*このレビューはネタバレを含みます。
【志村貴子✕クリープハイプ】劇場アニメ「どうにかなる日々」本予告【10月23日(金)公開】
様々な日常と恋愛と性をオムニバス形式で描いた,志村貴子の『どうにかなる日々』(2002-2004年)。この中から4つのエピソードを抜粋し,『STEINS;GATE』(2011年春・夏)などを手がけた佐藤卓哉監督が「引き算」のロジックでアニメ化したのが本作だ。決して目立つ作品ではないが,その徹底して淡白な語り口は,今年の劇場アニメ作品群の中でも異彩を放っている。
あらすじ
昔の恋人の結婚式で偶然出会ったえっちゃんとあやさん。教え子の矢ヶ崎くんに告白される高校教師の澤先生。AV女優の従姉と同居することになった小学生のしんちゃん。そんなしんちゃんのことを好きになるみかちゃん。ほんの少しだけユニークな彼ら/彼女らの日常が淡々と語られていく。
不在の存在感
よくあることだが,人はそこにいない人/物の存在感をこそ最も強く感じる。目の前にいないからこそ,却って今の自己の心理に作用し,人間関係を規定する。
レズビアンのえっちゃんとあやさんを結びつけたのは,2人のかつての恋人・百合の〈不在〉である。百合の結婚式で偶然出会った2人は,百合の悪口を言って傷心を慰め合いながらすぐに意気投合し,恋人同士の関係になる。ラストシーンの2人の会話は絶妙だ。
「百合って結局なんだったのかしら 幻?」
「ビッチよクソビッチ」
「でもえっちゃんに会えたわ」
「鼻血出そう」
ラストカットでは,百合の〈不在の存在感〉を象徴するかのように,高校生時代の百合が白い光の中に消失していく。
卒業式の日,教え子の矢ヶ崎くんに告白された澤先生は,「まるで女子中学生みたいに」心をときめかせるが,その後,何も進展せずに月日が経つ。1年後の卒業式の日,偶然再会した姉の彼氏に矢ヶ崎くんの面影を見出し,酔い心地で「そっくし」と口にしてしまう。*1 澤先生は矢ヶ崎へのホモセクシュアルな気持ちを悶々と引きずったまま,また次の卒業式を迎える。
AV女優の従姉・小夜子と一時的に同居することになったしんちゃんは,ことあるごとに揶揄ってくる彼女を疎ましく感じながらも,大人の異性として大いに意識してしまう(しんちゃんがパンツを洗うシーンはもちろん彼の夢精を暗示している)。しんちゃんとみかの勉強している様子を覗き見るために押し入れの中に隠れ,出てきたかと思えば「セクハラ」を繰り返す小夜子の姿は,ジークムント・フロイトの孫が発見した「fort-da」遊び*2 のアニメ的カリカチュアのようである。ただし,ここではfort=不在とda=在の交替を小夜子の方が支配しており,しんちゃんのコントロールの範疇にはない。だからしんちゃんはいらつくのだ。しかし,小夜子が実家に帰ることになり,本当に彼の前から姿を消した後,彼はみかに「今だから言うけど ぼくほんとは さみしかったんだ」と真情を吐露する。
3年が経ち,しんちゃんとみかは中学2年生になっている。みかはしんちゃんに恋心を抱いているが,「自分の胸を触らせる」といったダイレクトな性的アピールしかできない。おそらくそれは,彼女が小学生の時にしんちゃんと一緒に見た「小夜子のAV」に囚われているからだ。みかは中2になった今でも,「小夜子のAV」を繰り返し見続けている。しかししんちゃんが小夜子のことを忘れられずにいると感じたみかは,とうとう「小夜子のAV」のテープを引きずり出して壊し(VHSだからこそ可能な演出だ),彼女の存在を否定しようとする。みかは「小夜子のアホ」という書き出しの日記をつけること決意する。かくして,小夜子という〈不在〉を共に抱えたみかとしんちゃんは,やがて文化祭の「ベストカップル」に選ばれ,自分たちが本当の恋人同士になっていることに気づく。
この4つのエピソードには〈不在の存在感〉の影響力が表されている。プロデューサーの寺田祐輔は,原作からのエピソード選出にあたって,「かつて一緒にいたけれど,今はもう遠くに行ってしまった誰かを思う物語」を基準にしたのだという。*3 人の〈不在〉は誰もが体験することだ。それは奇跡ともファンタジーとも無縁の,ありふれた出来事にすぎない。しかしありふれているからこそ,そこに随伴する心情は日々の生活の中で忘れられてしまう。アニメーションと音楽で観せられた時,僕らはそれを追体験し,再認識できる。この種の作品を劇場で観る価値は,ここにある。
「引き算」のロジック
『どうにかなる日々』は,日常・恋・性・異性愛・同性愛といった価値が,差異や違和を感じさせることなくシームレスにつながっているような印象を与える作品だ。えっちゃんとあやさんは,出会ったその日に意気投合し,ごく普通にセックスをし始める。そこに同性愛であることの“気負い”のようなものは感じられない。矢ヶ崎くんは,まるで勉強の質問をしに行くかのように職員室を訪れ,澤先生に告白する。同性愛を特別視しない,フラットな眼差しがここから伺える(この点で,この2つのエピソードは,一般的な同性愛作品とはやや趣を異にしていると言えるかもしれない)。しんちゃんとみかが勉強するシーンと,みかが胸をさらけ出してしんちゃんを誘うシーンは,ほぼ同じトーンで描写されている。日常と性が地続きに描かれる。
とりわけ異性愛と同性愛のエピソードに関して,原作の志村は特別何かを意識して描き分けているわけではないという旨を述べている。*4 様々な形の恋愛と性が〈日常〉の中に等価物として存在し,どこにも“特別感” のようなものが感じられない。本作の最大の特徴でもある。
こうした作品のトーンは,アニメーションの表現にもはっきりと表れている。本作のアニメーションの特徴は,“シンプル”の一言に尽きる。キャラクターデザインや彩色の情報量はそれほど多くなく,水彩画を思わせる背景美術も描き込みは多い方ではない。とりわけ特徴的なのは,近年のアニメでよく施される“ぼかし“などのレンズ効果がほとんどなく,全編にわたってパンフォーカスがメインである点だ。こうした作りは,特定のキャラクターや画面上の特別な一点に鑑賞者の視点を集めるというよりは,むしろそれを画面全体にわたって分散させる。本作をアニメ化するにあたって,監督の佐藤卓哉と演出の有冨興二は「引き算」の論理に従ったというが,*5 複数の価値を序列化しないこの作品のフラットな印象に最適な作り方だと言える。
こうしたビジュアル面でのシンプルネスを,佐藤自ら手がける音響が補完しているのも面白い。過剰にBGMを使用せず,セリフの間や無音状態を効果的に使うことで,自然な緊張感を演出している。とりわけ印象的なのは,あやさんがえっちゃんの自室を訪れるシーンだ。2人きりになり,しばらく無音の状態が続いた後,ふと外の環境音(車の走行音や子どもの声)が空間を満たし,その後,また無音の状態に戻る。ビジュアルではなく音響によって,えっちゃんとあやさんのプライベート空間を際立たせる秀逸な演出だ。
劇場アニメの多様化の象徴として
以前と比べると,劇場アニメのバリエーションはかなり増えた。しかし作品の傾向としては,アクション・スペクタクル・感動などといった要素が中心を占め,まだまだ十分に多様化したとは言い難いだろう。そんな中,『なんとかなる日々』のような作品が,多くのビッグタイトルを尻目にひっそりと我が道を行く様は,僕にはむしろ頼もしく感じられる。劇場アニメはもっともっと多様化すべきだ。派手な作品が派手に興行収入を更新する一方で,淡々と日常を語る作品が評価されてもいいのだ。そのための批評空間も成熟すべきだろう。そういう意味では,この作品が劇場作品として選択されたこと自体が,この作品の最大の価値であると言えるかもしれない。
作品データ
*リンクはWikipediaもしくは@wiki
【スタッフ】原作:志村貴子/監督:佐藤卓哉/演出:有冨興二/脚本:佐藤卓哉,井出安軌,冨田頼子/キャラクターデザイン:佐川遥/色彩設計:仲村祐栄(BeLoop)/美術コンセプト:伊藤豊/美術監督:齋藤幸洋/撮影:髙津純平/編集:長谷川舞(editz)/アニメーション制作:ライデンフィルム京都スタジオ
【キャスト】えっちゃん:花澤香菜/あやさん:小松未可子/澤先生:櫻井孝宏/矢ヶ崎くん:山下誠一郎/しんちゃん:木戸衣吹/みかちゃん:石原夏織/小夜子:ファイルーズあい/百合:早見沙織/田辺くん:島﨑信長/ヨリコさん:田村睦心/しんちゃん父:天﨑滉平/しんちゃん母:白石涼子
【上映時間】54分
作品評価