※このレビューはネタバレを含みます。
何と言っても『天元突破グレンラガン』(2007年)『キルラキル』(2013年)のゴールデンコンビ,今石洋之×中島かずきのオリジナル劇場アニメである。期待が高まると同時に,この2人がタッグを組んだ以上,作品の方向性については良い意味でも悪い意味でもある程度の見当が付いてしまう。劇場アニメラッシュのこの2019年。果たして彼らの“新作”は耳目を驚かす作品となり得たか。
- デザインの思想:色彩と幾何学的構図
- 異能者=マイノリティのカリカチュア
- 機械仕掛けの神:“御都合主義”を取り込んだネーミングのセンス
- そして“超展開”へ:澤野弘之の力
- 俳優か,声優か:松山ケンイチ,早乙女太一,堺雅人の力
- 作品評価
デザインの思想:色彩と幾何学的構図
突如突然変異で誕生した,炎を操る種族「バーニッシュ」。彼らの登場は世界の大半を燃やし尽くす「世界大炎上」の引き金となった。それから30年後,彼らの一部は「マッドバーニッシュ」と名乗るテロリスト集団と化し,各地で火災事故を引き起こしていた。彼らの火災を鎮火すべく,自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトは高機動救命消防隊「バーニングレスキュー」を組織。ある日,その新米隊員であるガロ・ティモスは,「マッドバーニッシュ」の首魁リオ・フォーティアと出会い,激しく対立し合うのだが…
熱い。あらすじだけでも端々の細胞が発火しそうだ。今石×中島コンビ十八番の〈熱い男たちのぶつかり合い〉を,比喩も例えも使わずに〈物理的炎と魂の炎のぶつかり合い〉として描いた,この上なく熱い作品だ。
ところが意外なことに,本作における炎の色は,赤熱(灼熱)の色というよりは柔らかなピンクに近い。視覚的効果だけに限って言えば,“悪魔が焼き尽くす”というよりは,“イカが塗りつぶす”ようなポップな印象だ。それだけに,一般的な炎のイメージとはかけ離れた異常な配色であると言える。
キャラクターデザインのコヤマシゲトによれば,これは作品のライトモチーフである〈炎〉の特殊性,およびキャラクターデザインや背景美術等とのバランスを考慮した上での色彩設計上の配慮である。
“この世のものではない炎”とは一体どんな色なのか,今石監督とずっと考えて,赤,黄色とかオレンジ,温度が上がれば青とか,リアルな炎やほかの配色もいろいろ試した上で決めました。赤とかオレンジの炎だと,照り返しを受けたキャラクターもその色に染まってしまうので,どんどん画面が普通になっていくんです。炎はこの作品のキーになるものでもあるので,このくらい変な色じゃないと,ぶっ飛んでる感が出ないんですよね*1
今石とコヤマの意図にあったかどうかはわからないが,この淡い炎の配色は,結果として「人はなるべく殺さない」というマッドバーニッシュの信条にマッチする効果も持っていたように思う。そう,この世界の〈炎〉は異常であり,かつ優しいのだ。
一方,主人公ガロのキャラクターデザインも面白い。「火消し」という職種に合わせてのことだろうか,彼の髪や目の色は青系で統一されている。ところが,その目の虹彩には,バーニッシュの炎と同じ色が差し色として加えられているのだ。「燃える魂」というガロの内面を端的に視覚化した細やかな色彩設計である。
また,事物や構図に幾何学的なモチーフが用いられているのも本作の特徴だ。コヤマによれば,監督の今石は「すべてのデザインにロジックを求める」のだという。*2 映画を観れば一見してわかることだが,クレイを代表とする体制側の描写には四角形を,リオを代表とする反体制側の描写には三角形を使用するという規則性がある。この規則性が「ロジック」ということだ。これを今石はキャラクター,メカ,建造物から各種エフェクトに至るまで,厳格に守り通している。これは“四角形”“三角形”そのものに意味づけがなされているというよりは,敵/味方の二項対立をジオメトリカルに描出することでビジュアルの隅々にまで浸透させる,という効果を持っていたように思う。対立構図をキャラクターの行動やセリフのみに担わせることなく画面全体に行き渡らせる秀逸なアイディアだ。
キャラクターも背景も色彩的ディテールの少ないベタ塗りで,かつ目にもとまらぬめまぐるしいアクションが大半を占める作品ではあるが,細部のデザインには今石の思想が色濃く現れている。
異能者=マイノリティのカリカチュア
先述した通り,バーニッシュの〈炎〉は本来,優しいピンクだ。彼らは普通の人と同じように人を思いやり,普通の人と同じように穏やかな生活を望んでいる。
しかし彼らはその特殊能力故に,“普通の人”から忌み嫌われ迫害されている。それどころか,クレイらによって,科学研究の名の下に人体実験の対象にされてすらいる。リオをリーダーとするマッドバーニッシュが怒りの炎を燃やすのは,そうした〈普通=体制〉の側による理不尽な圧制があるからだ。
ここには〈マイノリティ〉にまつわる問題系が潜んでいる。もちろん,バーニッシュ=マイノリティ自体が問題なのではない。彼らは偶さか並行宇宙の「炎生命体」とリンクしてしまい,発火という運命に囚われてしまっただけだ。問題なのは,彼ら〈マイノリティ〉に対する〈マジョリティ〉の振る舞い方である。
人は少数者への迫害をどう乗り越えるのか。数の差が力の差となる人間社会において,両者に真の平等は訪れるのか。いつの日か,文化や価値観の差異は当然のこととして社会に織り込まれていくのだろうか。こうした問題系に,『デビルマン』や『寄生獣』などの過去作品を連想する人もいるだろう。あるいはそれは,人類史における民族差別や現代のテロリズムの発生という問題にもつながる,普遍的なテーマであるとも言える。もちろん,今石×中島はこの問題提起に対して何ら明確な答えは出していない。彼らの作品は思想書でもなければ指南書でもなく,純然たる娯楽作品なのであり,〈マイノリティ〉を巡る問題提起の系譜に棹差した時点で,その役目を終えてよいし,またそうするべきだからだ。むろん,その先の考察は我々観客に委ねられている。
機械仕掛けの神:“御都合主義”を取り込んだネーミングのセンス
さて物語は終盤,〈体制vs反体制〉という軸に〈地球を見捨てる者vs地球を救う者〉という軸が交差することにより,急展開していくことになる。
実は地球は,並行宇宙に存在する「炎生命体」とコアがリンクすることにより,マグマが地表に噴出し,壊滅する危機に瀕していた。そのことを知った司政官のクレイ(実は彼もバーニッシュだったことが明かされる)は,バーニッシュの炎の力を利用して巨大な宇宙船を作り,選ばれた1万の市民とともに外宇宙へと逃げようとしていたのだ。ここに至り,〈クレイ&ガロvsリオ〉という構図は〈クレイvsガロ&リオ〉という構図へと一変する。
異能者でありながら少数の異能者を蔑み,やがて自ら矮小な選民思想へと堕していくクレイの皮肉な末路。
ガロとリオはまったくの偶然で,デウス博士のところに辿り着く。デウス博士はかつてバーニッシュの研究者だったが,その研究成果を狙うクレイに殺され,現在は意識をコンピュータに遺し,意志だけの存在として生きながらえている。彼はたまたま通りかかったガロとリオに巨大ロボットを託し,「クレイを止めて欲しい」と嘆願する。
ガロもリオも,“選ばれた伝説の勇者”などではない。デウス博士も彼らの登場を待望していたわけではない。単に“偶然通りかかった”だけである。何という御都合主義だろう。しかしここで今石×中島のセンスが光る。なんと彼らは事もあろうに,デウス博士が作ったロボットを「デウス・X・マキナ」と名付けたのだ。
周知のように,「デウスエクスマキナ」とは「機械仕掛けの神」と訳される,古来からある演劇の手法である。物語の終盤に超越的な存在が突如姿を現し,難局を解決するという,大変都合のよい手法であり,要するに“御都合主義”的解決のことに他ならない。『プロメア』は,〈巨大ロボット同士の対決で物語を落着させる〉といういつも通りの手法を採用しながら,そこに予想される「御都合主義だ」という批判も作品内に取り込むことで,ある種の自虐的な笑いのネタにしてしまっているわけだ(日本人の観客はおとなしいので,上映中に笑い声が漏れることはなかったが,欧米なら爆笑間違いなしの演出だろう)。
ところが,ここから先がさらに面白い。「デウス・X・マキナ」のデザイン(それはまるで,コヤマ自身が手掛けたベイマックスの劣化版のようだ)に不満を持ったガロは,リオのエネルギーを利用して「リオデガロン」というカッコいいロボットに変形させるのだ。この「リオデガロン」のデザインに関してコヤマシゲトは「完全に“いつものヤツ”です(笑)」と自嘲気味に語っている。*3
「御都合主義」を作品内に取り込んだかと思えば,それを早々とスタイリッシュなデザインに変幻させてクライマックスに持ち込む。これほど鮮やかな軽業はなかなかお目にかかれるものではない。
そして“超展開”へ:澤野弘之の力
物語は,超巨大化したガロとリオのロボットが「炎生命体」の「燃やしたい」というエネルギーを完全燃焼させ,地球のコアから立ち去らせるという,やや“超展開”気味の結末を迎えることになる。仮にこれが,視聴者が1話毎に作品を客観視するTVシリーズなどであれば,やはり「超展開だ」という謗りを免れなかったかもしれない。しかしここで,2時間という映画の尺と澤野弘之の劇伴が効いてくる。観客は冒頭のシーンから,圧倒的スピード感で展開されるアクションシーンと,それに随伴する澤野弘之の劇伴に持続的に晒され,この作品の強引なリズム感に慣れ切ってしまっている。むしろ多少の超展開であれば,心地よいグルーヴ感として受け入れられる下地が出来上がっているのだ。
ところでこれはあくまでも僕の感覚なのだが,これまでのTVシリーズアニメや劇場アニメで澤野の楽曲が使われた例では,ほんの僅かな違和感を覚えることが少なくなかった。やや浮いているというか,作品のコンセプトよりも先を走っているような感覚があったのだ。ところが『プロメア』では,作品のスピード感と彼の楽曲は完璧に同期していた。澤野の楽曲の功績はとてつもなく大きかったと言えるだろう。
俳優か,声優か:松山ケンイチ,早乙女太一,堺雅人の力
最後に,キャストの演技にも言及しておこう。ガロ役の松山ケンイチ,リオ役の早乙女太一,クレイ役の堺雅人は,中島かずきが所属する「劇団☆新感線」の舞台に出演した経験のある役者であり,いわゆる専門の声優ではない。通常,専門の声優以外の俳優をキャストとして起用する際には,コアなアニメファン以外の観客への訴求力に加え,“声優には出来ない素人感”のようなものを狙いとしていることが多い。しかし今回はまったく違う結果となったと言っていいだろう。新感線の舞台で培った彼らのスピード感覚と熱い演技が,そのまま本作でも活かされていたのだ。つまり,宣伝効果のような外的要因とは差し当たり関係なく,彼らの演技が作品の本質と不可分になっていたと言える。
これはひょっとすると,アニメのキャスティングにおける新しいオプションとなり,劇場アニメのみならず,TVシリーズにも影響してくるかもしれない。やや厳しい言い方をすれば,専門の声優たちが等閑視できない状況かもしれないのだ。
最初の問いに戻ろう。『プロメア』は耳目を驚かす作品となり得たか。
僕が出す答えは明快だ。『プロメア』は良い意味でも悪い意味でも「期待を裏切る」ことはなく,「期待したものをはるかに上回る」という形で観客に応えた作品となった。これは,すでに評価の定まったクリエイターが新作を作る際の,一つの解になったのではないかと思う。
作品評価
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