アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

死と未来,つながり:今,『さらざんまい』を観直す

前回掲載した幾原邦彦監督の『さらざんまい』のレビューで,このブログもようやく100記事目を迎えた。ちょっとした節目の記事として,1年前の作品のレビューを掲載したのには,実は個人的な理由と社会情勢的な理由がある。

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個人的な理由というのは,去る5月の母の病死だ。突然訪れた身近な身内の死は,『さらざんまい』に込められた「死の可視化」というテーマについて否が応でも考えさせられることになった。ハイデガーの『存在と時間』を読んだのは学生時代だったが,今読み返してみると,あの難解な言葉遣いが臓腑に染み込むように自分の思考に行き渡るのを感じる。

身近な者が亡くなった時,人はその死を乗り越えて日常に戻ろうとする。周囲の人間も,遺族が一刻も早く日常に戻れるよう慰める。しかし,はたして“日常に戻る”ということは正しいことなのか。そもそも人は死に触れて“日常に戻る”ことができるのか。死を経験するということは,《死へ臨むひとごとでない存在》であることを身に引き受け,死とともに生きることを意味するだろう。だとすれば,もはや「ひと」として日常の中に素朴に埋没することはできないだろう。肉親の死との「つながり」を抱えたまま生きる。それこそが,“未来に生きる”ということなのだと思う。

社会情勢的な理由というのは,言うまでもなくコロナ禍の件だ。新型コロナへの恐怖は,人が人と「つながる」ということのあり方を大きく変えてしまった。ウイルスの病原体としての影響力をどれだけ過小評価したところで,それが人の衛生観念を決定的に変え,物理的接触をコントロールするというオブセッションを生み出してしまったことは否定のしようがない。

はたして物理的なつながりは,精神的なつながりがあれば無用なのだろうか。それはオンラインのつながりによって代替可能なのだろうか。物理的なつながりが何物にも変えがたい領域はあるのだろうか。つながりはいつも心地よいものなのだろうか。そんなことを考え始めた時,『さらざんまい』の「つながりたいけど,◯◯」という各話タイトルが脳裏をよぎったのだ。

幾原邦彦の作品は,物語のロジックよりも心情のロジックを重視して作られている。その意味で“考えるな,感じろ”を地で行くような作品作りなのだが,にもかかわらず,それを観る僕らに“考える”ことを余儀なくさせる内実がある。彼の作品を読み解くのは容易なことではないが,彼の仕掛けた問題提起に真摯に向き合い,思索を深めた時,それが何かの“救い“になることがあるかもしれない。