※このレビューはネタバレを含みます。
コミュニケーションの機能不全
唐突だが,コミュニケーションは挫折する。文字もサインも,そして声ですら,思考を残りなく伝える透明な媒体ではあり得ない。メディアを介した瞬間,決定的なズレが生じ,理解しようとした刹那,個の経験が介在する。時と距離はさらに事態を悪化させる。そこに“障がい者/健常者”という区別はない。コミュニケーションはすべての人間において失敗する。その点,コミュニケーションは神のごとく平等である。
しかし挫折するからこそ,不十分だからこそ,人はコミュニケーションを継続する運命にある。『ドラゴンボール』のセルや『エヴァンゲリオン』の人類補完計画や『シドニアの騎士』の落合のように,他者を取り込んで他者を無効化し,コミュニケーションをゼロにすることは不可能なのだ。それはもはや人とは言えぬ,異形の怪物である。
その現実を受け入れることは人には難しい。人は(とりわけ“健常者”は)“完全無欠のコミュニケーション”という幻想を抱いてしまう生き物だからだ。それが子どもならなおさらである。
ろう者である硝子の登場は,コミュニケーションに内在するこの〈機能不全〉という本質を将也たちに端的に示すものだった。声だろうが手話だろうが,コミュニケーションはそもそも失敗する。硝子だけがコミュニケーションから疎外されているのではない。クラス全員が疎外されているのだ。彼女の障がいは,このことを“健常者”に顕示したというだけのことである。この現実を突きつけられ,仮初めの安定を得ていたクラスという共同体は動揺する。透明で従順な媒体と思われた「声」が,形と重みを伴って彼らの前に立ちはだかる。
怪物にならずに人の身でコミュニケーションを回避する方法はいくつかある。1つは,他者を排除し,“敵の敵は味方”という幻想の元に再び仮初めの同化を得ること。これが“いじめ”である。人は排除の原理によって共同体の調和を維持するという狡知に長けた生き物なのだ。
もう1つの方法は,死だ。
将也はいじめの加害者となる一方で被害者にもなり,また自死を決断しながらも硝子の自死を止めるという経験をすることで,この2つの回避方法が倫理的ではないということに気づいたはずだ。故に彼は,当の硝子に,「生きること=コミュニケーションの継続」という道をとることを告白する。
植野の「聲」
声は透明でも従順でもない。それは濁り,重く,扱いづらい“モノ”そのものだ。この作品のタイトルに「声」よりも視覚的情報量の多い「聲」という漢字が当てられた意味がここにある。
植野は不十分ながらもこのことに気づいていたという点で,実は最重要人物の一人なのである。彼女は硝子と硝子の母に,まるで鈍器のように聲をぶつけるが,それは彼女が,聲によって想いを十全に伝えることが不可能なことを当の硝子によって理解させられていたからである。植野という人物を“嫌な女”のようにキャラ設定のレベルで理解してしまうと,この作品の本質を捉え損なうだろう。
〈メメントモリ〉と結弦
そしてコミュニケーションの不可能性を最も理解していたのは,硝子の妹である結弦かもしれない。だからこそ彼女は,意味の差延が生じにくい写真というメディアを選択するし,また,硝子の「好き」を「月」と聞き間違えたことを将也が告白した時,あえて答えを教えなかったのだ。相互理解はそう簡単には成立しないのだから。
そしてこの作品がすぐれている最も大きなポイントは,とりわけ結弦の写真と祖母の死によって,〈メメントモリ〉が暗示されている点である。
コミュニケーションが永遠に続くのなら,機能不全も差延もやがては解消されるかもしれない。そうなることを期待し,“日常系”よろしく永遠に対話を続けることができれば,それは間違いなく楽園であろう。しかしそれもまた幻想である。硝子と将也のコミュニケーションの営みにも,いつか必ず“死”というピリオドが付される。この作品を1つの娯楽として消費している僕らも,この現実を忘却することはできない。
繰り返そう。コミュニケーションは挫折する。
だが,彼ら/彼女らの,成功へ至らんとする束の間の営みそのものは,咲き誇る桜のように美しいはずだ。
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