※このレビューはネタバレを含みます。
京アニの実力
この作品に関しては,放映時から「作画や音楽がすごいのは認めるが,ストーリーは...」という意見をよく見かけた。しかし,映像作品であるアニメには,“ストーリー”では表現仕切れない様々なレベルのメッセージがある。
とりわけTVのシリーズアニメにおいて,作画と音楽をあの水準にまで高め,視覚と聴覚で繊細な心理を描写し切る技術はやはり賞賛に値する。第7話の日傘水面ジャンプ(図1参照)は息を呑むほど美しかったし,第6話の成長するヴァイオレットの表情の変化(図2参照)は絶妙だったし,第9話のヴァイオレットの「自己発見」(図2)の後の音楽のブレイクも驚いた。そもそも,アニメは“画で伝えるメディア”なのだ。
R.S.I
さらにこの作品は,メディア論的に見ても面白いテーマを提示していた。主人公ヴァイオレットが“タイピング”という職を生業とした経緯である。これを説明するにあたり,ジャック・ラカンの有名な ーそしていささか難解なー「現実界・象徴界・想像界(R.S.I)」という概念組みを援用してみよう。
当初ヴァイオレットは,「少佐に会えない」という強烈な「不在」の感覚に苦しんでいる。この時,ヴァイオレットには,すべての言語が“命令”(コマンド)にしか聞こえていない。「命令→行動」という閉じた回路は,(少なくとも戦争状態にない平時においては)命令の発信者と受信者との間に即時的な関係しか作らないという点で,より複雑な社会的コミュニケーションの用途(つまり言語)とは本質的に異なる。真の言語的コミュニケーションが欠如した状態で,彼女は乳児のように「少佐のいる想像の世界」に生きているのである。
それはある意味では幸せな想像だが,彼女が現実世界で成長を遂げていくためには「想像界」にとどまっていてはいけない。言語によって他者と関わり,「象徴界」へと参入していかなければならないのだ。
「愛してる」という象徴の世界へ
そこで重要となるのが,少佐の残した「愛してる」という言葉である。少佐は今際の際にこの言葉を彼女に伝えたのだが,「想像界」に生きるヴァイオレットには,まだ命令以上の言語的抽象概念,すなわち「象徴界」が理解できない。彼女の精神は社会的に共有された「言語=大文字の他者」を理解できる段階に至っていないのである(「愛」が常に他者を媒介とする極めて抽象的な概念であることは言うまでもない)。しかし理解できなければ,少佐の伝えたかった真意を知ることもできない。
「自動手記人形」という仕事は,こうした彼女の心の要請に,ものの見事にはまったのだ。彼女は,様々な人々との出会いを経験しつつ,他者の手紙のタイピングという特殊な言語活動を営みながら,「愛してる」という「象徴界」を帰納的に理解していくことになる。
僕らは手紙を極めて個人的な行為と考えているため,人に代筆させることなど夢にも思わない。しかしそれは,識字率がこの上なく高い現代日本に生きているからだろう。何らかの事情で自筆が出来ない人が多かった時代,手紙を書くという行為は今よりもプライベートではなかったかもしれない。「愛」という個人的な思いを,代筆という作業を通して共有し,「言語=大文字の他者」へと参入する契機を得られたことが,彼女にとって最大の幸福だったと言える。
突きつけれらた「現実界」
しかしヴァイオレットは,「象徴界」を理解するために,少佐の“死”(アニメでは生死不明の状態)という「現実界」を知り,「想像界」と決別するという代償を支払わされることになる。それは彼女にとって辛く悲しいことではあるが,彼女の現実世界における物語が始まる契機でもある。
2020年の新作劇場版公開がすでに発表されている。彼女が「愛してる」という象徴の世界をどう理解し,それをどう他者と共有するのか。京都アニメーションフルパワーの劇場版を楽しみに待ちたい。
作品評価
*『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝ー永遠と自動手記人形ー』(2019年)と『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2020年)に関しては以下の記事を参照頂きたい。