アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメ『少女終末旅行』レビュー:紡ぎ出される2つの“終末”

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会
キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 3.5 5 5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
5 5 3.5 4
独自性 普遍性 平均
5 5 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

マンガ原作既読。

〈終末という日常〉の発見

第11話「破壊」における“巨大兵器”が街を“薙ぎ払う”シーンは,『風の谷のナウシカ』で描かれていた“終末”の世界観を明らかに継いでいる(第12話「仲間」「エリンギ」のCVに島本須美を起用したのも,ある種のオマージュの一環だったのだろう)。前世紀に創られた辛く悲しい“終末”の世界を,まるで日常のように生きるという描写を,今世紀のアニメは見出したのだ。素晴らしい表現上の発見であると言えよう。

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巨大兵器による破壊のシーン(第11話「破壊」より引用) © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会

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島本須美が演じた「エリンギ」(第12話「仲間」より引用) © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会

“何もしない”という豊かな表現

ヴィム・ヴェンダースやテオ・アンゲロプロスなどの映画を観ればわかることだが,ロードムービーというものにはたいてい人物たちが何もしないシーンがある。人物たちは何もしないが,ビークルの作動音だけが聞こえてくる。それが心地よさや悲しさを表現する。もちろん30分アニメには“長回し”などという贅沢はできないから,短時間だったり断片的だったりはしたが,『少女終末旅行』にはそういう“何もない時間”がふんだんにちりばめられており,要所要所で饒舌にものを語っていた。こういう間の存在感がすぐれていたからこそ,水瀬いのりと久保ユリカの会話とも言えぬ会話や,時折差し挟まれるBGMがいっそう輝いて聞こえたのだと思う。

「雨音」

第5話「雨音」の演出には誰もが驚かされたことだろう。突然の雨が振り出し,チトとユーリは廃墟で雨宿りをする。ユーリがきまぐれに置いたヘルメットやら缶やらに雨粒が落ち,彼女らの知らない「音楽」というものを奏で,やがて「雨だれの歌」になってエンディングを迎える。まるでこのほんの数分間のシークエンスで,人の音楽の成り立ちを表したかのような素晴らしい演出で,鑑賞時には思わず声が出た。この作品をアニメ化した意義のひとつはまさにこの回にあると思う。

尾崎隆晴監督は,この作品における“水”を「生命の象徴」*1と解釈しているということだが,確かに,この作品は全編を通して水に大きな存在感がある。そうした“水”の躍動感を象徴するのが,この「雨音」という回だったようにも思う。

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第5話「雨音」より引用 © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会

一回性と反復性

さらに,アニメとマンガ原作とで,決定的に異なる表現法を用いていたのも面白かった。

例えば第3話「街灯」で,カナザワと一緒に塔の最上階に登ったシーン。アニメで描かれる街灯は,ひとつひとつに個性がなく,ごく普通の「灯」だ。一方,つくみずの原作(1巻148~149頁)では,いかにも“手描き”という筆致で「灯」が描かれている。同じ線は二度と描けないだろうと思わせる,つくみずらしい大胆かつ力強い線。この時ユーリが「街灯が…生きてるんだ」とつぶやくのだが,この無機物の持つ「生きてる」感の演出に関しては,つくみず原作の描写に膝を打つ。

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つくみず『少女終末旅行』第1巻 p.148-149。新潮社,2014年。

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第3話「街灯」より引用 © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会

一方,第11話「過去」で,風力発電所の中を通るシーン。つくみず原作(4巻104頁~)では,発電所の「森」が例によって“一回限り”の線で描かれているが,アニメでは,つくみずの筆致とは明らかに異質なテカテカのCGで描写されており,それによって,発電所が大量生産されたものであることがはっきりと示されている。そもそも僕ら(作中では「古代人」ということだろうか)の機械文明の原理は大量生産であり,したがって反復可能なものだ。「終末」の世界では,そうした反復可能性の時代はすでに終わっていて,チトとユーリの知識の中にはおそらくない。しかしアニメは,彼女らにその残骸をはっきりと見せた(それを二人がどう思ったかは定かではないが)。このアニメ演出の判断は決定的で,素晴らしいものだったと思う。

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つくみず『少女終末旅行』第4巻 p.104-105。新潮社,2016年。

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第11話「過去」より引用 © つくみず・新潮社/「少女終末旅行」製作委員会

原作とアニメの関係は,主従関係でもないし,まして優劣の関係でもない。そもそもまったく異なるメディアなのだから,それぞれにまったく異なる得意技がある。原作の良いところはどこか,アニメ化して良かったところはどこか。そんな風に楽しめるのだから,僕らにとっては「一粒で二度おいしい」。そういうことを実感させてくれるアニメでもあった。

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

 
TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集

 

 

*1:「TVアニメ 少女終末旅行 公式設定資料集」p.83。KADOKAWA,2018年