アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

絵/画を“読む”快楽

もっぱらアニメに関する記事をものしている僕だが,美術展の類にはそこそこの頻度で足を運ぶようにしている。要はビジュアル・アート全般が好きなのだ。

ちなみに僕は,それ自体がアート作品として成立している絵画を〈絵〉,アニメやマンガのように,作品全体の構成要素として機能している視覚要素を〈画〉と読んで区別しているが,かといって〈絵〉と〈画〉がまったく別世界のメディアであるわけではない。〈絵〉も〈画〉も,結局は視覚を通して何らかの意味(あるいは無意味)を伝達している。だから僕には,アニメもマンガも絵画も同じ“視覚芸術嗜好”という関心の平面で捉える瞬間がたびたびある。美術展を鑑賞することと,アニメを観ることは,僕にとっては“同じこと”だ。

わざわざ美術館を訪れて絵画を観る。そこには2つの“層”の楽しみがあると僕は考える。

一つは,美術館という特殊な空間でこそ得られる,純粋に感性的な快楽だ。優れた絵画作品は,その前に立って観るだけでこちらの心を捉える(ヴァルター・ベンヤミンなら「アウラ」と呼ぶだろう)。ある作品は悦びに満ち,ある作品は悲壮感を伝え,ある作品は不安感を煽る。言語化以前の,文字通り“えも言われぬ”快/不快の体験がそこにはある。これだけでも,わざわざ美術館に足を運ぶだけの価値はあるだろう。

しかし美術展の醍醐味はそこで終わらない。その一つ奥の層には,言語的な快楽がある。それは,作品の脇に添えられた解説パネルの中にある。

例えば,会田誠《美しい旗》(1995年)。「戦争画RETURNS」というシリーズの一つとして制作されたものだが,そこに描かれているのは,セーラー服姿の日本の少女とチマチョゴリ姿の韓国の少女が,それぞれの国旗を手にしながら静かに佇む姿である。去年(2022年9月)に訪れた「MOMATコレクション展」(東京国立近代美術館)には,次のような解説が付されていた。

日韓の女性がそれぞれ国旗を掲げ,向き合うように立っています。二人は左右の屏風(使い古しの襖を蝶番で留めたチープなつくりです)に分たれているため,対立,対話のどちらを意味しているかは曖昧です。地面のがれきはバブル経済の崩壊や阪神・淡路大地震といった90年代の日本の状況を暗示しているのでしょうか?

会田誠《美しい旗》(1995年)東京国立近代美術館所蔵

襖の間のわずかな空隙が,「対立/対話」という両義性を生み出している。戦争と平和の両方を伝えている。あるいはどちらを伝えているわけでもない。いずれにせよ,この空隙が不安と希望の感情を呼び起こす。なるほど,と膝を打つ。

例えば,岡本太郎《予感》(1963年)。ビビッドな色と躍動的な線で描かれた,いかにも岡本らしい絵画作品である。去年(2022年12月)に訪れた「展覧会 岡本太郎」(東京都美術館)で観た作品だが,次のような解説が添えられていた。

靄のような筆致と様々な色で描かれた巨大な空間を横切り,のたうち回るような太い線。これらの線はまだ明確な形を持ってはいないものの,これから何かの生命体などに生まれ変わりそうな躍動感に満ちている。画面の右側に描かれているのは,赤い実のなる樹木と,その上空を飛ぶ鳥のようにも見える。

岡本太郎《予感》(1963年)川崎市岡本太郎美術館所蔵

この作品を前にした時に感じるプリミティブな生命力を,「のたうち回る太い線」という表現が的確に言語化してくれている。キャンバスを前に「のたうち回」っている岡本太郎の姿まで浮かんでくるようだ。

作品を前にした時に感じた悦び,悲壮,不安の正体を,解説パネルの言葉が的確に言い当てる。未分化の感情を過不足なく分節した言語がそこにある。あるいは,言葉が僕自身の感性から多分にズレることもある。例えば《美しい旗》に関して言えば,2人の人物を「女性」という言葉で一般化し,〈少女性〉という会田誠作品に特徴的なアイコンについて言及しなかった点だ。敢えての表現だろうと推察されるが,会田作品の特殊性が希釈されてしまった感は拭えない。こういう時,しばしば僕は作品の前にしばし立ち尽くしながら,では自分だったらどう表現するだろうかと思いを巡らせる。まず作品だけを観て感性的に捉え,解説を観て言語的に捉え,もう一度作品に戻って感性と言語の擦り合わせをする。学芸員の方たちが推敲に推敲を重ねたであろう言語表現に,時に感動し,時に嫉妬し,時に違和感を覚えながら,美術館という空間を満たしている“アウラ”を分節していく。これが僕の絵画鑑賞の基本スタイルだ。当然,鑑賞時間は比較的長くなる。

解説パネルをあえて読まずに,作品を純粋に楽しみたいという人もいるだろう。言葉にできない感動を言葉にすることを“無粋”と感じる人もいるかもしれない。しかし僕は積極的に言葉を読み,言葉にするようにしている。

こうした美術鑑賞法が,アニメ鑑賞の一種の訓練にもなる。初見ではただひたすら楽しむ。時に,他の話数とは明らかにレベルの違う面白さを感じることがある。録画を再視聴する。いくつかのカットやシーンに特別な“何か”がある。それは“線”だったり“色”だったり“構図”だったりする。それらの要素を何度も観直し,どんな“解説パネル”が相応しいかを考える。その言語化に成功できた時は,ブログの記事にする。では言語化できないものはどうするか。敢えてこう言い切ろう。“そんなものは存在しない”。

精神分析学者のジャック・ラカンは「無意識は言語として/のように構造化されている」と言った。ならば彼に倣ってこう言おう。「アニメの感動は言語として/のように構造化されている」と。