*このレビューはネタバレを含みます。
『サイダーのように言葉が湧き上がる』は,フライングドッグ10周年記念作品として製作された劇場アニメ作品である。『四月は君の嘘』(2014年秋-2015年冬)や『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-』(2016年秋)などのTVアニメ作品を手がけてきたイシグロキョウヘイが監督を務める。イシグロの初劇場アニメ監督作品となった本作は,ストーリーこそシンプルで派手さを誇示することはないものの,緻密で計算された画作りと練りに練られた音響理念によって,映像作品として高い完成度を示している。
あらすじ
人との会話が苦手だが,俳句を詠んでSNSに公開するのが趣味の少年チェリーと,大人気のネット動画配信主でありながら,コンプレックスを隠し続ける少女スマイル。ある日,ショッピング・モールで偶然出会った2人は,SNSを仲立ちとしながら徐々に心を通わせていく。そんな時,2人はアルバイト先の老人フジヤマがとあるレコードを探していることを知り,一緒に探すことを決意するのだった。
風景を詠/読む
現代のアニメにはーー少なくともその多様な潮流の一部分にはーー“リアリズム”という一種のオブセッションがある。
例えば新海誠や山田尚子などの作家は,カメラワーク,レンズ効果,そしてとりわけ背景美術などに高い度合いのリアリティを求めることが知られている。アニメーション技術(なかんずく撮影技術)の向上は,アニメの中に“リアルな美しさ”を求める感性を生み出した。むろん,アニメである以上は現実そのままということにはならないが,彼ら/彼女らの作品が,リアリズムに立脚点を置きながら現実世界をアンプリファイした“美”を生み出している点は否定のしようがないだろう。
イシグロキョウヘイ監督の『サイダーのように言葉が湧き上がる』(以下『サイダー』と省略)は,そうしたリアリズムのオブセッションを実にあっさりと払い除けている。彼は鈴木英人,わたせせいぞう,永井博のような1980年代のイラストレーターのビジュアルイメージに範を求めつつ,現実の風景を大胆に読み換えてしまう。
とりわけ特徴的なのは,主線によってシルエットを強調した背景美術だ。イシグロと美術担当の中村千恵子は,吉田博や川瀬巴水などの版画家を参考にしたというが,確かに本作の美術は版画作品のように主張の強い主線が際立っている。
青空に浮かぶ雲は特に印象的だ。屋外のシーンでは常にシルエットのはっきりとした雲が空に浮かび,キャラクターの輪郭線と絶妙なレイアウトを成している。巨大でリアルな入道雲を単発的かつ象徴的に使用する細田守作品などと比べると,その印象が好対照を成していて面白い。
こうしたビジュアルを使う意味はいくつかあるだろう。その1つは1980年代的なカルチャーイメージの引用だ。例えば本作のビジュアル面でのモデルとなった鈴木英人は,「シティ・ポップ」の代表的アーティスト山下達郎のジャケットデザインを多く手がけたことでよく知られる。
「シティ・ポップ」とは,1970年代から1980年代にかけて登場した,“都会的で洗練された雰囲気を持つポピュラー音楽”を指す少々曖昧なジャンルなのだが,ここにカテゴライズされていたアーティストの中には,『サイダー』の劇中歌「YAMAZAKURA」を歌った大貫妙子もいる。つまり本作はビジュアルと音楽の2つの側面において,当時の「シティ・ポップ」的な空気を引用しているわけだ。
しかし単に一昔前のアーバンなオシャレ感を演出するというだけでは,レトロな音楽PV以上のものにはならないだろう。この美術スタイルの選択には,表層的なビジュアル効果以上の意味がある。
イシグロは『サイダー』の制作過程を紹介するYouTubeチャンネル「サイコトちゃんねる」の中で,近年「リアル調」の美術から「イラスト調」で「記号で成り立つような,情報を削ぎ落とした」美術に関心が移ってきたことを述懐している。*1 この〈記号〉という要素が,本作にとって極めて重要な意味を持つのだ。
例えばイシグロによれば,作中に繰り返し登場する農道の「轍」は,チェリーとスマイルの「心の距離」を表しているという。*2 風景の主線を強調し,細部の情報を削ぎ落とすことにより,風景を心情を表す〈記号〉として読解可能にしているのだ。
この〈風景の記号的読解〉は,作中のモチーフとしても用いられている。そもそも俳句とは,風景の中から季節や情緒を抽出して言語化する作業だ。農道を歩きながらスマイルに俳句を詠むよう促されたチェリーが,彼女の背後に見えた街灯(これ自体が星形に〈記号〉化されている)から季語である「夏灯」を読み取り,「夕暮れのフライングめく夏灯」という句を〈詠んだ〉時,彼は風景を記号的に〈読んで〉いたのだ。
こうして,背景美術とその主線は〈記号〉としての意味作用を担うことにより,ビーバーがタギングする文字の線やチェリーが詠む俳句と同一平面上で融合していく。本作における美術とメッセージ性との間の不思議な統一感がこのようにして生まれている。
カリカチュア:批判的距離
イシグロは「サイコトちゃんねる」の中で,アニメーターの宮澤康紀が手がけた冒頭のアクションシーンの原画を紹介している。*3
上の画像は,逃げ惑うビーバーを追いかける元プリのカットだが,宮澤の天才的な身体デフォルメが決まりに決まった名カットだ。この一連のシーンは,『サイダー』の中でも唯一のアクションシーンとして一際異彩を放っている。一見,作品全体の雰囲気の中で“浮いた”感のあるこの宮澤の仕事は,イシグロが作品に込めた理念を強力に代弁している。
イシグロはアニメ作品に関して「カリカチュア」という言葉をしばしば用いる。本来カリカチュアとは,現実を誇張したり滑稽化したりすることで現実を批判的に風刺する手法のことだ。現実を忠実に写しとるのでもなければ,それをアンプリファイするのでもなく,むしろ現実を自由に読み換えることで現実と批判的な距離を保つ。おそらくそれは湯浅政明のようなクリエーターの理念にも通じるところがあるだろう。
イシグロは超現実的な美術や作画によって,意識的に現実と距離を保つ。それはアニメのクリエーターとしての,一種の批判的態度表明と言えるかもしれない。あえて非現実的な表現をすることで,現実にはありえないことをアニメ固有の文法で表現し,現実を逆照射するわけだ。しかしだからと言って,この作品が現実離れしたカリカチュアに終始しているというわけではない。そこにティーネイジャーたちの生々しくリアルな“声”が独自のリズムとリアリズムとして導入されている点を見逃してはならない。
「湧き上がる」生の声
『サイダーのように言葉が湧き上がる』というタイトルは本作のメッセージにとって極めて意義深い。そこには,感情の直接的発露としての言葉の運動がーーまさしく俳句の特性としてーー端的に表されているからだ。
伝統的な俳句の作法は〈縦書き〉だ。そこでは当然,文字は上から下へと下降していく。ショッピングモールの中で行われた「陽だまり」のメンバーによる吟行では,チェリーと老人たちが短冊に縦書きで俳句を詠む。この時,チェリーは先生に自作の俳句を朗読するよう促されるのだが,“コミュ障“である彼はうまく言葉を発することができない。文字の下降に心の下降が重なる。
一方,普段のチェリーは俳句をSNSにアップしている。その文字列は〈横書き〉だ。重力に抵抗するかのように水平に生み出されていく文字列が,スマホの画面に軽快にポップアップし,やがてビーバーのタギングという媒介によってモール中に,そして街中に溢れかえっていく。コミュ障であるチェリーの中に,汲めども尽きぬ言葉の源泉が存在することを感じさせる。「言葉が湧き上がる」という言語表現の浮遊感が,ここで的確に映像化されている。
ここにチェリー役の市川染五郎の若草のような初々しい演技が加わる。当初イシグロ監督はチェリーの配役に相当悩んだらしい。元々イシグロは,キャラクターとキャストとの間のアイデンティティ(年齢,性別等に関する)を重視していなかったが,ある時から,チェリー役にはチェリーと同年代のキャストを当てるのがふさわしいと感じるようになったのだという。そこで白羽の矢が立ったのが市川染五郎というわけだ(チェリーの設定年齢は17歳,市川染五郎は収録当時14歳)。*4
イシグロは劇場プログラムに掲載された対談の中で,チェリーの声のイメージを次のように表現している。
声変わりの最中か終わりかけの頃の,ミックスボイスっぽい感じ。低い音と高い音が混じり合っていて,ときどきひっくり返るみたいな。*5
映画の終盤,チェリーはモールで行われている「だるま祭り」のやぐらに駆け登り,「やまざくら〜」の句をいくつもアレンジしながらスマイルに投げかける。この時のチェリー=染五郎は,まさしく「ときどきひっくり返るみたいな」瞬間を示しつつ,心の底から「湧き上がる」言葉を生のまま声にしているようだ。このシーンでは,「やぐらに駆け上る」という上昇運動に「言葉が湧き上がる」という上昇運動が重ね合わせられている。
近年,劇場アニメ作品における非職業声優の起用に対する批判をよく耳にする。確かに,キャラクターを度外視し知名度だけを狙ったキャスティングは,作品の質を著しく落とす危険性がある。とりわけ日頃から職業声優の仕事をリスペクトしているアニメファンにとっては許し難いことだろう。しかしだからと言って,“俳優のキャスティング即否認”という反応はあまりにも短絡的だ。時として,非職業声優の声のリアリティが作品のリアリティと奇跡のように合致することもある。本作における市川染五郎の声に関しては,“歌舞伎俳優”という先入観を取り除いてジャッジした時,チェリーのキャラクターと不可分と言えるほどのマッチングを示したのではないかと僕は考える。
そして“声”という点においてさらに面白いのは,『サイダーのように言葉が湧き上がる』というタイトルも含め,作中に登場する俳句の多くが,現役の高校生(当時)が創作したものを採用している点だ。先ほども触れた「夕暮れのフライングめく夏灯」などのように,時としてやや荒削りな言葉の配合が直球の如く観客の心を打つ。大人の作った出来合いの世界に,大人が剪定していないリアルな青春の声を取り入れ,あろうことか作品のタイトルにまでしてしまうというこの大胆さ。この作品にどこか生々しい青春味を感じるゆえんではないだろうか。
セルフ・アナトミー
最後に,『サイダー』という作品にとってもう1つ特徴的なのが,本記事でも度々取り上げたYouTubeチャンネル「サイコトちゃんねる」だ。絵コンテ,原撮,タイムシートから美術や劇伴のコンセプト,はては企画の成立過程に至るまで,イシグロ自らが詳細に語る極めて興味深いチャンネルである。劇場アニメの監督が自らここまで作品を分析・解体し,手の内をさらけ出すというのもかなり珍しいだろう。アニメファンだけではなく,アニメの制作に携わる人たちにとっても有益な情報が貴重なチャンネルだ。当記事で言及できなかった音楽の要素についても詳しく解説がなされている。特に音楽と映像で構成した「ポリリズム」に関する説明はとても面白く,音楽とアニメの新たな可能性を感じさせる。*6
イシグロのこうした“自作解剖”の作業によって,『サイダー』という作品は不可侵で権威的なマスターピースというよりは,誰にとっても親しみやすく近づきやすい作品として“完成”する。それは,かつてビデオデッキのコマ送り機能によって作品の細部を分析し味わい尽くしたあの“作画オタク”たちの解剖学的な眼差しを,自身の作品に自己言及的に差し向けた格好だ。これから作品を鑑賞する方もすでに鑑賞された方も,ぜひ「サイコトちゃんねる」を鑑賞し,監督のオタク的眼差しを通して作品の細部に分け入ってみることをお勧めする。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】原作:フライングドッグ/監督・脚本・演出:イシグロキョウヘイ/脚本:佐藤大/キャラクターデザイン・総作画監督:愛敬由紀子/音楽:牛尾憲輔/演出:山城智恵/作画監督:金田尚美,エロール・セドリック,西村郁,渡部由紀子,辻智子,洪昌熙,小磯由佳,吉田南/原画:森川聡子/プロップデザイン:小磯由佳,愛敬由紀子/色彩設計:大塚眞純/美術設定・レイアウト監修:木村雅広/美術監督:中村千恵子/3DCG監督:塚本倫基/撮影監督:棚田耕平,関谷能弘/音響監督:明田川仁/アニメーションプロデューサー:小川拓也/アニメーション制作:シグナル・エムディ×サブリメイション
【キャスト】チェリー:市川染五郎/スマイル:杉咲花/ビーバー:潘めぐみ/ジャパン:花江夏樹/タフボーイ:梅原裕一郎/ジュリ:中島愛/マリ:諸星すみれ/紘一:神谷浩史/まりあ:坂本真綾/フジヤマ:山寺宏一/つばき:井上喜久子
【上映時間】87分
作品評価
商品情報
*5:『サイダーのように言葉が湧き上がる』劇場プログラム,p. 17,2021年。