*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。また本記事はいわゆる“謎解き”はしていませんのでご了承ください。
夏目真悟監督のアニメ『Sonny Boy』は,「学校」「漂流」「超能力」といった,それ自体としては古風な道具立てを用いながらも,極限まで説明を省いた奇想天外な物語と比類ないビジュアル表現によって,近年のオリジナル・アニメの中でも際立ってユニークな作品となった。結果として賛否相半ばする作品となったことは確かだが,その尖り切った表現手法は,アニメ表現の一つのあり方として高い評価を受けるに値する。また,一般的なエンターテインメント性よりも監督の作家性を重んじたその姿勢は,今後の深夜枠オリジナルアニメの作り方を考える上でも先駆的な範例となったと言えるだろう。
あらすじ
夏休みの最中,長良,希,瑞穂を始めとする中学校の3年生の生徒たちは,突如,学校ごと別世界に「漂流」してしまう。同時に,彼ら/彼女らには特別な力が与えられ,ある者は能力を誇示し,ある者は他者を支配しようとし,ある者は世界を解明しようと奮闘する。はたして少年少女らは元の世界に戻ることができるのか。
ポケコン:世界の裂け目
ラジダニの「ポケコン」は,彼の考案したプログラムを「この世界」に実体化させることのできる便利な能力だ。ややチートなこの力によって,天才少年ラジダニは複数の世界の謎を解き明かそうと日々奮闘している。
しかし「ポケコン」というプロップの最大のユニークネスは,その奇抜なデザインにある。ラジダニの趣味なのだろうか,実体化したプログラムは『ドラえもん』のひみつ道具や『トイストーリー』のおもちゃたちのようにポップでカラフルで非現実的だ。それらは ー少なくとも物語の世界においてはー 3次元の物体であるはずなのに,まるで2次元のように平面的であり,とりわけペープサートのように白く縁取りされたその輪郭は,背景やキャラクターとの調和を物静かに ーしかし断固としてー 拒絶しているかのように見える。
多かれ少なかれ現代のアニメは,その世界観や設定に同質性を求めることを前提にしている。総作監制によって作画の一貫性が保たれ,パースペクティブによって空間が合理的に把握され,キャラクターと背景美術との統一性が撮影処理によって入念に調整される。そこは,仮に現実とは似ても似つかない“異世界”であったとしても,一定のルールが隅々にまで保証された合理的な世界だ。僕らはそのルールを隈なく読み解くことで,世界の仕組みと意図を合理的に把握できる。それが“理解可能なアニメ”であり,現代のアニメにおいてはそのような作品が概ね“優等生”として迎えられる。
しかし「ポケコン」というプロップは,そうした世界の同質性にこともなげにメスを入れる。白く太い枠線は世界に溶け込むことを拒絶し,奥行きを欠いたデザインは,パースペクティブが隠蔽しようとするアニメの平面性を露呈する。3次元の世界に2次元の物体を配置することで,次元の複数性を暗示する。事実,第5話「跳ぶ教室」では,2次元の「この世界」に長良・希・瑞穂・朝風が介入するエピソードが描かれる。*1 このようにして,世界の裂け目=違和をアニメ表現そのもののレベルに落とし込みつつ,僕らが現実世界と同様,アニメの世界においても前提としている世界の統一性を否定し,その複数性を可視化する。それがこの作品のビジュアル面での革新性だ。
ところで,異質なビジュアル要素によって世界の同質性に裂け目を入れるということでは,幾原邦彦監督『輪るピングドラム』(2011年 夏・秋)と『さらざんまい』(2019年 春)における「ピクトグラム人間」なども面白い表現だ。
幾原はいわゆる“モブキャラ”を他のキャラクターや背景美術とはビジュアル的に異質な「ピクトグラム人間」として描くことによって,「主要キャラクターとモブキャラが異なる世界を経験している」という状況(それは彼らにしか見えないペンギンやカッパといったキャラクターによっても補強される)を作り,いわば〈世界の多重化〉を図っていると言える。
だが『輪るピングドラム』や『さらざんまい』では,作品のメインテーマを語るための手段として〈世界の多重化〉が用いられていたに過ぎない。それに対し『Sonny Boy』は,〈世界の多重化〉をよりラディカルに突き詰めることによって,〈世界の複数性〉そのものを主題化し,逆に世界の同質性や単一性を疑問に付す。このことは「ポケコン」に劣らずユニークな背景美術からも見てとれるだろう。パースは大胆に歪められ,世界に裂け目が入れられ,背景が瞬時に入れ替わる。こうなれば,ごく一般的なアニメの鑑賞法が適さないことは言うまでもないだろう。*2
そしてこの点が本作の最も大きなポイントなのだが,この世界の複数性は,物理法則でもなければ神(あるいは「ヴォイス,校長」)でもなく,長良という一人の少年の願望によってもたらされている。より正確に言えば,彼が複数の世界を「観測」したいという願望を抱いたことによって,世界の複数性が可視化されている。この点にこそ,本作の世界設定とドラマ性の妙味があるのだ。
「信じる力」
第8話「笑い犬」で,やまびこが5000年前に「祝祭の村」で出会ったこだまとの逸話を語った後,長良は次のようなセリフを口にする。
僕はあの時,どうしてああしてしまったんだろうとか。ああしなかったんだろうとか。そういうどうしようもないことばかり考えてたら,眠れなくなっちゃった。
長良のこの何気ないセリフは,一見,思春期の少年にありがちなごく当たり前の感性を語っただけに思える。しかし実際,彼は彼にとって“あり得たかもしれない世界”,“ここではないどこか別の世界”,一言で言えば“可能世界”への希求をこの言葉で語っているのだ。
家族から蔑ろにされている長良は,自尊心を失い,世界に対する希望を欠いている。第1話「夏の果ての島」では,学校内にルールを定めた明星とキャップに朝風が「何がルールだ」と毒づいたのに対し,彼は「考えても仕方ないよ。そういう決まりなんだから」と答える。この時点では,彼はまだ世界に対する諦念の境地にあり,それに同調するかのように,学校の周囲には“無”そのもののような漆黒の世界が広がっている。
長良とは対照的に,グループチャットに入らずルールにも従おうとしない転校生の希は,長良に学校という閉鎖的空間の外部を示す存在である。彼女は現実世界で長良と出会った当初から,皆と違う制服を身に付け,教科書を破り捨てる破戒者として登場していた。彼女と長良は,第1話のラストシークエンスで次のような印象的な会話をしている。
長良:どこ行くの。希:この世界から抜け出すんだ。長良:え…ちょっと![中略]希:ねえ,君はひまわり派?それともたんぽぽ派?長良:え?どういうこと?希:今いる場所より眩しく見える場所があったら,行ってみたくなるか,それとも置かれた場所でじっと眺め続けるか。長良:どっちかっていうと…希:ん?長良:…たんぽぽ派…かな希:じゃあ私と一緒だ!
そして希は闇の中の光に向かって飛翔し,その刹那,長良は青い空と青い海に囲まれた「ハテノ島」を観測する。少年少女は,学校=ルールの外部に解放される。長良はこの瞬間から,複数の「この世界」を観測し,時として仲間を戸惑わせ,時としてそれらから様々な寓意を得ていく。
長良に限らず,現実世界の僕らも,多かれ少なかれ単調で均一な世界に囚われて生きている。そして単調なこの世界にいつか裂け目が生じ,“向こう側の世界”が出現することを夢見ることも少なくないだろう。そうした〈可能世界〉を論理的に -あくまで“論理的に”- 思考する手立ては,すでに哲学によって示されている。デイヴィッド・ルイスの「様相実在論」は,“あり得たかもしれない世界”の形而上学的可能性を認め,〈可能世界〉を現実世界と同様に実在するものとして扱う。
われわれの現実世界は他の世界の中の単なる一つの世界にすぎない。われわれがその世界だけを現実(actual)と呼ぶのは,それが残りの全ての世界と性質上異なるからではなく,それがわれわれの住まう世界だからである。他の世界の住民は,「現実」でもってわれわれが意味するものを彼らが意味するのなら,彼ら自身の世界を「現実」と正しく呼べるのである。というのも,われわれが「現実」に与える意味は,それは任意の世界iで当の世界i自体を指示するというものだからである。「現実」は「私」や「ここ」や「今」のように指標的である。つまり,その指示は発話の状況,即ちその発話がなされている世界,に依存するのである。*3
「現実」という言葉は,「ここ」や「今」という言葉と同様,発話される文脈に応じてその指示対象を変える。僕らがこの世界を「現実」と呼ぶのは,僕らがたまたまこの世界に住んでいるからに過ぎず,他の可能世界の住民にとっては,その世界が「現実」となり得る。
可能世界が僕らの現実世界のある種の“隣人”として実在するという哲学は,それ自体極めて魅力的である。しかし当然のことだが,様相実在論は可能世界の実在を認め,その論理的な在り方を分析することはできても,その世界を実質的に“経験“する -いわば世界を“越境”する- 手立てを与えてくれるわけではない。むしろそこでは,同一の存在が複数世界に存在すること(様相実在論では「貫世界同一性」と呼ばれる)はありえないとされ,その代わりに,一定の類似関係に基づく「対応者」が存在していると想定される。*4 つまり様相実在論では,同一の個体が複数の世界を経験することは不可能である。長良たちは現実世界の住人の「コピー」であるらしいので,「対応者」に近い存在と言える。しかしコピーである彼ら自身が複数の世界を往来し,最終的には現実世界の自分自身と重ね合わせられてしまうのだから,言ってみれば「対応者」が「貫世界的同一性」を獲得し,複数世界を越境する力を得てしまっているわけだ。さらに,様相実在論は複数ある可能世界のうち,「最も現実世界に近い世界」について語るものであるため,人が犬や森になるような世界はおそらく対象とし得ないだろう。
だからこそ僕らは,フィクションの想像力を必要とする。
例えば村上春樹は『騎士団長殺し』(2017年)の中で,「騎士団長」という珍妙なキャラクターを登場させる。「騎士団長」は,ある有名な日本画家の描いた「騎士団長殺し」という絵画作品の中の人物と瓜二つの姿をしている。
その小さな男はあの絵の中とまったく同じ身なりをして,同じ顔をしていた。絵の中からそのまま抜け出してきたみたいに。*5
「絵の中からそのまま抜け出してきた」かのような「騎士団長」は,ちょうど「ポケコン」が3次元の世界に2次元的な物体として切れ目を入れたのと同様,「私」の世界に異次元的な違和をもたらす。物語の終盤,「私」は画家が眠る病室で「騎士団長」を殺害した後,同じく『騎士団長殺し』の中に描かれていた人物「顔なが」によって唐突に開けられた「穴」の中に入り込み,超現実的な体験をする。
僕らは主人公である「私」にアイデンティファイしつつ,「私」を媒介者としながら「穴」の中で数々の奇妙な体験をする。「騎士団長」の存在も「穴」での体験も,およそ現実世界ではあり得ない突飛な世界だ。それにもかかわらず,『騎士団長殺し』は最後にこう締めくくる。
「騎士団長はほんとうにいたんだよ」と私はそばでぐっすり眠っているむろ[引用者註:「私」の娘]に向かって話しかけた。「きみはそれを信じた方がいい」*6
そもそも村上春樹は,現実世界の中に異質性を忍び込ませ,そこにある種の説得力とリアリティを持たせることに長けた書き手だ。僕らは彼の物語を読むことで,世界の複数性,そしてそれを越境する可能性を「信じる力」*7 を与えられる。そして夏目真悟の『Sonny Boy』も,長良たちの経験を媒介として,複数の可能世界を疑似的に体験し,それを「信じる力」を僕らに与えてくれるのだ。そもそもフィクションにおける〈世界の複数性〉というのは,〈可能世界〉の実在を単に思考することを越え,それをヴァーチャルに体験するための設定なのかもしれない。
たんぽぽは可能世界を越境する
ところで,『Sonny Boy』の世界において「漂流」が生じた経緯を(主にやまびこの説明から)ロジカルに推量することはある程度可能だ。
- 長良の「観測」によって複数の「この世界」が事実上“創造”されている。
- さくらの能力によって白糸第二中学校の生徒が「コピー」され,「漂流」の直接の原因となっている。
- 瑞穂の能力によって生徒が死を迎えない「静止」の状態になっている。
- 静止した世界の向こうにある光を希だけが見ている。
こんなところだろうか。しかしこの作品が不思議なのは,こうしたロジカルな解釈や考察をどれだけ積み上げていっても,その魅力を成り立たせている“コア”に近似することすらできないと思わせる点だ。それはおそらく,「漂流」の核心に,そして物語全体のそこかしこに,少年少女らの等身大の“感情”が潜んでいるためであろう。先述したように,長良は希の導きをきっかけとして,〈可能世界〉を求めるようになった。猫のさくらは瑞穂といつまでも離れたくないと願っている。瑞穂は誰かが死ぬのを目にしたくないと思っている。そして希は,静止した世界の彼岸に,自分が生きて皆と友人であり続ける未来=光を切望している。少年少女+猫の素朴な感情の集積が,この「漂流」という奇跡を成り立たせているのである。
いみじくも,この作品随一の“ロジカル考察厨”であるラジダニが,第11話「少年と海」で希をなくした悲しみに打ちひしがれる長良にこう語っている。
どれだけ宇宙の理を理解しても,悲しんでる友達の隣にいてあげることくらいしかできない。
このラジダニのセリフは,あたかも『Sonny Boy』という作品の取扱説明書のようだ。『Sonny Boy』の世界観を読み解くべき際に必要なのは,ロジカルなコードではなく,エモーショナルなコードなのである。論理的には不可能な〈複数世界の〉越境を成し遂げながらも,少年少女たちは変わらず友を想い,憧れ,時として挫折していた。そこに見られたのは,少年少女たちの心の内に普遍的に存在する,等身大の感情である。
第7話「ロード・ブック」に印象的なシーンがある。一人旅に出るラジダニが長良に選別として「サル毛玉」を渡し,2人は次のような言葉を交わす。
ラジダニ:いい匂いだろう。
長良:うん。日向の匂いがする…えっそれだけ?
ラジダニ:そうだよ。でもその匂いは決して無くならないし,変わることもないんだ。たとえ燃やしても,カレーに入れて煮込んでもね。どこにいても,どんな状況でも変わらない。今の君にぴったりな能力だ。
「サル毛玉」の変わらぬ匂いは,世界を越境する者の同一性の強度を表示している。そしてそれはおそらく長良だけではない。世界が複数存在し,たとえそれらがどれだけ不条理であったとしても,そこへ赴いた彼ら/彼女らの感情体験の本質は変わらない。それくらい,少年少女の感情の強度は高いのだ。たんぽぽは可能世界を越境する。現実世界の同質性に囚われた僕らにはそのような感情を直接体験することはできないが,彼ら/彼女らを媒介として,それを疑似的に感じとることはできるかもしれない。これこそが,『Sonny Boy』という作品が伝える奇跡の物語である。
銀杏BOYZの「少年少女」をはじめとする楽曲は,絶妙なタイミングで物語にカットインし,少年少女たちの心に寄り添うように鳴り響く。それらの楽曲は,まるで“考察”という責苦を免罪してくれるかのように,物語を深い叙情性で包み込む。
『Sonny Boy』は,叙事詩の型を借りた叙情詩なのである。
可能世界という“苦い現実”
僕らにとって〈可能世界〉とは何だろうか。
それは“今よりいい世界”なのだろうか。しかし無数にある〈可能世界〉の中には,“今より悲しい世界”もあるはずだ。可能性が無数に存在する以上,“悲/喜”や“哀/楽”の按配の可能性も無数にあるはずなのだから。
漂流先の世界で,すべての世界が“異世界”や“あの世界”ではなく,「この世界」と呼ばれていたことを思い出そう(最初,この語法に戸惑った視聴者も少なくないだろう)。ひょっとしたらそれは,どんなに不条理な世界であっても,それを自分たちの世界として引き受けるという,少年少女らの決意を表していたのかもしれない。
長良が最終的に観測=選択した世界が,彼にとって悲/喜のどちらであったか。それを判断する権限を,長良とは違う世界に生きる僕らは持たないのかもしれない。それは,僕らとは違う可能性を孕んだ“彼の世界”における価値基準なのだから。しかし,ラストカットで長良が見せた笑顔が,わずかながらも希望の光を含んでいるであろうことは,どうやら間違いではなさそうだ。
すべての少年少女に幸あれ。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】監督・脚本・原作:夏目真悟/キャラクター原案:江口寿史/アニメーション制作:マッドハウス/キャラクターデザイン:久貝典史/美術監督:藤野真里(スタジオPablo)/色彩設計:橋本賢/撮影監督:伏原あかね/編集:木村佳史子/Music:落日飛車(Sunset Rollercoaster),VIDEOTAPEMUSIC,ザ・なつやすみバンド,ミツメ,Ogawa&Tokoro,空中泥棒,カネヨリマサル,toe,コーニッシュ/音響監督:はたしょう二/音楽アドバイザー:渡辺信一郎/主題歌:銀杏BOYZ「少年少女」
【キャスト】長良:市川蒼/希:大西沙織/瑞穂:悠木碧/朝風:小林千晃
作品評価
商品情報
*1:夏目監督によれば,第5話の2次元世界はエドウィン・アボット・アボットの『フラットランド たくさんの次元のものがたり』(1884年)から着想を得ているらしい。最終回直前! Sonny Boyを解き明かす、夏目真悟監督各話コメンタリー① | Febri なお現在入手可能な訳書としては,エドウィン・アボット・アボット(竹内薫訳)『フラットランド たくさんの次元のものがたり』,講談社選書メチエ,2017年 などがある。
*2:それどころかこの作品は,当初から背景美術=統一的世界提示を拒絶し,世界の安定した存在そのものを疑問に付す素振りをも見せている。第1話もそうだが,放映前に公表されたキービジュアル(本記事のアイキャッチを参照)においてすでに,少年少女と学校の背後の景色は漆黒の闇として描かれていた(あるいは何も描かれていなかった)ことを思い出そう。本作は,統一的な世界観を提示するという背景美術の機能をゼロの値にまで削減するところから始まったのだ。
*3:デイヴィッド・ルイス(吉満昭宏訳)『反事実的条件法』,p.140,勁草書房,2007年。
*4:デイヴィッド・ルイス(出口康夫監訳)『世界の複数性について』,pp.219-299,名古屋大学出版会,2016年。
*5:村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』,p.347,新潮社,2017年。
*6:村上春樹『騎士団長殺し 第2部 還ろうメタファー編』,p.541,新潮社,2017年。
*7:同上,p.540。