*このレビューはネタバレを含みます。
間桐桜をメインヒロインとする『Heaven's Feel』(以下『HF』)の最終章にして,『Fate/stay night』アニメシリーズの完結編ともなる『Fate/stay night [Heaven's Feel] III.spring song』(以下『spring song』)。制作会社ufotableの技術の粋を結集して作られた本作は,美麗な作画やスピード感のあるアクションシーンはもちろんのこと,各キャラクターの内面の掘り下げや繊細な芝居も見事な仕上がりである。総じて,このジャンルにおいて他の追随を許さない超大作となったと言えるだろう。
- 作品データ(リンクはWikipediaもしくは@wiki)
- シンメトリー:士郎
- アシンメトリー:桜
- 聖杯から〈少女〉へ:イリヤ
- 英霊最後の飛翔:ライダー
- 収められる矛,再び:凛
- 最大多数の最大不幸:綺礼
- そして〈日常〉へ
- 作品評価
作品データ(リンクはWikipediaもしくは@wiki)
【スタッフ】
原作:奈須きのこ/TYPE-MOON/キャラクター原案:武内崇/監督:須藤友徳/キャラクターデザイン:須藤友徳,碇谷敦,田畑壽之/脚本:桧山彬(ufotable)/美術監督:衛藤功二/撮影監督:寺尾優一/3D監督: 西脇一樹/色彩設計:松岡美佳/編集:神野学/音楽:梶浦由記/主題歌:Aimer/制作プロデューサー:近藤光/アニメーション制作:ufotable
【キャスト】
衛宮士郎:杉山紀彰/間桐桜:下屋則子/セイバーオルタ:川澄綾子/遠坂凛:植田佳奈/イリヤスフィール・フォン・アインツベルン:門脇舞以/藤村大河:伊藤美紀/言峰綺礼:中田譲治/間桐臓硯:津嘉山正種/ライダー:浅川悠/真アサシン:稲田徹
【あらすじ】
兄・間桐慎二を殺めた後,「この世全ての悪」たるアンリマユを受け入れ,無尽蔵の魔力を得る間桐桜。「桜だけの正義の味方になる」ことを誓った衛宮士郎は,間桐臓硯を倒して桜を救うべく,遠坂凛とライダーと共に「大空洞」へと向かう。彼らの前にセイバー・オルタが立ちはだかり,最終決戦の幕が切って落とされる。
シンメトリー:士郎
冒頭,臓硯と対峙する士郎の顔が美しい。
そもそも,須藤友徳らの手になるキャラクターは,シンプルであるが故に真正面からのショットが映えるデザインだ。本作では,こうしたキャラクターのビジュアル的な特徴を活かしたカットが多用されていたように感じられる。
シンメトリックな構図にレイアウトされたシンメトリックな士郎の正面顔は,アーチャーの腕を移植され,左右非対称となった彼の身体と綺麗なコントラストを成している。それは“どれだけ身体を苛まれようとも,あるいは身体そのものを失おうとも,守るべきものを守りたい”という固い決意を表明しているかのようだ。
もともと士郎は,“十を救うために一を殺す”という“功利主義の呪い”を衛宮切嗣から受け継いでいた。彼らの「正義」は,ジェレミ・ベンサム的な「最大多数の最大幸福」という“数量”のロジックに支配されていたのだ。しかし彼らがベンサムになり切れなかったのは,たとえ多くの人間を救い得たとしても,少数の人を失った悔恨に苛まれてしまう慈愛を持ち合わせていたことによる。この矛盾との対峙を主題にしたのが『Fate/Zero』(2011-2012年,以下『Zero』)であり『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』(2014-2015年,以下『UBW』)であったことは言うまでもない。
『HF』の士郎は,この数量的功利主義と訣別し,個への愛,つまり桜という一人の女性への愛を選ぶ。士郎の正義は,“全ての人間を救う”という巨大な物語から,“愛する人との日常を生きる”という極小の物語に一挙に矮小化される。しかし矮小化されるからこそ,そこに桜という〈個〉に正面から向き合い,愛そうとする等身大のキャラクターが生まれる。迷いなく真正面を見据える士郎のシンメトリックな顔は,非数量的な愛に向き合おうとする彼の透徹した信念を表している。
アシンメトリー:桜
対して,桜の表情はアシンメトリックに揺れている。彼女は以前から左右非対称の髪型をしていたが,アンリマユと融合した時から全身に血管のような赤く禍々しい模様が浮き出し,凛からもらったピンクのリボンと拮抗するかのように彼女の左頬を蠢いている。それはあたかも,聖と邪,美と醜,尊敬と嫉妬といった,彼女の多義的で矛盾した心性を顕にしているかのようである。
黒桜の邪性は,アンリマユによって外からもたらされたものではない。それは元から彼女が備えていた彼女自身の本性であり,それが「アヴェンジャー(復讐者)」というアンリマユの属性によって顕現しただけのことである。彼女は己の内に含み込んだ聖と邪の間を絶えず揺れ動く。
しかし人間とはそもそもそういう生き物だろう。人の中で,善性と悪性は常に共存する。「正義」という言葉に拘る士郎にしたところで,罪を犯した桜を受け入れた時点で,彼女の罪をも受け入れたことになるのだから。
シンメトリーがアシンメトリーを優しく包み込む。『spring song』は,そんな矛盾した幾何学的構図を“枠”とする物語である。
聖杯から〈少女〉へ:イリヤ
イリヤは,聖杯として身を捧げることを定められたホムンクルス(人造人間)だ。彼女は己の運命と聖杯戦争の本質を知る者として,事の成り行きを全て諦観し,最も幼い姿をしていながら最も達観したキャラクターである。彼女は生まれながらにして,人として生きるという選択肢を拒絶されている。
自分を救出するために城に来た士郎に,彼女は人ならざるモノとしての運命を再確認するかのように「私は聖杯だから」と答える。しかしそのイリヤに対し,士郎は「イリヤはイリヤだ!」と言葉の塊をぶつける。おそらくイリヤはこの時から,聖杯=ホムンクルスという“モノ”としての自意識よりも,“人”としての自意識を強く抱くようになる。彼女は士郎に「お兄ちゃん」と言って甘える一方で,士郎の「姉」としても振る舞うようになる。 *1
決戦に向かおうとする士郎を呼び寄せて屈ませ,優しく頭を撫でるシーンでは,イリヤの表情や仕草が非常に丁寧に描かれており,2人の関係性がとても微笑ましく描写されている。真アサシン戦で魔術を繰り広げる凛々しい顔立ちなども含め,本作における彼女の立ち居振る舞いや表情の変化はとても魅力的である。終盤,イリヤは大聖杯に立ち向かう士郎の前に姿を現し,「わたしはお姉ちゃんだもん。なら,弟を守らなくっちゃ」と言って第三魔法を行使する。真っ白な光に包まれた空間で,イリヤは母・アイリスフィールと出会い,幼子のようにその胸に飛び込んで行く。
聖杯=モノとして生を受けたイリヤは,士郎との出会いによって〈妹・姉・娘〉という三重の属性を持つ〈少女〉として生を終えた。聖杯戦争史上最高傑作のホムンクルスであった彼女は,同時に聖杯戦争史上最も幸福なホムンクルスだったのかもしれない。『HF』が“イリヤルート”でもある所以である。
英霊最後の飛翔:ライダー
ufotable制作の『Fate』アニメの見所の1つが,英霊の戦闘シーンにあることは言うまでもない。『spring song』では,「真アサシンvsイリヤ&綺礼」「バーサーカーvs士郎」「セイバー・オルタvs士郎&ライダー」の3つの英霊戦闘シーンがあるが,中でも士郎とライダーが共闘し,セイバー・オルタを下す決戦シーンは圧巻だ。
ライダーは魔眼を駆使しながら大空洞の中を疾走飛翔し,セイバー・オルタの足止めをする。彼女の身体は,まるで演舞を見せるかのように美しくしなやかに宙を舞い,セイバー・オルタを翻弄する。士郎がアーチャーの腕の力を借りた「ロー・アイアス」でライダーを護り,隙をついてライダーが宝具「ベルレフォーン」を放つ。おそらく,メドゥーサ・ライダーが最も美しく描画されたシーンであろう。
思えば,『Fate』アニメの最大の魅力の1つは,この英霊の戦闘シーンの飛翔感にある。まるで重力など存在しないかのように縦横無尽に宙を舞い,空を駆け,天に舞う英霊たちの姿は,『Fate』という作品世界の〈非日常性〉や〈幻想性〉を最もよく具現化している。英霊たちが宙を飛び交うシーンにこそ,『Fate』のファンタジーが凝縮されていると言っても過言ではない。『Fate/stay night』最後の英霊戦として,ライダーの飛翔は見事にその結末を飾った。
収められる矛,再び:凛
『HF』における凛は,終始,桜に対して冷淡な態度をとる。冬木の管理者として,彼女には暴走する桜を止める責務があるからだ。
『UBW』の愛すべき凛を知っている僕らは,『HF』のあまりにもクールな凛の姿に,怖れにも似た感情を抱いてしまう。大聖杯の前で,蟲に犯され続けたおぞましい運命を恨み節さながらに語る桜を,彼女は「だからどうしたっていうの?」とこともなげに冷たくあしらう。そればかりか,「私には他人の痛みがわからないの」と嘯きながら,桜に止めを刺すべくゆっくりと近づいて行く。
凛は宝石剣ゼルレッチを放擲し,ナイフを取り出して桜に挑もうとする。この時に彼女が握るナイフの輝きと同じものを,僕らはすでに目にしている。第二章『lost butterfly』にて,眠る桜に士郎が振り下ろそうとしたあの包丁の輝きだ。士郎は,包丁を頭上高く振りかざしながらも,桜の胸に突き立てることはできずに静かに刃を下げる。この瞬間,士郎は切嗣から受け継いだ「正義の味方」という価値観と完全に訣別し,桜と共に生きることを選択するのである。
凛もまた士郎と同じだったのだ。彼女は桜にナイフを突き立てようとしたその刹那,「あ,ダメだこれ」と言って力なくナイフを下ろす。凛は士郎と同様,桜に向けた矛を収めることで,〈管理=規律〉という価値観と訣別する。桜が片時も外すことのなかったリボンは,2人の“姉妹としてのパス”そのものだったのかもしれない。
最大多数の最大不幸:綺礼
人並みの幸福では悦楽を得られない「欠陥」を抱えた言峰綺礼は,「この世全ての悪」たるアンリマユの孵化を祝福すべく,士郎の前に立ちはだかる。
アンリマユは,その昔,平和な生活を願う村人が,この世の悪の全てを1人の青年に背負わせたことによって誕生した。つまり,アンリマユはその出自からして最大幸福原理の贄であり,その誕生を願う綺礼もまた,最大幸福原理の宿敵なのだ。*2
しかし,一方の士郎もまた,切嗣から相続した最大幸福原理を放棄した男だ。したがって士郎と綺礼の戦いは,『Zero』のラストにおける切嗣と綺礼の戦いと相似形でありながら,その意味合いをまったく異にする。かつて最大幸福原理vs最大不幸原理という対立者同士の戦いだったものが,ここではある種の同族同士の戦いに転じるのである。
だからであろうか,拳と拳をぶつけ合う2人の闘いは,理解不能な他者への憎しみ合いというよりは,己の信念の試し合いであり,殺し合いというよりは意地の張り合いの様相を呈する。それは“戦闘”というよりは,どちらが最後まで立ち続けることができるかを賭けた“耐久戦”に似ている。その決着をつけたのが,呪いに侵された綺礼の「時間切れ」だったのは象徴的である。
そして〈日常〉へ
綺礼との戦いを終えた士郎の前に,正装したイリヤが姿を現す。彼女は大聖杯に命懸けで挑もうとする士郎を制止し,彼に「士郎は生きたい?」と問う。士郎は涙を流しながら全力で「生きたい…生きていたい!」と答える。映画では詳細は描写されていないが,この後,イリヤは第三魔法を行使して士郎の魂を救う。士郎の肉体は失われてしまうが,後に桜と凛が旅先で見つけた人形に魂を固着させることにより,士郎はこの世に蘇る。
皮肉にも,この一連のシークエンスにおける士郎の運命は,空となった桜の身体を乗っ取って永遠に生き長らえようとした臓硯の目論見と似ている。そこに描かれているのは,身体の物質的限界を超えた魂の執念だ。しかしこの2つの執念がまったく異なる精神性に基づいていたことは言うまでもない。臓硯の執着が〈死への恐怖〉から生まれ,他者から奪うことで成り立つ否定的妄執であるのに対し,士郎の執着は,罪を身に引き受けながら桜を愛し,桜と共に日常を生きるという〈生の肯定〉に基づいているのだ。
監督の須藤友徳は,劇場パンフレットのインタビューで,「日常への回帰」というテーマについて以下のように述べている。
士郎は「桜を守る」と言った以上,その「罪」も背負うことになる。士郎にとって,桜と一緒に「日常に回帰する」というのは「生きる」ということですよね。「罪」を背負いながら「生きるという選択をすること」を描ければ,と思っていました。*3
第五次聖杯戦争は幕を閉じ,日常が戻る。もはや英霊の身体が冬木の空を舞い飛翔することはないだろう。彼ら/彼女らは,文字通り“地に足のついた”日常に回帰したのだ。満開の桜を前に,士郎と桜が共に力強い一歩を踏み出すラストカットは,“伝奇活劇”たる『Fate/stay night』が最後にたどり着いた,小さくも愛すべき〈日常〉の確かな温もりを感じさせる。
作品評価
なお,『Zero』と『Fate/stay night [Heaven's Feel] II.lost butterfly』のレビューに関しては,下記の記事を参照頂きたい。
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*1:10年前の第四次聖杯戦争の時点で8歳だったイリヤは,本作の第五次聖杯戦争の時点で18歳になっており,士郎よりもわずかに年上である。
*2:マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』の「功利主義」を論じた章の中で,アーシュラ・K・ル・グィンの短編『オメラスから歩み去る人々』を挙げているが,アンリマユ誕生にまつわる逸話がこの話と酷似しているのは注目に値する。オメラスという街に住む人々は,この上なく幸福な生活を送っているが,それは地下室に幽閉されたある子どもの「おぞましい不幸」の上に成り立っている。マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』,pp.44-77,早川書房,2010年。アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』[『風の十二方位』,ハヤカワ文庫,1980年に所収]。
*3:「『劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] III. spring song』劇場パンフレット」,p.11,株式会社アニプレックス,2020年。