを用いてきた。つまり『あの花』における「山の中の秘密基地」と,『ここさけ』における「山の上のお城(ラブホテル)」である。

『あの花』の「秘密基地」は,ばらばらになった幼馴染みたちが幽霊であるめんまの登場をきっかけに立ち返る場所であり,彼らがかつての関係性を取り戻すために必要とした心の〈回帰点〉であった。一方,『ここさけ』における「山の上のお城」はいささか不吉なトポスだ。主人公の順はラブホテルを「山の上のお城」と勘違いしたために両親の離婚という事態を招いてしまい,「話すと腹痛を起こす」という呪いにかかってしまう。歌であれば腹痛が起こらないことを知った彼女は交流会のミュージカルに意欲的に関わるが,密かに想いを寄せていた拓実と菜月の関係を知り,廃墟となった「山の上のお城」に逃げ込む。呪いの元凶となった場所へ〈回帰〉したことによって,父の不義と拓実との失恋を重ね合わせたことになる。

「秘密基地」にせよ「山の上のお城」にせよ,一度はそこから離れながらも決して忘却することができず,やがて引き戻されていく強い磁力を持ったトポスとして描かれているのである。

そして『空の青さを知る人よ』においては,〈秩父〉という場所こそがそのような〈回帰点〉なのだ。この作品において,秩父は前2作より閉鎖的な空間として表象されている。冒頭であおいが耳に装着するイヤホン,慎之助がギターをしまうケース,しんのが閉じ込められる御堂といったものは,この閉鎖性を象徴的に表している。そしてあおいと慎之介は,自分たちを閉じ込める〈秩父の町〉という閉鎖空間から脱出することを強く望むのだ。

しかし一方で,2人はこの閉鎖空間を憎み切ることは決してできない。なぜならそこには,あかねという愛すべき存在がいるからだ。あかねは,2人が生まれ育った秩父という〈回帰点〉への愛の象徴である。あかねにとって,秩父の町は「秘密基地」のような過去の場所でもなければ,「山の上のお城」のような呪いの場所でもない。それは今この瞬間に自分が生きている場所であり,彼女の目に映るのは,セピア色の想い出でもなければラブホテルの廃墟でもなく,今ここにある美しい「青い空」なのだ。

あおいはしんのとの“失恋”で再び心に孤独を呼び込むだろう。慎之介はこの先も理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむだろう。しかし今や2人の前には青空のように透徹した未来があり,また同時に,あかねという戻るべき場所もある。未来を諦めることもなく,過去を捨てることもない,地に足のついた現実的な生。それこそが,彼らの成長の拠り所となっていくのであろう。

このように,本作が具体的な土地と心の成長を関連づけることに成功した1つの理由は,おそらく〈秩父〉という場の特異性にある。長井はこう言う。

僕の田舎は新潟で,見渡すかぎり田んぼしかないような平野だったんです。だから,秩父の景観は山がちな地形だけでも新鮮で,見ているだけですごく楽しいんです。あとは都心との絶妙な離れ具合が,物語の舞台としておもしろいと思います。わざわざ出て行こうと考えるほどでもなさそうな微妙な距離感なんですが,近いだけに「手を伸ばせば届く場所」として東京のイメージを具体的に掴みやすい。だから,そっちに惹かれる人も多いんじゃないか…*2

山に囲まれた閉鎖的な空間でありながら,東京との物理的な往来が実現しやすい場所。これに加え,〈東京〉という特異点が良きにつけ悪しきにつけ〈地方〉を刺激するという,日本特有の地理的関係性も重要な要因であろう。〈秩父〉という場の特性が物語に見事に活かされた傑作であった。

 

さて,この三部作を通して,「超平和バスターズ」こそが長井,岡田,田中にとっての象徴的な〈回帰点〉となったのではないだろうか。彼らは今後,それぞれに様々な名作を作り出していくことだろう。そしてやがて彼らが再びこの「超平和バスターズ」に回帰し,新しい傑作を産み出してくれることを心から願おうではないか。

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
3.5 4.5 4.5 5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4.5 3.5 4
独自性 普遍性 平均
3.5 4 4.1
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

小説 空の青さを知る人よ (角川文庫)

小説 空の青さを知る人よ (角川文庫)

 
「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 
空の青さを知る人よ

空の青さを知る人よ

 

*1:『空の青さを知る人よ』劇場版パンフレットより。

*2:同上。

TVアニメ『鬼滅の刃』(2019年)レビュー:人と線と音

 *このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

kimetsu.com

吾峠呼世晴の同名コミックスが原作。『空の境界』(2013年)や『Fate』シリーズのufotableが制作を手がけたとあり,放送前からそのクオリティが期待されていた作品である。また『テイルズ オブ シリーズ』でタッグを組んだ外崎春雄と松島晃がそれぞれ監督とキャラクターデザイン・総作画監督を務めたほか,撮影監督の寺尾優一が最終26話の絵コンテ・演出・原画に参加するなど,制作陣の座組においても注目に値する作品だ。総じて,コミックス原作アニメ化の現時点での“極北”となり得たと言っても過言ではないだろう。

 

作品データ

(リンクはWikipedia,もしくはアットウィキの記事)

時は大正時代。亡き父の跡を継いで炭焼きの仕事をする竈門炭治郎は,家族とともに貧しいながらも仲睦まじく幸せな暮らしを送っていた。そんなある日,炭売りから帰った炭治郎は,鬼に斬殺された家族たちの無残な姿を目にする。唯一命をとりとめた妹の禰豆子も鬼と化し,炭治郎に襲いかかるが,冨岡義勇と名乗る青年に助けられる。炭治郎は冨岡の導きにより,鬼と化した禰豆子を連れ,鱗滝左近次という人物の元を訪れる。鱗滝の元で修行を積んだ炭治郎は,やがて選抜試験に合格して「鬼殺隊」の一員となり,鬼を退治しながら妹を人間に戻す方法を探し求めて旅に出る。

キャラ立ちの妙

吾峠の原作の魅力は,なんと言ってもキャラクターの関係性と内面の描き方にある。

まず主人公とヒロイン・禰豆子の関係を兄妹にしたことにより,ややもすると陥りがちな〈ボーイミーツガール〉のテンプレ反復を回避している。これは男の子が主人公の少年マンガとしては過小評価すべきでない判断だろう。また,ヒロインの妹を「鬼」化したことで,これまたありがちな〈妹萌え〉というテンプレに対して一定の距離を置きながら〈萌えキャラ〉を描くことに成功している。炭治郎は単に「可愛い妹を守る」という一面的なキャラクター造形ではなくなり,視聴者は「可愛い妹だから守る→でも鬼だから守らなくても大丈夫→でも可愛い」という炭治郎の心理の起伏を追体験することができる。

このように,禰豆子というキャラクターは“戦闘美少女”の系譜を継ぎながらも,その典型からは微妙な距離をとる。一見シンプルな登場人物に,テンプレートに対する批判的な意味を持たせたことは,キャラクター造形に対する吾峠のすぐれた臭覚のなせる技と言えるだろう。

さらに主人公の宿敵である「鬼」を完全に敵側に外在させるのではなく,主人公側に取り込むことで,鬼に対する〈慈悲〉という心性を主人公に与え,勧善懲悪を超えた深みをキャラクターに付与することに成功している。やがてこの〈慈悲〉の心は,「鬼と仲良くしたい」という胡蝶しのぶの夢と合流することになり,本作の通奏低音となっていくことだろう。

サブキャラクターである我妻善逸と嘴平伊之助との掛け合いもすばらしく面白い。それぞれがボケにもツッコミにもなれるほどの濃いキャラがトリオを結成することで,悲痛になりがちな物語に陽の差したような暖かみが生まれる。長編マンガには必須の要素だ。

ところで,こうした人間関係や内面の機微を描くに当たって,アニメの構成を全26話にしたことは正しい判断だったと言える。途中やや展開の遅さに違和感を覚えたところがあったものの,アクションシーンに偏ったり筋の展開に焦りすぎたりせず,キャラクターの描写を丁寧に行ったのはufotable脚本の大きな功績である。

輪郭線の力:2Dと3Dのコラボレーション

そして本作のアニメ化において,人物や戦闘シーンの作画のユニークさが際立っていたことは言うまでもない。

3D空間を存分に活用し,人物が縦横無尽に飛び交う戦闘シーンは,すでにufotable自家薬籠中の物と言ってよいだろう。これに対し「水の呼吸」を用いた際の水の描写や人物の輪郭線などは,意図的にマンガ的・2D的に表現しており,原作そのものへのリスペクトと同時に,マンガという表現媒体へのリスペクトも示しているように思える。

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第九話「手毬鬼と矢印鬼」より引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

とりわけ人物の輪郭線の描き方は独特だ。吾峠の原作以上に太い輪郭線によって〈手描き〉であることを強調し,原作の持つ〈マンガ性〉をさらに際立たせている。例えばキャラクターデザインの松島によれば,第一話「残酷」において冨岡義勇が「生殺与奪の[…]」と叫ぶシーンでは,印象を強くするために線を太くしたり影を加えたりしたという。*1

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第一話「残酷」より引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

輪郭線そのものに,単にキャラクターと背景および色彩面どうしを隔てる役割だけでなく,独自の存在感を持たせ,それ自体を1つの表現にしている。ここまで手描き風の主線を強調すれば,当然,ufotableお得意の緻密な背景美術と何らかの齟齬が生じる可能性もあるだろう。監督の外崎によれば,「キャラクターと同様に『背景も主線を出していきたい』という話」を背景スタッフとしたらしい。本来であれば3DCGで描く空や雲も,あえて「アナログの手描きを大切にして」いるのだという。*2 こうした綿密な調整によって,キャラクターと背景美術の調和がとられているのだ。

こうした主線の描き方について,キャラクターデザインの松島は次のように述べている。

漫画家の方が描く線のイメージがありました。インクをつけたペンで線を引くと,線の中にインクだまりができますよね。曲線を引くと曲がるところで太くなり,線の終わりで細くなる。均等な太さにするのではなく,「トメ」「ハライ」がある線を,今回のアニメでは描きたいと思っていました。*3

主線に“面の分割”という抽象的な機能以外の独自の存在感を付与するという技法は,高畑勲の後期作品を思わせる。高畑は味気のない「アニメ的な線」を嫌い,遺作となった『かぐや姫の物語』(2013年)では,ラフスケッチをそのままアニメーションにしたかのような独特な描線を用いていた。

www.ghibli.jp

おそらく高畑と松島の間には直接的な影響関係はないだろう。しかし直接的な影響関係のないところに生まれる共通の価値認識に,ある種の〈文化的無意識〉のようなものの作用を認識できるのが,文化表現の面白いところなのではないかと僕は思う。 

www.otalog.jp

“空気”を描写する劇伴

さらにこのアニメ化の重要な要素に,梶浦由紀と椎名豪による劇伴がある。梶浦が第1話と第2話に使用されたメインテーマを担当し,それ以降の話数では,椎名が全話フィルムスコアリング(完成した映像に合わせて楽曲を作成する技法)で楽曲制作をしているという。『月刊ニュータイプ』7月号掲載のインタビューによれば,第十八話までの時点で300曲(ボツを含めると600曲)を制作したというから,途方もない作業量である。 *4

映像と綿蜜に擦り合わされた梶浦と椎名の劇伴は,原作の描写に潜在していたある種の空気感のようなものを顕在化させている。例えば,第二十四話「機能回復訓練」がわかりやすい。前半は炭治郎,善逸,伊之助のトリオによるコメディタッチのシーンが大半を占め,後半は胡蝶しのぶが炭治郎に心情吐露をするシーンが中心である。マンガ原作では,この前半と後半の空気感が連続しており,こうしたコメディシーンとシリアスシーンのシームレス感こそがいわば吾峠の持ち味とも言える。一方,アニメでは前半のコメディーシーンにコミカルタッチの音楽を,後半のシリアスシーンにはしっとりとした音楽を伴わせることで,両者のコントラストを明確にしている。

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第二十四話「機能回復訓練」より引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

もちろん,このような劇伴による演出はコミックス原作のアニメ化においては当然の作業ではある。しかし先ほども述べた,フィルムスコアリングによる繊細な劇伴の挿入は,カラッとした昼の描写から幻想的な夜の描写の変化とも相まって,前後半の空気感の絶妙な変化を描き出しており,結果として胡蝶しのぶというキャラクターの掘り下げにも寄与しているように思える。

「ヒノカミ」

そして,〈キャラ立ち〉〈手描き風の描画〉〈劇伴〉のすべての要素が凝縮されていたのが,第十九話「ヒノカミ」の戦闘シーンであった。

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第十九話「ヒノカミ」より引用 ©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

幼少時代の回想シーンとともに劇伴「炭治郎の歌」が挿入され,父の「ヒノカミ神楽」の舞いが始まる。炭治郎が「ヒノカミ神楽」で技をくり広げると同時に劇伴が盛り上がり,禰豆子が「爆血」で援護する。TVシリーズでここまで完璧な連携技を観られることはそう多くない。しかもこのシーンの敵方であった「累」は,「十二鬼月」であるとは言え「下弦の伍」。中ボスとすら言えない敵である上に,最終的に炭治郎は勝利しているわけではない。そのシーンにこれだけの技術を投入するのは贅沢至極としか言いようがない。このような贅沢な画作りに,寺尾優一の撮影技術が大きく貢献していることは想像に難くない。

www.otalog.jp

 

さて,「炎柱」煉獄杏寿郎の活躍を描く「無限列車編」が,劇場版として制作されることが最終話放送直後に発表された。すでにTVシリーズにして通常の劇場版クオリティを完全にクリアしている本作をグレードアップしたらどうなるか,まったく想像もつかない。僕を含め,多くの人がすでに原作で「無限列車編」の結末を知っていることと思うが,おそらくufotableはそんな僕らの想像をはるかに超えた映像を創り出してくれることだろう。大いに期待したい。

kimetsu.com

 

2020年10月29日(木)追記:『無限列車編』のレビューについては以下の記事を参照。

www.otalog.jp

 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 5 5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 5 4 4.5
独自性 普遍性 平均
4.5 4 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

鬼滅の刃 1(完全生産限定版) [Blu-ray]

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*1:『月刊ニュータイプ』2019年7月号,p.16,KADOKAWA,2019年。

*2:『鬼滅の刃』Blu-ray第一巻特典ブックレットより。

*3:『鬼滅の刃』Blu-ray第二巻特典ブックレットより。

*4:『月刊ニュータイプ』2019年7月号,p.20,KADOKAWA,2019年。

ブログ開設から1年経ちました。

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早いもので,当ブログを開設してから1年も経ってしまったようです(はてなブログ運営からメールをもらうまで気づきませんでしたが…)。

アニメを一個の作品と捉えて正面から向き合い,様々な資料や知識を駆使して読み解き,「レビューそれ自体を“読ませる”ものにする」という信念のもとにあれこれと工夫をしてきたつもりです。レビュー執筆のために読書量も増えたように思います。“アニメをきっかけに勉強をする”という新たなモチベーションを発見した気分です。悪くない趣味ですね。

まだまだ力不足を感じますが,このブログの記事には僕のアニメに対する姿勢のすべてを投入しているつもりです。そういう意味では僕自身の分身であるとも言えますので,今後も出来る限り丁寧な記事作りをしていきたいと思います。

更新頻度も高くなく,PV数も低飛行な弱小ブログですが,読者の皆様,当ブログに立ち寄っていただいた皆様には,今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

劇場アニメ『HELLO WORLD』(2019年)レビュー:現実≒「現実」≒「「現実」」…

*このレビューはネタバレを含みます。また,ダニエル・F・ガロイ『模造世界』及びライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『あやつり糸の世界』の内容にも触れていますのでご注意下さい。

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公式HPより引用 @2019「HELLO WORLD」製作委員会

hello-world-movie.com

『ソードアート・オンライン』シリーズ(2012年〜)の伊藤智彦が監督を務めるオリジナルアニメ。脚本は『正解するカド』(2017年)の野﨑まど,キャラクターデザインは『らき☆すた』(2007年)や『けいおん!』シリーズ(2009〜2010年)の堀口悠紀子,制作は『楽園追放 -Expelled from Paradise-』(2014年)のグラフィニカという座組だけあって,非常にクオリティの高い純SFアニメ映画に仕上がっている。 

 

作品データ

(リンクはWikipedia,もしくはアットウィキの記事)

時は2027年の近未来。京都に住む堅書直実は,内気で目立たず,クラスメートからも注目されない平凡な高校生である。ある日,彼の前に10年後の未来の自分を名乗るカタガキナオミが姿を現し,直実の世界が「アルタラ」と呼ばれる記録装置の中に再現された過去の仮想世界であることを告げる。ナオミによれば,現実世界では彼とクラスメートの一行瑠璃が恋人同士になるが,瑠璃は花火大会でのデートの際中に落雷に遭って命を落としてしまう。そこで彼は,仮想世界の中で事故を回避して未来を変え,彼女の幸せな姿を目にしたいと願い,直実に助力を求めに来たのである。かくして,瑠璃との幸せな未来を勝ち取るべく,直実とナオミの奇妙なバディが誕生するのだった。

3DCG描画が語る世界観

本作でまず目を引くのは3DCGによる作画の完成度だ。堀口悠紀子のデザインの柔らかさを非常にうまく再現しており,3DCGの表現もここまで来たかと唸らせるものがある。映像制作のグラフィニカと言えば,『楽園追放-Expelled from Paradise-』(2014年)の主人公「アンジェラ・バルザック」の魅力的なキャラクターを3DCGによって見事に表現していたことが記憶に新しい。

rakuen-tsuiho.com

youtu.be

しかしだからと言って,『HELLO WORLD』における3DCG描画が,いわゆる2Dの手描き描画とまったく同等かと言えばそうではない。やはりキャラクターの動きには3DCG特有の僅かな不自然さが残る。〈手書き描画=自然〉という知覚訓練を受けてきた僕らの網膜が捉える,ほんの僅かな違和。優れた技術を駆使して手書き描画に近づこうとすればするほど,あの〈不気味の谷〉の残り香のようなものが僅かに鼻をついてくるーーこれが現時点での3DCG描画の宿命と言えるかもしれない。

そしてーー伊藤やグラフィニカがこれをどこまで計算していたかは不明だがーーこの〈僅かな不自然さ〉こそ,この作品世界の本質をうまく描き出していたように思うのだ。

“未来”から来たナオミは,物語のかなり早い段階で,直実の世界がアルタラ内の「記録世界」であることを告げる。このシーン以降,観客もこの世界がデータによる仮想世界であることを知りながら物語世界を観測することになる。直実が“仮想世界という現実”をどんなに素直に受け入れようとも,直実とナオミのバディがどれだけコミカルに見えようとも,そして仮想世界がどれだけ現実世界に酷似していてもーーあるいはそれ故にーー世界に内在していた〈僅かな不自然さ〉が顕在化してくるのだ。

3DCGによる〈僅かな不自然さ〉は,〈現実からの僅かな乖離〉として鑑賞者に知覚されることになるだろう。現実に限りなく近似しているが,完全に等価ではない世界,つまり文字通りのVirtual Reality。これ以上に,『HELLO WORLD』という作品世界の描写に適した媒体はないのだ。

〈リアル≒ヴァーチャル〉という問題提起の系譜

『HELLO WORLD』は,伊藤の“古巣”である『ソードアート・オンライン』シリーズの他,後述する『模造世界』と『あやつり糸の世界』,『マトリックス』(1999年),『ゼーガペイン』(2006年),『インセプション』(2010年)など,これまで〈現実か,仮想現実か〉という問題提起をした作品系譜に名を列ねる作品であると言える。それだけに,一定の鑑賞経験がある人にとっては少なからず“既視感”のつきまとう作品なのだが,にもかかわらず一級のエンターテインメント作品に仕上がっているのは,伊藤の制作能力と野﨑の脚本力に拠るところが大きいだろう。

いずれにせよ,こうした問題提起の系統に列なる作品を論じるにあたって,その作品だけを個別に扱うのは本来得策ではない。もちろん『HELLO WORLD』という作品が単体として優れた作品であることは間違いないのだが,同じ問題系内にある過去の作品と照らし合わせることで,この作品をより大きな視野で捉え,新たな魅力を見出すことができるのも確かなのである。

〈創造〉と〈被創造〉の間で

実はナオミはアルタラコントロールセンターの研究員であり,システム管理メインディレクターに昇進後,密かに自分の意識を記録世界に転移する実験を行なっていた。彼の真の目的は,記録世界における瑠璃の精神データを“現実世界”に転移し,脳死状態になったルリを蘇生すること。彼は直実を謀り,瑠璃の精神データの奪取に成功するが,そこにアルタラの自動修復システムである「狐面」が登場したことにより,ナオミは自分が“現実”と認識していた世界もまた記録世界であったことに気づき驚愕する。「ラスト1秒」では,瑠璃を蘇生すべくナオミが着手していたすべての行動が,実は瑠璃がナオミを蘇生するために実行していたプログラムであったことが明かされ,「セカイはひっくり返る」。

おそらく直接の影響関係はないだろうが,このような現実と仮想現実の入れ子構造は,ダニエル・F・ガロイの小説『模造世界』(1964年),およびこの小説を原作とするライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督のTVドラマ『あやつり糸の世界』(1973年)のそれと類似している。あらすじを追ってみよう。

「サイバネティック未来予測研究所」のフォルマー博士は,スーパーコンピュータによって仮構の世界を作り上げ,9000以上もの仮想人類を住まわせていた。彼らは自分たちがコンピュータシミュレーションであることを知らずに生活しているが,「アインシュタイン」という名の「連絡個体」だけはすべてがシミュレーションであることを知っており,高次世界である“現実世界”と意思疎通を図ることができた。ある日,フォルマー教授が謎の死を遂げる。彼は死の直前,ある重大な秘密を知ったことを同僚のラウゼに知らせていた。ラウゼはフォルマーの後任となったシュティラーに秘密を告げようとするも,忽然と姿を消してしまう。そんな中,仮想世界の個体が自殺を図ったことを知ったシュティラーは,「アインシュタイン」と連絡をとるのだが,そこで恐るべき事実を知ることになる。彼が“現実世界”だと思っていた世界は実は仮想世界であり,より高次の“現実世界”が存在していたというのだ。

www.ivc-tokyo.co.jp

この物語のポイントは,単に「現実世界が仮想世界であることが発覚する」ということ自体にあるのではなく,それ以前に「人間が完全な仮想世界を創造している」という点にある。つまり,己を創造主だと思っていた人間が,実は被造物であったという痛烈なアイロニーがここには含まれているのだ。

仮想世界の創造主として万能感を得れば得るほど,自分の世界も高次元の存在による被造物なのではないかという疑念に苛まれる。“現実世界”の絶対性は決定的に揺るがされる。このSF設定は,人間の実存的不安を大いに掻き立てる効果を持っていると言えよう。科学理論を発達させ,ダーウィニズム的進化論で創造論を駆逐した人類が,やがて再び創造論に回帰する未来を暗示しているかのようでもある。

『HELLO WORLD』の世界も,こうした〈現実世界の相対化〉という問題提起の上に成り立っている。

この物語は「「ルリを救うナオミ」を救うルリ」という結末で終わりを迎える。しかしナオミが目を覚ました月面の世界が,本当に“現実”の世界である保証はどこにもない。2人の救いの構造は,「「「ルリを救うナオミ」を救うルリ」を救うナオミ」,さらには「「「「ルリを救うナオミ」を救うルリ」を救うナオミ」を救うルリ」といった具合に,無限に延長される可能性を内包してしまっているのだ。その意味で,この映画はハッピーエンドのラブストーリーという装いを纏いながら,人間の実存に極めて不安な問題提起をしている。映画という“ピリオド”を含む媒体であるが故に,視聴者に対して見た目上の救いがもたらされたに過ぎないのだ。こうして,“現実”は完全に相対化される。

HELLO WORLD

しかし,伊藤の思い描く仮想現実の未来は,そう暗澹たるものではないらしい。

現実は仮想現実かもしれない。この作品は現実認識をペンディングにしたままに唐突に終わってしまう。しかしそんな世界にも,唯一はっきりとしていることがある。それは,最後に直実と瑠璃が降り立った仮想世界が,「あたらしい世界」として誕生したという事実だ。直実と瑠璃は,この世界が作り物の世界であることを知りながらも,幸せに暮らしていくことになるだろう。その姿はあたかも神によって作られたアダムとイヴのようでもある。ひょっとしたら,彼らの世界はナオミとルリの住う月面の世界よりも幸福かもしれないのだ。

現実と仮想現実の関係が相対的なものだとすれば,仮想世界が現実世界と同じ,あるいはそれ以上の価値を持つこともありうるかもしれない。その時,僕らは世界創造の営みに満足した神のように,安らかな眠りにつくのかもしれない。

最後に,『HELLO WORLD』の世界の創造主たる伊藤智彦の言を引いて締めくくることにしよう。

例えば,『マトリックス』(99)が公開された20年前なら「お前の生きるこの世界は仮想世界なんだ」と言われると,ものすごいショックがあったと思うんですよ。でも,2020年代に向けた今では,それほどショックを受けないんじゃないかと。「じゃあ,しょうがないか」と言って,その世界でつましく暮らす選択もありうる。そういう主人公の方が今っぽいなと感じたし,俺もわりとそのタイプの 人間なんです(笑)。『マトリックス』の現実世界のようなディストピアなら,あえてそんな世界に戻らなくてもいいでしょうと。仮想世界で毎日が楽しく暮らせるなら,それはそれで別に構わない。もっと言ってしまえば,今のこの世界が現実世界であると担保するものだって何もないわけです(笑)。*1 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 4.5 5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
3 4 4
独自性 普遍性 平均
3.5 4.0 4.0
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

HELLO WORLD (集英社文庫)

HELLO WORLD (集英社文庫)

 
映画  HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド

映画 HELLO WORLD 公式ビジュアルガイド

 

 

*1:劇場版プログラム「Staff Interview」より。

TVアニメ『荒ぶる季節の乙女どもよ。』(2019年)レビュー[考察・感想]:彼女たちの「色」と「穴」

 *このレビューはネタバレを含みます。

 

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公式HPより引用 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

araoto-anime.com

岡田麿里による同名のコミックス(原作・原案:岡田麿里,作画:絵本奈央)が原作。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年,脚本),『心が叫びたがってるんだ。』(2015年,脚本),『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018年,監督)など,数々の名作を手がけてきた岡田の〈性〉をめぐるコメディ作品とあって,放送前から期待の高かった作品である。

作品データ

(リンクはWikipedia,もしくはアットウィキの記事)

高校の文芸部に所属する小野寺和紗は,周囲から「地味子」と呼ばれてしまうほど平凡な女子高生。彼女は文芸部の先輩である曾根崎り香,本郷ひと葉,同学年の菅原新菜,須藤百々子とともに,文学作品中の露骨な性描写に当てられ,悶々としていた。ある日,新菜の発した「セックス」という直接的な言葉をきっかけに,彼女たちは〈性〉という未知なる世界に翻弄されていくことになる。

言葉とアレ

文芸部に所属する彼女たちにとって,始めにあったのが〈言葉〉だったのは偶然ではない。

彼女たちは性と愛の正体,そしてその2つの違いに戸惑い悶々としている。しかしそれらに直に触れたいとは思わないーーというより,思いたくない。直接的・身体的な行動に出るには,文芸部の彼女たちはあまりにも「概念」的過ぎる。*1 “性愛とは何か” “性と愛の違いは何か”に対する答えではなく*2,彼女たちが性と愛を〈知らない〉という事態そのものが,この作品のユーモアの源泉となっていくのだ。

人が未知のものを前にとりうる態度は2つだ。1つは,未知を抑圧することで仮初めの忘却を試みること。もう1つは,未知の周囲を迷走し続け,未知そのものに触れることなく,未知と関係し続けること。彼女たちのとった方法が後者であることは言うまでもない。

そしてその方法こそ,性と愛を〈言葉〉で理解しようとすることであった。ひと葉はミロとのチャットで性を擬似体験し,り香は天城の気持ちを「レポート」で確認しようとし,新菜は演劇の経験を媒介に性関係を想像している。性愛という未知の世界をめぐり,〈言葉による語り〉で近似的に関わろうとする点が,この作品の主人公たちのユニークな属性なのだ。それは性と愛の現実に直に触れる危険性を犯すことなく,間接的な関係を保とうとする,ある種の〈防衛機制〉でもあると言える。

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ひと葉のチャットシーン。「豚汁」はひと葉をして「恐るべし曾根崎ロゴス」と言わしめたパワーワードだ。 第1話より引用。 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

 「えすいばつ」:言葉のスラップスティック

彼女たちの言葉は〈未知〉を言い当てることなく,〈未知〉を中心にグルグルと回り続ける。それは作中にしばしば登場する“言葉遊び”のようなエピソードによく表されている。彼女たちの言葉は,性愛という対象を中心に,その周りをズレていく。「甘美な汁」は「豚汁」に,「エロス」は「メロス」に,「破瓜」は「たたきキュウリ」に,そして「セックス」は「えすいばつ」に。

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第2話より引用 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

これは言い換えれば,彼女たちを取り巻くあらゆる記号が性という〈未知〉を指示する可能性があるということだ。ゆえに,とりわけ和紗の目には,商店街の看板もチンアナゴも電車のトンネルも,すべてが性の暗示に見えてしまう。彼女はそこから逃れようとするが,それは不可能だ。性を言葉によって象徴変換することを選択したのは彼女自身であり,したがって「この世界は性にまみれすぎて」*3しまうことになるのは必然なのだから。

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第1話より引用 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

欲望の対象を中心にグルグルドタバタと周り続けるが,決してそれを捉えることのできないスラップスティックのように,彼女たちが必死であればあるほど滑稽に見えるという構造。チャップリンから今日のシチュエーション・コメディに至るまで,〈欲望の対象を捉えようとして捉えられないことの喜劇性〉は,ドラマ史において普遍である。 

“sour grapes”

しかしスラップスティックの陽気な楽しさは,幕の引けた後のサーカスのような空虚感と表裏一体だ。彼女たちのコメディには,〈得たいものが得られない〉〈主体的な行動をとれない〉という悲哀が事後的につきまとうことになる。

中でも,百々子と新菜の境遇はこの作品の仄暗い部分を暗示しているように思える。

百々子は悟との不幸な対話から,自分の欲望の対象が同性であることに受動的に“気づかされる”。彼女は新菜に対する想いを自覚し始めるが,新菜はすでに泉に想いを寄せているため,自分の恋心が成就しないことを痛感している。

新菜はかつて所属していた児童劇団の演出家,三枝に淡い恋心を抱いていたーーと思っていた。しかし彼女の三枝に対する想いは間違いなく〈転移〉的である。三枝は新菜に対し,医者や精神分析医のような権威的存在としてふるまい,彼女の心を常に分析的に観察し,ともすればそれを操ろうとする。その三枝に対し,新菜は別の人間(例えば同級生)に向けられるはずの恋心を〈転移〉していた。彼女にとって三枝との関係は憧れであった。しかし三枝は彼女を「少女性」という檻の中に軟禁し,自分と直接交わることを禁じている。ゆえに,新菜にとって性への接近は封じられてしまっていたのだ。泉との出会いは,この「少女性」から逃れる脱獄の契機となったのである。

しかし,新菜の泉に対する想いは〈間主体的〉であった。彼女は和紗が泉に対して恋心を抱いていることを知って初めて,自分も泉に好意を抱いていることに受動的に“気づかされる”。それは当初から〈他者の欲望〉なのであって,決して主体的な欲望ではない。彼女は三枝との関係を断ち切り,泉に告白しようとするが,〈他者の欲望〉であるそれはすでに手遅れであり,成就することはもはやない。

第11話で新菜は自己の欲望に対する〈合理化〉をはっきり自覚する。

憧れた景色がこの先にあるのに,外から見つめるだけで

私の言葉は「すっぱい葡萄」だった *4

「すっぱい葡萄」とは,イソップ寓話の『狐と葡萄』に由来する話だ。腹を空かせた狐が木に実った葡萄を見つける。しかし高いところにあって手が届かないので,「こんな葡萄は酸っぱいに違いない」と負け惜しみを言って諦める。フロイト派の心理学ではこのエピソードは〈合理化〉の一例とみなされている。つまり,欲望が満たされなかった時,そこに合理的な説明を加えることによって不快を避ける,一種の〈防衛機制〉である。新菜は和紗公認のもと,泉に〈叶わない告白〉をしようと決意するが,それは決して成就することのない泉への気持ちを清算するための,彼女なりの〈合理化〉 なのである。結局,「掃き溜めに鶴」だった彼女が,この作品中でもっとも孤独だったのかもしれない。

コメディの背後に潜むこうした薄暗い暗部は,ひょっとしたら原作の岡田麿里の生い立ちが源泉になっているのかもしれない。『あの花』のいじめや引きこもり,『ここさけ』の両親の不仲による感情的不安といった問題は,岡田の幼少期の経験がモデルになっている。ただし『荒乙』がこれらの作品と異なるのは,心的暗部にコメディの衣を着せている点だ。

〈色〉はいろいろ

心の中にどれだけ暗い「穴」を抱えていても,彼女たちにはそれと立ち向かう若さがある。性的マイノリティの自認にせよ,性愛への諦念にせよ,それを乗り越える可能性が彼女たちにはある。

最終話で感情をぶつけ合い,収拾のつかなくなった彼女たちの姿を見たミロは,「色鬼」をすることで「それぞれの心の色をさらけ出す」ことを提案する。〈色〉という主観的対象を根拠に勝敗を決めるこの遊びの本質を,「鬼の視点を理解することが絶対なんですよ」と言い当てる彼は,まさに本作に欠かすことのできない名脇役であったと言えるだろう。この時,彼女たちがなすべきだったのは,心内の感情をぶつけ合うことではなく,感情を他者に認知させることだったのだから。

かくして彼女たちは,「灰色」「桃色」「青色」という自分の「心の色」を差し出し,それを仲間に認識させることで,「自分の色」というものの存在を知ることになる。

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最終話より引用 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

〈色〉には様々な意味がある。情欲,表情,情趣,艶美,気配,そして多様性。この物語の5人の主人公たちは,一人一人がすべて異なる個性を放っていた。それを「色」というアニメの得意分野で表現したこのエピソードは,この作品の最終話として確かに相応しいものであった。

彼女たちの未来から黒々とした「穴」が姿を消すことはない。人はどんなに経験を積んでも,最終的な〈未知〉,つまり〈自分自身〉という〈未知〉から逃れることはできないからだ。

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最終話より引用 © 岡田麿里・絵本奈央・講談社/荒乙製作委員会

彼女たちは今後も,己のうちに黒い未知の「穴」を発見し,戸惑うことだろう。しかし彼女たちには,かつて自分の「色」を認識してくれた仲間たちがいる。仲間たちと共にいることで,彼女たちは自分の「色」をいつでも確認することができるだろう。それは相変わらず〈間主体的〉な自己規定ではあるが,〈友〉という絵の具によって彩られた,色鮮やかな関係であり続けるはずだ。

新しい気持ちに照らされると

自分でも気づいていなかった

もともと自分が持ってた色が

どんどん浮かび上がってくるんだ *5 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4.5 3.5 3.5 3.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4.5 4 4.5
独自性 普遍性 平均
4 4 4
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荒ぶる季節の乙女どもよ。(1) (週刊少年マガジンコミックス)

荒ぶる季節の乙女どもよ。(1) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 

*1:第1話のり香のセリフ「エロスは『概念』なのよ!?」より。

*2:“性と愛の違い”については,最終話における泉の「俺が好きなのは和紗だ。だけど,性的な欲求を感じるのは,菅原さんだ」というセリフが些か的外れな伝え方をしている。

*3:第1話の和紗のセリフより。

*4:第11話の新菜のセリフより。

*5:最終話の和紗のモノローグより。