アニ録ブログ

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劇場アニメ『犬王』(2022年)レビュー[考察・感想]:〈有〉を語り継いだ物語

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。また,レビューの都合上,手塚治虫『火の鳥 太陽編』の内容にも触れていますのでご注意ください。

『犬王』公式Twitterより引用 ©︎2021 “INU-OH” Film Partners

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湯浅政明監督『犬王』は,古川日出男『平家物語 犬王の巻』(2017年)を原作とし,監督の古巣であるサイエンスSARUにて制作された劇場アニメーション作品である。時代考証を敢えて逸脱した楽曲の使用,独自の身体表象,過去と現在を接続した表現など,独創性の高い演出が随所に散りばめられたユニークな作品だ。昨今の"ミュージカル・アニメ"のジャンルの中でもひときわ異彩を放つ快作である。

 

あらすじ

時は室町時代。かつて平家が滅んだ壇ノ浦の漁村で,一人の少年が神器の神罰を受けて盲となった。その名は「友魚」。一方,都の猿楽の一座「比叡座」では,父の呪いによって異形の怪物として生を受けた者がいた。その名は「犬王」。2人は京の都で出会い,意気投合し,その類い稀なる音と歌と舞の力で都中を熱狂させるスーパースターとなる。やがて2人の人気と名声は,時の為政者・足利義満の耳に入る。芸能と権力が対峙する。

 

蝿の羽音

「犬王」のタイトルバックの直後,蝿の羽音が耳をつく。僕らはこの蝿を,"単なる演出"として見過ごすべきではない。

小うるさい蝿たちは,壇ノ浦の寒村の魚に集り,盲となった友魚につきまとう。蝿は〈死〉に集ると同時に〈生〉に集る。〈死〉の臭いが脱臭された現代社会と違い,室町時代の日常には生と死が同時に存在していた。蝿はそのような生死の両義的状況を表す,ささやかだが意味深い象徴なのだ。

かつて高畑勲も,『火垂るの墓』(1988年)の中で横たわる死体に蝿をまとわりつかせ,戦時中の日本における生と死の同時存在を表象していた。また,梶井基次郎『冬の蝿』(1928年)の中で描いたのも生と死だった。彼は冬の蝿を前にした男に,「しかし何という,『生きんとする意志』であろう!彼等は日光のなかで交尾することを忘れない。恐らく枯死からはそう遠くない彼等が!」*1 と言わしめる。男は冬の蝿の死に「なにか私を生かしそしていつか私を殺してしまう気まぐれな条件」の暗示を読みとる。*2 そこに描かれているのは,蝿そのものに映し出された,己の生と死の両義的な気分である。

蝿そのものを語り継ぐ者などほとんどいない(梶井基次郎くらいだろう)。だが,蝿=生と死の両義体は,確かにそこに,その時代に,存在を「」していたはずであり,それを目にした者に何らかの“作用”を及ぼし得たはずなのだ。だから,梶井のような才能がそれを語ることには実存的な意味がある。それと同じく,確かな生を生き,確かな死を死んでいきながら,歴史のうねりの中で忘却されてしまった「犬王」の存在を,そこに「有」ったものとして語り継ぐことには実存的な意味がある。だからこそ,犬王の物語を語り尽くそうとした「友魚」というキャラクターには特別な存在意義がある。

故郷の漁村との繋留を「魚」の字としてその名に帯びた友魚は,京で友一と改名することによって故郷へのノスタルジーを捨て去り,当道座の権威を得て犬王とともに名を馳せる。しかしその後すぐ「一」を捨て,半ば権威を嗤いながら「俺たちはここに有る!」と叫び,「友有」と名乗る。この「有」の字には,歴史の力に抗いながら,己の生と死を刻み込もうとする強力な「生きんとする意志」が感じられる。

『犬王』公式Twitterより引用 ©︎2021 “INU-OH” Film Partners

だが時の為政者・足利義満は,権力の統一とともに芸能の統一をも達成しようとする。彼は犬王の語る新しい『平家物語』と友有の歌う犬王の物語をノイズとして排除し,覚一がまとめた「正本」を唯一の『平家物語』と定めることによって,芸能を権力の下に置こうとする。

これに対し,友有は「我々の物語を消させはせぬ!」と言って抗い,2人のレゾンデートルの象徴である「有」の名を貫こうともがく。この時の友有は,バフマン・ゴバディ監督『ペルシャ猫を誰も知らない』(2009年)中で描かれた若者たちの姿とも重なる。彼らもまた,政府当局という権力に抗いながら自由な音楽を追求しようとしていたのだ。

友「魚」,友「一」,友「有」という改名の過程は,犬王という人物の,実在しながらもその多くを忘却された実存を,確かな「有」へとコンバートするためのコードのようでもある。友有という架空のキャラクターは,犬王という存在の「有」を伝承可能にするための装置であるとも言えるだろう。

 

せめぎ合う倍音:過去と現在の共演

さて,蝿の羽音は,琵琶法師と友魚らが奏でる琵琶の豊かな倍音へと引き継がれ,友一の歌う「犬王 壱」において,エレキギターの人工的な倍音と混じり合う。その後の「腕塚」「鯨」「竜中将」における犬王と友有の舞と歌は,"室町時代の猿楽あるいは能"というイメージを軽々と逸脱し,ロックフェス,オペラ,バレエ,ストリートパフォーマンスの要素を雑多に内包した貪欲なパフォーマンスへと膨れ上がり,都中を熱狂させていく。

『犬王』公式Twitterより引用 ©︎2021 “INU-OH” Film Partners

湯浅の『犬王』の面白さは,このように琵琶(過去)とエレキ(現代)が邂逅し,せめぎ合い,調和し合う点にある。これを“当時実在した楽器のみ使用する”といったような下手な“考証”をしてしまえば,その面白さはたちまち半減する。その意味では,アニメ『平家物語』(2022年)において,同様に琵琶や笛の音と現代楽器の音を織り交ぜた山田尚子×牛尾憲輔の音楽思想にも通じるところがある。ある種の"ゴタマゼ感"がこの2作品に共通した持ち味なのだ。

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さらに『犬王』においては,琵琶(過去)とエレキ(現代)の邂逅が作品そのもののテーマとして"回収"されている点も重要だ。映画冒頭のシーンを思い出そう。現代の路上で友有が琵琶とともに前口上を始めると,現代の様々な風景が次々と過去の風景に置き換わり,時が巻き戻される。映画冒頭の数分間に,600年の時が圧縮される。またラストシーンで犬王と友有が再会するのはやはり現代である。これらの現代のシーンは原作にはないアニメオリジナルの演出であり,もとは脚本家の野木亜紀子のアイディアだったそうだ。少々長くなるが,劇場プログラムに収められた野木のインタビューから引用しよう。

もともと,600年も昔の話って今のお客さんには遠すぎるし,いきなり室町時代の世界をポンと提示されても,異世界のような断絶があると感じたんです。能について詳しく知っている人も多くはないだろうし,さらに現存する能よりも前の猿楽能のことなんて,ますますわからないじゃないですか。だから,今の世界と接続するためにも,冒頭と終わりを現在にする。[中略] 

能って「彼らの物語を誰かが語る」という形式の劇なので,それに倣ってこの映画も入れ子構造にして,現代に語り継がれる物語として始めようと。犬王たちの物語は奪われてしまったけれども,映画を観たお客さんたちは,その物語を直接伝え聞いたことになる。皆さんに彼らの物語を,確かにお伝えしましたよね?って。そういう構造にすれば,現代に繋げられるんじゃないかと思ったんです。 *3

過去を現代に直に接続することで,〈語り継ぐ〉という行為をよりアクチュアルにする。このことは,上で述べた琵琶(過去)とエレキ(現代)の接続とも関係するだろう。琵琶の音色にエレキギターやドラムの音が混じり合うことによって,現代の鑑賞者は室町時代の能をあたかも“今ここ”で演じられたものとして体感できる。歴史的な“遠さ”を“近さ”に変換することができる。このアクチュアリティ=ライブ感こそが本作の魅力の1つなのだ。

ちなみに異なる時代,異なる場所のカットを矢継ぎ早にモンタージュしていく手法は,湯浅監督の『マインドゲーム』『日本沈没2020』の最終話などでも採られている。湯浅の歴史と空間の認識の根底には,〈異なる時空間の隣接〉という発想があるのかもしれない。

 

湯浅的身体の自由:異形という異能

湯浅作品を追ってきた人にとっては自明だろうが,彼のアニメにはデフォルメされた身体表象が頻繁に登場する。時として四肢はゴムのように変形し,関節は自在に曲がりくねる。

左:『夜明け告げるルーのうた』より引用 ©︎2017 ルー製作委員会
右:『夜は短し歩けよ乙女』より引用 ©︎森見登美彦・KADOKAWA/ナカメの会

こうしたデフォルメ表現が独特の映像ダイナミズムを生み出し,表情豊かな“湯浅ワールド”を形作っている。

そもそもアニメーションは,リアルな身体描写を追求すればするほど,筋肉の動きや関節の曲がり方などにおいて"リアリティ"という名の制約を受ける。湯浅のデフォルメされたキャラクターたちは,そうした身体の制約から解放されることにより,内面の感情をより自由に表現できる。そんな湯浅ワールドにとって,犬王の身体は精神の自由を表現するための格好の"媒体"であったはずだ。

『犬王』公式Twitterより引用 ©︎2021 “INU-OH” Film Partners

犬王は父の呪いを受けて“異形”の姿で生まれる。彼は舞を習得するごとに“普通”の身体を取り戻していく。この過程は,手塚治虫のマンガ『どろろ』(1969年)との類似が指摘されることが多い。しかし少し仔細に踏み込めば,両作品の身体に関する扱いがむしろ対照的であることがわかるだろう。

『どろろ』では,百鬼丸が身体の48箇所を欠いた状態で生まれる。彼は魔物を一体倒すたびに,身体を一つずつ取り戻していく。これは〈欠損〉から〈完全〉へというプロセスであり,〈欠損〉はあくまでも否定的なものとして捉えられている。一方の犬王は,異形の者として生を受け,一つ芸を極めるごとに正常な身体を取り戻していく。〈異常〉から〈正常〉へというプロセスだが,この作品では,〈異形〉はは必ずしも否定的なものとして捉えられているわけではない。

犬王にとって,"異形"は"異能"でもある。彼は“普通”の足を手に入れた後,嬉々として都中を駆け巡りながら,その醜い顔によって人々を驚かす。彼はその風貌が原因で比叡座に立てないことを嘆く一方で,自らの“異形”を楽しんでいる素振りすら見せる。彼は友一との会話の中で次のように言う。

何の因果かこの身体。背には鱗,口はあるべきところになく,両の目も,普通の面を被ると見えん。この腕は便利だ!こんなことが誰にできる?

そう言って彼は長い手を操り,まるで軽業師のように高々と倒立してみせる。そこには,〈正常〉から逸脱しているからこそ得られる力強い生の喜びが感じられもする。

実は『犬王』の物語は,同じ手塚のマンガ『火の鳥 太陽編』(1986-1988年)との類似点も多く,作品解釈においてはむしろこちらの方が重要かもしれない。少し物語を振り返ってみよう。

『火の鳥 太陽編』は,飛鳥時代の日本を舞台にした大河ドラマだ。白村江の戦いで敗れた百済の王族の青年が,唐軍の将に狼の皮を被せられ異形の怪物と化し,人ならざる者を知覚する能力を得る。その後,倭国(日本)に渡った彼は,狼の姿をした「狗族」と呼ばれる産土神の娘「マリモ」と出会い,やがて愛し合うようになる。ある時,彼の顔に張り付いていた狼の皮が剥がれ,元の美しい顔を取り戻すが,マリモの姿も見えなくなってしまい,その存在すら忘れてしまう。しかし2人は21世紀の未来で再び狼の姿で出会い,永遠に結ばれる,という物語である。

『犬王』に戻ろう。物語最後の演目「竜中将」の舞を終えた犬王は,本来の顔を取り戻すことに成功する。すべての〈醜=異常〉は除かれ,〈美=正常〉が取り戻される。しかしその“美しい”身体は,余分な枝葉を剪定された『平家物語』の正本と同様,もっぱら足利義満という権力に仕えることになる。それは友有が求めた「有」のあり方とは異なるものだったはずだ。友有は幕府に逆らった廉で打首にされる刹那,再び友魚に名を戻し,犬王と訣別する。

しかし湯浅はここで話を終えなかった。 *4

犬王と友有は600年後の現代で再会する。バックには車のタイヤとアスファルトが擦れ合う静かな環境音が流れる。友有は子どもの頃の姿に戻っている。犬王もかつての〈異形=異能〉の姿をしている。2人は600年の歳月を経て出会いをやり直し,再び互いの「有」を認め合う。

どちらの作品も,異形=異能を得た主人公がやがてそれを手放し,それをきっかけに最愛の人/友と別れ,その後,長大な時を経て再び異形=異能の姿で最愛の人/友と再会する,というストーリー構造になっている。もちろん,湯浅が意識的に『火の鳥 太陽編』をオマージュしたとは考えにくい。しかし,異形=異能を肯定的に捉えたマンガ・アニメ作品は数多く作られてきたのであって,その系譜を辿る上でこの2作品の類似は無視できないものだろう。

『犬王』のラストシーンが示しているのは,〈異形=異能〉が克服されるべきものというよりは,回帰していくべきものとして価値を持つ,ということである。

この異形=異能の扱いについて,湯浅は次のように語っている。

犬王が「呪いが解けてよかったね」で話が終わるのは違うと思ったし,そういう話ではないと思っていて。そもそも,犬王は「普通の体」になることは特に望んでいない。ただ舞台に上がって,人前で踊ることが目的であって,その過程で呪いが解けていくだけなので。あとは何より,友魚と一緒にいることが大事。彼らが最も自分らしくあれたのはあの時代なので,最後に再会するときは,お互いに出会ったときの姿になるだろうと思ったんです。 *5

こうして,古川日出男×湯浅政明の紡いだ『犬王』という物語によって,蝿のように生きて死んでいった男たちの「有」が,輪廻にも似た時を超える“つながり”の中で,現代に語り継がれたのである。

『犬王』公式Twitterより引用 ©︎2021 “INU-OH” Film Partners

 

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作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作:古川日出男/監督:湯浅政明/脚本:野木亜紀子/キャラクター原案:松本大洋/音楽:大友良英/総作画監督:亀田祥倫中野悟史/キャラクター設計:伊東伸高/演出山代風我/作画監督:榎本柊斗前場健次松竹徳幸向田隆福島敦子名倉靖博針金屋英郎増田敏彦伊東伸高/美術監督:中村豪希/色彩設計:小針裕子/撮影監督:関谷能弘/編集:廣瀬清志/音響監督:木村絵理子/音響効果:中野勝博/録音:今泉武/音響制作:東北新社/歴史監修:佐多芳彦/能楽監修:宮本圭造/能楽実演監修:亀井広忠/琵琶監修:後藤幸浩/アニメーション制作:サイエンスSARU

【キャスト】
犬王:アヴちゃん(女王蜂)/友魚:森山未來/友魚(少年):斎藤汰鷹/足利義満:柄本佑/定一:山本健翔/谷一:後藤幸浩/犬王の父:津田健次郎/友魚の父:松重豊

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5

5

4.5
CV ドラマ メッセージ 独自性

5

3 3.5 4
普遍性 考察 平均
4.5 4 4.4
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

商品情報

 

*1:梶井基次郎『冬の蝿』(梶井基次郎『檸檬』,新潮文庫,1967年に所収),p.185。

*2:同上,p.199。

*3:『犬王』劇場プログラムより。

*4:上述したように,現代で犬王と友有が再会するシーンは原作にはない。

*5:『犬王』劇場プログラムより。