※このレビューはネタバレを含みます。
「なつかしー」という気分
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年)で山崎貴監督は,彼のお家芸とも言えるVFXを駆使し,“昭和”を想起させる膨大な量のヴィジュアル情報を緻密に再現した。看板のサビや作業衣のシミから雑草の一本一本に至るまで,あらゆるものに刻み込まれた“昭和”という記号を前に,僕らは胸を締め付けられるようなノスタルジーを覚えた。それは今ここにはもう存在しない,失われた時への憧憬に他ならない。そこで表された風景も人情も思想も,今ここにはないからこそ貴重であり,今ここにないからこそ,「ALWAYS」という言葉によって時代を超えた抽象的な価値として普遍化されていたのだ。
『ハイスコアガール 』は,同じく過去の実時代を舞台としながらも,あらゆる点で『ALWAYS』の逆を行った作品だった。時代は平成が始まったばかりの1990年代初頭。トゥーンレンダリングを用いた作画は,原作コミックよりも描線の情報量が少ないほどであり,『ALWAYS』のような細部の記号性は大胆に捨象されている。当然,当時の時代性を表す記号も,各種のゲーム画面と何度か登場する駄菓子屋のみで,かなりミニマルに抑えられている。『ストⅡ』シリーズを中心とした90年代のゲームは,無論,“失われた時代の象徴”などではなく,今の僕らの娯楽の感性と地続きで繋がったものである。
つまりこの作品で描かれているのは,今ここと連続した,“ちょっと昔”の想い出なのだ。それは街で偶然見かけた風景や事物を目にして「なつかしー」と口をついて出るような,カジュアルな気分である。しかしだからこそ僕らは,この作品を“自分の生きた時代”の身近な表象として楽しむことができた。いわゆる“ノスタルジア”と呼ばれるような普遍性を獲得する前の,ささやかだが,愛着の持てる喜劇として楽しむことができたのだ。
ボタン押下の楽しさ
しかも,この作品で語られている「なつかしー」の描き方は実に秀逸だった。
その1つは,「ゲームボタンを押す」という具体的行為への言及である。
この作品では,ボタンの形状や配置,はたまたその故障など,ゲームボタンに関する言及が多い。ここで思い出されるのは,評論家・さやわかの興味深い考察である。さやわかは『僕たちのゲーム史』(2012年)の中で,コンピュータ・ゲームにおける「変わらないもの」,つまりその本質的な要素として,「ボタンを押すと反応する」という極めてシンプルな原理を挙げている。テレビ画面のような,一見,干渉不可能でリジッドに見える対象を,「プレイヤーがボタンを押すことで[…]『意外にも』変えることができる。これがプレイヤーにとっては新鮮な驚きであり,その驚きの体験こそがゲームの核だと言えます」(『僕たちのゲーム史』p.13)
コンピュータ・ゲームの登場以来,キーからボタンへ,さらにはスティックやステアリングやペダルへと,入力デバイスの形状は進化・多様化してきたが,この「ボタンを押すとプログラムが反応する」という原理自体は変わっていないというわけだ。
ところがさらに興味深いのは,さやわかが,2018年に刊行された「ゲンロン8」所収の論考の中で,とりわけXbox360以降のコントローラーの標準化とオンラインゲームの普及により「ボタンを押す」という行為への意識が希薄になっていることも指摘していることである。
「オンラインゲームが主流となり,入力デバイスが標準化された結果,『ボタンを押すと反応する』というゲームの本質が見失われると,何が起こるか。筆者の考えでは,その忘却こそが[…]殺人や多額の金銭授受のようにシリアスな出来事を,手軽に,易々と行ってしまう『ゲームらしさ』(引用者注:現実世界をまるでゲームのように考えて気軽に犯罪を犯してしまう状態のこと)を招くものだ」(『ボタンの原理とゲームの倫理』「ゲンロン8」所収)
ここからさらに,さやわかは情報技術時代における「アーキテクチャの倫理」という問題を暗示しつつ論を閉じるが,その点についての具体的な是非は,今後の彼の議論を待つ他ない。いずれにせよ,さやわかの指摘した「ボタンを押すと反応する」という原理とその「忘却」という問題がリアリティを持っていることは間違いないだろう。
思えば,子どもの頃に初めてコンピュータ・ゲームに触れた時,「ボタンを押す」という行為は今よりも重大な意味を持っていたはずだ。「ボタンを押すとジャンプする」「ボタンを押すとビームが出る」という仕組みに,今よりもっと純粋に感動していたはずなのだ。だからこそ,例えば「ファミコンの四角ボタンが引っかかったまま元に戻らない」といった事故が,「ボタンを押す」という行為の重大性を逆説的に意識させてくれることにもなった。ところが,ゲームパッドの標準化やゲーム自体への慣れが進んでくると,僕らはゲームをしている最中に「ボタンを押している」という意識をややもすると失ってしまう。
『ハイスコアガール 』第1話で,ボタンの外れた筐体の『ストⅡ』をダルシムの小キックだけでクリアした大野を見てハルオが打ちのめされるエピソードや,第8話の「ストⅡX大阪大会」で,ハルオが大野に勝利した後,大野の筐体のボタンが故障していたことを知って失意のどん底に落ちるエピソードなどは,こうした,プリミティブだが本質的なゲーム体験を思い起こさせてくれる重要かつユーモラスな描写だった。ここに「なつかしー」の内実の1つがある。
身体的衝突とラブコメ
もう1つは,「リアルな他者の存在するゲーム空間」である。
もちろん,現在のゲームセンターにもリアルな他者は存在する。しかし『ハイスコアガール』の舞台となるゲームセンターは,ちょっとしたことで対戦相手との罵り合いや乱闘が発生するような,ややダーティな場として描かれる。ローカル色の強い,こうした“ちょっと昔の”ゲームセンターの趣は,少なくとも現在都心に見られる大型のアミューズメント・アーケードのクリーンな空間にはないものだろう。
このリアルな他者との身体的コリジョンという要素が,格ゲー内の出来事がリアルでも起こるというコメディとして活用されているのはもちろんである。しかし本作の真骨頂は,これをラブコメに接続したことなのだ。
大野はどういうわけか極端に無口であり,基本的なコミュケーション方法は「頭突き・肘打ち・裏拳・足踏み・裾つかみ」である。早くも第1話から,大野はプッツンカップルとリアルな格闘を繰り広げ楽々と勝利するのだが,その後のハルオとのコミュニケ―ショにおいても,感情が高ぶるととかく頭突きや肘打ちを食らわす。そしてこれが二人のコミュニケーションの,スキンシップというにはやや痛みを伴う基本モードとなる。
さらに,相手の姿が見えない「対面型」のプレイシーンと,相手との距離が縮まる「協力型」のプレイシーンを導入することで,ハルオと大野の距離感をうまく表しているのもこの作品の特徴である。協力プレイをする間,大野はハルオにお得意の頭突きを繰り出す。ハルオはそこから大野の気持ちを読み取る。実に微笑ましい“対話”シーンだ。
そしてハルオと大野の身体的コリジョンは,第8話の川辺の取っ組み合いでクライマックスを迎える。まるで少年どうしの喧嘩のように殴り合った(というより大野が一方的にハルオを殴ったのだが)後,ハルオのプレゼントした「がしゃどくろの指輪」を握りしめる大野の姿は印象的だった(このシーンは原作と決定的な点で演出が異なる)。この後,二人の距離は一気に縮まるのだ。
最終話,ハルオの母の奸計により二人がホテルの同室に泊まることになった時,“それらしきこと”が何もなかったというのも,これまで繰り返されてきた身体的衝突ときれいなコントラストを生み,いかにもハルオ的・大野的で,いじらしく甘酸っぱい純愛を感じさせるエピソードだった。
この作品が“ゲームオタクと超絶無口なお嬢様との恋物語”という無理ゲー設定を主軸としていながら,まるでコトコト煮込んだクリームシチューのようなほっこりとした調和を感じさせるのは,こうした,身体性を丁寧に描きこんだ舞台設定の妙味のおかげである。
さて,アニメはもう一人のヒロインである小春の激白を最後に,唐突に最終回を迎えてしまった。「続きはOVAで」というややズルイ形式をとったわけだが,無論,僕らはこの3人の恋の行く末を最後まで見届ける義務がある。僕らの「なつかしー」に小さなピリオドを打つためにも,しばらく待つこととしよう。
作品評価