アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

平面と奥行きのdis/con-cord:「平家物語の彩 The Heike Story Illuminated」レビューに代えて

 

2022年冬クールを大いに賑わせた山田尚子監督『平家物語』。このほど,本作の背景美術を厳選して収録した美術画集が出版された。一見,よくあるタイプのアニメ美術画集だが,そこに収められた彩り豊かな美術を一覧し,制作者たちの言葉に耳を傾けた時,本作の中に,アニメの表現特性をめぐる一つの問題がーささやかではあるがはっきりとした形でー潜んでいたことがわかる。

 

〈日常〉としての京都

A5版程度の小ぶりな画集には,アニメ『平家物語』を美しく彩った風景や植物たちが豊富に収められている。全体的に光量が多く,明るい印象の強い美術は,軍記物語としての『平家物語』の一般的なイメージとはややかけ離れているかもしれない。画集に収められた監督の山田尚子と美術監督の久保友孝の対談によると,山田は『平家物語』を「極楽浄土」に向かう物語にするという方針のもと,「歴史ドラマのような重厚で昔らしい色味を使うのではなく,もう少しポップで今ならではのアプローチ」を試みたということだ。*1 美術の中に込められたこの「ポップ」感は,京都というトポスに対する山田自身の肌感覚に由来しているのかもしれない。彼女は言う。 

私は京都で育ったので,「平安」と言われて思い浮かぶのは学校名だし,応仁の乱が勃発した上御霊神社なんかは子どもの頃のかくれんぼの場所だったし(笑)。こうやって[ロケハンによって]直に「見る」ことをあらためてやってみて,平安時代には本当に人がいて,学校で習う「平安時代」はここで起こったことなんだと,その実感を浴びることができました。*2

山田の中で「学校」「かくれんぼの場所」としての京都が,「平家」としての京都と重なっている。このある種の"日常感覚"が『平家物語』の美術の中にも滲み出ていたのかもしれないし,だからこそ,この作品が現代人にとってより親しみやすい作品となったのだとも言える。

「平家物語の彩 The Heike Story Illuminated」
左:p.21/右:p.31 より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

 

平面と奥行き

画集の巻末には,美術の中に描かれた「花」「海」「式典」「襖絵と屏風絵」などに関する久保友孝の解説がある。この解説を読みながら,明度と彩度の高い美麗な美術を眺めていくだけでも十分に楽しい。しかし久保の解説の中のある発言に注目すると,本作の中にアニメ固有の表現特性に注意を促す要素があったことがわかる。美術に描かれた「山桜」の解説を見てみよう。

山田監督はロケハンの時に望遠レンズのついたカメラをお持ちだったし,被写界深度を浅めに表現されるのがお好きだと聞いていたんです。だから,この作品をどうしていこうかという案をいくつか出していくなかで,こういうスタイルでの映像表現もありなのかなということでこの山桜の絵を描いてみたところ,好評だったんですよね。作品を通して新版画的な表現をしていくなかで,この絵は平面性から逸脱してしまうぎりぎりのところかなとも思ったんです。でも,色味や光の当て方を評価してくださって,これがありならいろいろ幅が広がるなと思った1枚でした。それから,平面的に表現してしまうとベタっとしてしまいそうなところを,こうやってぼかしを入れて空間表現をすると奥行きが感じられるんだなという発見もありました。そのアンバランスさに悩むこともあったんですけど「これでいけそうだな」と思えた1枚です。*3

「平家物語の彩 The Heike Story Illuminated」p.19より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

注目して欲しいのは「新版画的な表現」「平面性」「奥行き」という言葉だ。今年4月に出版された「平家物語 アニメーションガイド」でも言及されていたが,本作の美術制作では,小村雪岱吉田博のような版画的な平面的表現の要素が取り入れられていた。*4 久保は版画的な平面性をベースとしつつ,そこに山田特有の浅い被写界深度による空間表現を加味したわけだが,平面性と奥行き表現を馴染ませる苦労が並々ならぬものであったことは,引用文中の「逸脱」「アンバランス」という言葉からもうかがえるだろう。

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実は撮影監督の出水田和人も同様の発言をしている。出水田は版画のような平面的な美術とボケは「水と油」のような関係だと感じ,当初はボケを多用しないように提案していたのだが,「実際,やってみると意外にもその違和感がきれいに見えた」というのだ。*5最終的に平面性と奥行きの調和を実現しつつも,出水田もそこに「水と油」「違和感」といったものを感じていたのだ。

現代の多くのアニメ作品において,奥行き感を演出するのはごく当然のことになっている。とりわけCG技術の導入,デジタル撮影技術の進歩,そしてアニメーターの技術自体の向上によって,リアルな奥行き感の演出は,アニメ草創期とは比べものにならないくらいの水準に達していると言える。しかし本来,2次元の媒体であるアニメにおいて,奥行きの演出は実写映像ほど"自然"なものではない。それはある意味で,人工的あるいは擬似的に"作られる"ものだ。とりわけアニメ『平家物語』のように,版画的な平面を意識的に取り入れた作品では,奥行きの演出はことさらに作為性を帯びるだろう。この作為性を,久保や出水田のような鋭敏な才能は「逸脱」「アンバランス」「水と油」「違和感」という言葉で捉えていたのだ。

ちなみに初期のアニメの奥行き表現については,ウォルト・ディズニーがマルチプレーンを使用した制作法を説明した貴重な動画がある。


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トーマス・ラマールの『アニメ・マシーン』(2009年)は,アニメにおける平面表現と奥行き表現の関係をメディア論的な観点から論じている。ラマールはアニメの映像表現のモードを「シネマティズム」「アニメティズム」という2つの概念に分ける。「シネマティズム」とは,画面の奥へと向かっていく運動であり,世界を一点透視図法的な(ラマールによれば「ハイパー・デカルト主義的な」)視座から合理的に把握するモードだ。一方,「アニメティズム」 は,複数の平面から成るイメージの横断移動である。そこでは,視点が一点に固定されず,複数の領域に分散されることにより,シネマティズム的な世界認識を揺るがす力が生まれる。アニメは,この「シネマティズム」と「アニメティズム」という異質なモードが併存する媒体なのだとされる。*6

ラマールの技術哲学的考察の妥当性はともかくとして,彼がアニメに内在する「シネマティズム」=奥行きと「アニメティズム」=平面という異質なモードを析出したことには一定の意味があるだろう。アニメにおいて平面と奥行きは,相互に批判し合いながら調和し合っている。いわば斥力と引力が同時に作用している。技術的に洗練された現代のアニメにおいては,その違和が綺麗に隠蔽されているに過ぎない。そしてアニメ『平家物語』は,制作者の意図にあったかどうかは別として,結果的にその(不)協和音が顕在化された作品だったと言える。

 

複数の主体と個の主体:2つの『平家物語』の語りの特性

『平家物語』において,平面性と奥行きの(不)協和音は偶発的なものだったのか。もちろん,そう考えてこの問題についての考察を差し控えることもできるだろうが,原典『平家物語』とアニメ『平家物語』の語りの特性を比較した時,そこに一定の必然性があった可能性も見えてくる。

兵藤裕己『琵琶法師ー〈異界〉を語る人びと』によれば,原典『平家物語』には,主語と述語の対応が一義的に同定できず,「集合的で多重化した主体の語り」になる箇所が多々あるという。

伝承詞章として練り上げられた平家物語の文章は,語りの主体そのものが平安期の和文や『方丈記』などとは異質なのだ。集合的で匿名的な記憶を「伝承」する主体は,いわば中身のない容れ物のような主体である。それは語られる対象に容易に転移する(転移される)主体でもある。*7

ここで言われている「主体」とは,『平家』を語る盲人の琵琶法師である。兵藤によれば,視覚を媒介せず,聴覚によって世界認識をする琵琶法師の主体形成は,晴眼者のそれとはまったく異なり,自己同一性を持たず,容易に複数化しうるものであった。この〈主体の複数化〉は,ラマールの言う「アニメティズム」,すなわち平面性と概念上,重なり合うものである。事実,アニメ『平家物語』において,意図的に版画的平面性を追求したと思われる美術は,視点をどこに置いても一つの"絵"として成立するような作り方がなされている。アニメ『平家物語』の平面性は,原典『平家物語』の語りの特性をアニメ表現の中にうまく落とし込んでいると言える。

「平家物語の彩 The Heike Story Illuminated」 p.35より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

一方,先ほどの「山桜」のように,浅い被写界深度の効果によって奥行き感を出した美術では,それを見ている主体の存在がより明確になる。その光景を具体的な誰か(主体)がーそれこそ望遠レンズ付きのカメラでーのぞき込んでいるような画になる。その「誰か」が,「びわ」という架空の視点であることは言うまでもない。 

鑑賞者がびわという〈一人称視点〉を通して『平家物語』の世界をのぞき込む。この点が,原典『平家物語』とアニメ『平家物語』の大きな違いだ。山田は次のように述べている。

『平家物語』はたくさんの琵琶法師によって語り継がれた物語ですが,そのひとつを担った人というのを描いてみたい,と思いました。観る人がどこに心を置いたらいいのか,というひとつのポジションにもなったのではないかと思います。*8

奥行きの表現は,この「ひとつのポジション」を補強するためのビジュアル効果に他ならない。アニメ『平家物語』の平面性と奥行きは,潜在的なレベルで密かに不協和音を鳴り響かせながら,同時に,複数視点と単数視点という語りの特性を両立させるべく美しい和音を奏でている。これまでの作品でも,常に〈見る〉ことを主題化してきた山田ならではの仕掛けであると言える。なお,山田作品の〈見る〉の主題化については,以下の記事を参考にしていただきたい。

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しかし,山田が『平家物語』の中に召喚した「びわ」という主体は,「近代的主体」と呼ばれるような,不動の視点を持った大仰な存在(大文字の主体)ではないだろう。びわは,現代であれば「学校」に通い「かくれんぼ」に興じたであろう,一少女として登場する。それは『けいおん!』や『たまこまーけっと』に登場する女の子たちと同じ,等身大の小さな主体である。やはりそこには,山田のミニマルな日常感覚ともいうべきものが反映されているのだ。

 

書誌情報

出版社:HeHe
発売日:2022年7月15日
寸法:22.4×2.4×15.8cm
ページ数:216
ISBN:978-4908062414

*1:『平家物語の彩』,p.57。久保友孝の言葉。

*2:同書,p.60。

*3:同書,p.201。

*4:「平家物語 アニメーションガイド」,p.82,KADOKAWA,2022年。

*5:同書,p.88。

*6:トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』,pp.30-39,名古屋大学出版会,2013年。

*7:兵藤裕己『琵琶法師ー〈異界〉を語る人びと』,p.82,岩波新書,2009年。

*8:『平家物語 アニメーションガイド』,p.152。