アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

OVA『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』(2020年)レビュー[考察・感想]:バジャよ,永遠に。

*このレビューはネタバレを含みます。

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京都アニメーション公式HPより引用 ©︎株式会社京都アニメーション

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『バジャのスタジオ』(2017年)の続編『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』は ,京都アニメーションのファンブック『私たちはいま!!全集2019』に収録されたオリジナルアニメ作品である。

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前作に続き,監督は三好一郎(木上益治)。ユニークな水(海)の描写や,有彩色と無彩色の対比を中心とした物語構成が見どころである。前作の『バジャのスタジオ』と比べるとキャラクターデザインのコンセプトに明確な変化が見られ,この辺りに三好のアニメ制作に対する思想の一端を窺い知ることができる興味深い作品だ。

なお,前作『バジャのスタジオ』に関するレビューは以下の記事をご覧頂きたい。 

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あらすじ

バジャとアヒルのガーちゃんは,毎夜追いかけっこやかくれんぼをし,モチモチフワフワ楽しく暮らしている。一方,スタジオでは相変わらず『ほうき星の魔女ココ』の制作が進行中であり,監督のカナ子はストレスの絶えない日々を送っている。ある日,バジャはカナ子から「海」の話を聞いて興味を抱き始める。ココは魔法を使ってバジャたちに「青い海」を見せてやるのだが…

強調されたアウトライン

前作の『バジャのスタジオ』と『バジャのみた海』を比べてみると,キャラクターのデザインコンセプトに大きな変化が生じていることに気づく。とりわけ興味深いのはアウトラインの処理である。

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上:『バジャのスタジオ』/下:『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

『バジャのスタジオ』では,撮影段階でキャラクターのアウトラインに“途切れ感”を出す処理が施され,「世界名作劇場」のような,手描き時代のアニメの柔らかい質感が生み出されていた。ちなみにこれは『リズと青い鳥』(2018年)の中の「絵本の世界」でも用いられていた手法である。

一方,『バジャのみた海』ではアウトラインがはるかに太く描かれている。存在感のはっきりした黒色系のアウトラインに囲われることによって,多様な有彩色が“キャラクター”としてよりはっきりと形象化されている。こうしてキャラクターの輪郭と存在感が強調され,背景との境界が明確になることによって,ある意味,キッズアニメらしい“わかりやすい”デザイン設計になっていると言える。

ココの色とギーの色

強調された黒いアウトラインが有彩色を囲むというデザインコンセプトは,『バジャのみた海』の物語的なテーマとも共鳴している。

海を見たことがないバジャのために,ココは魔法で「青い海」を召喚する。トロリとした質感の海の水が辺りを満たしたかと思うと,たちまちスタジオから溢れ出し,やがて星全体を覆い尽くしていく。バジャとガーちゃんは,いつの間にか海の水に覆われた小さな惑星にプカプカと浮かんでいる。

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『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

ココの海は極彩色と言えるほど色彩の情報量が多い。海中には色とりどりの魚やサンゴの姿が見え,空には黄色い太陽と色鮮やかなほうき星が浮かんでいる。それは現実的な海というよりは,絵本やファンタジーの中に登場する海の色であり,ココの記憶の中で彩度が増幅された“記憶色”の世界である。ココは有彩色を司どるキャラクターなのだ。

一方,ギーが司どるのは無彩色だ。彼は黒を愛するキャラクターであり,自ら黒衣を纏うだけでなく,「半分黒い」バジャを手下にしようとする。ギーはノートパソコンにドロリとした黒い荒海を映し出し,「これが本当の海の姿だ」と言ってバジャに見せる。

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『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

アニメにおいて色彩がテーマになる時,このように有彩色と無彩色の対比が用いられることは少なくない。近年では,灰色の世界しか見えない主人公が仲間との交流を通して色彩を取り戻す様を描いた『色づく世界の明日から』(2018年秋)や,無彩色を効果的に用いて心の停滞感を表した『イエスタデイをうたって』(2020年春)などが記憶に新しい。

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これらの作品でもそうだが,無彩色は単なる消極的な色の不在ではない。 それはそれ固有の存在感によって,世界や心情を積極的に“彩る”力を持つ。時に有彩色とは異なる知覚世界を暗示し,時に人の心の暗部に寄り添い,情景として外化する。

だからこそ,ギーは黒を「綺麗だ」と言うのだ。この作品で面白いのは,ギーが賢しらに世の理の両義性を言い当てるところだ。ギーの海の教え方に苦言を呈したココに,彼は「裏と表がひとつだと教えて何が悪い」と言い返す。彼の言う「裏と表」とは,直接的にはギーの黒々とした荒海と,ココの美しい青い海のことを指している。しかし同時にそこでは,ムードの浮沈や心の悲喜という内面的な明暗も連想されている。ガーちゃんをインクで黒く染め,黒い荒海の中へ放り出した後,途方に暮れるバジャに向かって「楽しいことと悲しいことは同じものの裏と表だ」と言うのである。

有彩色と無彩色は,それぞれ相手の存在があってこそ,その価値を発揮する。黒いアウトラインと色彩の組み合わせがキャラクターの存在感を際立たせる。そしてそれはココとギーの関係性そのものでもある。ギーはココと対立するように見えながら,その実,己の無彩色の世界とココの有彩色の世界の表裏一体性を強調してもいる。ココはギーと戦う時,「いつものやつね!」と嬉しそうに言い,ギーは渋々ながらもそれに応じる。どうやらこの“対決”はずっと以前から2人の間で繰り返されているようだ。結局この2人も,対立しながら寄り添う表裏一体の存在なのだろう。さらに言えば,バジャとガーちゃんの関係も同じだ。バジャのボディカラーは黒と白,つまり無彩色であり,ガーちゃんは黄色,つまり有彩色である。

『バジャのスタジオ』は,京都アニメーション作品の中でもとりわけ明確に“子ども向け”として制作された作品だ。三好は〈価値の両犠牲〉という,やや難解なテーマを導入しながら,それを視覚的イメージに落とし込み,子ども向けにわかりやすく伝えようとしたのかもしれない。

デザインに込められた三好一郎の想い

アウトライン以外にも,バジャの表情や背景美術にコンセプトの変化と見受けられるものがいくつか見られる。例えば,『バジャのスタジオ』よりもバジャの表情はコミカルかつ豊かになっている。

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『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

背景美術のデフォルメも特徴的だ。バジャが外を眺める時にしばしば登場する窓枠は,『バジャのスタジオ』では常に直線的に描画されていたが,『バジャのみた海』では極端に歪められた面白い構図になっている。

こうしたデザインコンセプトの変化のはっきりとした理由は定かではないが,それをほのめかす三好監督の発言が『私たちは,いま!!全集2019』に収録されたインタビューに見られる。

この作品において一番大事にしているのはかわいらしさなので,続編を作る機会があったら,どんどんかわいくしようと思っています!『バジャのみた海』でも,かわいくしようとするあまり全体的にキャラクターが丸くなって,みんながぽっちゃり体型になってしまったのですが(笑)*1

強調されたアウトライン,バジャの表情,事物のデフォルメは,すべてこの「かわいらしさ」に向かっていたのかもしれない。リアリズムよりも,わかりやすさを求めた設計と言ってもよいだろう。

いかに子ども向けにわかりやすく映像と物語とメッセージを伝えるか。これは,三好と京都アニメーションが抱える大きな課題でもあったのだろう。同じインタビューの中で,三好は続けて以下のように述べている。

当社のスタッフが,バジャのような線数が少なくて丸みのあるキャラクターを描き慣れていないこともあってか,「みんな,苦労しているな」と感じる部分はありました。[…]情報量が少ないキャラクターを描くには,その本質をつかむまでにとても時間がかかるんです。かなり描き込まないと,キャラクターの描き方が見えてきません。[…]頭身が高くて線数の多い,作画的に密度の高いアニメだけではなく,『バジャ』のような作品も並行して制作できると,スタッフの成長にもつながるとは思います。*2

京都アニメーションに対する三好の“親心”のようなものが窺える言葉だ。『バジャ』の制作理念には,“京都アニメーションにもっと成長してもらいたい”という三好の想いが込められていたのだろう。

先ほどの引用からもわかるように,三好は『バジャのスタジオ』の続編制作に意欲的だったようだ。だが,2019年の事件が,彼の命と共にその可能性を奪い去った。

『バジャのスタジオ』は三好の作品だ。それは間違いない。しかし同時に,彼の遺したものを今の京都アニメーションは確かに受け継いでいると僕は思う。だとすれば,『バジャのスタジオ』の続編を今の京都アニメーションのスタッフが制作することには大きな意味があるだろう。それが,三好一郎こと木上益治への,最高の手向となるのではないだろうか。 

作品データ

*リンクはWikipediaもしくは@wiki

【スタッフ】監督:三好一郎/演出補佐:澤真平動画検査:藤田奈緒子黒田比呂子松村元気色彩設計・色指定:宮田佳奈石田奈央美特殊効果:大當乃里衣三浦理奈美術監督:長谷百香/3D美術:鵜ノ口穣二篠原睦雄撮影監督・CG演出:植田弘貴/3D監督:髙木美槻音響監督:鶴岡陽太アニメーション制作:京都アニメーション

【キャスト】バジャ:吉田舞香ガーちゃん・ギー:田村睦心ココ:田所あずさカナ子:金元寿子

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 5 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4.5 4.5 3.5 5
独自性 普遍性 平均
3.5 5 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

『バジャのスタジオ〜バジャのみた海〜』のBlu-rayは,先述した『私たちは,いま!!全集2019』に収録されている他,2020年10月には単体で発売される予定である。

『私たちは,いま!!全集2019』は,2017年から2019年の間に製作された京アニ作品に関するスタッフたちのインタビュー,描き下ろしイラスト,制作素材などが収録されたファンブックで,資料価値もそれなりに高い。2020年8月14日現在,京アニショップでは在庫品が販売されているので,興味のある方は早めに入手しておくとよいだろう。

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*1:「私たちの,いま!2019」(『私たちは,いま!!全集2019』,京都アニメーション,2020年に所収),p.138。

*2:同上,p.139。

OVA『バジャのスタジオ』(2017年)レビュー[考察・感想]:アニメはみんな生きている

*このレビューはネタバレを含みます。

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京都アニメーション公式HPより引用 ©︎株式会社京都アニメーション

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2017年の「第3回 京アニ&Doファン感謝イベント 私たちは,いま!!ー2年ぶりのお祭りですー届け!京アニ&Doのいろいろ編」で上映された短編アニメ『バジャのスタジオ』。監督を務めるのは,2019年に惜しくもこの世を去った,京都アニメーションの木上益治(本作では「三好一郎」名義)である。以前,京都アニメーションのオリジナル企画として発案された『カナカのゆめまほう』をベースにしている。

21分という短い尺の中に,キャラクターたちへの愛情が溢れんばかりに詰め込まれており,アニメーションというものの本質を改めて考えさせてくれる珠玉の小品である。

 

あらすじ

ハムスターのような愛くるしい生き物「バジャ」は,「KOHATAアニメスタジオ」で人間たちに飼われている。彼の友だちはスタジオの外の池に浮かぶアヒルのおもちゃ。ある晩,バジャはアヒルのおもちゃが猫に襲われているのを目にする。彼は「ほうき星の魔女ココ」の助けを借りて彼を救おうとするのだが…

アニメを作るアニメ

バジャが飼われているのは,おそらく京都アニメーションのスタジオをモデルにしたと思われる「KOHATAアニメスタジオ」である(その佇まいは,とりわけ在りし日の「第1スタジオ」の姿を思わせる)。狭苦しいケージのようなものはなく,スタジオ全体が彼のプレイグラウンドだ。彼は日々スタジオ内を駆けめぐって制作作業を見て回ったり,休憩時にスタッフに愛玩されたりしている。

スタジオでは,『ほうき星の魔女ココ』というアニメの制作が進行中である。監督のカナ子は,おそらく経験の浅い新人監督と見られ,作画監督やキャラクターデザイナーらに強く指示を出すことができず,スタッフたちとのコミュニケーションに苦労している様子だ。原画制作,彩色,制作マネージャー(制作進行)の仕事など,その制作風景も細部にわたってリアルに描写されており,“お仕事アニメ”的な一面もある作品である。要するに本作は,アニメの中でアニメ制作の現場を描いているという点で,『SHIROBAKO』(2014年秋-2015年冬)や『映像研には手を出すな!』(2020年冬)の系列に連なる作品なのである。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

故に,このスタジオ内に満ちている人々の全エネルギーは,キャラクターたちを〈animate=生命を吹き込む〉することーバジャに言わせれば「魔法の道具で」絵にすることーに注がれている。この作品の主題は,まさに〈animate〉という営為そのものなのである。

〈animate〉されるキャラクターたち

故に,アニメーションの技術はこのスタジオの場を満たす神聖なる“魔法の力”として描かれる。

ある晩バジャは,誰もいなくなったスタジオの窓から友だちのアヒルが猫に齧られているのを目撃し,気絶してしまう。その刹那,PCモニターの「ほうき星」の力が発動し,棚の上に飾られていたココのフィギュアが活動を始める。ココは「KOHATAアニメスタジオ」という場の力で〈animate〉されるのだ。ホウキに乗り,魔法のステッキを振りかざす彼女は,往年の“魔女っ子”シリーズのキャラ造形を継承しており,〈メタモルフォーゼ(変身)〉の力を司っている。彼女はバジャに変身する力を与える。てんとう虫に変身したバジャは,窓際の穴から外へ出て,アヒルのおもちゃを救おうと試みる。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

しかし〈animate〉されるのはココだけではない。「悪い魔法使いギー」もまた,スタジオの魔力を得て活動を始める。興味深いことに,彼の司どる力も〈animate〉である(したがってギーは,仕事のストレスが溜まりやさぐれてしまったアニメーターのメタファーなのかもしれない)。彼はイスのクッションを〈animate〉して操り,扇風機の風でココを窓から突き落とす。スタジオの外に出ると魔法の力を失ってしまうココは,たちまち元の動かないフィギュアに戻ってしまう。バジャは生命を失ったココと横たわるガーちゃんを見て,「動かない。ココも,友だちも,動かない」と悲痛な声を上げる。つまりギーは,〈animate〉を無効化するという,この物語内で最も許し難い大罪を働くのである(おまけに彼はスタジオを支配し,「業界一黒い組織」に変えようと目論む)。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

しかし箒星に由来する権能を持ったココは無敵だ。彼女はこともあろうに,魔法で監督のカナ子を「女神」として召喚し,ギーの放つ“キャラデザ攻撃“を薙ぎ払って勝利する。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

戦いに敗れたギーは,ココに命じられてアヒルのガーちゃんを〈animate〉することで罪を贖う。おもちゃだったガーちゃんは生命を吹き込まれ,バジャとめでたく本当の友だちになる。この一連のシークエンスの中に,2つの〈animate〉,つまりスタジオの魔力がココとギーに施す〈animate〉と,ギーがガーちゃんに施す〈animate〉が多重的に表されているのが面白い。

アニメはみんな生きている

主人公のバジャは,公式設定上「ハムスターに似た生き物」とされているが,その正体は明示されていない。本当にハムスターなのか,それとも他の生き物なのか,そもそも生物なのかどうかすらはっきりしていないのだ。*1 このバジャというの存在の曖昧さの基底には,本作に込められたメッセージが隠されているように思える。

ギーによって〈animate〉されたガーちゃんと戯れるバジャを見ていると,彼が本物のハムスターなのか,それともガーちゃんと同じく何者かによって〈animate〉されたおもちゃのような存在なのか分からなくなってくる。結局,どちらも京都アニメーションによる“魔法の力”で〈animate〉されたキャラクターであり,どちらも生き生きとした生命が漲っているからだ。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

ここに至って,もはや“生物”と“アニメキャラ”との境界線は完全に取り払われているように見える。この作品には,アメンボやオケラやミミズといった本物の生物も登場するが,バジャやガーちゃんも,彼ら同様,京都アニメーションによって生命を与えられたキャラクターである。アニメーションとは,あらゆるものに生命を吹き込む営為であり,そこに生物/無生物の区別はない。『バジャのスタジオ』という作品は,この事実を「バジャ」という曖昧なキャラクターの物語によって示してくれているのだ。

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『バジャのスタジオ』より引用 ©︎株式会社京都アニメーション

エンディングロールの後に挿入されるシーンでは,昼間のスタッフたちが見ている前でガーちゃんがひとりでに動き出し,コンセントに繋がっていない扇風機が動き,クッションがスタッフに悪戯をし,カナ子が憑き物が落ちたようにスッキリした笑顔を見せる。前夜のスタジオの魔法は夢でも幻想でもなく,昼の現実に流れ込んでいる。〈animate〉によって,現実と空想の境界も曖昧になっている。

エンディングでは,やなせたかし作詞の『手のひらを太陽に』が流れる。このあまりにも有名な楽曲が採用された理由はすでに明らかだろう。

僕らはみんな生きている

ここには,三好一郎=木上益治の“あらゆるものに生命を与える”という,凄みすら感じさせる意志が込められているように思える。

そして彼の意志を継ぐ京都アニメーションは,今後いつまでも〈animate〉という営為を行い続け,ありとあらゆるキャラクターに生命を吹き込み続けるのであろう。

作品データ

*リンクはWikipediaもしくは@wiki

【スタッフ】監督:三好一郎動画検査:黒田比呂子松村元気色彩設計:宮田佳奈竹田明代特殊効果:三浦理奈美術監督:落合翔子細川直生撮影監督:浦彰宏3D監督:山本倫CG演出:植田弘貴/音響監督:鶴岡陽太アニメーション制作:京都アニメーション

【キャスト】バジャ:吉田舞香ガーちゃん・ギー:田村睦心ココ:田所あずさカナ子:金元寿子

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 5 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4.5 4.5 3.5 5
独自性 普遍性 平均
3.5 5 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

 

ちなみにBlu-rayには三好一郎の絵コンテが特典として付属する。本作と各キャラクターに対する三好の想いが伺えるたいへん貴重な資料となっている。

*1:三好によれば,バジャは「ほうき星」からスタジオにやってきた生物のようである。三好は『バジャのみた海』の後に続く続編で,バジャがスタジオにやって来た理由やガーちゃんが池に浮かんでいる理由などを明らかにしていくことも構想していたようだ。「私たちの,いま!2019」(『私たちは,いま!!全集2019』,京都アニメーション,2020年に所収)pp.130-140

『美少女戦士セーラームーン』幾原邦彦演出回を観る③

 *このレビューはネタバレを含みます。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

3回目となる本記事では,『美少女戦士セーラームーンS』(1994-1995年)における幾原邦彦演出回を観ていこう。セーラーウラヌスとセーラーネプチューンという新キャラクターに加え,後の『少女革命ウテナ』(1997年)の制作チーム「ビーパパス」の一員である榎戸洋司が脚本として加わったことにより,前作よりも同性愛的なイメージが前景化されたシリーズとなっている。

『R』と同様,幾原の演出回は4回である。ファーストシーズン(無印)『R』『SuperS』の幾原演出回,および『劇場版R』のレビューについては以下の記事を参照頂きたい。

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『美少女戦士セーラームーンS』(1994-1995年)幾原邦彦演出回一覧

話数 放送日 タイトル
#92 1994/04/16 素敵な美少年?天王はるかの秘密
#103 1994/08/06 やって来た ちっちゃな美少女戦士
#110 1994/10/15 ウラヌス達の死?タリスマン出現
#117 1994/12/10 より高くより強く!うさぎの応援

 

第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」 

勉強会をサボってゲーセンで遊ぶ美奈子に怒り狂ううさぎ。完熟トマトが爆発したようなうさぎの顔は,冒頭からインパクト超絶大だ。

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第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

この回は,ウラヌスとネプチューンが天王はるかと海王みちるとしてうさぎたちの前に姿を現し,両陣営の本格的な交流が始まる重要な話数でもある。はるかとみちるは時間差で登場するが,共に類似のタッチとレイアウトが用いられ,韻を踏んだような様式化された演出が印象的である。美しく舞う花びらがシーン全体を装飾しており,2人の美しさに感嘆するうさぎと美奈子の心象風景のようなシーンになっている。この辺り,いかにも幾原らしい美麗な演出だ。

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第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかとみちるの関係を知るべく,2人につきまとううさぎと美奈子。髪色が似ているせいもあり,まるで姉妹のように振る舞う2人の姿がコミカルかつ微笑ましい。

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第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

車から誕生したダイモーン「ステアリングー」は,シリーズ屈指のギャグ敵キャラだ。人型から自動車に変形して疾走するその姿に『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999年)の「ウテナカー」の原型を見るのはさすがに深読みが過ぎるだろうが,幾原作品に散見されるビークルの疾走感が,本作から『ウテナ』に流れ込んでいると解釈するのは無理なことではないだろう。

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第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかがジャケットを脱いだ姿で登場するラストシーンは大変興味深い。冒頭の登場シーンと比べ,彼女の面立ちや身体つきはやや女性的なものに変わっており,はるかを男性だと思い込んでいる美奈子たちは彼女を同定できない。もちろん,本当にはるかの身体に物理的な変化が生じたわけではないはずだ。むしろ“男性/女性”という認識は,はるかとみちるの登場シーンと同様,美奈子たちの心的イメージに基づいていると考えてよい。

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第92話「素敵な美少年?天王はるかの秘密」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

ここに,この作品における〈メタモルフォーゼ〉の核心を見てとることができるだろう。

〈見た目上はほとんど変化していないのに,決定的な変化が生じている〉という感覚は,言うまでもなく,うさぎたちのセーラー戦士への変身にも表されている。変身前後で衣装は様変わりするものの,彼女たちの身体そのものはほとんど何も変わらない。したがって,視聴者には彼女たちの正体が明らかなのだが,物語内の人物たちには彼女たちが同定できない。

結局,この作品における〈メタモルフォーゼ〉の本質は,外見上の変容ではなく,より内的な変容にあるのかもしれない。「美少女戦士」という,“ルッキズム“ともとれるタイトルを冠していながら,敵キャラが人の「ピュアな心」や「美しい夢」を狙って襲うのは,この作品が〈外見〉と〈内面〉をわかりやすいほどに明確に峻別した上で,両者をバランスよく作品に導入しつつ(というのも,キッズアニメはキャラクターグッズ販促という使命も負っているため,ビジュアルイメージを強調する必要があるからだ),本質的には後者の価値を視聴者に印象付ける,という物語設計になっているからかもしれない。

もちろん,こうした演出の背景には,ご都合主義的なトリックの利用,作画カロリーの節約といった制作上の事情もあるだろう。しかし少なくとも視聴者に与える印象という点では,上記のような解釈を許容する作品であることは間違いない。さらに言えば,本作における〈メタモルフォーゼ〉が後継作品に及ぼした影響も大きい。アニメ作品における〈変身〉の意味を語る上で,この話数の意味は小さくないと言えよう。

 【その他のスタッフ】
脚本:隅沢克之/美術:浅井和久/作画監督:香川久(リンクはWikipediaもしくは@wiki。以下同様)

 

第103話「やって来た ちっちゃな美少女戦士」 

まず目を引くのが,幾原の御家芸とも言える〈反復の美学〉だ。

うさぎ・亜美・まこと・美奈子の会話シーンに4度挿入されるレイの自転車疾走のカット,ファミレスで2度登場するストローの袋のカット,はるかとみちるの登場カットで4度繰り返されるティルト・アップ。これらは物語そのものとは直接関係のないカットであるが故に,却って強い印象を残している。

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第103話「やって来た ちっちゃな美少女戦士」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

おそらく『セーラームーン』シリーズにおいて,バンクを含めた〈反復〉の手法は,制限された作画枚数の範囲内で効果的な演出を追求する,というエコノミカルな事情から生まれたものと推測されるが,幾原はこれを一種の様式美にまで高めている。この後,幾原は『少女革命ウテナ』から最新作の『さらざんまい』(2019年)に至るまで,〈反復の美学〉をますます洗練させていくことになるが,その原点を本作に見てとることができるだろう。

この話数はちびうさの再登場回でもある。

水面に映るうさぎの変顔の隣にルナP・ボールが一瞬現れる。ネタと物語の伏線張りを兼ねた絶妙なカットだ。久々の再登場と共に「ピンク・シュガー・ハート・アタック」を初披露するちびうさ。このキュートかつ絶妙な間は笑いを誘わずにはいられない。 

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第103話「やって来た ちっちゃな美少女戦士」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

うさぎが背後からレイに呼びかけるこのカットには,モノクロに反転した画面に「ひっ」という吹き出しの入った画がサブリミナル効果的に挿入されている。普通に観ていると見逃してしまうくらいの一瞬(2/24コマ)だ。実験的な遊び心が窺える面白いカットである。

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第103話「やって来た ちっちゃな美少女戦士」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

相変わらず“犬猿の仲”ぶりを見せるうさぎ&ちびうさのコンビだが,ラストシーンでは母娘関係を匂わせるカットも挿入され,今後発展していく2人の間の強い絆を暗示している。

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第103話「やって来た ちっちゃな美少女戦士」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

ちなみにこの回は,ガイナックス出身の黒田和也が作画監督を務め,現在Triggerに所属する吉成曜が原画チームに参加するなど(第99話「男の優しさ!雄一郎,レイに失恋?」にも参加),作画面でも注目の話数だ。

【その他のスタッフ】
脚本:柳川茂/美術:鹿野良行/作画監督黒田和也

 

第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」  

『セーラームーン』シリーズにおいて,幾原と榎戸洋司が初めてタッグを組んだ話数であり,「ビーパパス」のプロトタイプここにあり,と言えるほど彼らの“作家性”が前面に押し出た演出に仕上がっている。全編を通してしっとりとしたメランコリックなトーンが貫き,ギャグシーンはミニマムに抑制されている(皆無ではないところが幾原流でもある)。

プールサイドで貝殻を耳にあて,自らの心象風景に浸るみちる。そこへはるかが「ずるいじゃないか。自分だけの世界へ行くなんて。僕を置いてくなよ」 と声をかける。終盤の展開を予告した印象的なシーンだ。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかとみちるのマンションで電話の呼び出し音が鳴り響く。ユージアルからの宣戦布告の電話だ。ユージアルは留守番電話にメッセージを残すが,録音時間が短いために途中で切れてしまい,再び呼び出し音が鳴り響く。シリアスな雰囲気とユージアルのドジっぷりの対比が面白いシーンだが,広い空間と間の使い方が絶妙であり,特筆に値する。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかとみちるが優しく手を組み合わせるカットは,2人の間の曖昧な同性愛的関係性を改めて強調するイメージになっていると同時に,あるいはそれ以上に,過酷な運命を共有する2人の強い絆を示しているようだ。この上なく美しく丁寧に作画されており,本話数の中でも際立って強い印象を残すカットである。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかとみちるに水族館に呼び出されるうさぎ。無言で示される両者の距離感。不意に魚たちが色を失い,はるかはうさぎに決別の言葉を告げる。はるかとみちるはセーラー戦士に変身し,屋上に突如現れたヘリコプターに乗って敵地へと向かう。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

常識的・現実的な必然性を度外視し,内的なドラマ性を優先させた大胆なシーンである。この辺りも幾原×榎戸コンビの真骨頂と言えようか。

先ほどの“手”のシーンに次いで印象的なのが,はるかとみちるの敵地進入シーンだ。

みちるを拉致され,敵地最奥部に駆けつけるはるか。荊棘のようなもので磔にされるみちる。ユージアルに命を奪われそうになるはるかを救うべく,みちるは荊棘を引きちぎって助けに出るが,ユージアルの仕掛けた罠によって重傷を負う。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかとみちるの〈自己犠牲〉というテーマも含め,この一連のシーンのイメージは『少女革命ウテナ』に流れ込み,やがて『輪るピングドラム』(2011年)にも継承されていくものである。幾原の演出を語る上で欠かせないシーンである。

みちるを失い絶望したはるかは,メシアに語りかける。そこへ現れるうさぎ。はるかの心の中で,うさぎとメシアの姿が重なる。

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第110話「ウラヌス達の死?タリスマン出現」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

はるかの心象イメージの中で,うさぎのメシアへの変身が予見されていることを示す重要なシーンであり,先述した〈内的メタモルフォーゼ〉を象徴的に表してもいる。

【その他のスタッフ】
脚本:榎戸洋司/美術:田尻健一作画監督:とみながまり

 

第117話「より高くより強く!うさぎの応援」

第110話とは対照的に,随所にギャグが散りばめられたコミカル回だ。

なぜかツイスターをするコメットと,それを覗く教授。コメットを送り出した後,なぜかツイスターを始める教授。ギャグの質としてはかなりシュールでインパクトが強い。

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第117話「より高くより強く!うさぎの応援」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

冒頭の神社のシーンでアルテミスが鼻をかむカットと,中盤のグラウンドのシーンでコメットが鼻をかむカットが相似形になっているのが面白い。無関係のカットを連結することで,物語の文脈から乖離した視覚効果を生み出している。

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第117話「より高くより強く!うさぎの応援」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

ホイッスルを鳴らしながら部外者であるうさぎとほたるを追い出そうとする係員A・B・Cだが,ほたるが憧れの陸上選手・早瀬瞬にファンレターを渡す場面ではさりげなく見てみぬふりをするなど,妙にホッコリするエピソードである。

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第117話「より高くより強く!うさぎの応援」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

ちなみに,この係員のシンクロナイズされたコミカルな動きは,『少女革命ウテナ』DUEL: 06「七実様御用心!」で,七実に交際を迫る3人組を思わせる。『輪るピングドラム』や『さらざんまい』に登場する「ピクトグラム人間」につながるモブの形象と言えるだろうか。

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『少女革命ウテナ』DUEL: 06「七実様御用心!」より引用 ©1997 ビーパパス・さいとうちほ/小学館・少革委員会・テレビ東京

【その他のスタッフ】
脚本:柳川茂/美術:大河内稔作画監督:中村太一 

 

以上,『S』における幾原邦彦演出回を仔細に見てきた。全体として,幾原が内的イメージや心象風景を重視した演出を行なっていることが窺える。幾原はこの後,『SuperS』のシリーズディレクターを経た後に,榎戸らと「ビーパパス」を結成し,『少女革命ウテナ』の制作に携わっていく。そのプロトタイプとなるモチーフの多くが,『S』において追求された内的イメージの中にあると言えるだろう。本記事をご覧になった方には,改めて『S』と『ウテナ』を比較しながらご覧になって欲しいと思う(ちなみに下に挙げた『少女革命ウテナ Complete Blu-ray BOX』には,劇場版の『アドゥレセンス黙示録』も収録されている)。

 

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Webアニメ『日本沈没2020』(2020年)レビュー[考察・感想]:湯浅的身体が〈死〉を表象する

*このレビューはネタバレを含みます。また,『マインド・ゲーム』と『四畳半神話体系』の内容にも触れています。気になる方は本編をご覧になってから本記事をお読み下さい。

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『日本沈没2020』公式HPより引用 © “JAPAN SINKS : 2020”Project Partners

japansinks2020.com

劇場アニメ『マインド・ゲーム』(2004年)『夜明け告げるルーのうた』(2017年)やTVアニメ『四畳半神話体系』(2010年 春)などで,極めてユニークなイメージ世界を作り続けてきた湯浅政明監督。最近では,大童澄瞳原作の『映像研には手を出すな!』(2020年 冬)のアニメ化で,原作の持ち味を大きく引き出す手腕を発揮したことが記憶に新しい。

その湯浅が今回挑んだのが,小松左京原作『日本沈没』(1973年)の現代的文脈への翻案だ。「日本沈没」という“設定“はそのままに,武藤家という家族の振る舞いに焦点を当てた湯浅の『日本沈没2020』は,Netflixでの配信直後から賛否両論を巻き起こし,湯浅作品の中でも最も大きな問題作となった。しかし,批判対象となったポイントにこそ,おそらく湯浅がもっとも伝えたかったメッセージが込められている。今この瞬間にも大災害が起こる可能性を抱えながら日常を送る僕らは,目を閉ざし黙するのでなく,まずはこの作品を直視し,それぞれの視座から評価を下すべきなのではないかと思う。

 

作品データ(リンクはWikipediaもしくは@wiki)

【スタッフ】
原作:小松左京/監督:湯浅政明/音楽:牛尾憲輔/脚本:吉高寿男アニメーションプロデューサー:Eunyoung Choi/シリーズディレクター:許平康/キャラクターデザイン:和田直也/フラッシュアニメーションチーフ:Abel Gongora/美術監督:赤井文尚伊東広道/色彩設計:橋本賢/撮影監督:久野利和/編集:廣瀬清志/音響監督:木村絵理子/アニメーション制作:サイエンスSARU

【キャスト】
武藤歩:上田麗奈/武藤剛:村中知/武藤マリ:佐々木優子/武藤航一郎:てらそままさき /古賀春生:吉野裕行 /三浦七海:森なな子 /カイト:小野賢章 /⽦田国夫:佐々木梅治/室田叶恵:塩田朋子/浅田修:濱野大輝 /ダニエル:ジョージ・カックル /大谷三郎:武田太一

【あらすじ】
ある日,突如発生した巨大地震によって日本各地が甚大な被害を被る。ほぼ完全に社会機能を奪われた日本に,「武藤家」というごく一般的な家族があった。中学校の陸上部のエース・歩,ゲーム好きの弟・剛,フィリピン出身の母・マリ,照明技師の父・航一郎。彼ら/彼女らは,互いに助け合い,時に反発し合いながら,生きる道を求めて荒廃した日本の土地を歩んでいく。

ディフォーメーションからリアリズムへ

湯浅アニメの特徴の1つは,主線,キャラクターの身体,パースなどの歪みだ。 それは単純な描画レベルの歪みの場合もあれば,別の生物への変身(メタモルフォーゼ)の場合もある。Flashアニメーションの独特なタッチで表現されたこのディフォーメーションこそ,これまでの湯浅作品の持ち味だったことは間違いない。

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〈変形する身体〉 『夜明け告げるルーのうた』より引用 ©2017 ルー製作委員会

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〈歪むパース〉 『映像研には手を出すな!』より引用 © 2020 大童澄瞳・小学館/「映像研」製作委員会

しかし湯浅は『日本沈没2020』において,この身体と空間のディフォーメーションという手法と手を切る。この作品では,もはや登場人物の腕が伸びたり背景のパースが斜めに傾いたりすることはない。身体と空間はリアリズムに徹する。その意味で,『日本沈没2020』は湯浅アニメの中でも異色の作品である。

しかし,そこにある種の違和感が生じたことも否めない。この作品を観た多くの人が,人物の身体の作画や動作に,少なからず不自然さを感じとったのではないだろうか。僕はこの違和感の原因が,未熟なアニメーション技術ではなく,湯浅の独自性の中核を成すディフォーメーションが捨象されたことにあったのではないかと考える。とりわけ,彼のアニメを多く観ている視聴者ほど,作品の中に湯浅的ディフォーメーションを期待してしまう。その上,リアリズムに徹しているようでいて,ディフォーメーションを想起させるようなカットが端々にあったことも否めない。結果,ディフォーメーションが期待される作画の中にリアリズムを観るという,少々居心地の悪い倒錯が生じていた可能性があるのだ。本作の作画面に問題があったとすれば,それはアニメーターたちの力量の問題というよりは,こうした居心地の悪さが原因だったのではないかと僕は思う。

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シャンシティの室田叶恵が行うヨガ体操(?)は身体のディフォーメーションを想起させる 『日本沈没』第4話「ヒラカレタトビラ」より引用 © “JAPAN SINKS : 2020”Project Partners

湯浅的身体が〈死〉を表象する

ではなぜ湯浅は,自らのユニークネスとの齟齬を覚悟してまでもリアリズムを追求したのか。その理由の1つが,小松左京原作の『日本沈没』という題材との整合性にあったことは言うまでもない。今まで以上にシリアスな物語を描くに当たり,コミカルになりがちな身体と空間のディフォーメーションは抑制される。代わって「日本」という国土が大規模なディフォーメーション=地殻変動を起こし,「日本沈没」というシリアスなテーマを視覚化するのだ。

そしてもう1つの理由は,湯浅が特にこだわったと思われる〈死〉の描写だ。

湯浅がこれまでの作品において死を描く時,それはあくまでも,ディフォームされた身体に生じる記号的な死であった。例えば『マインド・ゲーム』は,主人公の西が銃で肛門から頭を撃ち抜かれ死ぬというショッキングなシーンで始まるが,それはコミカルな身体形状と非現実的な色彩によって限りなくポップに表現されており,〈死〉はあくまでも物語上の記号的な〈死〉として扱われている。

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『マインド・ゲーム』より引用 ©2004 MIND GAME Project

『DEVILMAN crybaby』(2018年)ですら,そこで描かれる数々の残酷な死は様式化されており,それはこの作品が“悪魔へのメタモルフォーゼ”という主題を含んでいたからかもしれない。

一方,『日本沈没2020』では,死はより即物的なものとして描かれる。リアリスティックな身体に生じる死は,悲しいより以前に,グロテスクですらある。

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『日本沈没2020』第2話「トウキョーサヨウナラ」より引用 © “JAPAN SINKS : 2020”Project Partners

このような死の描き方は,かつて大塚英志が投げかけた「記号的でしかありえない表現が現実の死をいかに描き得るか」*1 という問いへのひとつの解答例と言えるかもしれない。

実写映画と異なり,アニメのキャラクターは多かれ少なかれ記号化されており,〈リアリティ=現実〉そのものを写しとってはいない。故にアニメにおける死も〈リアリティ=現実〉そのものからは解離してしまう。どれだけリアルに描こうとも,“これはアニメ的なフィクションである”という了解のもと,せいぜいのところ〈リアリズム=現実的な描写〉に留まらざるを得ないのだ。しかしそれにもかかわらず,作品が災害というテーマを扱う以上,(少なくとも日本人にとっては)死というテーマが〈リアリティ〉の領域に抵触することになる。ここに湯浅版『日本沈没』の大きなジレンマがある。『日本沈没2020』は,湯浅的キャラクターの身体にリアリズムを担わせることによって,このジレンマを半ば強引に克服しようと試みたのではないだろうか。

切断する死

そこまでして『日本沈没2020』が実現しようとした死の描写とは,一体どのようなものだったのか。

本作の最大の特徴は,無数の不条理な死である。第2話における父の爆死,第3話における七海の毒ガス中毒死,第6話におけるコミュニティ「シャンティ」の象徴・大地の直撃死など,主人公たちの周辺で次々と不条理な死が発生する。

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『日本沈没2020』第3話「マイオリタキボウ」より引用 © “JAPAN SINKS : 2020”Project Partners

これらは“誰かを助ける”とか“悪意を持った人間に殺害される”などといった,常識的な目的や文脈と関係なく訪れる〈横死〉であり,おそらく湯浅が本作で最も描きたかったものの1つだ。それは物語の流れを突如切断し,観る者の思考を混乱させる。「七海と春生の関係はこの後こんな風に発展していくかもしれない」といった予想が,音もなく訪れる死によって唐突に無効化される。

災害がもたらす死とは,本質的にそのようなものなのだろう。個々人の物語などお構いなしに訪れる横死。これを正視できなかった人の中には,途中で視聴を断念した人もいたことだろう。賛否両論を巻き起こすリスクを負ってまでも湯浅が描こうとした死とは,意味や物語が付与されていない,〈死それ自体〉の酷薄さだったのかもしれない。

“純粋国家”批判

『日本沈没2020』が賛否相半ばする作品となったもう1つの理由は,〈ネイション=国家,国民〉にまつわる描写だろう。

第7話では,「純血な日本人」のみを救おうとする民族主義者たちが描かれる。その姿は,偏狭なナショナリストとして戯画化されており,彼らが「移動する日本領土」に擬えたメガフロートは,やがてあっさりと沈んでしまう。

おそらくこのようなシーンに加えて,制作に外国人スタッフが多く参加していたことも影響したと思われるが,ネット上では本作を「半日アニメだ」と批判する声が多数あったようである。しかしこれまでの湯浅の作品には,サイエンスSARUの代表取締役であるEunyoung Choi氏やFlashアニメーターのAbel Gongora氏を始め,外国人スタッフが多数関わっており,過去の作品と比べて,本作に外国人スタッフのイデオロギーが格別過剰に反映されているということはない。

さらに,湯浅が安直なナショナリズム批判をしたわけではないことは,作品の描写をつぶさに見てみれば明らかだ。歩の弟・剛は,両親が日頃から日本語を使っているにもかかわらず英語混じりの日本語を話し,IT先進国エストニアに憧れ,純日本的な価値観を蔑んでいる。今風の言い方をすれば“出羽守”であり,先ほどの民族主義者と好対照を成す極端なキャラクターだ。要するに湯浅は,極端なナショナリズムと極端なリベラリズムの両方を作品に登場させ,両者に対し批判的な眼差しを向けるよう誘っているのだ。

最も印象的なのは,第9話でKITEがラップのリズムに乗せて不満を吐き出すよう提案するシーンだ。剛は偏狭なリベラリズム的立場から日本人の精神性を批判する。一方,春生は日本的なメンタリティを評価し,逆に剛の出羽守根性を批判する。実はこのような対立においては,双方の立場が“日本vs外国”というネイションの境界を無自覚に共有している。単に“日本”の側にいるか,“外国”の側にいるかの違いだけであって,〈ネイションの境界〉に対する批判にはなり得ていない

これに対し,歩は違った立場を提示する。少々長くなるが,第9話の彼女のラップの言葉をそのまま引用してみよう。

ごちゃごちゃうるさい/外国だ日本だって/国どうしで比べるそんなの意味あるの?/どこもいいとこもあるし/悪いところだってある/いい人に悪い人/そうでない人だっている/どこでも犯罪はあるし/どこでも奇跡は起きる/あーだこーだうるさい/もう決めるのは自分/もともと地球上に/線なんて見えないのに何で?/この国の人はこんな人って/決めつけはナンセンス/私はようやく気づいた/それがこんなタイミング/どこでよりも誰とのほうがずっと大事/私はここにいる人がいれば/それで生きていける/ここが私の大地/アースだ/サンキュー

[太字による強調は引用者]

歩がナショナリズムやリベラリズムを批判しているのではなく,〈ネイションの境界〉そのものを批判していることは明らかだろう。 国土でもなく純血でもない,もっとプリミティブな“絆”を尊重する歩の思想は,この上なく青臭い。しかしそれは,“国の本質とは何か“という重大な問題提起をするポテンシャルを持っている。そもそも「日本沈没」という原作のアイデアそのものが,〈国〉というものの曖昧さを思考させる。〈国〉とは,国土のことなのか,民族のことなのか。国土というユニットも民族というユニットもなくなってしまった時,日本は消えてなくなってしまうのか。国土が消えても民族さえ残れば,“ユダヤ人”と同様,国家を事後的に造ることはできるのだろうか。その時,“日本人”とは誰のことを指すのか。

「日本沈没」というアイディアは,日本的なものの否定だとか,ましてや反日思想だとかいうことではなく,“日本(人)”という概念への問いであり,その再考への誘いなのである。

可能世界なき現実の世界

湯浅は『マインド・ゲーム』や『四畳半神話体系』などの作品で〈可能世界〉を扱い,別世界線での可能性を示すことによって“ありうる希望“を提示してきた(もちろん両作とも原作のプロットにしたがっており,湯浅のアイディアではないが)。

しかし『日本沈没2020』では,そうした可能世界を暗示することすらなく,徹頭徹尾,単線的な現実のみが語られる。 山芋を食べたいと言わなければ父は死ななかったかもしれない。トイレに誘わなければ七海は死ななかったかもしれない。しかし湯浅がそうした可能世界を示すことは一切ない。目前には前進するための道しかなく,彼ら/彼女らは無数の非-物語的な死を身に引き受けながら,単線的に進む己の物語を生きていく。それも,湯浅政明監督の『日本沈没2020』が示した,過酷ではあるが希望に満ちた〈リアリズム〉の1つなのかもしれない。

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 2 3 3.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 3 3 4
独自性 普遍性 平均
3.5 4 3.4
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

 

 

 

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*1:大塚英志『キャラクター小説の作り方』p. 147,星海社新書,2013年(2003年の講談社現代新書版を底本とした改訂版)

「超平和バスターズ」作品における人物の髪色について

*このレビューは『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ』『空の青さを知る人よ』に関する内容に触れています。気になる方は本編をご覧になってから本記事をお読み下さい。

 

アニメキャラのピンクや青のカラフルな髪色は,キャラの描き分けの手段として用いられたり,キャラの能力を象徴する記号として用いられたりと,その意味合いは様々だ。キッズアニメに顕著だが,オトナアニメ(深夜アニメ)でもポピュラーな表現手段であることは言うまでもない。

アニメキャラの髪色とその演出上の意味を網羅的に分析することは,テーマとして大変魅力的ではあるが,膨大なアニメ作品からデータを収集するのは容易なことではない。ここでは,同一の制作チームの中で髪色による演出が変化した興味深い例として,長井龍雪(監督)・岡田麿里(脚本)・田中将賀(キャラクターデザイン),いわゆる「超平和バスターズ」の作品にフォーカスを当ててみよう。

 

〈キャラ〉と〈キャラクター〉

髪色の意味作用を見ていくにあたって,もはや古典的ともなった,伊藤剛の「キャラ/キャラクター」の区別が有効な補助線となる。ここで改めて確認しておこう。

伊藤は『テヅカ・イズ・デッド』の中で,マンガの「キャラクター」に先立って「存在感」や「生命感」を醸し出す表現のモードとして「キャラ」という概念を抽出し,それぞれを以下のように定義づけている。

[「キャラ」は]多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの 一方,「キャラクター」とは,「キャラ」の存在感を基盤として,「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ,テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの*1

ごく簡単な例を挙げると,「青・白・赤の色を基調とした,耳のないネコ型のロボットとしての図像」が「ドラえもん」という固有名で認識されているとすれば,それは「キャラ」である。おそらく「少々ドジだが思いやりのある優しいロボット」のような性格や「ドラ声」のような特徴も「人格・のようなもの」として「キャラ」の範疇に含まれるだろう。この「キャラ」をベースとして,そこに「セワシを幸福にするため,先祖であるのび太の未来を変えるべく22世紀の世界からやってきた」という「物語」を担わせたものが「キャラクター」ということになる。

「キャラ」としてのドラえもんは,その特徴が表現されていれば,誰がどこで描いたとしてもーーつまり二次創作のようなものであってもーー「ドラえもん」になりうる。それは個々の物語の束縛から解放され,「キャラ」固有の存在感によって消費者に訴えかけるポテンシャルを持つ。一方,「キャラクター」という様態としてのドラえもんは,作品(とりわけ藤子不二雄の原作)の物語内でしか存在し得ない。「キャラクター」は,物語の中で生まれ,物語の中で存在を完結する。その意味で,「キャラクター」と「物語」は分かち難く結びついている。

以上の概念区別を念頭に置いた上で,「超平和バスターズ」の作品の髪色について見ていくことにしよう。

『とらドラ!』:リアリティとフィクショナリティの出会う場所

竹宮ゆゆこのライトノベルを原作とする『とらドラ!』(2008-2009年)は,長井・岡田・田中の3人が初めてトリオを組んだ作品である。*2 この作品では,原作イラストのヤスのデザインに沿って,逢坂大河=茶,櫛枝実乃梨=赤,川島亜美=青というように,女性の登場人物を中心に髪が色分けされている。非現実的な髪色を用いた,典型的な〈キャラの描き分け〉の手法だ。ただし,キッズアニメによく見られるようなビビッドな色ではなく,やや彩度を落とした配色になっているのは,おそらくハイティーン以上の視聴者層を意識したある種の“リアリズム”なのだろう。

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『とらドラ!』新オープニングアニメーションより引用 ©︎竹宮ゆゆこ/アスキー・メディアワークス/「とらドラ!」製作委員会

本作が面白いのは,第15話「星は,遠く」で,生徒会長になることを拒む祐作が髪を金髪に染めるシーンだ。それまで,あくまでも〈キャラの描き分け〉を目的とした記号でしかないと思われた髪色が,この刹那,突如「高校生の金髪=グレる」*3 という物語上のリアリティを表象し始める。北村というキャラにおいてのみ,髪色が〈キャラクター〉を語るのである。

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『とらドラ!』第15話「星は,遠く」より引用 ©︎竹宮ゆゆこ/アスキー・メディアワークス/「とらドラ!」製作委員会

普通に考えれば,ここで「なぜ実乃梨の赤髪は許されて祐作の金髪はダメなのか」と違和感を覚える視聴者がいてもおかしくない。『とらドラ!』の第15話は,記号的な髪色の〈フィクショナリティ〉と物語的な髪色の〈リアリティ〉,言い換えれば〈キャラ〉レベルの表象と〈キャラクター〉レベルの表象が奇妙な形で交差し,それまで隠蔽されていたその差異がはっきりと浮かび上がる特異な話数なのである。彩色による演出がほとんど問題とならない原作と比べ,アニメではこの特異性がいっそう際立っている。

このことを登場人物造形における首尾一貫性の欠如と捉えることもできるだろうが,次作『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の色彩設計を考慮した時,単なる偶然の過失以上の意味を持つように思えてくる。

『あの花』:〈キャラ〉と〈キャラクター〉の二重露出

 『とらドラ!』のキャラクターデザインは,概ね原作の竹宮ゆゆこやイラストのヤスの意向をくんでいたはずだ。一方,初の完全オリジナル作品である『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年,以下『あの花』)では,「超平和バスターズ」は登場人物の髪色を独自に解釈し,一つの演出技法として洗練させているように思える。

『あの花』の髪色も,一見したところ〈キャラの描き分け〉のレベルで設計されているように見える。

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『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』公式HPより引用 ©︎ANOHANA PROJECT

宿海仁太(じんたん)=黒,本間芽衣子(めんま)=銀,安城鳴子(あなる)=茶,松雪集(ゆきあつ)=渋茶,鶴見知利子(つるこ)=紺,久川鉄道(ぽっぽ)=こげ茶というように,『とらドラ!』ほどではないものの,比較的バラエティに富んだ髪色の設計だ。とりわけめんまの銀髪は,幽霊という儚げな存在感とも相まって,ファンタジー作品に多く見られる“銀髪キャラ”(その多くは幻想・冷静・知性・儚さなどのキャライメージと結びつく)を強く想起させる。実際,めんまは,フィギュアを始めとしたキャラクターグッズが数多く発売されており,「超平和バスターズ」作品の中でもとりわけ〈キャラ〉性を色濃く体現した登場人物だと言えるだろう。

しかし『あの花』が『とらどら!』と決定的に異なるのは,一見,髪色が登場人物の〈キャラ〉性を表現しているように見えながら,実はそこに物語,つまり〈キャラクター〉性を巧妙に忍ばせているという点である。

めんまの銀髪は,ロシア人とのハーフである母イレーヌの髪色を受け継いでいる。劇場版では,めんまがゲームの「ノケモン」を「除け者」と解釈するシーンがあり,そこにはクォーターであるが故の疎外感がはっきりと描写されている。また当初,母イレーヌはじんたんたちに対し邪険な振る舞いをするが,それは彼女自身が娘と同様の疎外感を抱いていたであろうことを推測させる。遺伝という容赦のない絆によって,娘に自分と同じ苦しみを味わせてしまった呵責が,じんたんたちに対する排他的な振る舞いとなって現れたのかもしれない。

一方,あなるの茶髪は地毛の色ではない。彼女の幼い頃の髪色は比較的自然なこげ茶だったのだが,高校に入ってから染めたと思われる。彼女の茶髪には“高校デビュー”という物語が込められており,そのことは公式HPのキャラクター紹介にも明示されている。

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『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』公式HPより引用 ©︎ANOHANA PROJECT

このように,『あの花』は〈キャラ〉としての存在感と〈キャラクター〉としての物語を二重露出のように髪色に反映させる巧みな色彩設計によって,『とらドラ!』のような〈キャラ〉と〈キャラクター〉の共起によって生じる違和感を解消しているように思える。この作品が高い評価を得るのは,いわゆる“泣きアニメ”として感動カタルシスを呼び起こすからというだけではなく,アニメ的な色彩を存分に活かしつつ,繊細な演出を施している点にもあるのだろう。

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 『ここさけ』『空青』:そして〈リアリズム〉へ

『心が叫びたがってるんだ。』(2015年,以下『ここさけ』)を皮切りに,「超平和バスターズ」は大きく舵を切ることになる。『あの花』とは打って変わって,この作品の登場人物の髪色はほぼ全員が黒か,それに近い色である。加えて,制服も女子が白,男子が黒であり,全体としてモノクロ映画のような印象を与える。

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『心が叫びたがってるんだ。』公式Twitterより引用 ©︎KOKOSAKE PROJECT

『とらドラ!』『あの花』に見られたような人物の〈キャラ〉性はほぼ完全に排され,髪色だけでなく,髪型や顔の造形もシンプルなデザインとなっている。本作では,この“写実的”なデザインによって,〈キャラクター〉性=物語の表現に完全に徹しているのだ。

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『心が叫びたがってるんだ。』より引用 ©︎KOKOSAKE PROJECT

終盤のミュージカル開演のシーンでは,成瀬順と坂上拓実の“リアル”な彩色と,「お城(ラブホテル)」の淫靡と神聖が入り混じった幻想的な彩色とのコントラストが印象的だが,このシーンの構図などは,ほとんど〈映画的リアリズム〉を志向していると言ってもいいだろう。

『空の青さを知る人よ』(2019年,以下『空青』)も,『ここさけ』とほぼ同じコンセプトの色彩設計と言える。

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『空の青さを知る人よ』公式Twitterより引用 ©︎2019 SORAAO PROJECT

『あの花』以降,「超平和バズターズ」作品の色彩設計を手がける中島和子によれば,『空青』では髪色をやや明るめにするよう監督の長井から指示があったということだが, *4 全体の印象としてはほぼ〈リアリズム〉志向と言ってよいだろう。しんのの赤い髪色は「ミュージシャンを目指す若者」という物語を表示しているし,相生あかねの茶髪はこの年頃の女性にありがちなファッションの一部である。ついでに言えば,『あの花』『ここさけ』『空青』はすべて秩父を舞台としているが,『空青』はとりわけ〈秩父という地域性〉を強く表示した物語構成になっており,その意味でも〈リアリズム〉志向の側面が強い作品である。

『ここさけ』と『空青』に共通しているのは,劇場アニメ作品として制作された点だ。劇場アニメは,多かれ少なかれテレビシリーズと差異化された〈映画的なもの〉を意識して制作される。〈映画的リアリズム〉はその一つだ。 

先ほど引用した伊藤剛は,本来マンガの「キャラクター」の起源にあった「キャラ」の存在感,そしてそれに対して我々が抱く感情ーー伊藤はそれを「萌え」と呼んでいるーーが,手塚治虫のマンガの近代的・映画的〈リアリズム〉によって隠蔽されてしまったという批判的な見立てをしている。だとすれば,アニメの登場人物におけるカラフルな髪色から“リアル”な髪色への変化も同じ道を辿っていると言えるのかもしれない。もちろん,このことは「超平和バスターズ」の作品に限られた話ではない。『君の名は。』(2016年)に刺激された近年の劇場アニメブームは,おそらく狭義の“オタク”以外のより広い顧客層に訴求すべく,背景美術やカメラワークをより〈映画的リアリズム〉寄りに発展させつつある。キャラの髪色の色彩設計もそのような戦略の一端を成していると言えるだろう。

今後,劇場アニメの色彩設計は,よりいっそう〈リアリズム〉を志向していくだろうか。そこでは〈キャラ〉の存在感は二次的なものとして過小評価されることになるのだろうか。そもそも,アニメにおける〈リアリズム(“現実らしさ“を志向する表現)〉は〈リアリティ(現実性)〉を反映しているのだろうか。このような問題に対して,安直な解答を出して自己満足に浸る僭越を犯すつもりは僕にはない。ひょっとしたら,「超平和バスターズ」が手がける次回作の中にそのヒントが隠されているかもしれない。

 

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*1:伊藤剛『テヅカ・イズ・デッドーひらかれたマンガ表現論へ』p.126。星海社,2014年

*2:周知の通り,「超平和バスターズ」という呼称は,次作の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』の主人公たちが作ったグループ名に由来するため,本作制作の時点では使われていない。

*3:この連想が『とらドラ!』の世界内でも現実味を持つことは,亜美の「今時あんなわかりやすいグレ方するやつがいるなんて」という台詞で保証される。

*4:『[あの花][ここさけ][空青]メモリアルブックー超平和バスターズの軌跡ー』,p.127,小学館,2019年

『美少女戦士セーラームーン』幾原邦彦演出回を観る②

 *このレビューはネタバレを含みます。

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第60話「天使?悪魔? 空から来た謎の少女」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

今回の記事では,『美少女戦士セーラームーンR』(1993-1994年)における幾原邦彦演出回を紹介していく。なお,ファーストシーズン(無印)『S』『SuperS』の幾原演出回,および『劇場版R』のレビューについては以下の記事を参照頂きたい。

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『R』の第60話(話数は無印からの通し番号)以降は,佐藤順一に代わって幾原邦彦がシリーズディレクターを務めており,“イクニカラー”がいっそう色濃くシリーズを染め始めていく時期でもある。なお,このシリーズディレクター就任と,同時期に制作が始まった『劇場版 美少女戦士セーラームーンR』の監督業務が理由だと推測されるが,『R』はファーストシーズンほど幾原演出回が多くない(ファーストシーズンは8回,『R』は4回)。

 

『美少女戦士セーラームーンR』(1993-1994年)幾原邦彦演出回一覧

話数 放送日 タイトル
#51 1993/04/17 新しき変身! うさぎのパワーアップ 
#60 1993/06/26 天使?悪魔? 空から来た謎の少女
#61 1993/07/03

うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言*

#68 1993/09/11 ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦
 * 第61話は,幾原邦彦が絵コンテ,宇田鋼之介が演出。

 

第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」 

Aパートの花見シーンにおけるコメディ要素と,Bパートの妖魔との対決シーンにおけるシリアス要素のコントラストが幾原の芸の幅の広さを窺わせる話数。冒頭,なるが照れ隠しに海野の寝袋のジッパーを閉めるシーンは,1コマ打ちのカットや絶妙な間の取り具合など,幾原流のハイセンスな演出が目を引く。

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第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

特に注目すべきは,花見シーンの演出だ。みんなが車座で花見をしている画を背景に,頭身をやや低めにデフォルメしたキャラクターたちが前景で寸劇を繰り広げる。キャラクターの枠線はやや太めに描かれており,背景から際立つように描画されている。カメラワークに頼らず,レイアウトで複数の人物のやりとりを写しとる秀逸なアイディアだ。むろん,レイを中心としたギャグもテンポがよくハイレベル。見どころ満載のシーンである。

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第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

一方,Bパートは妖魔に囚われたうさぎがクイーン・セレニティと出会い,「クリスタル・スター」を授かって新たな力を得る,というシリアス展開であり,コメディ中心のAパートからはガラリと雰囲気が変わる。

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第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

なお今回の作画には,作画監督の香川久を初め,柳沢まさひで爲我井克美須賀重行といった第一級の原画マンが勢揃いしており,非常にリッチなビジュアルに仕上がっている点も特筆に値する。ブックレット執筆者の高橋和光も「“作監クラス”の原画マンたちが大挙投入されている点も見逃せない」と高評価だ。

高橋によると,今回初お披露目となった新しい変身シーンとフィニッシュ技の「ムーン・プリンセス・ハレーション」のシーンは,幾原が絵コンテと演出を手がけている。

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新変身シーン 第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

どれだけシリアス展開になろうとも,最後はコメディタッチの明るい終わり方をするのが『セーラームーン』の醍醐味。今回も,最後の最後でうさぎvsレイの対決が再燃し,画風もたちまちギャグ風味に一変する。

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第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

うさぎが月を見上げてクイーン・セレニティに感謝するラストシーンで,うさぎの顔がデフォルメバージョンからシリアスバージョンに“変身”するカットも,いかにも幾原流のサービスという感じで面白い。

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第51話「新しき変身! うさぎパワーアップ」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

【その他のスタッフ】
脚本:柳川茂/美術:鹿野良行/作画監督:香川久(リンクはWikipediaもしくは@wiki。以下同様)

 

第60話「天使?悪魔? 空から来た謎の少女」 

ちびうさ初登場の話数。冒頭,うさぎと衛のロマンチックなキスシーンから始まったと思いきや, 空から降ってきたちびうさが2人の邪魔をする。画面いっぱいにピンクで彩色されたこのカットが,まずもってインパクト大である。ちびうさは見た目の可愛さとは裏腹に,うさぎに対して強い敵意を示すも,子どもらしいギャグを後に残して忽然と姿を消す。視聴者を煙に巻くこの一連のシーンは,ちびうさという謎めいたキャラクターを印象付けると同時に,彼女とうさぎ&衛とのその後の三角関係(?)をコンパクトに要約しているとも言える。

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第60話「天使?悪魔? 空から来た謎の少女」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

その一方で,うさぎとの母娘関係,衛との父娘関係を思わせるカットが,ちびうさの正体を暗示する伏線のようなものになっていることも見逃せない。

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第60話「天使?悪魔? 空から来た謎の少女」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

うさぎと衛の間に割って入るようなお邪魔キャラとしてちびうさを登場させつつ,ラストシーンではさながら“聖家族”のような三者の関係性をほのめかす。ちびうさという新キャラに関する情報がギュッと詰め込まれた1話である。

先述したように,この回以降,幾原はシリーズティレクターとしてクレジットされている。 

【その他のスタッフ】
脚本:富田祐弘/美術:大河内稔/作画監督安藤正浩  

 

第61話「うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言」  

前話の第60話に続き,前半ではうさぎ&衛&ちびうさの“三角関係/聖家族”という両義的な関係性が微笑ましく描かれる。この話数の原画は柳沢まさひで(作監),下笠美穂田口広一伊藤郁子と,またもや精鋭揃いであり,美麗な作画だけでなく,3人の関係性を的確に捉えた細やかなレイアウトも目を引く。

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第61話「うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

うさぎと衛の関係を知り,うさぎパパが狼狽える一方でママが2人を応援する,というテンプレ展開も実に愉快に描かれており(なぜかルナが照れているのもポイント),さぞかし当時のお茶の間を温めたことだろう。

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第61話「うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

とは言え,この回の最大の見所は,“幻覚”を見たことをきっかけに衛がうさぎを拒絶するシーンである。前半のカラッとした明るい画風とは打って変わり,暗めの照明と濃い影によって一気にメランコリックな気分へと転調する。ウサギが衛のマンションを訪れた時のギクシャクしたやりとりの中に,薔薇の花が散り落ちるカットを挿入したシーンなどは,いかにも幾原流と言える。

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第61話「うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

だがそんなシリアス展開の中にも,敵キャラ・ベルチェの(やや時代を感じさせる)「モーレツ」や,ドロイド・アツゲッショの厚化粧などのギャグを“お約束”と言わんばかりに仕込んでくるのもやはり幾原流と言えるだろうか。

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第61話「うさぎ大ショック! 衛の絶交宣言」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

なお,この回は前回の第60話に引き続き幾原が絵コンテを切っているが,演出は宇田鋼之介が担当している。

【その他のスタッフ】
脚本:富田祐弘/美術:田尻健一作画監督:柳沢まさひで/演出:宇田鋼之介

 

第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」

うさぎのベッドに潜り込んだちびうさが,オネショをしてしまうというなかなかの衝撃シーンから始まるこの話数。うさぎとルナの変顔によってコミカルシーンに仕立てられており,全編ギャグ回かと思わせる一種のミスリーディングである。

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第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

オネショをきっかけにちびうさがクイーン・セレニティ(未来のうさぎ)を思い出すシーンは,ラフスケッチ風の作画で描かれているが,画力もレイアウトも第一級。強い印象を残すシーンに仕上がっている。

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第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

工事現場の衝立を挟んで,うさぎがちびうさの事情と真の思いを聞き知るシーンは,ユニークなレイアウトだが不思議と心を打つ。クリスタル・トーキョーでの四守護神との回想のカットも美しく,ここから四守護神と「あやかしの四姉妹」との対決シーンまでの流れが見事である。

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第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

颯爽と現れる四守護神。薔薇の舞い散る象徴的なカットを合図に,四守護神と「あやかしの四姉妹」との戦いの幕が切って落とされる。石田よう子のアップテンポなテーマ『愛の戦士』に合わせ,両者のバトルシーンが繰り広げられていく。楽曲や止め絵の効果的な使用に幾原の手腕が垣間見られる。ちなみに四守護神と「あやかしの四姉妹」の対決では,両者の色調を合わせていると思われ,視覚的にも見応えのあるシーンになっている。

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第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

四守護神に加勢せず,敢えてちびうさを守ることに徹するうさぎ。ちびうさの手が腕にしがみつく刹那,うさぎは彼女の心の奥底に触れたかのような感覚を覚える。このシーンのうさぎの芝居は実に繊細で,原画陣の画力とも相まってシリーズ中最高の名シーンとも言える仕上がりだ。

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第68話「ちびうさを守れ! 10戦士の大激戦」より引用 ©︎武内直子・PNP・テレビ朝日・東映アニメーション

この回は珍しく“ギャグ落ち”がなく,最後までシリアスに徹している。原画は伊藤郁子(作監),柳沢まさひで,長谷川眞也。頭身が高めの大人っぽいデザインは,今回のようなシリアス回の魅力を存分に引き出す役割を担っている。 

【その他のスタッフ】
脚本:富田祐弘/美術:大河内稔作画監督:伊藤郁子 

 

以上が『R』における幾原邦彦演出回である。とりわけ,うさぎ&衛&ちびうさの関係性を掘り下げる重要回を担当していることがお分かりかと思う。

この後,幾原は『劇場版 美少女戦士セーラームーンR』の監督から『美少女戦士セーラームーンS』(1994-1995年)のシリーズディレクターを経て,なおいっそう独自色を強めていくことになる。ことに『S』は脚本家に榎戸洋司を迎え入れ,同性愛的な関係性など,後の『少女革命ウテナ』(1997年)を思わせるモチーフを積極的に導入していく。次回の「『美少女戦士セーラームーン』幾原邦彦演出回を観る③」の記事では,『S』の演出を詳しく見ていく。

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2020年 夏アニメは何を観る?ー2020年 春アニメを振返りながらー

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『デカダンス』公式HPより引用 ©DECA-DENCE PROJECT

www.animatetimes.com

uzurainfo.han-be.com

 

2020年 春アニメ振返り

2020年春アニメは,コロナ禍による制作遅延により,放送延期の憂き目にあった作品が多く発生したことが残念至極であった。アニメ制作のスケジュールやシステムについて図らずも再考を迫られることとなったクールだが,そんな中でも光を放つ作品が少なからず存在したことは,日本アニメの底力を見せつけられたようで心強い。

冬目景原作/藤原佳幸監督の『イエスタデイをうたって』は,卓越した作画,アニメーション技術,色彩設計によって,登場人物の心理の機微を情景に投影させる丁寧な作りが注目の作品だ。ストーリーに派手さはないものの,“画で見せる”というアニメの本質に迫る作品として高評価に値する。また,主演の小林親弘,宮本侑芽,花澤香菜,花江夏樹らの繊細な演技が,原作に潜在する空気感をうまく引き出していた。本作のレビューに関しては,「リアルサウンド映画部」に掲載した以下の記事をご覧頂きたい。

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久米田康治原作/ 村野佑太監督『かくしごと』は,独特のギャグセンスとシリアス展開のバランスが絶妙なハートフルコメディだ。”マンガ家がマンガ家を描く”という再帰的な設定ではあるが,マスターベーション的な自己満足に堕すことなく,家族愛や仲間どうしの連帯感など,「かくしごと(描く仕事)」の先にある価値観をシンプルに伝えた秀作であった。

シリーズ第2期となる赤坂アカ原作/畠山守監督『かぐや様は告らせたい? 天才たちの恋愛頭脳戦は,第1期にも増してギャグのセンスとテンポが洗練され,この種の作品がややもすると陥りがちなマンネリを軽々と回避している。とりわけ主演の古賀葵の演技は第1期以上にパワーアップしており,声優歴6年でありながら,「第14回声優アワード主演女優賞」受賞も納得の威風である。また,”生徒会”という舞台の特異性をうまく利用しつつ,シビアな世界構成に制約されないギャグアニメの特性を活かした実験的な演出も見所だ。総じて,近年のギャグアニメの代表作と言ってよい仕上がりとなっている。

吉成曜監督『BNA ビー・エヌ・エー』は,TRIGGER制作のアニメとしては淡泊な印象となった作品だが,「獣人vs人間」という対立構図の中に獣人どうしの個性のぶつかり合いを導入した状況設定や,「獣人の人化」を否定する決断など,同じ中島かずき脚本の『プロメア』(2019年)に対する一種の”返歌”にもなっていると言える。また,うえのきみこが脚本を手がけた第5話「Greedy Bears」は,TRIGGER流のパロディとうえののギャグセンスが遺憾なく発揮され,SNSをも賑わせた極上のコメディ回となっている。

realsound.jp

 

以下,夏クール期待のアニメを五十音順に紹介する。なお,過去作の再放送と思われる作品(『A.I.C.O. Incarnation』(2018年)など)は除外している。本来春クール放送であったものが,コロナ過により夏クールに延期となった作品については,前回の「何を観る?」記事の記述をそのまま再掲した上で,タイトルの後に「(再掲)」と記してある。前回の記事については以下をご覧頂きたい。

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天晴爛漫!(再掲)

【スタッフ】
原作:APPERRACING/監督・シリーズ構成・ストーリー原案:橋本昌和/キャラクター原案:アントンシク/キャラクターデザイン・総作画監督:大東百合恵/美術監督:杉浦美穂/制作:P.A.WORKS

【キャスト】
空乃天晴:花江夏樹/一色小雨:山下誠一郎/ホトト:悠木碧/ジン・シャーレン:雨宮天/アル・リオン:斉藤壮馬/ソフィア・テイラー:折笠富美子/ディラン・G・オルディン:櫻井孝宏/TJ:杉田智和/セス・リッチー・カッター:興津和幸

appareranman.com


「天晴爛漫!」PV第2弾!

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上映中の『劇場版SHIROBAKO』も高評価を受けているP.A.WORK制作のオリジナルアニメである。PVではユニークな形状のマシーンによるカーレースが見られるが,その辺りのアクションが見所ということになるのだろう。

『劇場版クレヨンしんちゃんシリーズ』(2008年-),『TARI TARI』(2012年)の橋本昌和が監督を務める。

宇崎ちゃんは遊びたい!

【スタッフ】
原作:/監督:三浦和也/シリーズ構成:あおしまたかし/ キャラクターデザイン・総作画監督:栗原学/美術設定・美術監督:渡邊聡/色彩設計:相原彩子/撮影監督:松向寿/編集:小口理菜(IMAGICA Lab.)/音響監督:えびなやすのり/音響効果:川田清貴/音楽:五十嵐聡/音楽制作:インクストゥエンター/アニメーション制作:ENGI

【キャスト】
宇崎 花:大空直美/桜井真一:赤羽根健治/亜細亜実:竹達彩奈/榊󠄀逸仁:髙木朋弥/亜細亜紀彦:秋元羊介/宇崎月:早見沙織

uzakichan.com


TVアニメ「宇崎ちゃんは遊びたい!」PV第3弾

 

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”献血コラボ事件”によって注目された丈の同名マンガ(2017年-)が原作だが,僕を含めた原作未読勢は,このアニメ化を機に作品をフラットに評価すべきなのではないかと思う。大げさな物言いになるが,それが良くも悪くも”ツイフェミ論争”に作品を巻き込んだ者の義務だろう。

監督は『旗揚!けものみち』(2019年秋)の三浦和也。『かくしごと』(2020年春)のあおしまたかしがシリーズ構成・脚本を担当するのもポイントだ。

GREAT PRETENDER

【スタッフ】
監督:鏑木ひろ/脚本・シリーズ構成:古沢良太/キャラクターデザイン:貞本義行/サブキャラクターデザイン・総作画監督:加藤寛崇/総作画監督:浅野恭司/デザインワークス:奥田明世,清水慶太,石橋翔祐/コンセプトデザイン:丹地陽子/副監督:益山亮司/美術監督:竹田悠介/美術設定:藤井一志/色彩設計:小針裕子/撮影監督:出水田和人/編集:今井大介/音楽:やまだ豊/音響監督:はたしょう二/ミュージックエディター:千田耕平/アニメーション制作:WIT STUDIO

【キャスト】
枝村真人:小林千晃/ローラン・ティエリー:諏訪部順一/アビゲイル・ジョーンズ:藤原夏海/ポーラ・ディキンス:園崎未恵

www.greatpretender.jp

youtu.be

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今クール「+Ultra」枠のオリジナルアニメ。詐欺師達を主人公とした「痛快クライム・エンタテインメント」(公式HPより)とのことだ。ティザー等を見れば一目でわかるが,ここまで純度の高い貞本キャラが最新技術のアニメで動くのは嬉しい限りだ。イラスト風の背景美術も面白い。

監督は『91Days』(2016年夏)などの鏑木ひろ。総作画監督は『PSYCHO-PASS』(2012年),『進撃の巨人』(2013年),『甲鉄城のカバネリ』(2016年)などの浅野恭司。脚本は映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)やテレビドラマ『コンフィデンスマンJP』(2018年)などの古沢良太。古沢は本作が初アニメ脚本となる。文句なしの豪華制作陣である。前クール「+Ultra」枠の『BNA』と同様,Netflixで順次先行配信している。

デカダンス

【スタッフ】
監督:立川譲/構成・脚本:瀬古浩司/キャラクターデザイン・総作画監督:栗田新一/キャラクターコンセプトデザイン:pomodorosa/サイボーグデザイン:押山清高(スタジオドリアン)/デカダンスデザイン:シュウ浩嵩/ガドルデザイン:松浦聖/サブキャラクターデザイン:谷口宏美,緒方歩惟/バトルコンセプトデザイン:増田哲弥/プロップデザイン:月田文律,秋篠Denforword日和(Aki Production)/ビジュアルコンセプト:村上泉/美術監督:市倉敬/色彩設計:中村千穂/撮影監督:魚山真志/3DCGIディレクター:高橋将人/編集:神宮司由美/音楽:得田真裕/音響監督:郷文裕貴/アニメーション制作:NUT

【キャスト】
カブラギ:小西克幸/ナツメ:楠木ともり/ミナト:鳥海浩輔/クレナイ:喜多村英梨/フェイ:柴田芽衣/リンメイ:青山吉能/フェンネル:竹内栄治/パイプ:???

decadence-anime.com


TVアニメ「デカダンス」本PV

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『モブサイコ100』(2016年夏)の立川譲(監督)と瀬古浩司(脚本)のタッグが手がけるオリジナルアニメ。PVを見る限り,かなりゴリゴリのSFアクションのようだ。緻密な背景美術やメカデザイン,栗田新一による魅力的なキャラクターデザインなど,作画面でも見応えのある作品になりそうだ。制作のNUTはまだ若い会社のようだが,『幼女戦記』(2017年)を手がけており,クオリティは保証されていると言えるだろう。

 

日本沈没2020

【スタッフ】

原作:小松左京/監督:湯浅政明/音楽:牛尾憲輔/脚本:吉高寿男/アニメーションプロデューサー:Eunyoung Choi/シリーズディレクター:許平康/キャラクターデザイン:和田直也/フラッシュアニメーションチーフ:Abel Gongora/美術監督:赤井文尚,伊東広道/色彩設計:橋本賢/撮影監督:久野利和/編集:廣瀬清志/音響監督:木村絵理/アニメーション制作:サイエンスSARU

【キャスト】

武藤歩:上田麗奈/武藤剛:村中知/武藤マリ:佐々木優子/武藤航一郎:てらそままさき/古賀春生:吉野裕行/三浦七海:森なな子/カイト:小野賢章/⽦田国夫:佐々木梅治

japansinks2020.com


『日本沈没2020』予告編 - Netflix

mobile.twitter.com

言わずと知れた日本SF小説の金字塔,小松左京の『日本沈没』(1973年)が原作である。これまで実写映画やテレビドラマで映像化されてきたが,今回が初のアニメ化となる。人によっては正視に耐えないシーンも多くあると思われるが,”地震大国日本”に住む者として,災害をストレートに扱った表象文化を受容すべき時に来ているのかもしれない。

監督は『四畳半神話大系』(2010年),『夜は短し歩けよ乙女』(2017年),『夜明け告げるルーのうた』(2017年),『映像研には手を出すな!』(2020年)など数々の傑作を世に送り出した湯浅政明。PVからは,彼のこれまでの作品よりもシリアスな作風であることが伺える。

富豪刑事 Balance:UNLIMITED(再掲)

【スタッフ】
原作:筒井康隆/ストーリー原案:TEAM B.U.L/監督:伊藤智彦/シリーズ構成・脚本:岸本 卓/キャラクターデザイン:佐々木啓悟/制作:CloverWorks

【キャスト】
神戸大助:大貫勇輔/加藤 春:宮野真守

fugoukeiji-bul.com


「富豪刑事 Balance:UNLIMITED」 アニメ化決定PV

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筒井康隆のミステリ小説『富豪刑事』(1975-1977年)が原作。ライトノベル以外の小説を原作とするという点が注目だ。

監督に『僕だけがいない街』(2016年)『HELLO WORLD』(2019年)などの伊藤智彦が,シリーズ構成・脚本に『ハイキュー!!』(2014年-)『僕だけがいない街』などの岸本卓, キャラクターデザインに『僕だけがいない街』などの佐々木啓悟が就く。”『僕街』トリオ”の復活というわけだ。

A-1 Picturesの「高円寺スタジオ」を2018年に新ブランドとして立ち上げたCloverWorksが制作。すでに『約束のネバーランド』(2019年)や『Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-』(2019年)などでの実績があるだけに,一定のクオリティは期待できる作品である。

Re:ゼロから始める異世界生活 第2期

【スタッフ】
原作:長月達平/キャラクター原案:大塚真一郎/監督:渡邊政治/シリーズ構成:横谷昌宏/キャラクターデザイン・総作画監督:坂井久太/モンスターデザイン:小柳達也/アクション監修:大田和寛/プロップデザイン:鈴木典孝,岩畑剛一/デザインワークス:加藤千恵,コレサワシゲユキ,灯夢,坂井ユウスケ/美術設定:青木薫(美峰)/美術監督:高峯義人(美峰)/色彩設計:坂本いづみ/撮影監督:峰岸健太郎(T2studio)/3Dディレクター:軽部優(T2studio)/編集:須藤瞳(REAL-T)/音響監督:明田川仁/音響効果:古谷友二(スワラ・プロ)/音楽:末廣健一郎/音楽制作:KADOKAWA/アニメーション制作:WHITE FOX

【キャスト】
ナツキ・スバル:小林裕介/エミリア:高橋李依/パック:内山夕実/レム:水瀬いのり/ラム:村川梨衣/ベアトリス:新井里美/ロズワール・L・メイザース:子安武人/ガーフィール・テンゼル:岡本信彦/オットー・スーウェン:天崎滉平/フレデリカ・バウマン:名塚佳織/ペトラ・レイテ:高野麻里佳/リューズ・ビルマ:田中あいみ/エルザ・グランヒルテ:能登麻美子/エキドナ:坂本真綾

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TVアニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』2nd season PV|2020.7.8 ON AIR START

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もはや多くを語る必要はないだろう。待望のビッグタイトル第2期の登場である。異世界転生,美少女キャラ,タイムリープなどの”テンプレ”的な要素を詰め込みながら,主人公の過酷な運命と強い意志を主旋律にシリアスなストーリーを展開した本作は,数々のメディアミックスによって多くのファンを獲得した。第1期を超える盛り上がりを見せることを期待したい。

2020年 夏アニメのイチオシは…

2020年 夏アニメの期待作として,今回は7作品を挙げた。イチオシとしては,オリジナル作品である『デカダンス』を挙げておこう。立川譲と瀬古浩司のタッグに期待したい。次点は『GREAT PRETENDER』『日本沈没2020』『Re:ゼロから始める異世界生活 第2期』といったところだろうか。

コロナ禍によるアニメ制作への影響はまだまだ続くだろう。一刻も早く制作現場が正常化することを祈りつつ,今回の記事を終えることにする。

死と未来,つながり:今,『さらざんまい』を観直す

前回掲載した幾原邦彦監督の『さらざんまい』のレビューで,このブログもようやく100記事目を迎えた。ちょっとした節目の記事として,1年前の作品のレビューを掲載したのには,実は個人的な理由と社会情勢的な理由がある。

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個人的な理由というのは,去る5月の母の病死だ。突然訪れた身近な身内の死は,『さらざんまい』に込められた「死の可視化」というテーマについて否が応でも考えさせられることになった。ハイデガーの『存在と時間』を読んだのは学生時代だったが,今読み返してみると,あの難解な言葉遣いが臓腑に染み込むように自分の思考に行き渡るのを感じる。

身近な者が亡くなった時,人はその死を乗り越えて日常に戻ろうとする。周囲の人間も,遺族が一刻も早く日常に戻れるよう慰める。しかし,はたして“日常に戻る”ということは正しいことなのか。そもそも人は死に触れて“日常に戻る”ことができるのか。死を経験するということは,《死へ臨むひとごとでない存在》であることを身に引き受け,死とともに生きることを意味するだろう。だとすれば,もはや「ひと」として日常の中に素朴に埋没することはできないだろう。肉親の死との「つながり」を抱えたまま生きる。それこそが,“未来に生きる”ということなのだと思う。

社会情勢的な理由というのは,言うまでもなくコロナ禍の件だ。新型コロナへの恐怖は,人が人と「つながる」ということのあり方を大きく変えてしまった。ウイルスの病原体としての影響力をどれだけ過小評価したところで,それが人の衛生観念を決定的に変え,物理的接触をコントロールするというオブセッションを生み出してしまったことは否定のしようがない。

はたして物理的なつながりは,精神的なつながりがあれば無用なのだろうか。それはオンラインのつながりによって代替可能なのだろうか。物理的なつながりが何物にも変えがたい領域はあるのだろうか。つながりはいつも心地よいものなのだろうか。そんなことを考え始めた時,『さらざんまい』の「つながりたいけど,◯◯」という各話タイトルが脳裏をよぎったのだ。

幾原邦彦の作品は,物語のロジックよりも心情のロジックを重視して作られている。その意味で“考えるな,感じろ”を地で行くような作品作りなのだが,にもかかわらず,それを観る僕らに“考える”ことを余儀なくさせる内実がある。彼の作品を読み解くのは容易なことではないが,彼の仕掛けた問題提起に真摯に向き合い,思索を深めた時,それが何かの“救い“になることがあるかもしれない。

TVアニメ『さらざんまい』(2019年春)レビュー[考察・感想]:人=未来へつながり続ける存在者

*このレビューはネタバレを含みます。

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『さらざんまい』公式Twitterより引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

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独自の映像感覚と難解な語り口で視聴者を翻弄しながらも,その都度アクチュアルなテーマに真摯に向き合い続けてきた幾原邦彦監督。彼の最新作『さらざんまい』は,前作『ユリ熊嵐』(2015年)と同様,性の多様性や愛といったテーマを扱いつつ,それらをより多角的に照射した作品となった。この作品を観た者は,ポップでアイロニカルな映像の背後に流れる「生と死」「欲望」「つながり」といった問題を否応なく思索することになるだろう。

 

あらすじ

浅草に住む中学生の矢逆一稀,久慈悠,陣内燕太は,ある日「カッパ王国第1王位継承者」を名乗るケッピと出会い,尻子玉を抜かれてカッパにされてしまう。人間の姿に戻るためには「カパゾンビ」の尻子玉を奪い,ケッピの元に届けなければならない。彼らはカパゾンビとの戦いの中で何を知り,何を学ぶのか。そして怪しげな2人の警官の正体とは… 

生と死:平板化された人間たちの覚醒

周知の通り,アニメーションという言葉の元になっているanimateという動詞は,本来「anima=生命を吹き込む」という意味である。animationとは,少しずつ形の違う複数の静止画を連続撮影することにより,動き=生命を表現する技法なのだ。ところが『さらざんまい』というアニメには,意図的にanimationが施されていないオブジェクトが登場する。街中を往来するピクトグラム状のモブである。

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『さらざんまい』第一皿「つながりたいけど,偽りたい」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

白い平面体として描画されたこのモブは,同じ幾原監督の『輪るピングドラム』(2011年)にも登場していたが,看板や標識などのピクトグラムと同様,人の〈平板化〉〈無個性化〉〈マスプロ化〉を象徴していると考えて差し支えないだろう。

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『輪るピングドラム』01「運命のベルが鳴る」より引用 ©︎ikunichawder/pingroup

『さらざんまい』の美術は,実際の浅草の生き生きとした生活圏を計算されたパースで描画するリアリズムが基調となっているため,この平面的なピクトグラム人間の特異性がなおのこと際立っている。

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パースによって奥行きをリアルに描画した浅草の風景。『さらざんまい』第三皿「つながりたいけど,報われない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

幾原はなぜ『さらざんまい』というアニメの中に,敢えて魂を吹き込まない平板化された存在を呼び入れたのか。おそらくその答えは,幾原が本作に込めた死生観にある。Blu-ray/DVDの特典に納められたインタビューにはこうある。

命は目に見えないじゃないですか。昔,国や地域が貧しかった頃は,人の命は目に見えたと思うんですよ。道端で誰かが死んでいる……,それは命が目に見えていることだから。でも,現代社会では命はそんなに目に見えず,隠されている。*1

 

animateされ個性を与えられた一稀,悠,燕太,ケッピと違い,ピクトグラムのモブは生と死の危うさに関わることのない,平均的で量産的な存在だ。それは『輪るピングドラム』において,生と死と自己犠牲に直面しようとする主人公たちに対比させられた,街中のモブと同様の存在である。

哲学者のマルティン・ハイデガー(1889-1976年)は,主著『存在と時間』(1927年)の中で,人間の現存在の日常的なあり方を「ひと(das Man)」と定義した。ハイデガーによれば,「ひと」とは「特にだれということもできない中性的なもの」*2 であり,他の「ひと」と代替可能な存在である。人間は日常生活の中で,無個性的な「ひと」の状態に埋没しており,己の固有の存在,その“生と死”を忘却している。とりわけ死は,「現存在が存在するやいなやみずから引き受けるあり方」*3 として,常に自己の存在の中に可能性として内在しているにもかかわらず,「ひと」はそれを自らに隠蔽しながら生活している。ニュースで報道されるような他者の死を「死亡例」*4 として了解したつもりになりながら,「《死へ臨むひとごとでない存在》をおのれに隠すことを正当化し,そしてその隠蔽への誘惑を深める」*5。それが「ひと」という存在の本質的なあり方だとハイデガーは言う。要するに,人間は自分にしか訪れない〈固有の死〉が差し迫っていることを,日常的に忘れながら平均的な生活を送っているということだ。

『さらざんまい』のピクトグラム人間は,まさにこうした意味での「ひと」に他ならない。彼らは本来的な意味で死に触れることはなく,したがって生と死の間にいるカッパの姿が見えないのである。

それに対して,一稀,悠,燕太は「カパゾンビ」との戦いを通して,死者に向き合うことを強いられている。*6 また彼らには,自己の死や肉親の死など,リアルな死の重みが容赦なく突きつけられる。中学2年生という年頃にはあまりにも過酷な死の重圧を,幾原は時にコミカルなアイロニーも交えながら躊躇なく描き切る。それは彼らが「ひと」というあり方から覚醒し,自分という存在や他者との関わり方を捉え直し,新しい未来の生を生きるための,一種のイニシエーションなのかもしれない。

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『さらざんまい』第九皿「つながりたいけど,伝わらない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

もちろんここで重要なのは,幾原が実際に『存在と時間』を読んでいるかどうかではない。そうではなく,『さらざんまい』という作品が,偶然にせよ必然にせよ生と死をめぐる哲学的な問いに肉薄しているという事実なのだ。

他者の欲望の承認

一稀たちはカパゾンビとの戦いによって,死に触れるだけでなく,その「欲望」にも触れることになる。興味深いのは,尻子玉奪取の後,カパゾンビの倒錯的欲望が一稀たちの「そうか,◯◯だったのか」という台詞によって言語的に承認されるカットである。

人の〈欲望〉を現代思想的な文脈で理解する上でしばしば前提となるのは,人間的な〈欲望〉と動物的な〈欲求〉との差異である。現代思想において,人間の〈欲望〉は間主体的ものとして認識されることが多い。人間の〈欲望〉は,即時的で閉じた動物の〈欲求〉と違い,常に他者の承認が介在する。例えば精神分析学者のジャック・ラカン(1901-1981年)は,これを「他者の欲望」と呼んだ。ごく簡単な例で説明するなら,動物=“生存のために目の前の肉を食う”と人間=“評判がいいからあのラーメン屋まで行って食う”の違いということになるだろうか。動物は他者の承認などお構いなしに,端的に生きるために欲求する。一方人間は,他者が欲望したものを欲望する。

〈欲望〉が他ならぬ人間の〈欲望〉であるならば,例えどれだけ“不自然”な倒錯的欲望であったとしても,それは「他者」によって言語的に承認されていなければならない。ところが人は,他人に話して聞かせることのできる欲望が“正常な”欲望(「僕は◯◯さんが好きだ」)であり,人に話せないような欲望は“異常な”欲望(「私は女性に蹴られるのが好きだ」)であるとナイーブに考え,前者を承認する一方で,後者を拒絶してしまう。しかし欲望における“正常”と“異常”の境界はどこにあるのだろうか。普通,好きな女性の入った風呂の残り湯で蕎麦を茹でたいという欲望は,“異常”だとみなされるだろう。しかし,弟のために女装する一稀の行為はどうだろうか。女装する一稀にキスをする燕太,兄との絆を守るために犯罪に手を染める悠はどうなのか。

一稀,悠,燕太による欲望承認のカットは,自分たちの〈欲望〉とカパゾンビたちの〈欲望〉との間に本質的な違いがないことを示唆しているように思える。

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『さらざんまい』第四皿「つながりたいけど,そばにいない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

〈欲望〉が〈欲望〉である以上,他者によって言語的に承認されなければならない。したがって,一稀,悠,燕太の〈欲望〉も「漏洩」という儀式によって互いに晒されることになる。しかし彼らの〈欲望〉は容易に承認できるほど“普通”ではない(少なくとも彼らはそう思っている)。これはある意味で,人が「つながる」ことのリアリティだ。他者の〈欲望〉は,必ずしも自分にとって心地よいものとは限らない。他者と「つながる」ことには,他者の不快な〈欲望〉を知るというリスクがつきまとう。 「つながりたいけど,◯◯」という各話タイトルは,こうした「つながり」の危うさを表しているとも言える。

ここで言及しておかなければならないのは,一稀に対する燕太の同性愛的な思いだろう。幾原は本作において,同性愛を茶化したり笑いの対象にするのではなく,意識的に「ピュアな気持ち」として描いたのだという。*7 確かに,『ユリ熊嵐』では同性愛のモチーフが文字通り「百合」という表象として“消費”されていた感があるが,『さらざんまい』は燕太というキャラクターの気持ちに真摯に寄り添っている印象がある。

昨年開催された「幾原邦彦展」の折に開かれたトークショーで,『さらざんまい』が過去の作品と違い男性キャラクターが多い理由を問われた幾原は,「魂を削って戦う姿が美しいと感じている。そこに男女の違いはない。以前から男の子が中心の作品はやりたいと思っていた」 と答えている。『さらざんまい』は,燕太の思いを“ヘテロ/ホモ”といった安直な二文法に矮小化するのではなく,ヘテロセクシュアル,ホモセクシュアル,LGBT,兄弟愛,友愛といったものをすべて包括する「つながり」という概念の中で捉えようとしたのかもしれない。

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〈欲望〉には様々な形がある。善良な欲望,邪悪な欲望,倒錯した欲望,純粋な欲望。〈欲望〉は多義的であり,どの〈欲望〉を承認し,どの〈欲望〉を拒絶するかをめぐって,どうしても人は争わざるを得ない。しかし一つ明らかなことは,人は〈欲望〉を抱かずにはいられない生き物だということだ。人を堕落させるのが〈欲望〉だとすれば,人を成長させるのも〈欲望〉である。したがって幾原は『さらざんまい』の中で,玲央と真武に「愛か欲望か」という二者択一の台詞を言わせながらも,最終的には〈欲望〉を肯定する。だからこそ彼は,一稀たちにカパゾンビの欲望を承認させ,最終話でサラに「忘れないで/喪失の痛みを抱えてもなお/欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」*8と言わしめるのである。

「つながり」の意味を問う

以前と比べれば,現代は「つながり」が技術的に強化された時代だ。スマホとSNSで人と即座につながれるが故に,安心感だけでなく,煩わしさや危険性も増大している。メディアや世論はしばしば,そんなインスタントなつながりを“現代技術批判”という形で否定しようとする。しかし幾原はそうした構えに懐疑的である。安易に技術批判をしたところで,我々は技術が存在する前の時代に逆行することはできないからだ。*9 技術的な条件とは生活の条件であり,その中に生きている以上,それを否定することは不可能である。スマホやSNSのない時代に戻ることはできない。だとすれば,あくまでも現代的な条件に基づいた上で「つながり」の意味を問うていく他ない。幾原が『さらざんまい』や『ユリ熊嵐』でスマホやSNSのようなツールを積極的に登場させるのも,技術を否定するのではなく,技術について思索することを促す意図があってのことなのだろう。

技術に潜む危険性とは,技術そのものの危険性なのではなく,人が技術を当然のものであると誤解し,技術的な条件に埋没してしまうという事態なのではないか。技術によって得た「つながり」が所与のものとして当たり前になってしまった時,“他でもないこの人”と「つながる」ことの本質的な意味,そのかけがえのない価値を見失い,またもや「ひと」という平均的な存在へと埋没してしまうかもしれない。『さらざんまい』のエンディングでは,浅草の実写の風景の中に主人公たちのキャラが佇む姿が映し出されるが,彼らにはanimateが施されていない。このエンディングは,主人公たち自身がリアルな3次元空間の中で平面的なピクトグラム人間=「ひと」に埋没してしまう危うさを示しているようにも思える。

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『さらざんまい』エンディングより引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

「ひと」は「つながり」の意味を自覚的に問わないだろう。だからこそ,第八皿で悠が言うように,「誰だって切れてからつながっていたことに気づく」のである。「ひと」は死や断絶を受け入れた時初めて,生とつながりの意味を理解するのだ。

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『さらざんまい』第八皿「つながりたいけど,もう会えない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

2020年,全世界的に「つながり」を絶たれた人類は,その本質的な意味を再考することを余儀なくされた。果たして「つながり」とは,精神的な絆のことなのか。そこに物理的な接触は不要なのか。技術は本当に「つながり」を保証してくれるのか。その最終的な答えを提示することは,全人類の知恵を持ってしても困難至極であることは間違いない。しかし人が独りでは生きられない生き物である以上,どんな形でも,どんなリスクを負ってでも,「つながり」を何処かに求めなければならない。それこそが,人が「未来」をつないでいく唯一の拠り所なのだから。*10

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】原作:イクニラッパー/監督:幾原邦彦/チーフディレクター:武内宣之/シリーズ構成:幾原邦彦,内海照子/キャラクター原案:ミギー/キャラクターデザイン・総作画監督:石川佳代子/コンセプトデザイン:柴田勝紀/助監督:松嶌舞夢/美術監督:藤井綾香(スタジオPablo)/色彩設計:辻田邦夫/撮影監督:荻原猛夫/編集:黒澤雅之/音楽:橋本由香利/アニメーション制作:MAPPAラパントラック

【キャスト】 矢逆一稀:村瀬歩/久慈悠:内山昂輝/陣内燕太:堀江瞬ケッピ:諏訪部順一/新星玲央:宮野真守/阿久津真武:細谷佳正/春河:釘宮理恵/久慈誓:津田健次郎/陣内音寧:伊瀬茉莉也/吾妻サラ:帝子/カワウソ:黒田崇矢/ゾンビ:加藤諒

 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 4.5 4 4
声優 ドラマ メッセージ 独自性
4 3 5 5
普遍性 考察 平均
4 4.5 4.2
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・「平均」は小数点第二位を四捨五入。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

商品情報

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  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: DVD
 
さらざんまい 3(完全生産限定版) [Blu-ray]

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  • 発売日: 2019/09/25
  • メディア: Blu-ray
 
さらざんまい 5(完全生産限定版) [Blu-ray]

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ユリ熊嵐 Blu-ray BOX

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  • 発売日: 2019/04/24
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存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)
 
存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)
 

 

*1:『さらざんまい』第1巻Blu-ray/DVD特典ブックレット,p.15。

*2:マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄訳『存在と時間』,p.277,ちくま学芸文庫,1994年。言うまでもなく,『輪るピングドラム』で反復される「きっと何者にもなれないお前たち」という台詞もハイデガーの「ひと」を想起させる。

*3:同上,p.50。

*4:同上,p.65。

*5:同上,p.67。

*6:Blu-ray/DVD第八皿のオーディオコメンタリでは,「カパゾンビ」が妖怪や概念的な存在などではなく,玲央と真武によって殺害された後にゾンビ化した存在であることが監督と宮野真守の会話から伺える。

*7:『さらざんまい』第1巻Blu-ray/DVD特典ブックレット,p.17。

*8:第十一皿「つながりたいから,さらざんまい」より。

*9:Blu-ray/DVD第一皿のオーディオコメンタリ参照。

*10:こう考えてみると,作中各所に登場する「ア」は「阿吽」に由来すると考えるのが妥当だろう。「はじまらない/おわらない/つながらない」という呪いのような運命に対し,「阿吽」は宇宙の始まりと終わり,そして心の一致を意味する。「ア」は,「宇宙の始まり」として未来を暗示すると同時に,心の「つながり」を表しているのではないだろうか。