アニ録ブログ

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TVアニメ『ワンダーエッグ・プライオリティ』(2021年冬)「09 誰も知らない物語」で引用されたボードレールの「酔へ!」について[考察・感想]

*この記事は『ワンダーエッグ・プライオリティ』「09 誰も知らない物語」のネタバレを含みます。

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『ワンダーエッグ・プライオリティ』「09 誰も知らない物語」より引用 ©︎WEP PROJECT

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『ワンダーエッグ・プライオリティ』も9話を迎え,青沼ねいるの出自,第一秘書・田辺美咲とアカ・裏アカとの関係,「死の誘惑」とパラレルワールド,そして「あどけない悲しみ」という謎めいた言葉など,今後の展開を暗示する様々な要素が姿を見せた。いよいよ物語が佳境に入ることを予感させる象徴的な話数だったと言えるだろう。そしてラストシーンで引用されていたボードレールの詩は,物語に極めてミステリアスな印象を与えており,視聴者の好奇心を否応なく掻き立てる演出だった。

ボードレール:『酔へ!』

ラストシーンで青沼ねいるが口にしていた詩は,シャルル・ボードレール(1821-1867年)の詩集『パリの憂鬱』(1869年)に収められた『酔へ!』"Enivrez-vous"という散文詩中の一節である。翻訳は『現代詩文庫 富永太郎詩集』(思潮社,1975年)に収められた富永太郎訳を使用していると思われる。

原文も富永訳もともにパブリックドメイン化しているため,ネット上で自由に閲覧ができる。下記では,原文は"Athena"から,翻訳は「青空文庫」から引用した。劇中で引用された箇所を赤字で記してある。

Enivrez-vous

     Il faut être toujours ivre. Tout est là: c'est l'unique question. Pour ne pas sentir l'horrible fardeau du Temps qui brise vos épaules et vous penche vers la terre, il faut vous enivrer sans trêve.
     Mais de quoi? De vin, de poésie ou de vertu, à votre guise. Mais enivrez-vous.
     Et si quelquefois, sur les marches d'un palais, sur l'herbe verte d'un fossé, dans la solitude morne de votre chambre, vous vous réveillez, l'ivresse déjà diminuée ou disparue, demandez au vent, à la vague, à l'étoile, à l'oiseau, à l'horloge, à tout ce qui fuit, à tout ce qui gémit, à tout ce qui roule, à tout ce qui chante, à tout ce qui parle, demandez quelle heure il est; et le vent, la vague, l'étoile, l'oiseau, l'horloge, vous répondront: "Il est l'heure de s'enivrer! Pour n'être pas les esclaves martyrisés du Temps, enivrez-vous; enivrez-vous sans cesse! De vin, de poésie ou de vertu, à votre guise." 

酔へ!(富永太郎訳)

常に酔つてゐなければならない。ほかのことはどうでもよい――ただそれだけが問題なのだ。君の肩をくじき,君の体からだを地に圧し曲げる恐ろしい「時」の重荷を感じたくないなら,君は絶え間なく酔つてゐなければならない。
 しかし何で酔ふのだ? 酒でも,詩でも,道徳でも,何でも君のすきなもので。が,とにかく酔ひたまへ。
 もしどうかいふことで王宮の階段の上や,堀端の青草の上や,君の室の陰惨な孤独の中で,既に君の酔ひが覚めかゝるか,覚めきるかして目が覚めるやうなことがあつたら,風にでも,波にでも,星にでも,鳥にでも,時計にでも,すべての飛び行くものにでも,すべての唸くものにでも,すべての廻転するものにでも,すべての歌ふものにでも,すべての話すものにでも,今は何時だときいてみたまへ。風も,波も,星も,鳥も,時計も君に答へるだらう。「今は酔ふべき時です! 『時』に虐げられる奴隷になりたくないなら,絶え間なくお酔ひなさい! 酒でも,詩でも,道徳でも,何でもおすきなもので。」 

「時」の重圧から逃れるべく,「何でもおすきなもの」へ酩酊状態に至ることを呼びかけた力強い詩だ。「酒」というのはいかにもボードレールらしい小道具だが,「詩」や「美徳」など,比較的理知的なものをも酩酊の対象にしているのが面白い。ちなみに,フランス文学者の山田兼士によれば,この詩が収められた『パリの憂鬱』全体のトーンとしては,「そうした『酔い』から覚醒して,より新奇なる美を発見することを主眼としている」のだという。*1

富永訳以外の翻訳としては,三好達治訳『巴里の憂鬱』(新潮文庫,1951年),福永武彦訳『パリの憂愁』(岩波文庫,1965年),渡辺邦彦訳・解説『パリの憂鬱』(みすず書房,2006年),山田兼士訳・解説『小散文詩 パリの憂愁』(思潮社,2018年)などがある。読み比べてみるのもよいだろう。

ねいるの仮面のセリフ

「09 誰も知らない物語」は,ねいるがエッグの夢の中で再会したかつての親友・阿波野寿から,現実世界で植物状態になっている寿の生命維持装置を停止することを依頼されるという,ショッキングな内容だった。この精神的に困難なミッションを遂行していく中で,普段極めてクールなねいるが見せる感情の機微がこの話数の見どころである。

この際,ねいるは心の動揺を隠し,平静を取り繕うための〈仮面の台詞〉をいくつか口にしている。

(桃恵に「やっぱりすごい頭いいんだ」と言われ)「論理的な思考に長けているだけ」

「死んでる人間の呼吸器を止めることに,何のセンチメンタルも私にはない」

「私には人の情念のような暑苦しさの方が怖い」

ねいるはこれらの台詞によって,友の命を左右する恐怖を内側に塗り込めるかのように〈クールでロジカルな人間〉を自己演出し,とりわけリカと激しく対立する。ところが,いざ寿の生命維持装置を停止させる段になると,リカがネイルをパープルに塗ってくれた人差し指が震えてしまう。

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『ワンダーエッグ・プライオリティ』「09 誰も知らない物語」より引用 ©︎WEP PROJECT

そもそも本当にねいるがロジックだけの人間なら,寿の生命維持装置を止める日に,アイ,リカ,桃恵の3人をわざわざ自室に呼ぶ必要はなかったはずだ。彼女がロジックだけの人間なら,独り淡々と処置したはずである。実際,ねいるは自分と性質の全く違う3人に近くにいてもらうことで,友人の死という出来事にロジック以外のものを呼び込もうとしたのかもしれない。だからこそ,彼女はアイがそれとなく提案した「こっくりさんというファンタジー」に頼むことになったのだろう。 

ねいるが『酔へ!』を口にするのはこの後のシーンだ。彼女はこの詩を読むことで,己の中のイロジカルなものを再認したのかもしれない。あるいは,寿の口癖であった「大いに楽しみましょう!」という生の讃歌への賛意だったのかもしれない。 いずれにせよ,部屋を去るねいるの表情からは,彼女がこの詩を最終的にどう評価しているかを読みとるのは難しい。

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『ワンダーエッグ・プライオリティ』「09 誰も知らない物語」より引用 ©︎WEP PROJECT

「09 誰も知らない物語」スタッフ

脚本:野島伸司/絵コンテ・演出:山﨑雄太/作画監督:張丹妮けろりら

 

www.otalog.jp

*1:シャルル・ボードレール(山田兼士訳・解説)『小散文詩 パリの憂愁』,p.169,思潮社,2018年。