綾波レイ,月野うさぎ,ウテナ,プリキュア,鹿目まどか…
この国では〈戦う少女〉たちの姿が幾度となく量産され再生産され続けてきた。彼女たちにつきまとう〈セクシュアリティ〉という記号は不変か,それとも可変か。
〈戦闘美少女〉のセクシュアリティ
かつて斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』の中で,日本のマンガ・アニメにおける〈戦闘美少女〉の類型に注目し,そこに日本のオタク文化特有の「多形倒錯的なセクシュアリティ」の存在を指摘した。*1 確かに日本のマンガ・アニメ文化には,主にこの2つのメディアにおいて自律的に反復され強化された〈戦闘美少女〉という類型が存在する。それは欧米流のタフなアマゾネス風のヒロインとは異なり,“高い戦闘能力を有しながらも同時に可憐である”というある種の矛盾を孕んだ特殊な類型であり,現在進行形で生み出されているマンガ・アニメのヒロインの多くが,この類型の伝統を継承していることは否定できない。
しかし一方で,斎藤の前掲書出版からすでに20年近くの歳月が経ち,今やマンガ・アニメをめぐる表現の事情も大きく様変わりしていることも間違いない。マンガ・アニメにおけるヒロインの表象は多様化し洗練度を増し,相変わらず〈セクシュアリティ〉という要素を部分的に担いながらも,もはやそれを中核とはしない様々なヴァリアントが生まれているのではないか。
『鬼滅の刃』竈門禰豆子:〈不動明〉の系譜
ごく最近の例を挙げるとすれば,『鬼滅の刃』(2019年)の竈門禰豆子が面白い。主人公・炭治郎の妹である禰豆子のデザインは明かに“美少女”のそれであり,とりわけアニメにおいてはその〈セクシュアリティ〉の記号も明確である。この点に関しては監督の外崎春雄の言葉が興味深い。
体つきに関しては,鬼になっても女の子らしい雰囲気を損なわないようにしています。[原作者の]五峠先生の画は『むちっとした身体のデザイン』も特徴の1つかと思うので,そこを大事にしようと。禰豆子は着物を着ているので,ふくらはぎや脚の描き方をこだわろうと思いました。*2
外崎が禰豆子の〈セクシュアリティ〉をはっきりと意識してデザインを指示していることが明らかだ。
その一方で,禰豆子というキャラクターの最大の魅力は,その文字通りの“鬼の形相”にあり,この点が従来の戦闘美少女の〈可憐さ〉とは一線を画したデザインになっている。さらにヒロインである禰豆子に宿敵である「鬼」の力を持たせることで,単純な勧善懲悪の図式を崩し,「鬼と人との間にあるキャラクター」という位置づけにしたことも重要である。「敵と戦うために敵の力を手に入れたことにより,敵と味方の間に立たされる」という運命は,永井豪の『デビルマン』(マンガ・アニメ共に1972-1973年)の主人公・不動明の造形を継いでいる。
「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」:〈戦闘美少女〉の死
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(2018年)の主人公ヴァイオレットは,(少なくとも見た目上は)華奢な身体や抑制された感情表現などによって,『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996年)の綾波レイの系譜に連なるキャラ造形であり,その意味で典型的な〈戦闘美少女〉の伝統を間違いなく継承している。両者とも戦闘時に負った物理的外傷をアイコン(ヴァイオレットは義手,綾波レイは包帯)としているの点も示唆的である。
しかし彼女が紛れもない〈美少女〉として描かれていながらも,そのデザインからはセクシュアリティの要素が慎重に排除されている点は重要だ。いかにも良家の子女然とした彼女の風貌は,アニメのヒロインの平均値からすれば明らかに肌の露出度が低く,まるで人形のような存在感である。*3
外伝の『永遠と自動手記人形』(2019年)においてヴァイオレットが“男装の麗人”として登場するのも興味深い。これは両性具有への欲望のような〈多形倒錯的セクシュアリティ〉というよりは,いわば“宝塚の男役”的な〈ユニセックスな美〉の表象と言えるのではないか。
そして決定的なのは,ヴァイオレットが〈戦闘美少女〉の類型伝統を継ぎながらも,戦闘そのものを放棄したヒロインであるという点である。彼女は原則として,終戦後に迎えた平時において戦闘をしない。その代わりに,他者の手紙の代筆を通して「愛してる」という言葉の象徴的な意味を探し求めるという,この上なく“非戦闘的”で“文系的”な営みが彼女の人生を満たしているのだ。
これからもマンガ・アニメはセクシュアリティを核にした〈戦闘美少女〉を量産し続けていくだろう。しかしその一方で,禰豆子とヴァイオレットの例からわかるように,セクシュアリティ以外の要素を含み込むことでセクシュアリティの軛から放たれたヒロイン像が産み出されていくことも容易に想像できるのだ。