*この記事は『メイドインアビス 烈日の黄金郷』に関するネタバレを含みます。
今後,当ブログでは,アニメ作品に登場する優れた〈キャラ(クター)〉を紹介する記事シリーズを展開していく予定である。そのためのいわば下準備として,〈キャラ〉〈キャラクター〉という言葉について整理しておこう。
伊藤剛の「キャラ」「キャラクター」概念
僕らは何らかの作品の登場人物に言及する際,"キャラクター"と呼ぶこともあれば,"キャラ"と呼ぶこともある。これはなかなか面白い言語習慣だ。
日本人がカジュアルに使っている"キャラ"という言葉は,英語の"キャラクター"(character)の略形であるにもかかわらず,両者が用いられる際の含意は微妙に異なっている。例えば,マンガやアニメの登場人物に関しては"キャラクター"と"キャラ"がほぼ同程度で使われていると考えられるが,ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について"キャラ"という語を用いるのはどこか座りが悪い。逆に「相手に自分がどう見えるか」を気にかけて言動を変えることを"キャラ作り"と言うことがあるが,これを"キャラクター作り"と言うことはほとんどないだろう。このことはおそらく,"キャラ"という語がマンガ・アニメ・ラノベ・タレントなど,現代カルチャーの文脈の中で意味付与され,独自の意味合いを持つようになったことに起因するのだろう。
「キャラ」と「キャラクター」を最初に概念的に区分けしたのは,おそらく評論家の伊藤剛である。当ブログでも何度か触れたことがあるが,ここで改めて伊藤による「キャラ」と「キャラクター」の定義を見ておこう。
キャラ
多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの *1
キャラクター
「キャラ」の存在感を基盤として,「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ,テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの *2
以前の記事でも挙げた例だが,「青・白・赤の色を基調とした,耳のないネコ型のロボットとしての図像」に「少々ドジだが思いやりのある優しいロボット」という「人格・のようなもの」が加わったものが「ドラえもん」という「キャラ」である。このキャラを基盤に,「セワシを幸福にするため,未来の世界からやってきて先祖であるのび太の未来を変えようと奮闘する」という「人生」を担わせたものが「キャラクター」ということになるだろう。
言い換えれば,視覚・聴覚情報として最表層に現れている要素に固有の「人格」が重ね合わせられた時,僕らはそれを「キャラ」と呼ぶ。「キャラ」が十分に強ければ,特定の物語から 遊離して別の物語の中に導入されても,その固有の存在感は保持される。*3 したがって,二次創作を促すものが「キャラ」の強度であることは言うまでもない。*4 また,「キャラ」は近年のアニメビジネスにおいてきわめて重要度の高いグッズ展開などとも直接関わる要素だ。キャラの強度が高く,知覚に訴える存在感が強ければ,キーホルダーやフィギュアにした時のアピール度も高い。
一方,「キャラクター」は「キャラ」の背負っている履歴であり,物語である。「キャラクター」の作り込みが優れていればいるほど,受容者の感情移入を促し,世界観と物語への没入感も増すだろう。「キャラクター」は作品の物語と不可分なため,別の物語に導入することは難しい。最近流行しているスマホゲームなどの「コラボ」において,世界Aの中に世界Bの「キャラ」だけを投入する(主に「ガチャ」という方法をとる)ことが多いのも,物語を背負った「キャラクター」を丸ごと導入してしまうと,世界Aの整合性が取れなくなるからだ。
ちなみに,そもそも伊藤のキャラ(クター)論は,手塚治虫作品の中にキャラクター性がキャラ性を「隠蔽」する契機があったことを指摘し,現代のマンガにおけるキャラの重要性を再認識するよう促すことが目的であった。*5 ストーリーマンガの巨匠として半ば神格化された手塚を,厳密な概念操作によって再考しようという伊藤の試みは,それ自体としてとても示唆に富んでいる。しかしここでは,その企図の妥当性は置いておくことにして,〈キャラ/キャラクター〉の対概念をアニメのキャラクター評価の補助線として活用するに留めておこう。*6
今回の記事は,アニメ作品に登場する優れた〈キャラ(クター)〉を評価するための概念的下準備である。その手始めとして,以下では「①キャラ性は高いが,キャラクター性は低いもの」(「キャラ性:高/キャラクター性:低」と略)「②キャラクター性は高いが,キャラ性は低いもの」(「キャラクター性:高/キャラ性:低」と略)「③キャラ性もキャラクター性も高いもの」(「キャラ性:高/キャラクター性:高」と略)に分け,それぞれに典型的な〈キャラ(クター)〉を挙げてみたいと思う。
もっとも,先述した伊藤の定義からもわかるように,決して〈キャラ〉と〈キャラクター〉は対立概念ではないということに注意しなければならない。〈キャラクター〉はあくまでも〈キャラ〉をベースとして成り立っているからだ。したがって,最終的に〈キャラ(クター)〉の評価は,〈キャラ(クター)〉を〈キャラ〉と〈キャラクター〉に便宜上腑分けした上で,それぞれの強弱や面白みを評価する作業になるだろう。
〈キャラ〉〈キャラクター〉評価事例
① キャラ性:高/キャラクター性:低
典型的な例は,伊藤自身も挙げている,いがらしみきおの4コママンガ『ぼのぼの』(マンガ原作:1986年-/アニメ:1995-1996年(監督:難波日登志),2016年(監督:山口秀憲))のキャラ(クター)たちだ。比較的単純な描線で描かれ,一目で判別可能なユニークな存在感を放っている。
より最近の例としては,大川ぶくぶの4コママンガ『ポプテピピック』(マンガ原作:2014年-/アニメ:2018年,2022年(シリーズディレクター:青木純,梅木葵))のポプ子とピピ美だ。その強烈なキャラ性は,近年のマンガ・アニメ作品の中でも一際異彩を放っている。
どちらの作品も,通常の意味でのストーリー性は希薄であり,どちらかと言えばキャラ(クター)たちのシュールで不条理なキャラ性を楽しむ作品と言える。このタイプのキャラ(クター)は4コママンガや純度の高いギャグアニメに多い。
② キャラクター性:高/キャラ性:低
逆にこのタイプのキャラ(クター)は,近年のストーリー性重視のアニメ作品に多い。例えば渡辺信一郎監督『残響のテロル』(2014年)のナインや,夏目真悟監督『Sonny Boy』(2021年)の長良などが挙げられる。
ナインも長良も,ストーリの成り立ちそのものを担っており,いわば作品の世界観と一体化している。しかしそのビジュアル的な〈キャラ〉性は低い。このタイプのキャラ(クター)は,〈キャラ〉として自律的な魅力を持つ可能性は低くなるが,人物造形のリアリティは増す。受容者は自己投影をしやすくなり,物語への没入感も増すだろう。特に『Sonny Boy』のような奇想天外な物語の場合,この種の〈キャラクター〉性が作品に一定の"リアリズム"を加味する効果を持つ。『Sonny Boy』の物語が不条理で難解であったにもかかわらず,登場人物に共感する視聴者の声が多かったのは,こうした〈キャラクター〉性によるところが大きかったのではないかと考えられる。
③ キャラ高/キャラクター高
このタイプはアニメ作品においてある意味で理想型であり,実例も多い。物語の一部を構成する不可欠な〈キャラクター〉であるとともに,その〈キャラ〉性の高さによって,作品終了後もグッズ販売やコラボ企画を展開しやすくなるからだ。
典型的な例としては,つくしあきひとのマンガ『メイドインアビス』(原作:2012年-/アニメ:2017年,2022年(監督:小島正幸))のナナチだろう。物語内においてすでに「ふわふわのぬいぐるみ」として設定されているナナチは,まったくの無加工でそのままフィギュアやぬいぐるみとしてグッズ化できる〈キャラ〉性を備えている。同時に,ボンドルドの狂気の所業によって「成れ果て」にされ,ミーティという「宝物」を犠牲にしなければならないという物語=〈キャラクター〉性を存分に担っている。
ナナチの連れ合いであるミーティのキャラ(クター)もたいへん面白い。ミーティはアビスの呪いを一手に引き受けてナナチを救い,自らは異形の成れ果てになった挙句,最後にはナナチの決断によって葬られるという過酷な運命を辿っている。そのビジュアルは,到底アニメ化など不可能だろうと思わせるほど凄惨な姿だ。しかしその後,「成れ果て」の村で再登場するミーティの複製は,まるでぬいぐるみのような愛くるしい姿でナナチを虜にする。当初〈キャラクター〉として「呪い」の物語と一体化していたミーティが,「成れ果ての村」では〈キャラ〉として復活するのだ。2022年12月に発売予定のBlu-ray/DVD BOX下巻の特典として付属する「壺ミーティぬいぐるみ」は,この〈キャラクターのキャラ化〉という現象を象徴的に物語っている。
なお,このタイプのキャラ(クター)には,〈キャラ〉性と〈キャラクター〉性との関係が比較的希薄なもの(『ドラえもんなど』)と,両者の間に密接な関係があるものがある。後者の例としては,長井龍雪監督,岡田麿里脚本,田中将賀キャラクターデザイン『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)のめんまなどが挙げられる。
銀髪・碧眼のめんまは,作品のアイコンとして機能するほど〈キャラ〉性が高く,グッズ展開なども多いが,それだけではない。彼女にはロシア人とのクオーターであるという出自があり,そのために周囲から「のけもん」とみなされていたという過去=物語がある。めんまにおいては,〈キャラ〉性と〈キャラクター〉性が分かち難く結びついているのだ。
もちろん,〈キャラ〉性にせよ〈キャラクター〉性にせよ,高ければ高いほどいいというわけではない。両者の按配は,作品の世界観やメッセージとのバランスを考慮しながら決定されているはずだからだ。今後の〈キャラ(クター)〉評価の記事では,〈キャラ〉と〈キャラクター〉の配分や制作意図についても言及していく予定である。