*このレビューはネタバレを含みます。
「『セーラームーン』幾原邦彦演出回」特集の最後となる本記事では,『美少女戦士セーラームーンSuperS』(1995-1996年)における幾原邦彦演出回を見ていくことにする。
『SuperS』の幾原演出回は計5回である。ファーストシーズン(無印)『R』『S』の幾原演出回,および『劇場版R』のレビューについては以下の記事を参照頂きたい。
- 『美少女戦士セーラームーンSuperS』(1995-1996年)幾原邦彦演出回一覧
- 第128話「運命の出会い!ペガサスの舞う夜」
- 第137話「あやかしの森!美しき妖精の誘い」
- 第150話「アマゾネス!鏡の裏から来た悪夢」
- 第159話「ちびうさの小さな恋のラプソディ」
- 第166話「夢よいつまでも!光,天に満ちて」
『美少女戦士セーラームーンSuperS』(1995-1996年)幾原邦彦演出回一覧
第128話「運命の出会い!ペガサスの舞う夜」
冒頭,ちびうさとペガサスが幻想的な風景の中で初めて邂逅する。「夢」をテーマとする『SuperS』の“キービジュアル”とも言える重要なシーンであると同時に,本シリーズでちびうさがメインヒロインになることを暗示してもいる。
ペガサスの「お願い。この出会いは秘密にしておいて」というセリフは,2人の関係に“秘め事”という印象を与えている。ペガサスを見て頬を赤らめるちびうさの表情なども含め,この話数は,『SuperS』がちびうさの恋に似た想いをライトモチーフとすることを告知する重要な役割を担っている。
この直後,うさぎが寝ぼけ眼のちびうさを「ばんざい」させて着替えさせるカットは,2人の“母娘”の関係を暗示しているようで微笑ましい。
なお,このカットでは「ばんざい」をして着替える所作に場面転換を重ねるという面白い演出もなされている。本編をご覧になってご確認頂きたい。
ボーッとするちびうさを見て「さては男の子かぁ」とからかう宇奈月。「だめよー。パパやママを泣かすようなことしちゃー」と言う宇奈月の頭にあるのはもちろん育子と謙之(うさぎの地球での父母)だが,うさぎと衛がこれを聞いて過剰反応してしまう姿が面白い。さらに宇奈月は,このセリフが藪蛇となって兄・元基に「それはお前だろ」とボーイフレンドのことを突っ込まれてしまう。この一連のシーンの中に,ちびうさとペガサス,うさぎと衛,宇奈月とボーイフレンドという3つの恋模様が連鎖的に暗示されている。この辺りは榎戸洋司の脚本の冴えと言えようか。
デッド・ムーン初登場のシーンでは,面妖なフリークスたちが魑魅魍魎の如く踊りながら「気づいていない。気づかない」と連呼する様子が印象的だ。その戯謔的な身振りは『少女革命ウテナ』(1997年)の「影絵少女」を彷彿とさせる。
ちなみに,シリーズを通して言えることだが,女性キャラたちのハイセンスなファッションも大変目を引く。この回のうさぎとちびうさの衣装の配色も,このカットのようなレイアウトで非常に映えるビジュアル要素だ。
【その他のスタッフ】
脚本:榎戸洋司/美術:橋本和幸/作画監督:爲我井克美(リンクはWikipediaもしくは@wiki。以下同様)
第137話「あやかしの森!美しき妖精の誘い」
『セーラームーン』シリーズ切っての美形男の娘,フィッシュ・アイの初出撃エピソード。「妖精」をテーマとした物語であり,森の中の湖など幻想的な風景が特徴である。
フィッシュ・アイに夢を狙われる北方の下の名前は,ずばり「邦彦」である。彼の描く妖精と花はほんの一瞬挿入されるだけだが,彩度が高く強い印象を放っている。赤系の花の配色は,幾原らしいと言えなくもない。
好みの女性について口争いをするタイガーズ・アイとホークス・アイを他所目に,男性である北方の写真に目をつけるフィッシュ・アイ。彼の恋愛対象(?)が男性であることが初めて明かされるエピソードである。無印のゾイサイトほどシリアスではないものの,アニメ版『セーラームーン』らしいジェンダーフリーなキャラクター造形だ。
メイクをするフィッシュ・アイを見て,つい頬を赤らめるタイガーズ・アイとホークス・アイの姿が笑いを誘う。余談だが,古川登志夫,石田彰,置鮎龍太郎という大御所がこの役所で揃ったのも,今から見れば贅沢至極である。
北方を誑かすためとは言え,フィッシュ・アイが妖精の姿に扮するというのは,彼らの“人ならざるもの“としての運命を暗示しているようで,後の展開を考えると感慨深いものがある。
今回のレムレスは「綱わたろう」くん。セーラームーンに強制的に綱渡りをさせるも,自らアイマスクで目隠しをして綱渡りを敢行したことが仇となり,あっけなく倒される。完全にギャグ担当のキャラだが,CVの檜山修之がノリノリで演じているのが印象的だ。
【その他のスタッフ】
脚本:吉村元希/美術:田尻健一/作画監督:中村太一
第150話「アマゾネス!鏡の裏から来た悪夢」
女王ネヘレニアとアマゾネス・カルテットが初めて姿を現す回である。アマゾネス・カルテットとうさぎたちは,元基がアルバイトをするゲームセンターで初めて邂逅する。
思えば,無印から頻出するこのゲームセンターが敵や味方との出会いの舞台として用いられているのも,時代を感じさせる演出として興味深い。アニメやマンガにおける〈ゲームセンター〉というトポスとその意味の変遷を探るのも面白いかもしれない。
第128話に続き,再びサーカスのフリークスたちの不気味な姿が登場する。繰り返される「ゆめゆめ疑うことなかれ/夢見る子どもの夢の夢」という謎めいたセリフなども含め,幾原が学生時代に親しんでいたという「天井桟敷」の芝居を彷彿とさせるシーンだ。
「天井桟敷」は,1967年に寺山修司が結成したアングラ劇団である。当時の劇団員募集広告に記された「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」というコピーからしてすでに,その独特なビジュアル的感性が窺い知れる。このアンダーグラウンドなイメージが,やがて『少女革命ウテナ』の世界観に流れ込んでいくことは言うまでもない。ちなみに幾原は『ウテナ』の世界観について,「言葉で言うと恥ずかしいんだけど,“暗黒宝塚”かな,と。それで“暗黒宝塚”って何だ?と考えたときに,「暗黒」→「アングラ」‥‥‥,そうか,「天井桟敷」的な世界をここで使うんだと思った」と述べている。*1 『ウテナ』に「天井桟敷」で音楽を担当していたJ.A.シーザーが参加していたことはあまりにも有名な事実である。
サーカス団の「団長」であるジルコニアに襲いかかるベスベス。いきなりの仲間割れで始めるこのシーンは,アマゾネス・カルテットのやんちゃな気質を示すと同時に,彼女たちの終盤の運命を暗示してもいる。
親友の桃ちゃんの「夢」がレムレス「ガラガラ娘」に喰われるのを目にして逆上するちびムーン。彼女はガラガラ娘の口に飛び込み,桃ちゃんの「夢」を救おうとする。その稀に見る鬼気迫る表情からは,彼女の芯の強い優しい心根が窺える。
白衣を着た透明人間が「モミモミ,ヨイショヨイショ」と言いながらアマゾネス・カルテットをマッサージするシーン。ギャグともなんともつかぬこのシュールなシーンと,ネヘレニアの不気味な微笑みによってこの回は締め括られる。
【その他のスタッフ】
脚本:榎戸洋司/美術:大河内稔/作画監督:安藤正浩
第159話「ちびうさの小さな恋のラプソディ」
ペガサスを想うちびうさのシリアスな内面と,彼女の“恋路“を探ろうとするうさぎたちのコメディとのコントラストが最高に愉快な傑作回。
ペガサスの境遇を想いながらも,力になれないことに悩むちびうさの憂いを秘めた表情が実に印象的だ。夢の世界でちびうさがセレニティのドレス姿に変わり,ペガサスの背に乗って夜の空を駆けるシーンも超美麗である。
カフェに集まったうさぎたちが,ちびうさの“恋路”を勝手に詮索するシーン。まことが何かと「先輩」と結びつけるのを聞いてレイがお茶を吐き出すカット(はしたない)と,美奈子がソーダをブクブクするカット(はしたない)は何度か繰り返し挿入されており,幾原お得意の〈反復の美学〉ギャグバージョンである。
この後のシーンでも,まことの「先輩」発言とレイのツッコミ,美奈子の「フタマタ」発言,レストランでの亜美の「アップルジュースですから」が何度も反復されるが,Blu-ray特典のブックレットによれば,これらは絵コンテ段階で追加ないし強調されたものらしい。*2
ちなみにこの話数では,特に女性キャラクターを中心にファッションセンスが非常に洗練されており,ビジュアル的なアピール度も高い。
今回はちびうさの「恋」にかけて,鯉のカットが頻出する。文字通りシュールなダジャレギャグだが,もはや幾原演出には欠かせないファクターと言えるだろう。これがやがて『ウテナ』における「七実回」で成熟(?)していくのである。
〈反復〉される鯉。この作画の力の入れようも,却って笑いを誘う。
「色が白くて顔が縦に長い」という情報を元にちびうさの“恋人”に勘違いされてしまった公園の管理人。完璧なビジュアルである。彼もまた鯉に餌をやっている。
ジュンジュンが放ったレムレス「パクパク野郎」も鯉をモチーフにしている。恋=鯉のダジャレギャグをここまで徹底して引っ張る拘りは流石としか言いようがない。
以上のようなコメディ要素に加え,今回は作監の伊藤郁子の美麗な作画センス(ただし原画へのクレジットはなし)が光る話数でもある。伊藤の他,牛来隆行,木村光雅,木下和栄,大河原晴男,武口憲司,大西陽一,小林勝利,梨沢孝司ら原画担当チームの技にも敬意を表しておこう。
【その他のスタッフ】
脚本:杉原めぐみ/美術:浅井和久/作画監督:伊藤郁子
第166話「夢よいつまでも!光,天に満ちて」
『SuperS』最終話となるこの話数は,脚本:榎戸洋司,作監:伊藤郁子,演出:幾原邦彦という,後半の『セーラームーン』の方向性を決定付けたメンバーが揃った回となった。リミテッド・アニメの面白さが最大限に引き出されており,アニメの表現史を語る上でも重要な回と言えるだろう。
ちびムーンを拉致するネヘレニアと,それを追うセーラームーン。螺旋階段を用いた緩やかな上昇運動が緊張感を高め,セーラームーンとネヘレニアの最後の対決を予感させる。『ウテナ』のバンクシーンでも用いられた演出であることは言うまでもない。
ネヘレニアの過去が彼女自らの口で語られる。
美貌を永遠に保つことが「夢」であったネヘレニアだが,鏡によって残酷な未来を告げられる。伊藤郁子の手になる“美と醜”の対峙は,ほとんど壮絶とも言えるコントラストを成している。
己の美貌に固執するネヘレニアは,臣下や民の「夢」を喰らうことで不老不死を手に入れ,「生きる屍」(サーカスのフリークス)と化した人々に囲まれて孤独に生きることを選択する。
これがネヘレニアの犯した決定的な過ちである。本来,人の〈美〉というものは,たとえそれがどれほど独善的なものであれ,他者に示し,他者に称賛されることによって価値を得る。〈美〉は他者によって媒介された間主体的な価値なのだ。ネヘレニアは自らの美を独占することによって,〈美〉の本質を見誤った。彼女の「夢」は完全な機能不全に陥るのだ。
臣下の夢を喰らうシーンでは,ネヘレニアにへつらう臣下の顔を上下にスライドさせることで,傀儡のような奇怪な仕草が表現されている。フリークスと化す彼らの運命を予兆するような,大変面白い演出である。
「最も大切なもの」である美を奪われ逆上したネヘレニアは,セーラームーンの「最も大切なもの」であるちびムーンを投げ落とす。セーラームーンが駆けつけるも間に合わず,ちびムーンは眼下に落下していく。この一連のシーンは止め絵だけで表現されており,絶妙なスピード感と迫力を生み出している。
ちびムーンを救うべく,上空から飛び降りるセーラームーン。
美を独占し,孤独を抱えながら上昇していくネヘレニアと,愛する者とともに夢を紡ぐことを願いながら下降していくセーラームーン。螺旋から始まるこの〈上昇と下降〉の運動が,この最終話のドラマのダイナミズムを形成している。見事な演出である。
はためく衣服,パース,風切音で,緊張感漲る急降下を表している。ちなみにこの時の三石琴乃は,静かだが力強い演技を披露している。ぜひ本編をご覧になって確認して頂きたい。
気を失ったままのちびムーンにセーラームーンが「二人で大人になろう。大人になって,一緒に夢を叶えよう!」と語りかける。二人がこの時代で“母娘”としてではなく“姉妹”として出会ったことの意味がここで明らかになる。
やがてちびムーンは目を覚まし,ペガサスの力を借りて翼を得,柔らかに地上に降り立つ。
ちびうさの〈恋〉は,儚くも美しい物語として終わる。『R』第60話の初登場から観続けている者であれば誰であれ,彼女の内面の大きな成長に心から感動するラストシーンであろう。
天空を駆け上るペガサスに向かって「まだあなたに,わたしの夢も,何も知ってもらってないのに」と呟くちびうさに,うさぎが「きっとまた会えるわ」と優しく語りかける。「うん,わかってる。そうよ,きっとまた会える。その時はペガサスに,わたしの夢を知ってもらうんだ」というちびうさの最後の言葉は,「夢は他者と分かち合うものである」という理を言い当てているのかもしれない。
【その他のスタッフ】
脚本:榎戸洋司/美術:浅井和久/作画監督:伊藤郁子
以上,計4回にわたって『美少女戦士セーラームーン』における幾原邦彦の演出回を見てきた。
『SuperS』のシリーズ・ディレクターを終えた幾原は,『セーラームーン』の制作から離れ,榎戸洋司らと制作集団「ビーパパス」を結成して『少女革命ウテナ』の制作に携わっていく。その後の『輪るピングドラム』(2011年)『ユリ熊嵐』(2015年)『さらざんまい』(2019年)でも発揮される彼のユニークな才能の萌芽が,これまで見てきた『セーラームーン』の演出の中にすでに見て取れることを再確認頂けたと思う。
ただし,言うまでもないことだが,『セーラームーン』という傑作を成り立たせたのは幾原邦彦一人の力ではない。彼を含めた多彩な才能があったからこそ,バラエティ豊かな『セーラームーン』の世界が形作られ,視聴者を飽きさせることなく長寿作品となり得たのだ。この記事をきっかけとして,読者のみなさんが他の演出家やアニメーターの技に注目してもらえるようになれば幸いである。