アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

アニメレビュー雑感:生きろ,そなたは愉しい。

『天空の城ラピュタ』『エヴァンゲリオン』『魔法少女まどか☆マギカ』ーーこういった過去の傑作を前に必ずと言っていいほど繰り返される“語り尽くされた”という常套句。実は僕はこの言葉が好きではない。

ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940年)は,文学作品の「死後の生(Fortleben)」という,実に気の利いた言葉を好んで使った人だ。1921年に書かれた『翻訳者の課題』の中で,彼は翻訳と原作との原理的な関係を以下のように述べている。

[…]翻訳は原作から生まれる。しかも,原作の生〔生きること〕(Leben)からというよりも,原作が「生き延びること(Überleben)」から生じているのだ。なにしろ,翻訳とは原作よりも後に生まれるものなのだから,そしてまた,翻訳は重要な作品──それが成立した時代にはより抜きの翻訳者など望むべくもなかったのだが──がその死後においてもなお「生き続ける(Fortleben)」段階を示すものなのだから。*1

文学作品はそれが完成した瞬間に,化石のごとく時代という地層に固着してしまうわけではない。むしろ作者の死後,原作は時代の価値観の変遷とともに,その都度のコンテクストにおける相対的内実を変化させていくのだ。したがって,「作品の死後の生」は歴史と不可分である。

ところで,これはベンヤミンの悪い癖なのだが,彼は「作品の死後の生」が行き着く未来に「純粋言語」なる怪しい神秘主義思想を設定するため,そのシンプルかつ力強いアイディアが晦渋さというヴェールに覆い隠されてしまう。しかしその実,彼の言っていることは,作品とその歴史に関して僕らが持っている観念からさほど乖離しているわけではない。

作家の時代には,場合によっては彼の詩的言語の傾向であったものが,後の時代には用済みのものとなってしまうこともありうるし,内在的傾向が形成物としての作品から新たに浮かび上がることもありうる。当時若々しかったものが,後の時代には使い古された響きとなることもあるし,当時一般的な言葉が古めかしい響きになることもある。*2

原作そのものは見た目上変化しない。しかしその時代ごとの相対的な意味は常に更新されていくだろう。翻訳はそうした変化そのものを記述する機能を持っている(したがって翻訳も常に更新されることになる)。「翻訳においてこそ,原作の生は,つねに新たな状態での最終的な,そしてもっとも包括的な発展段階に到達する」。*3

そして無論,この「翻訳」という言葉を,ベンヤミン自身が生業としていた「批評」と置き換えることには何の問題もない。というより,「作品の死後の生」という考え方から,彼の“神秘主義的言語観”というアクを完全に抜くのであれば,むしろ「批評」にこそよく当てはまるのだと言える。

作品の批評は,その都度の時代の価値観を担った主体が行う。当然,時代ごとに異なる評価が生まれ,その変化が作品の「死後の生」を形成する。だとすれば,ある作品に関し“語り尽くされた”と言い切ることは,その作品の死亡宣告をしたに他ならない。

無論,同じことはアニメ作品のレビューについても言える。

近年の日本のアニメ制作の事情を見てみるに,多くの作品が一過性の消費物として制作されている感は否めない。だから多くの人が“語り尽くされた”“オワコン”と言った常套句を遠慮会釈なく口にする。

しかしどうだろう。日本初のカラー長編アニメ『白蛇伝』(1958年)が誕生してから半世紀をとうに過ぎた今,アニメが「死後の生」を生きるのに十分な〈歴史〉がすでに熟成したと言っていいのではないだろうか。傑作・駄作を問わず,新たな文脈で過去の作品群を語り,その「死後の生」を形成していこう。“語り尽くされた”などと知った風なことを言う輩を笑い飛ばしながら,かつての作品たちに命を吹き込もう。僕らのレビューはいつも自由で新しいのだ。

アニメとともに生きろ,アニメは愉しいのだから。

 

*1:ヴァルター・ベンヤミン『翻訳者の課題』[山口裕之訳『ベンヤミン・アンソロジー』2011年,河出書房新社所収]

*2:前掲書

*3:前掲書