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劇場アニメ『すずめの戸締まり』(2022年)レビュー[考察・感想]:“girl meets herself”ー廃墟の中で,彼女は彼女と出会う

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。また『雨を告げる漂流団地』と『ぼくらのよあけ』の内容にも一部触れておりますのでご注意ください。

『すずめの戸締まり』公式Twitterより引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

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新海誠監督『すずめの戸締まり』は,ラブストーリー,ロードムービー,マスコットキャラ,妖怪バトルなど多くのエンタメ要素を盛り込みながら,これまで以上に高いポピュラリティを獲得することを狙った作品だ。しかし同時に本作は,同監督の『君の名は。』(2016年)と『天気の子』(2019年)がフィクションの形で迂回してきた〈震災〉というテーマを真正面から扱ったセンシティブな作品でもある。はたして新海は,“エンターテインメントで震災を語る”という難題にどう取り組み,どこまで成功したのか。

 

あらすじ

九州のとある静かな町に暮らす高校2年生の少女・岩戸鈴芽は,ある日,旅の青年・宗像草太と偶然出会う。彼は災禍をもたらす世界の「扉」を閉ざしながら旅をしているのだという。やがて2人の前に,不思議な猫・ダイジンが姿を現し,草太を椅子の姿に変えてしまう。鈴芽と草太は,逃げるダイジンを追いかけながら各地の「扉」を閉ざしていく旅に出る。

 

廃墟と共に

「未来都市は廃墟である」

こう断言したのは外でもない,建築家の磯崎新であった。彼は垂直方向に屹立するーーつまりポジティブなーー構造物を創造する建築家でありながら,「未来」というポジティブと「廃墟」というネガティブを無媒介に接続してしまったのだ。

1931年生まれの磯崎は,少年時代に戦災による都市崩壊を目の当たりにした。それは単なるアクシデント=偶発事ではなく,むしろ事物の普遍的な本質として,彼の心に深く刻み込まれた。磯崎はこう述べる。

私はおそらく生涯,建築をつくりつづけることになるだろう。その過程でつくられた建築は,生物が死を迎えるように,いつかは廃墟になる。いや立ち上がった瞬間から既に廃墟に向かって歩みはじめる。その関係を見据えるならば,それが構想されたときから,既に廃墟をみずからのうちに包含しているとみてもいいのではないか。建築は廃墟として構想されることが可能になる。当然ながら,それは未完でありつづけるし,壊れつづけることになろう。*1

少年時代の磯崎が見たものは戦争の暴力がもたらした廃墟だったが,災害や時の経過がもたらす廃墟も本質的に変わりはない。すべての人工構造物は,すでに・常に〈廃墟〉を含み込んでいる。廃墟は,そしてそれをもたらす巨大な力と時は,人に抗いようのないものとして常にそこにある。その意味で,僕らは廃墟の中で,廃墟と共に生きている。にもかかわらず,あるいはだからこそ,建築は作られ続けていく。

新海が『すずめの戸締まり』の廃墟の風景によって描こうとしたのも,第一にそのような〈廃墟の遍在〉というペシミズムだったのではないか。むろん,戦中世代ではない新海にとっての廃墟は,表面的には磯崎の目に映っていた廃墟とは異なるだろう。しかし彼が「日本という国自体が,ある種,青年期のようなものを過ぎて,老年期に差し掛かっているような感があった」*2 と述べる時,彼の念頭には,磯崎のものと同じ〈廃墟の本質〉があったと思われる。戦争の暴力か,災害や時の経過か,といった作用因の表層的な違いとは関係なく,事物の根本的本質を構成する〈廃墟の普遍性・遍在性〉。磯崎と新海は,世代を超えて同じ感性を共有していると言える。

というのも,新海は本作の企画書の中でこうも述べているからだ。

災害については,アポカリプス(終末)後の映画である,という気分で作りたい。来たるべき厄災を恐れるのではなく,厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている,そういう世界である。*3

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界。災害と,それがもたらす崩壊とが,潜在的な可能性として,そして確かにあった過去として,すでに・常に内包されている世界。その象徴が,この作品の中で印象的にーー時に美しくーー描かれる廃墟なのだろう。

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

新海の美術チームが描く繊細な廃墟は,人の構造物に内在する〈廃墟〉のリアリティに確かに迫っている。廃墟そのものだけではない。作中で描かれる田舎町の建物の風化の度合い,ルミが働く場末のスナックの猥雑感,あるいは芹澤の乗る中古車や鈴芽の椅子の壊れ具合までもが,そうした〈廃墟性=力と時間〉のリアリズムを具現しているように思える。

ところで,今年は偶然にも“団地”を舞台にした劇場アニメ作品が2つ公開されている。石田祐康監督『雨を告げる漂流団地』黒川智之監督『ぼくらのよあけ』だ。どちらも,廃れゆく昭和時代の団地への郷愁を描いたという点が共通する。

『雨を告げる漂流団地』公式Twitterより引用 ©︎コロリド・ツインエンジンパートナーズ

特に『雨を告げる漂流団地』は,団地を擬人化することで,構造物に対するヒューマンな感情移入を促した点でたいへん興味深い。確かに僕らは廃墟に“感情移入”をすることがある。そこには,かつてそこに人々が生きていたという痕跡が遺されているからだろう。廃墟は,人々の過去の営みを内包しながら,時と共に僕らの生活圏の中に蓄積していく。それは今を生きる人々の営みに隣接しつつ,時に人々の愛惜,あるいは哀惜の対象となる。

そして『すずめの戸締まり』における新海のユニークネスは,その廃墟を「悼む」という感情動詞で捉えようとした点にある。彼によれば,「扉を閉ざす」というモチーフは,「場所を悼む」という意味を担っているのだという。

かつて栄えていた場所や街が,人が減って寂れていったり,災害で風景が失われてしまったり。最近そういう場所が日本中に増えているなという実感があったんです。そういう「場所」を悼んだり鎮魂したりする物語ができないかとイメージしたとき,自ずと出てきた作品舞台が,人のいなくなった寂しい場所,つまり,廃墟だったんです。*4

ただ郷愁を覚えるだけでなく,廃墟という事物に霊を見出し,能動的に悼み,鎮める。こうした新海のユニークなアニミズムは,地震頻発国に生き,廃墟の潜在的可能性をより身近に感じる僕らの感性に強く訴えかけるものだろう。

 

重なる廃墟と日常

そしてだからこそ,新海は廃墟を外在的な異空間ではなく,あくまでも内在的な現実空間として描こうとしたのだろう。特に印象的なのは,「扉」を閉める際に,廃墟とそこで生きた人々の日常が重ね合わせられるシーンだ。廃墟の中で「扉」を発見した後,鈴芽と草太はかつてそこで暮らしていた人々の営みを想起する。すると扉に「鍵穴」が現れ,草太の持つ鍵によって扉を閉ざす=鎮めることができるようになる。これはおそらく,終盤の草太の言葉によって明かされる「人の心の重さが,その土地を鎮めてるんだ」*5 という“設定”と関連するのだろう。廃墟を人の営みから排除された外部世界として描くのではなく,あくまでも人の営みと重ね合わせようとする演出意図がうかがえる。

ラストシーンの「常世」の廃墟にも同様のシーンがある。草太が燃え盛る町を前に祈りの言葉を捧げると,かつてそこで営まれていた日常の風景が鈴芽の目前に浮かび上がる。少々長くなるが,小説版から引用してみよう。

燃える夜の町が,薄いカーテンを透かしたかのようにゆらゆらと揺れていた。瓦礫の黒と炎の赤が溶け合うように淡くなっていき,代わりにゆっくりと,瑞々しい色彩が浮かび上がってくる。

それは朝日に照らされた,かつてのこの町の姿だった。色とりどりの屋根が陽射しを反射し,道路には何台もの車が走り,信号機の赤や青がちらちらと瞬いていた。ずっと奥の青い水平線には,白い漁船が光を散らしたように浮かんでいた。空気は澄み渡り,来たるべき春の予感をたっぷりと含んでいた。そこには生活の匂いも豊かに混じっていた。味噌汁の匂いがあり,魚を焼く匂いがあり,洗濯物の匂いがあり,灯油の匂いがあった。それは早春の,朝の町の匂いだった。*6

廃墟の風景の上に,二重露光のように重ね合わせられる日常の風景。映画を観た人であれば,この文章の通りの風景が映像化されていたことがわかるだろう。実は,当初の脚本と絵コンテには,ここに引用したような日常風景のシーンはなく,制作段階で敢えて付け加えられたらしい。

常世については,そこを燃えている町として表現すること自体にも,不安がありました。そのようなビジュアルを見たくない人も,少なからずいるに違いない。でも,やはり鈴芽の行く常世はそのような場所でなければならないと思いました。鈴芽の心の中では,町はまだ燃えているのだと。だとしたら,鈴芽はそこで何をすれば良いのか。ミミズを封印するだけで良いのか。考えていくうちに,鈴芽はその場所にあったはずの声を聴かなければいけないのではないかと思い至りました。*7

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

「その場所にあったはずの声」とは,この廃墟に昔暮らしていた人々の「おはよう」「いただきます」「いってきます」「ごちそうさま」「いってらっしゃい」という〈日常の声〉である。燃え盛る廃墟と,そこに重ね合わせられる日常のシーンが,本作で最も強烈なーー人によっては過酷すぎるーー印象を放つことは言うまでもない。それは明確に東日本大震災の被災地を想起させるからだ。だからこそ,新海もこのシーンの描写には相当な覚悟が必要だったのだろう。燃える廃墟とかつての日常を重ね合わせる。10年以上を経た今でも,この風景に耐えられない人はもちろんいるはずだ。新海はそれを敢えて行った。この英断が,本作に決定的な重みを付与したことは間違いない。

こうした文脈では,「扉に鍵をかける」という所作が,家の鍵や自転車の鍵をかける所作と重ね合わせられているシーンも意味深い。

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

「鍵をかける」=「場所を悼む」ことは,特殊な魔術的所作ではなく,あくまでも日常的な所作の延長である。この作品において,廃墟も,その廃墟を「悼む」所作も,僕らの日常と地続きのものとして描かれている。まさしく,新海自身が語った「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界こそが,この作品のコアメッセージに他ならない。

しかし,はたしてこの作品がそれを十分に伝えきれているかということになると,若干の留保が必要ではないか。というのも,「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」はずの世界は,「常世」という“異世界”の中で,妖怪バトルのごときパワフルなアクションによって思いのほかあっさりと救済されてしまうからだ。都市の地下深くに潜在していた震災の可能性は,まるでなかったかのように人々の目から“隠蔽”されてしまう。エンターテインメントに擦り寄ったスペクタクルな“救済物語”が,新海が伝えようとしたコアメッセージーー「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界ーーを少なからず希釈してしまった(ゆえに,僕らはインタビューなどの情報からメッセージの濃度を補充しなければならない)感は拭えない。

ここには新海誠,あるいはすべてのアニメ制作者のジレンマが明確に示されている。廃墟および厄災と共に生きるというコアメッセージは深い意味を持っている。エンターテインメントという媒体を用いれば,そして“新海誠”というブランド力をもってすれば,それが広範囲の層にリーチする可能性は確かに高まる。しかしその分,そのインパクトが弱められてしまう危険性も避け難い。はたして,こうしたテーマが十分な強度で同程度のリーチを得ることは,エンターテインメント作品にとって可能なのか。アニメは僕ら日本人のトラウマをどこまでリアルに伝えることができるのか。

 

girl meets herself

さて,新海が描こうとしたこの過酷な世界観の中で,主人公・岩戸鈴芽の成長はどう描かれているだろうか。最後にこの点を確認してみたい。

まず大前提として押さえておくべきは,この作品が“ラブストーリーではない”という点だ。あるいはより正確に言えば,“少なくともこれまでの新海作品におけるラブストーリーとは異なるものになるはずだった”といったところだろうか。「鈴芽の夢」「草太との出会い」「ラストの常世」の流れを追ってみよう。

物語は鈴芽の“夢”から始まる。星が異様に輝く空の下,雑草に覆われた廃墟の中を幼い頃の鈴芽が母の姿を求めて歩いている。母親を見つけられずうずくまる鈴芽の元に,白いワンピースを着た女性が姿を表し,鈴芽に優しく語りかける。鈴芽はそれを母親だと思う。彼女は夢から覚め,普段通り自転車で登校する。道すがら,草太の姿を見みかけた彼女は思わず「きれい…」とつぶやく。一見,多感な少女の一目惚れに思える。しかしすれ違いざま,彼女は草太の姿に“何か”を感じる

『すずめの戸締まり』より引用 ©︎「すずめの戸締まり」製作委員会

彼に廃墟の場所を教えた後,鈴芽はいったん学校に向かうが,途中で思い直したように廃墟に向かい,「あの,わたしー!あなたとー,どこかで会ったことがあるような気がー!」と叫びながら草太を探す。どうやら彼女は夢の中で見た女性と草太とを結びつけているようだ。

この謎はラストシークエンスで明かされる。幼い頃に開いた扉から「常世」に入った鈴芽は,ミミズを鎮めた後,草太から白いロングシャツを身体にかけてもらう。それはまるで白いワンピースのように見える。その後,鈴芽は常世を彷徨う一人の少女を見つける。それは幼い頃に「常世」に迷い込んだ彼女自身(以下「すずめ」)だった。母を見つけられずに泣きじゃくるすずめに,鈴芽は優しく声をかける。そう,夢の中で母だと思っていた女性は,12年後の自分自身だったのだ。したがって,草太との最初の出会いで感じた“何か”も,結局は自分自身を再帰的に認識したもの,ということになる。

鈴芽はすずめに常世で拾った「椅子」を手渡しながらこう言う。

あのね,すずめ。今はどんなに悲しくてもね,すずめはこの先,ちゃんと大きくなるの。だから心配しないで。未来なんて怖くない!あなたはこれからも誰かを大好きになるし,あなたを大好きになってくれる誰かとも,たくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど,いつか必ず朝が来る。あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと,決まっていることなの。

不思議そうな顔で「お姉ちゃん,だれ?」と問うすずめに,鈴芽は「私はね,私は,すずめの,明日」と答える。鈴芽は「12年間生きた」という端的な事実によって,つまり自分の未来を示すことによって,過去の自分を救う。廃墟に重ね合わせられた過去の人々の「おはよう。いただきます。いってきます。ごちそうさま。いってらっしゃい」という日常的な挨拶を,彼女は叔母や友人たちと12年間交わし続けることができた。素朴だが,かけがえのない日常を生きられたという事実こそが,災害という過酷な運命を経験した自分自身の救いとなるのだ。

このことは,常世の中で神に向かって呼びかけた草太のセリフとも呼応する。

命がかりそめだとは知っています。死は常に隣にあると分かっています。それでもいま一年,いま一日,いまもう一時だけでも,私たちは永らえたい!猛き大大神よ!どうか,どうか!お頼み申します!

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界において,限られた小さな日常を生き得た。広大な大地の上に,小さな小さな〈日常〉という痕跡を遺し得た。この事実を認識することこそが,廃墟=過去の人々を悼み,自分自身を救うことになる。これが,長い旅の中で鈴芽が果たした成長である。

結局,草太との出会いは自分自身との出会いだった。要するに,これはラブストーリーという回路を経由した〈自己認識〉あるいは〈自己救済〉の物語なのだ。“boy meets girl”ならぬ,“girl meets herself”の物語と言ってもいいだろう。そもそも恋愛とはそういうものなのかもしれない。人は多かれ少なかれ,恋愛対象の中に己自身を見出している。精神分析学を持ち出すまでもなく,僕らは恋愛対象を経由した自己認識を日常的に行っている。この〈他者を経由した自己認識〉という回路を,タイムリープという大道具を用いてファンタジーに仕上げた点に新海のアイディアがある。そしてこの辺りが,これまでどちらかと言えば伝統的な“boy meets girl”(この呼称そのものからわかる通り,それは多分に男性主体の物語である)を描いてきた新海作品と大きく異なる点だ。

しかしここでもまた,少々の留保が必要である。というのも,本作で新海は“boy meets girl”と“girl meets herself”の間で揺れ動いているように思えるからだ。

ラストシーンを思い出してみよう。自転車で登校する途中,坂を降る鈴芽が,坂を登る草太と再会する。鈴芽は草太に「おかえり!」と声をかける。かつて「常世」の廃墟に生きた人々の「おかえり」と重ねることで,鈴芽が草太とかけがえのない〈日常〉を生きていくことを暗示した重要なシーンだ。

しかしこのシーンには,新海が自身のテーマに対して抱いていたアンビヴァレントな態度が見え隠れしているように思える。というのも,この際の鈴芽と草太の構図は『君の名は。』と『天気の子』のラストシーンと非常によく似た構図になっているからだ。“坂道での再会”というモチーフをリサイクルすることによって,まるで伝統的な“boy meets girl”(あるいは“girl meets boy”と言ってもよいが)に回帰してしまっているように見える。新海が“boy meets girl”を完全に脱去し,“girl meets herself”の物語に徹し切れていないという印象を抱いてしまう。

左:『君の名は。』より引用 ©︎2016「君の名は。」製作委員会
右:『天気の子』より引用 ©︎2019「天気の子」製作委員会

このことは,新海自身の発言からもうかがえる。劇場用パンフレットに掲載されたインタビューで,彼は「最初に『すずめの戸締まり』というい作品を作ろうと思ったときに,今回は恋愛ではない映画にしたいというのがありました」*8 と述べている。しかしその一方で,企画書では「ターゲットとする観客を想定するのだとしたら,ラブストーリーを求める十代に向けるもちろんだが」とも書いているのだ。おそらく興行的な配慮(したがって,新海自身の判断ではない可能性ももちろんある)もあってか,“boy meets girl”を求める若者にリーチするという“下心”が隠しきれていない。“boy meets girl”と“girl mees herself”の間で揺れた新海のアンビファレンツが,ラストシーンをどっちつかずの印象にしてしまった可能性がある。

「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼り付いている」世界の中で,彼女は自分自身を救済した。『すずめの戸締まり』という作品に込められたこのメッセージには,極めて強い説得力がある。しかし今のところ,新海誠が本当にやりたかったことは,彼が本当に望んだ形で示されてはいないように思える。

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】
原作・脚本・監督:新海誠/キャラクターデザイン:田中将賀/作画監督:土屋堅一/美術監督:丹治匠/音楽:RADWIMPS陣内一真十明/音響監督:山田陽/音響効果:伊藤瑞樹/制作:コミックス・ウェーブ・フィルム

【キャスト】
岩戸鈴芽:原菜乃華/宗像草太:松村北斗SixTONES/ダイジン:山根あん/岩戸環:深津絵里/岡部稔:染谷将太/二ノ宮ルミ:伊藤沙莉/海部千果:花瀬琴音/岩戸椿芽:花澤香菜/芹澤朋也:神木隆之介/宗像羊朗:松本白鸚

 

作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
3.5 4.5

5.0

4.0
CV ドラマ メッセージ 独自性

4.0

3.5 4.0 3.5
普遍性 考察 平均
4.0 4.0 4.0
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

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商品情報

*1:磯崎新「廃墟論」(『磯崎新建築論集 2 記号の海に浮かぶ〈しま〉ー見えない都市』,岩波書店,2013年に所収。)

*2:劇場特典「新海誠本」,p.6。

*3:同上,p.4。

*4:『すずめの戸締まり』劇場用パンフレット,p.14。

*5:以降の映画のセリフの引用は,小説版を元に修正したもの。

*6:新海誠『小説 すずめの戸締まり』,pp.341-342,角川文庫,2022年。

*7:「新海誠本」,p.13。

*8:劇場用パンフレット,p.15。