*このレビューはネタバレを含みます。また,続編のコミック『春風のエトランゼ』の内容にも触れていますのでご注意下さい。
紀伊カンナの同名BLコミック(2014年)を原作とする『海辺のエトランゼ』。元アニメーターの経歴を持つ紀伊の表現は,アニメとの親和性が高く,かつての同僚であり友人でもある大橋明代監督との息の合ったタッグも作品の質に貢献している。59分という短尺ながら,ふんだんに散りばめられた情景と心情の繊細な描写には,BLファンならずとも唸らせる説得力がある。あらゆるセクシュアリティの人が楽しめる普遍性を得たと言ってよいだろう。
あらすじ
沖縄の離島で小説家の卵として暮らす橋本駿は,ある日,物憂げな様子で海辺のベンチに座る知花実央の姿を見かける。ゲイである駿は「下心」から実央に声をかける。当初ぎこちなかった2人の関係は,やがて深い親密さへと変わっていく。だがある日,実央は本島に移り住むことになり,駿の元を去る。それから3年の月日が経ち…
ファンタジーと日常の間の世界
『海辺のエトランゼ』は色を観る映画でもある。
ファーストカットは星空と暗い海だ。黒い空と海。それに対抗するかのように白く輝く月。そして後半の回想シーンに登場する北海道の白い雪。これらを写しとるように,黒地に白の『海辺のエトランゼ』のタイトルバックが姿を現す。
母を亡くしたばかりの実央がベンチから見ていた黒い海は,彼の曰く「あっち側」=黄泉の世界に通じていたのかもしれない。原作者の紀伊と監督の大橋も,旅行やロケハンで訪れた沖縄の風景から「あの世」を連想したそうである。*1
これらのモノクロームの世界とコントラストを成すかのように,昼間の風景では色とりどりの花や青い海が目に眩しく映る。それはまるで,日常世界から遊離した楽園のようだ。赤と白のブーゲンビリアが咲き誇る庭で,実央が駿を訪れる場面は,前半のシーンの中で最も強い印象を放っている。
思えば,少女同士の恋を描いた『やがて君になる』(2018年秋)でも,主人公の小糸侑と七海燈子は,森の植物に囲まれた幻想的な生徒会室で出会っていた。彼女たちの“百合”物語も,ある種の“異世界”において始まっていたのだ。
紀伊は劇場プログラムに掲載されたインタビューの中で,BLにおける「ファンタジー性」「非現実的な要素」に言及している。 *2 ヘテロノーマティヴィティ(異性愛規範)からすれば,BLや百合のような同性愛作品は,性規範からの逃避を表象するという意味で,確かに「ファンタジー」だ。『海辺のエトランゼ』は,楽園のように鮮やかに彩られた風景の中に仄暗い黄泉の世界を暗示させた,多分に幻想的な世界を舞台に「ボーイズラブというファンタジー」を成り立たせている。
しかし同時に,この作品には温かい日常を思わせる多くの小道具が登場し,駿と実央の関係が確かに現実世界で進行していることを感じさせてくれもする。
例えば料理や食事のシーンでは,台所の棚に所狭しと鍋や蒸籠などが置かれ,壁には無数のメモが貼られている様子が伺える。実央が寝泊りする部屋の一角には,テレビ,カラーボックス,少女漫画,三味線などの小物が雑多に並べられている。空間を隅々まで満たすこれらのプロップの“生活感”は,彼らの生が確かに俗世に根差していることを示している。
駿と実央が住む「京屋」の佇まいは,まさしく古風な日本家屋のそれである。駿と実央が室内で会話をする際は,畳の上に座ったり敷かれた布団に横になったりする構図が多く,自然とカメラは低い位置に置かれる。「小津調」とまでは行かずとも,日本の家屋の特徴を活かしたローアングルの構図は,隠り世への浮遊というよりは,現世への定着を表しているようだ。
ちなみに,アイスの棒を口にくわえて布団に横になった実央が,小説の執筆に勤しむ駿をカーテンの隙間から物欲しそうに見やるシーンがある。これもかなり面白い。やはりカメラは実央の目線に合わせ,畳すれすれの位置に置かれている。ちょっとした仕草の中に実央の心情を映し出すと同時に,“布団の中から襖やカーテンの隙間を通して隣室を覗く”という和テイストの淫靡さを表現した名シーンだ。
『海辺のエトランゼ』の面白さの1つは,楽園と隠り世が構成する幻想性と,和空間ならではの雑多なプロップが構成する日常性によって,〈幻想=日常〉という物語世界の両義性が示されている点にある。僕にはそれが,現代社会における〈ボーイズラブ〉という題材が〈ファンタジー〉であると同時に,〈現実〉の領域に場所を持ち始めつつあることを暗示しているようにも思えるのだ。
相対化される〈ボーイズラブ〉
そうして見た時,BL作品である『海辺のエトランゼ』が,〈ボーイズラブ〉を他者から孤絶した唯一の価値として表現していない点も注目に値する。
京屋には絵理と鈴というレズビアンのカップルが同居しているが,2人の関係は駿が羨むほど理想的であり,鑑賞者側から見ても実に魅力的なキャラクター造形だ。この2人の関係をクロースアップしたスピンオフを期待したくなるくらいだ。
また,かつて駿の許嫁であった桜子というキャラクターの存在感も大きい。彼女はヘテロセクシュアルであるが,その存在は,しばしばBL作品において見られるような“引き立て役”では決してない。彼女の生は,ヘテロセクシュアルとして生き,怒り,悩むという自律的な価値を持っている。
桜子について述べた紀伊の言葉を引用しておこう。
BLの中に女性が出てくると,どうしても当て馬として感知されるみたいで…。でもそういう風に描いているつもりはなくて,彼女にも人格と人生がある…,だからふみ* が出てきてます。BLでもそういう部分があって面白いかなと思うのと,みんながボーイズでラブをするわけではなくて,それ以外の人も誰かと関係を築くという様子を同じ世界で描きたかった。*3
(*ふみについては後述)
駿と実央の〈ボーイズラブ〉は,閉ざされた世界の中の唯一絶対の価値として位置付けられているわけではない。絵理と鈴,そして桜子らが体現する多様な性の価値観とのコミュニケーションの中で,〈ボーイズラブ〉が相対的価値として位置付けられる。これもこの作品が目指した〈幻想=日常〉的リアリズムの1つと言ってよいだろう。
規範からの自由
多くの人が恋愛を経験する。恋愛が発展し,結婚して家族を持つ人もいるだろう。人はこれらを“自由の領域”に属する選択だと漠然と信じている。もちろん“恋愛しないこと”“結婚しないこと”も本来的には自由であるはずだ。しかし現実的には,ここには多くの〈規範〉が制約的に働いている。ジェンダーという規範,年齢という規範,血縁という規範。僕らが“自由な愛”と思っているものの多くは,社会規範によって限定され枠付けられたものに他ならない。
『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015年)の著者である溝口彰子は,レズビアンでありながらBL作品を愛好するという,興味深い“嗜好”の持ち主だ。彼女はかつて木原敏江の『摩利と新吾』(1977-1984年)を読み,「摩利が新吾に向けた同性愛感情と,自分が◯◯に向けている同性愛感情は,同性愛感情とうことでは同じなのだから,世間が何と言おうと,それが悪いものであるはずがない」というロジックを得,偏見に打ち負かされることなく自分の性的志向を受け入れることができたのだという。*4 溝口はBL作品に触れることによって性規範から解放され,本来的な〈自由恋愛〉を追求することができたのだ。
実は『エトランゼ』シリーズには,駿と実央の関係以外にも〈規範からの解放〉を象徴するキャラクターが登場する。映画では描かれていないが,『海辺のエトランゼ』の続編『春風のエトランゼ』に登場するふみである。
ふみは「ポスト」入れられていた孤児だった。彼は施設に預けられていたところを,駿の父に養子として引き取られ,駿の「弟」として橋本家の一員になったのだ。彼は一回り以上も歳の離れた桜子に恋心を抱いており,『春風のエトランゼ』第4巻のラストでは,13歳になった彼が自分の気持ちを桜子にはっきりと告白するシーンがある。
橋本家とふみ,そしてふみと桜子の関係性には,〈血縁〉や〈年齢差〉といった規範からの自由が示されている。血の繋がりがなくとも家族愛は生まれる。どれだけ歳が離れていようと愛は成立する。
個人的なことを言わせてもらえば,僕自身はヘテロセクシュアルの男性で,恋愛対象は女性である。しかしそれにもかかわらずーいやむしろ“だからこそ”なのかもしれないー自分の経験してきた恋愛が本当に〈自由〉なのだろうかと疑問に思うことも多かった。誰かを好きになる時,自分は他者=規範の目を常に気にしているのではないか。相手も同じ規範意識で自分を選んでいるのではないか。人は〈他者の欲望〉を欲望する生き物だ。それはいい。しかし,逆に僕自身の真の欲望を他者=規範は容認してくれるのだろうか。規範はいつどの時代も不変なのだろうか。規範を突き崩す機会は,個人に与えられないのか。
『海辺のエトランゼ』は,〈幻想=日常〉という独自のリアリズムに根差した多様な〈自由〉を描くことにより,現実的には規範によって束縛されている恋愛が,本来は自由の領域であることを再認識させてくれる。そうであるからこそ,様々な性的指向や価値観を持った鑑賞者の心に訴える普遍性を持っているのだろう。
「しんどい」人々
しかし,規範から逸脱することには苦悩が伴うことも事実だ。この作品はBL作品に固有の〈痛み〉をシンボリカルに描くことで,規範からの逸脱に伴う〈苦から快〉という心情の流れを巧みに表現している。
初めてのセックスの後,実央に感想を聞かれた駿は,「しんどいよ」と答える。その瞬間,駿の脳裏にクラスメイトに想いを寄せていた高校時代の記憶がフラッシュバックする(このカットの挿入はアニメオリジナルである)。彼にとって,アナルセックスはまだ「しんどい」。しかしそれは,クラスメイトに拒絶された時の心の痛みと比べたらどうだろう。どれだけ「しんどい」としても,好きな人と交われる喜びは他に替えがたいだろう。この「しんどいよ」という言葉には,身体的な苦痛に加え,心の痛みと喜びが綯い交ぜになった極めて複雑な感情が込められているのだ。桜子やふみも,やがて彼女/彼らなりの「しんどい」を抱えながら愛を追求していくことになるのかもしれない。
規範に従うことはある意味,楽である。駿も桜子と婚約した時点では,規範への順応という楽な道を選択していた。しかし,“楽”が心の真実であるとは限らない。「しんどい」という苦痛の感覚に苛まれたとしても,心の真実に従える可能性。そうした可能性の領域が,社会の隅々にまで浸透する日は訪れるのだろうか。
作品データ
*リンクはWikipediaもしくは@wiki
【スタッフ】原作:紀伊カンナ/監督・脚本・コンテ:大橋明代/キャラクターデザイン・監修:紀伊カンナ/総作画監督:渡辺真由美/エフェクト作画監督:橋本敬史/美術監督:空閑由美子(STUDIOじゃっく)/色彩設計:柳澤久美子/撮影監督:美濃部朋子/編集:坂本雅紀(森田編集室)/音楽:窪田ミナ/音楽制作:松竹音楽出版/音響監督:藤田亜紀子/音響効果:森川永子/録音調整:林淑恭/音響制作:HALF H・P STUDIO/アニメーション制作:スタジオ雲雀
【キャスト】橋本駿:村田太志/知花実央:松岡禎丞/桜子:嶋村侑/絵理:伊藤かな恵/鈴:仲谷明香/おばちゃん:佐藤はな
【上映時間】59分
作品評価