アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

OP・EDに神々は顕現す:アニメの〈作者〉をめぐる一考察

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『SHIROBAKO』#02「あるぴんはいます!」エンディング・アニメーションより引用 ©「SHIROBAKO」製作委員会

アニメ作品を多く鑑賞すればするほど,プロット,キャラクター,美術といった構成要素の中に,ある種の“既視感”を覚える頻度が増していく。これはアニメオタクを長く続ける者の宿命と言っていいだろう。リアタイ視聴時,SNS上に散見される〈パクリ〉〈オマージュ〉という言葉は,この“既視感”の正体をなんとかして同定しようとするアニオタ大衆の切なる願いを表しているかのようだ。

これはパクリか,オマージュか。

そもそも文化生産物の中に類似の表現を見つけた時,どうして僕らはこう問うのだろうか。

心理分析まがいのことが許されるならば,差し当たりこう答えることができるだろう。オマージュやパクリを認定しようとする言説の背後には,キャラクターやモチーフのオリジナリティへの問いかけがある。そして明示的ではないにせよ,それは暗黙のうちに作者=オリジン(起源)へと遡及していくことになる。

したがって,先ほどの問いは次のように言い換えて差し支えないだろう。

アニメの〈作者〉は誰なのか。

『映像研には手を出すな!』(2020年)や『SHIROBAKO』(TVシリーズ:2014-2015年,劇場版:2020年)などの作品の人気により,アニメ制作の行程や現場スタッフへの注目度が高まっている。アニメの作り手に対する見方は徐々に変化してきていると言えるだろう。しかし,アニメの〈作者〉が誰であるかという問いは,単純なように見えて,その実,アニメという制作物の特性上,明確な答えを得ようとすれば極めて複雑な事情に直面することになる。それは原作者なのか,監督なのか,制作会社なのか。当然この記事の中で最終的な解を提供することなど不可能であるから,ここでは〈作者〉をめぐるこれまでの議論や法制度などを紹介しながら,「アニメの〈作者〉をどう捉えることができるのか」について,〈模倣文化〉〈作者の複数性〉という点から考察していきたいと思う。

“死刑宣告”から“機能分析”へ:〈作者〉言説の2つの起源

まず昔話から始めよう。とはいえ,『赤ずきん』や『いばら姫』のような民謡と比べれば,はるかに〈作者〉の刻印が克明な昔話だ。

1968年,ロラン・バルト(1915-1980年)は「作者の死」という有名な論文を発表する。バルトは,絶対的創造神として文学作品の解釈を決定付ける〈作者〉の特権を無効化し,作品を複数のテクストから成る「引用の織物」とみなす新たな作品概念を提唱する。

一編のテクストは,いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され,これらのエクリチュールは,互いに対話をおこない,他をパロディー化し,異議をとなえあう。*1

そしてバルトは,書かれたものの多元性を1つの〈解釈〉へと落とし込む決定権を,作者ではなく読者に付与する。こうしたバルトの作品概念は,後のテクスト論に道を拓く転換点となったことは言うまでもない。

その翌年の1969年,かつて「人間の終焉」を標榜したミシェル・フーコー(1926-1984年)は,さながらバルトへの“返歌”のような形でーーただし「バルト」という〈作者〉の名には言及せずにーーある講演を行う。題して「作者とは誰か」

この講演の中でフーコーは,バルトの「作者の死」を暗示的に批判しながら,いたずらに作者の消滅を喧伝するばかりでは不十分であると指摘し,〈作者〉という機能が立ち現れる条件を問う必要性を説くのである。

機能としての作者は言説の世界を取りかこみ,限定し,分節する法的・制度的システムに結びつく。それは,あらゆる言説の上で,あらゆる時代を通じて,文明のあらゆる形態において,一律に同じ仕方で作用するものではない。それは,ある言説をその産出者へと自然発生的に帰属せしめることによって定義されるのではなく,特殊で複雑な一連の操作によって定義される。*2 

フーコーらしい迂遠な表現に満ちた語り口だが,要するに彼の立場とは,〈作者〉という特殊な機能が誕生する制度的な条件とその歴史的変遷に目を向けよ,というものである。確かに,「作者は消滅した」と謳うばかりでは,相変わらず〈作者〉をめぐる言説が存在するという事実を説明できない。〈作者〉が特権的な機能を持つならば,それがなぜ,どのように立ち現れてきたかを詳らかにすることが肝要だろう。

これは大変魅力的な問題提起なのだが,残念ながら,フーコーはこの後〈作者〉という機能の分析を体系的に推し進めることをしなかった。しかしバルト×フーコーの議論のインパクトが,その後の作品論・作者論に大きな影響を与えたことは確かである。

例えば,フーコーのこのような問題意識に触発されて書かれた一冊の優れた書物がある。甘露純規の『剽窃の文学史』(2011年)は,「テクストを他のテクストから裁断し,作者が支配する閉ざされた世界に変える制度的な境界」*3 の生成過程を明らかにし,日本文学において近代的な作者・作品・オリジナリティの概念が誕生した経緯を描写する。甘露によれば,そうした変化が生じる「ターニングポイント」が明治時代にあるという。 

古来,和歌の本歌取りや江戸時代の文学作品などに見られるように,日本の文化伝統の中では,既存作品の模倣は今よりも盛んに行われており,比較的肯定的な捉え方をされていた。ところが明治時代に入り,イギリスとフランスから著作権の思想が導入され,やがて明治三十二年(1899年)に著作権法が制定されるに至り,剽窃や作者・作品のオリジナリティに関する考え方が大きく様変わりしていく。甘露は報道,批評,裁判記録などの膨大な資料を具に分析しながら,この変遷を鮮やかに浮かび上がらせていくのである。 

甘露は自著を「あやしげな仕事」と自嘲気味に語るが,その実,大変スリリングかつインフォーマティブな書物である。剽窃と法制度について興味のある向きには,ぜひ一読することをお勧めしたい。

〈パクリ〉認定の欲望:“サンクション”のまなざし

『剽窃の文学史』における言説分析が明らかにしているように,明治以降の日本文学史において〈作者〉の機能を強化したのは,とりわけ近代的な法制度である。それは文化生産物の相互に差異を産み出すことで〈著作物〉という固有の財を画定し,〈著作者〉の経済的利益を保護することを目的としていた。

実は,僕らが日常的に見かける〈パクリ〉という言葉の使われ方にも,文化生産物に経済的利害の論理を適用しようとする大衆意識が色濃く現れている。

増田聡の『真似・パクリ・著作権ー模倣と収奪のあいだにあるもの』によれば,かつて手形詐欺など経済犯罪の俗語として使われていた〈パクリ〉という言葉は,80年代頃から文化的生産物の模倣・盗作を意味する語に転用されるようになったという。*4 やがて90年代に入ると,欧米文化への劣等感の高まりや,文化生産物を経済的な財の観点から見る「コンテンツ」概念の登場とも相まって,〈パクリ〉は“財の収奪”に対する告発・制裁という含意を濃厚にしていく。「文化は経済的な観点でとらえられるべきである,という支配的な社会意識が,文化の模倣を経済犯罪に類するものとして眺める視線,文化的なものを経済問題に接合しようとする視線をこの時期に浮上させることになった」*5

もちろん,模倣行為が常に否定的に捉えられていたわけではない。増田は〈パクリ〉の最初期の用例として近田春夫の歌謡曲評論を挙げているが,そこではまだ〈パクリ〉が「模倣のセンスを評価する好意的な文脈で用いられる語」として使われていたのは興味深い事実だ。*6

先述したように,日本人には文化生産物を一種の“共有物”とみなし,模倣を肯定的に捉える文化風土があった。思えば,かの岡田斗司夫『オタク学入門』(1996年)の中で,〈パクリ〉を見抜く観察眼の重要性を説き,日本と海外のオタクコンテンツの間に生じた「パクリの系譜」を力説していた。

こうとらえると,いかに文化というものがパクリの上になり立っているかがわかる。むしろ,パクリによってこそ文化は互いに刺激しあい,より進化するのだろう。パクリこそが,創作のあるべき姿,原点といえる。*7

アニメを見る僕らにも,“文化生産物の共有”という観点から,模倣を一種の文化的営為として評価する精神的土壌があるはずだ。作品どうしが影響しあい,模倣しあうからこそ作品はどんどん面白くなっていく。〈パクリ〉という言葉も,そうした相互影響関係を肯定するスラングとして流通していた歴史もありえたかもしれない。ここではそうした相互関係を,ジュリア・クリステヴァ(1941年-)の〈間テクスト性〉にならって〈間作品性〉と呼んでおこう。*8 そもそもアニメ作品は,マンガ,ゲーム,音楽、小説,玩具など複数の媒体が寄り合い,豊かな〈メディアミックス〉が発生している場である。それぞれのジャンルの中で培われた表現形式がアニメという作品の中で合流している。アニメを,単一の閉じたメディアとみなす思考は,アニメという特性の大部分を捉え損なうだろう。*9

ところが,岡田のような“パクリの啓蒙”があったにもかかわらず,現在この言葉はもっぱら“他者の財の収奪”という否定的なニュアンスで用いられている。そこには,〈パクリ〉という言葉が本来持っていた犯罪制裁的な含意が現在でも継承されていることを表している。試みに「アニメ パクリ」というキーワードでGoogle検索をしてみると,2020年3月現在で約12,600,000件のヒットがあるが,その大半が〈盗用〉という経済犯罪的ニュアンスで用いられていると言ってよいだろう。

www.google.com

僕らがアニメを鑑賞しながらカジュアルに口にする〈パクリ〉という言葉の語法には,作品を所有財とみなし,その収奪に対して制裁するという意識が確かに存在しているのだ。 

アニメの〈著作者〉と〈著作権者〉

意識的にせよ無意識的にせよ,〈パクリ〉という物言いをする時の僕らのまなざしには,アニメを固有の財と認定し,それを特定の権利者=著作者に帰属させようとする意識が働いている。であるならば,ここでアニメ作品の法律上の権利者が誰であるかを確認しておくことは無意味ではないだろう。*10

周知の通り,アニメ制作には監督・脚本家・キャラクターデザイナー・美術監督など複数の制作スタッフが関わっているために〈著作者〉の規定が複雑である上,〈著作者〉と〈著作権者〉が分離するという特殊な事情もあり,その全容を把握することは極めて困難である。ここでは著作権法の基本的な規定を紹介するに留め,個々の事例に関する専門的な議論には立ち入らないでおく。

著作権法上,アニメ作品は「映画の著作物」とみなされる。

著作権法 16条(映画の著作物の著作者)  

映画の著作物の著作者は,その映画の著作物にお いて翻案され,又は複製された小説,脚本,音楽その他の著作物の著作者を除き,制作,監督,演出,撮影,美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし,前条の規定の適用がある場合は,この限りでない。

この規定に従えば,監督だけでなく,演出家,キャラクターデザイナー,美術監督など複数の人が〈著作者〉と認定されることになる。

ちなみに「前条の規定」とは,「著作権法第15条1項」における「職務著作」の規定である。

著作権法 15 条(職務上作成する著作物の著作者)

① 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で,その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は,その作成の時における契約,勤務規則その他に別段の定めがない限り,その法人等とする。(以下省略)

したがって,監督や演出家がどれだけ著名であったとしても,アニメ制作会社という「法人」の一社員として制作に携わっている限りは〈著作者〉とみなされることはない。この場合はアニメ制作会社が〈著作者〉と認定されることになる。

このように規定される〈著作者〉には,「無断で著作物を公表されない公表権(著作権法 18条),氏名表示・非表示を要求することができる氏名表示権(著作権法 19 条),無断で著作物を改変されない同一性保持権(著作権法 20 条)」*11といった「著作人格権」が認められることになる。

一方,〈著作権者〉に関してはさらに事情が入り組んでいる。

著作権法 29 条(映画の著作物の著作権の帰属)

① 映画の著作物(第 15 条第 1 項,次項又は第 3 項の規定の適用を受けるものを除く。)の著作権 は,その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは,当該映画製作者に帰属する。(以下省略)

 ここで「制作者」ではなく「製作者」と定義されていることに注意である。「制作者」とは,実際の作業によってアニメ作品を創作する者を指し,「製作者」とは,企画立案と資金提供をする者を言う。「映画製作者」に関して著作権法は以下のように定めている。

著作権法 2 条(定義)

① この法律において,次の各号に掲げる用語の意義 は,当該各号に定めるところによる。

(中略)  

十 映画製作者 映画の著作物の製作に発意と責任を有する者をいう。(以下省略)

「映画製作者」すなわち「映画の著作物の製作と発意と責任を有する者」は,アニメ制作のビジネスモデルによって規定の仕方が異なる。以前主流だった「広告収入方式」(スポンサーが広告代理店を通してテレビ局に支払,テレビ局がアニメ制作会社に支払う方式)では,〈著作者〉であるアニメ制作会社がそのまま〈著作権者〉となる。しかし,現在主流となっている「製作委員会方式」では,製作委員会の参加者(出資企業)に〈著作権者〉としての権利が帰属する。*12

このように,アニメを〈著作物〉という法的・経済的に固有の財と捉え,それを〈著作者〉に帰属しようとした時,極めて複雑な手続きが関わってくるのである。

神々の集う場所

アニメ作品の〈パクリ〉認定とは,ある意味,こうした法的・経済的な〈作者〉〈作品〉規定への遵法精神の表れである。それは,欧米発の著作権思想が大衆レベルで浸透した証左と捉えることもできるが,アニメ文化の発展という観点から見て,はたして無条件に歓迎できる事態なのだろうか。

僕は〈パクリ〉言説が横行することにより,アニメという文化生産物をもっぱら著作権法の規定通りに捉えることには,2つの問題があると考える。

1つは,先述した〈間作品性〉の喪失という問題である。

先述したように,1つのアニメ作品は,アニメ相互の影響関係のみならず,マンガ,音楽,小説などの複数の媒体による〈メディアミックス〉によって成立している。ジャンルや媒体を超えた流動的な相互影響により,アニメは複数の雑多な価値感を吸収しながら豊に発展してきた。出自からして〈間作品〉的産物であるアニメは,〈流動性〉と〈複数性〉が理想的な形で実現する場なのである。

山田奨治『日本文化の模倣と創造 オリジナリティとは何か』(2002年)の中で,「独創」を近代の「オリジナリティ神話」であるとして批判的に検証し,日本文化における「再創」,すなわち〈模倣〉という文化的価値観を再評価することを提案している。「先達のまねをすることで,技,心,リテラシーを獲得することができる。そして自己以外のものを排斥するのではなく,コミュニティでの共栄をはかる。この共有,模倣,共栄が再創主義のかなめである」*13 

〈模倣〉は,文化を成長させる重要な契機である。むろん,だからと言って,すべての〈パクリ〉を許容せよと言いたいわけではない。アニメ業界のパクリは容認度が高いと主張したいわけでもない。明らかな剽窃行為はやはり糾弾すべきであろう。しかし僕らがカジュアルに〈パクリ〉という言葉を使って批判めいた物言いをする時,あまりにもナイーブに,アニメという文化生産物を法的・経済的な裁定の場に引っ立て,アニメ作品が本来持つ豊潤な複数性を,制度的な〈作者〉の単数性の檻に閉じ込めてしまってはいないか。〈パクリ〉言説は,〈間作品性〉〈流動性〉〈複数性〉〈再創〉という豊かな契機を法的制裁の名のもとに圧殺してしまう可能性がある。僕らは〈パクリ〉という言葉の使い方を省みて,むしろアニメの作品間の〈パクリ〉を楽しむ精神的な余裕を持つべきなのではないか。 

ちなみに,僕がこれまでに〈ヴァリアンツ(変異型)〉という言葉でいくつかの記事を書いてきたのも,アニメ作品のこうした〈流動性〉という特質と無関係ではない。 

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もう1つは,アニメの〈作者〉の捉え方に関わる問題だ。

先述した通り,著作権法上,アニメは「映画の著作物」と定義される。では,アニメの〈作者〉は,映画の〈作者〉と同じなのだろうか。

よく言われることだが,アニメーションと実写作品の違いは,創作部分と偶然性との割合の差にある。実写においては,役者の演技や風景などに偶然の揺らぎが生じやすい。言い換えれば,監督という制作主体が意図しない要素が入り込む余地がある。一方,アニメにおいては,人物の表情,水のせせらぎ,木の葉の揺れ,タバコの煙の動きといったものも含め,画面の隅から隅までがほぼ創作であり,偶然性の入り込む余地がほとんどない。つまりアニメは〈ほぼ全ての要素を誰かが創作している〉という点において,極めて特殊な媒体なのである。

その結果,アニメの鑑賞方法も映画とは趣を異にする。例えば『天元突破グレンラガン』(2007年)という作品を例にとってみよう。作品の放映後,アニメライターの小黒祐一郎が編集する「WEBアニメスタイル」上で「今こそ語ろう『天元突破グレンラガン』制作秘話!!」という特集が組まれ,監督の今石洋之と大塚雅彦によって制作秘話が語られた。ここではストーリーだけでなく,各話のコンテや作画などについてかなりマニアックな解説がなされている。また本作のDVD/Blu-rayソフトに収録されているオーディオコメンタリーでも,作画監督や撮影監督がゲスト出演し,演出や作画について突っ込んだ話題が紹介されていた。いわゆる〈作画オタク〉的視点である。

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〈作画オタク〉的な鑑賞法は,おそらく1980年にSONYのビデオデッキ「SL-J9」が発売された頃に急速に発達し広まっていったと思われる。これにより,録画したアニメをスロー再生したりコマ送りしたりすることで,作画や演出の細部にまでマニアックな目を向けることが可能になった。かつて岡田斗司夫は,こうした〈作画オタク〉たちを「映像に対する感受性を極端に進化させた『眼』を持つ人間」*14として高く評価していた。

そして彼らのマニアックなまなざしは,当然,優れた作画を生み出した原画や作画監督といった固有名にも向けられていった。板野一郎のアニメーションを称える「板野サーカス」という言葉は,現在でもアニメの作画批評の言説でよく見かける。シーン単位,カット単位,コマ単位で表現の細部にまで分け入り,その1つ1つの生み出した無数の作者=アニメーターを称賛する。これこそアニメ特有の鑑賞法と言ってよいだろう。作画ばかりを絶対視する〈作画厨〉として揶揄されることもしばしばだが,『映像研には手を出すな!』『SHIROBAKO』といった近年の作品の人気を見るに,現場のアニメーター(原画家や動画家)やその他の制作スタッフへのまなざしは,作品そのものに対する評価と同程度に,これまでになかったほどポピュラーかつポジティブなものに転じつつあると言える。

上述した著作権法15条1項は,そうした固有名を持った無数の制作主体を(そしてしばしば監督という個人までも)「職務著作」という概念のもと,〈著作者〉という無名の集団へと統合してしまう。 

僕らはアニメを鑑賞する際,原作者や監督という大きな制作主体に敬意を払いながらも,原画,動画,美術,撮影,色彩設計など無数の小さな制作主体にも敬意を払う。アニメの〈作者〉は,初めから特権的・モノテイスティックな“神”として君臨する主体ではなく,多声的・ポリテイスティックな“神々”の集団に所属する主体なのである

〈著作者〉という法的概念によって覆い隠されてしまうこの神々の名は,オープニングアニメーションとエンディングアニメーションの中に確かに刻み込まれている。主題歌やアニメーションに加え,作品を産み出した“神々”が顕現するOPとEDにもっと目を向けようではないか。「一時停止ボタン」を押すのはまさしくOP・ED視聴時なのだ。

アニメオタクたる僕らが糾弾すべきなのは〈パクリ〉ではなく,著作権法第15条1項とNetflixの「イントロスキップ」と「クレジットスキップ」という,神々への不遜な冒涜行為なのかもしれない。

参考文献

物語の構造分析

物語の構造分析

  • 作者:ロラン・バルト
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1979/11/16
  • メディア: 単行本
 
フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯 (ちくま学芸文庫)

フーコー・コレクション〈2〉文学・侵犯 (ちくま学芸文庫)

 
剽窃の文学史―オリジナリティの近代

剽窃の文学史―オリジナリティの近代

  • 作者:甘露 純規
  • 出版社/メーカー: 森話社
  • 発売日: 2011/12
  • メディア: 単行本
  
コモンズと文化―文化は誰のものか

コモンズと文化―文化は誰のものか

  • 発売日: 2010/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

日本弁理士会会報「月刊パテント」vol.61 No.8「アニメの著作権」,日本弁理士会,2008年。

*1:ロラン・バルト/花輪光訳『物語の構造分析』,みすず書房,1979年,p.88。

*2:小林康夫,石田英敬,松浦寿輝訳『フーコー・コレクション2 文学・侵犯』,筑摩書房(ちくま学芸文庫),2006年,p.399。

*3:甘露純規『剽窃の文学史』,森話社,2011年,p.15

*4:増田聡『真似・パクリ・著作権ー模倣と収奪のあいだにあるもの』(山田奨治編『コモンズと文化ー文化は誰のものか』,東京堂出版,2010年,pp.81-117。)

*5:同書,p.92。

*6:同書,p.90。

*7:岡田斗司夫『オタク学入門』,太田出版,1996年(引用は文庫版『オタク学入門』,新潮社,2000年,p.105より)。

*8:ジュリア・クリステヴァは個々の文学テクストを独立したものと考えるのではなく,相互に影響し参照しあう総体として捉え,それを「間テクスト性」と名付けた。

*9:石岡良治と高瀬浩司は,『アニメ制作者たちの方法』に収録されたインタビューの中で,アニメのメディアミックス的な特性を「不純」さと呼び,個々のアニメを鑑賞するだけでなく,メディアの横断性を視野に入れながら複数のアニメを論じる鑑賞法を提言している。「不純なアニメのために 『横断するアニメーション』のためのイントロダクション」(高瀬浩司編『アニメ制作者たちの方法』,フィルムアート社,2019年,pp.220-229。

*10:アニメを著作権法の観点から詳しく説明した文献は多くない。日本弁理士会の会誌「月刊パテント」の2008年8月の特集「アニメの著作権」は,やや古い資料ではあるが,アニメの著作権を詳細に説明した論考として参考になる。

*11:日本弁理士会会報「月刊パテント」vol.61 No.8「アニメの著作権」,日本弁理士会,2008年,p.12-13。

*12:映画の著作物の著作権を「映画製作者」に帰属するようになった背景には,通称「マクロス事件」の判例がある。この事件では,アニメ制作会社の竜の子プロダクションが広告代理店のビックウェストと企画会社のスタジオぬえを相手取り,著作権を主張して訴訟を起こした。竜の子プロダクションの一部勝訴となった。この判例では「①従来から映画の著作物の利用については,映画製作者と著作者との間の契約によって映画製作者が著作権の行使を行う実態があったこと,②映画の著作物は,映画製作者が巨 額の製作費を投入し,企業活動として製作し公表するという特殊な性格の著作物であること,③映画には著作者の地位に立ち得る多数の関与者が存在し,それら 全ての者に著作権行使を認めると映画の円滑な市場流通を阻害してしまうこと等を考慮した」と説明されている(同書,p.24。「マクロス事件」の判例については,裁判所ウェブサイトの「平成15年(ネ)第1107号 著作権確認等請求控訴事件」を参照。

*13:山田奨治『日本文化の模倣と創造 オリジナリティとは何か』,角川選書,2002年,p.214。

*14:岡田,前掲書,p.14。