アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

雑記:junk in my head すべてはジャンクのように

僕の子どもの頃の玩具箱はひどいものだった。

親から譲り受けた三段の引き出しの小物入れに,お祭りの射的で手に入れた人形,ハサミ,超合金ロボの部品,セロテープ,接着剤,分解した時計の歯車,マンガ,キン消し,ボールペンなどが文字通りゴタマゼにぶち込まれていた。それでも,ぶち込んでから数ヶ月くらい経つと人並みに罪悪感を覚え,引き出しの一段目には文房具,二段目にはおもちゃ,といった“整理整頓“に挑んでみる。しかし,一つひとつのアイテムを眺めれば眺めるほど,それが文具なのかおもちゃなのかガラクタなのかわからなくなってしまう。だから結局,引き出しの中は何だかわからないカオスのままであり続けたのだ。

大人になってどうなったかと身の回りを眺めてみると,射的の人形がやや高価なフィギュアになったり,マンガが文庫本になったりしただけで,あの頃のカオスっぷりは変わっていない。むしろ三段の引き出しに収まっていたカオスが部屋いっぱいに展開されてしまったという点では,確実に悪化している。とてもではないが,「誰でもできる整理整頓術」みたいな,いかにもアクセス数の伸びそうなブログ記事は僕には書けない。むしろその手の価値観から最も離れたところに生息する人種なのだ。

要するに,僕は〈分類〉と〈階層化〉が不得手である。モノとモノの境界を見定めることが苦手だ。これはブログ記事の執筆にも反映している。僕にはハイデガーの哲学と幾原邦彦監督のアニメとの差異がわからない。考えれば考えるほど,どちらが哲学でどちらがエンタメなのかわからなくなってしまうのだ。同様に,“上位文化”と“下位文化”の差異もよくわからない。アニメよりもオペラの方が“上位”に置かれているという一般的事実は承知しているが,それがどうしてなのかは皆目わからない。上下を逆転させても僕には何の不都合もない。

僕にとっては,ハイデガーの『存在と時間』と幾原邦彦監督の『さらざんまい』とワグナーの『指輪』が,同じ脳の領野をアクティベートするように感じる。『さらざんまい』を観た時のワクワク感と同じものを『存在と時間』にも感じる。だから,僕のアニメレビューには哲学や思想のトピックが頻出する。それは何も,アニメレビューにアカデミックな“箔”を付けようというのではない。そもそも僕にとっては,ハイデガーは金箔でも銀箔でもないのだから。そういう意味では,僕は紛れもなく“ポストモダン”の申し子である。

頭の中の引き出しを開けると,子どもの頃に読んだマンガ,大学院時代に研究した書物,現在進行形で観漁っているアニメがぶち込まれているが,それらが“知識”なのか“ガラクタ”なのか,僕自身にはまったく判別できないのだ。だから,いっそのこと同一平面上で扱うのが一番面白いだろう。

このブログは,そのようなブログである。