※このレビューはネタバレを含みます。
以下,劇場版と併せた評
「排除の論理」という業
僕らは人を排除することで成立するゲームをいくつも知っている。鬼ごっこ,色鬼,フルーツバスケット,かくれんぼ。仲間を除けることで生きることが成り立ってしまうという,とてもとても悲しいルールを,僕らは子どもの頃から体験している。というより,それは人類の歴史に宿命のように張り付いているのだ。鬼と呼ぶのであれスケープゴートと呼ぶのであれ,人はこの悲しい業をこれまでずっと受け入れてきたのだ。
劇場版では,主人公たちが遊ぶゲーム「ノケモン」を,めんまが「除け者=外人」と解釈するシーンがはっきりと描写される。彼女はロシア人とのクォーター(外人)であり,常に輪から排除される疎外感を抱き続けて来た。その彼女を,じんたんたちは自然に迎え入れる。ノケモンの「ともだちこうかん」が無線でなく有線なのは,単なる古風なローテクの演出ではない。それははっきりと目に見え手で触れることのできる“絆”なのだ。にもかかわらず,死の運命が,めんまを決定的に輪の外へと除けてしまう。
何故めんまは銀髪碧眼なのかー親子という容赦のない絆
ところで,この作品は,2つの対照的な親子の絆を描いている。じんたんの父は,ややエキセントリックな親子関係を築き,あたかも放任主義であるかのように見えるが,その実,息子の一挙手一投足まで把握している愛情豊かな父親である。亡くした母の愛情分をさりげなく補う,まさに心の絆だ。一方,めんまの母は,じんたんたちに排他的な振る舞いをするが、それは娘を失ったショックからだけではないだろう。彼女の髪と眼の色が暗示するように,彼女自身も,娘と同じような疎外感をかつて経験したはずなのだ。遺伝という容赦のない絆。娘の死後も継続する,閉鎖的で排他的な絆はそこから生まれたのだろう。
僕らが銀髪碧眼の“めんま”という儚げなキャラ造形を見て切ない気持ちになるのは,疎外というものを否応なく生み出す人の業が悲しいからではないだろうか。このアニメがかくれんぼのシーンを基調としているのは,かくれんぼが人の業の象徴であり,悲しいからだ。
かくれんぼは終わらせなければならない
しかし僕らは,除け者を除け者のままにし続けてはいけない。全員が鬼に見つかり,鬼と人の区別がなくなった夕暮れ時を,手に手をとって家路につかなければならない。かくれんぼは終わらせなければならないのだ。
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