アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメ『ヒナまつり』レビュー:盛り場で愛された小さな”松子”たち

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©2018 大武政夫・KADOKAWA刊/ヒナまつり製作委員会

hina-matsuri.net

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 3.5 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 3.5 3.5 3
独自性 普遍性 平均
5 3.5 4
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。
 

愛され松子

毎回笑わせられ,時にホロリとさせられた作品だった。

「元の場所では,命令をこなすだけが存在価値だった」というヒナの言葉から連想される,寒々としたディストピアらしき未来の世界(本当はちょっと違うようなのだが)。そこから,あの愉快な盛り場へと文字通り投げ込まれたことが,彼女たちの喜劇の始まりである。

この作品の大きな魅力は,登場人物のロールプレイが,盛り場に寄り集った人たちの雑多な関係の中で大胆にズラされていく様子だ。ヒナ=能力者→ズボラ中学生,新田=ヤクザ→父,アンズ=能力者→ホームレス→中華料理店の看板娘,瞳=優秀中学生→バーテンダー→有能キャリアウーマンなど,あり得ないズレ感とダイナミクス。ほとんど不可抗力的に人生をズラされながらも大人たちに愛されるヒナ,アンズ,そしてとりわけ瞳の姿は,まるで陽極に反転した『嫌われ松子の一生』のようでもある。

盛り場という舞台

一人一人のキャラクターとしての主体性よりも,都市という場での関係性に応じて役割を変えていく彼女たちの様子は,かつて吉見俊哉が「上演論的パースペクティヴ」という視点を導入しながら観察した,「盛り場」の人たちの戯画のようだ。この作品が,中学生,ヤクザ,サラリーマン,ホームレスなどといった,雑多な人の群れ集う盛り場を舞台にしているのは,故なきことではない。とりわけ吉見は,1960年代までの新宿という舞台に,「変幻自在さ」,つまり「人びとがこの街に来ることで日常の自明化された同一性を失い,いつでも別の何者かに変身できる状態」(吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』より)を見ていた。『ヒナまつり』のあの街は,そのようなロールプレイの自在性をカリカチュアライズしたような趣がある。

しかしそうしたロールプレイのズレが仮にカリカチュアだったとしても,僕らはそこに荒唐無稽ばかりを見るよりは,幾ばくかの真実味を感じてしまう。だからこそ,彼女ら/彼らの顛末を見て,笑わされると同時にホロリと泣かされてしまうのだ。都会に住む以上,社長もヤクザもホームレスも中学生も,同じ舞台で己を演じることを余儀なくされる。そしてどの役割も,自分がいつの日か演じる/演じたかもしれないという可能性を内在させながら,常に近接している。『ヒナまつり』は,そんな可能性をコミカルに“上演”してくれた良作だった。

2期待望!

ところで,そんな都会のダイナミクスから遠く離れた所で,ロビンソン・クルーソーから武芸の達人という極大アーチを描いた少女のことを忘れてはいけない。マオだ。このトンデモ娘を見送るシーンを最後にアニメは終わってしまった。このアーチが行き着くところを見届けない限りは,僕らの泣き笑いは宙づりにされたままだ。

特にアニメ化が成功しているだけに,このまま終わってしまうのは非常に勿体ない。原作もとても面白いのだが,アニメ化によって独自の演出が盛り込まれたことで,原作の面白みを倍増させている言える。とりわけ,念動力を使ったシーンでは,一番面白く見える動きと速度が綿密に計算されているようだった。こうしたアニメ化の成功例は,業界全体にとっても教訓になるのではないかと思う。

要するに,2期待望というわけだ。

 

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