*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。
2015年に始まったシリーズの完結編として大きな話題を呼んだ,武田綾乃原作/石原立也監督『響け!ユーフォニアム 3』(以下『ユーフォ3』)。これまでのシリーズ以上にひりついた心理描写の多かった本作は,一般的な意味での“ハッピーエンド”とは言い難い結末となったかもしれない。しかし同時に,シリアスな心理劇に徹し,キャラクターの内面を十分に掘り下げることによって,原作に内在する“思想”と“感情”を純度の高い形で抽出することに成功したことも間違いない。いわゆる“部活モノ”として,アニメ史に残る傑作となったと言えるだろう。
あらすじ
黄前久美子は北宇治高校吹奏楽部の部長となり,ドラムメジャーの高坂麗奈,副部長の塚本秀一とともに,総勢90名の部員たちの指導やケアにあたっていた。そんな折,強豪校・清良女子高校からの転校生として,銀色のユーフォニアムを携えた黒江真由が登場する。久美子らは「全国金」を絶対目標に,大会ごとの複数オーディションのシステムを取り入れることに決める。しかし真由の存在と新システムは,やがて久美子らの運命を大きく変えていくのだった。
宇治川の〈時〉
『万葉集』『源氏物語』『平家物語』など,数多くの古典文学作品に登場する宇治川は,文字通り悠久の時の流れを刻み込んだ川である。この宇治川に関して,原作『響け!ユーフォニアム3 北宇治高校吹奏楽部,最大の危機』*1 には興味深い描写がある。全国大会を前に,高校1年生の久美子と秀一が進路の話をする場面である。
「秀一は進路決めてる?」
「まさか。お前は?」
「全然」
だってまだ一年生だし,と久美子は内心でつぶやく。宇治川へと視線を向けると,真っ暗な水面が緩やかに動いているのが見えた。川の流れをせき止めるように水の表面から小さく石が顔を出しているが,結局それも無駄な抵抗で,黒々とした波はそこを避けるようにして,皆,一方向に進んでいる。*2
原作で描かれる久美子の目線や所作は,対話の流れや心情と直接関係のない“無意識”であることも多く,それが武田の描写にある種の趣を生んでいる。しかし事この描写に関しては,久美子が宇治川の流れの中に読み取ったものは明らかだ。それは〈時〉である。彼女がこれまで意識することのなかった,明確に“終わり”を持つ時の流れだ。
「みんなもう進路は決めてるのかな」
「どうなんやろな」
秀一の言葉に、久美子は目を伏せる。耳を澄ますと,そばを通り抜ける車のエンジン音に混じって川の流れる音が聞こえてくる。一定のリズムを繰り返すそれを意識することはあまりない。当たり前すぎて,その音がそこに存在していることを久美子はつい忘れてしまうのだ。*3
部活に明け暮れる日々の中で忘れそうになる〈時〉の流れ。それを「進路」という言葉が否応なく思い出させる。時が容赦なく終局へと進行すること。それこそが人のあり方の本質なのだということ。宇治川の流れを見た久美子は,人が時間性を担った存在であるという実存的な気づきを得たのに違いない。これ以降,古都を緩やかに流れるこの一級河川は,陰に陽に久美子に〈時〉の流れを想起させることになるだろう。
『ユーフォ3』では,合宿回であった第八回「なやめるオスティナート」を唯一の例外として,ほぼすべての話数に宇治川の風景が登場する。それは流転を象徴するサブリミナル・メッセージとして,久美子に,そして僕ら視聴者自身に作用し,“完結編”たる本作に差し迫った緊迫感をもたらす。久美子たちは時の流れに押し流され,せき立てられ,追い詰められる。『ユーフォ3』にこれまでのシリーズ以上に切迫した雰囲気があるとすれば,それは〈時〉の切迫感の描写がこれまで以上に前景化したからだ。
したがって,今年のコンクールの自由曲として,明確に時の流れを意識させる「一年の詩 〜吹奏楽のための」が選ばれたことにも大きな意味がある。第二回「さんかくシンコペーション」の場面を観てみよう。
“久美子ベンチ”に座る久美子と麗奈。空は曇天。一見したところ,この場面の時刻はわからず,無時間的な雰囲気が2人の周囲の空間を満たしている。麗奈がスマホアプリの曲名部分を隠しながら「久美子はどの曲がいいと思ってる?」と問う。久美子は全国で北宇治が演奏するとすれば「最初の一音」はクラリネットがいいと答える。麗奈がスマホアプリのボタンをタップすると,「一年の詩 〜吹奏楽のための」が流れる。
この刹那,曇っていた空が俄かに晴れ,2人の顔に西日が差す。無時間的であった2人の空間に,今日この日の終わりが告知される。曲の盛り上がりとともにカメラは2人からゆっくりと離れ,宇治市の風景を捉えていく。もちろんその中には〈時〉の象徴である宇治川も含まれている。
「一年の詩」は,その楽曲名が示している通り,「一年」という歳月をテーマに据えた曲だ。第一楽章は春,第二楽章は夏,第三楽章は秋,第四楽章は冬,という具合に,楽曲の進行とともに時が移ろう構成になっている。この曲そのものが,久美子たちに〈時〉の流れを意識させるものになっている。楽曲が作品全体のテーマを担っていると言ってもよいだろう。 *4
2つの〈時〉
ところで,『ユーフォ3』では2つの異なる〈時〉の様相が描かれていることに注目しておきたい。
1つは,久美子にとっての〈現在進行形〉の時だ。吹奏楽部で演奏をしている“今この瞬間が楽しい”と思える〈時〉の感覚。終わってほしくない時間。ここではこれを〈演奏の時〉と呼んでおこう。
もう1つは〈未来進行形〉の時だ。高校を卒業したら自分は何をしているのか。「進路」という言葉が彼女に差し迫ってくる。自分を未来に投企しなければいけない時。できれば忘れていたい時。ここではこれを〈社会の時〉と呼んでおこう。
この2つの〈時〉の有り様は,第一回「あらたなユーフォニアム」の冒頭のシーンですでに示されている。
寝息を立てながら眠る久美子。その耳に装着されたヘッドフォンからは「ディスコ・キッド」の音が漏れている。部長となった久美子は,夢の世界すら〈演奏の時間〉で浸しているようだ。目覚めた久美子はだるそうに起き上がり,身支度を整える。子株が1つから2つに増えたサボテンが〈時〉の経過を暗示する。出かけようとする久美子の背に向かって,父が「3年生だろ?いつまで部活なんだ」と小言を投げるが,その声は久美子には届いていない。久美子にとって父は〈社会の時〉の象徴だが,今のところ耳を貸すつもりはないようだ。父の言葉を拒絶するかのように,「ディスコ・キッド」がフェイド・インする。〈演奏の時〉と〈社会の時〉のディスコミュニケーションと言ったところだろうか。
久美子が「いってきまーす」と言いながらドアを閉めると画面は暗転し,「ディスコ・キッド」 の音量がマックスになる。
力強く踏み出される久美子の足や歩行のリズムなどが楽曲とぴたりと重なる。久美子の背後には宇治川の風景が写し出される。久美子と麗奈がヘッドフォンを“乾杯”のように打ち合わせ,音楽を聴きながら何かの書類に目を通す。葉月と緑輝が合流し,楽しげに会話をしながら学校へと向かう。久美子たちの生きる挙動のすべてが「ディスコ・キッド」のリズムと調和している。彼女たちの生活世界の隅々にまで,音楽と部活動の多幸感が染み渡っているかのようだ。
最終学年を迎え,急速に過ぎ去っていく〈演奏の時〉と,差し迫ってくる〈社会の時〉。この相互に異質な2つの〈時〉のコントラストは,これ以降の話数でも度々描き出だされている。
次に第六回「ゆらぎのディゾナンス」のシーンを観てみよう。久美子と立華高校の佐々木梓が対話する場面だ。
これらの場面以外にも,美知恵や滝や父との対話の中で〈社会の時〉がしばしば暗示されるが,久美子は〈演奏の時〉=部活動の喜びに身を浸すことによって未来への投企を延期する。しかし,久美子の中で互いに反発しせめぎ合っていたこの2つの〈時〉は,やがて物語の進行とともに次第に折り合っていくのである。
不完全な〈正しさ〉
部長として北宇治高校吹奏楽部をリードする立場となった久美子にとって,「全国金」は“絶対目標”だ。最終学年ということもあり,もはや後はない。故に彼女にとって,麗奈のような揺るぎない「実力主義」の思想こそが,追求すべき「正しい」思想だということになる。第一回「あらたなユーフォニアム」の中に,久美子が麗奈に「追いついた」と告白するシーンがあるが,これは彼女の思想が麗奈の思想とーー差し当たりーー同期したことを意味している。
麗奈:私…今年は…絶対,全国で金取りたい。
久美子:麗奈…
麗奈:滝先生のもとで全国金を取って終わりたい。
久美子:うん。私も去年,関西で負けた時,思った。追いついたって。私もちゃんと悔しいって,ダメ金なんかじゃ喜べない,全国金取らなきゃ,この悔しさは消えないんだって。
このシーンでは,階段という舞台装置を使って麗奈と久美子の立ち位置に高低差をつけているのが印象的だ。窓からの逆光を浴びる麗奈をしたから見上げる久美子。彼女の目には,麗奈の姿が〈正しさ〉の象徴として写っていることだろう。
麗奈の「実力主義」は「全国金」を目標に掲げた北宇治高校吹奏楽部にとって,間違いなく「正しい」思想だ。第四回「きみとのエチュード」における武川ゆきの例にあるように,部員の成長と成功という大きな感動を生むきっかけとなり得る。個々の奏者の成長を考慮した複数オーディションというシステムも,麗奈流の〈正しさ〉を補強するものに他ならない。それは間違いなく全体の演奏の質を向上させ,部員全員で決めた「全国金」という〈正義〉への近道となり得る。
しかし徹底した「実力主義」は,時として人の心を殺傷する“刃”ともなり得る。それはAメンバーに落選した久石奏を傷つけ,何よりソリの座を奪われた久美子自身を傷つける。そして関西大会前のオーディションを描いた第八話「なやめるオスティナート」以降,複数オーディション制への不満が部員たちの間に広がり始める。久美子も次第に麗奈流の〈正しさ〉に疑念を抱くようになる。
そもそも,麗奈流の「実力主義」=〈正しさ〉は決して完全無欠ではない。
第五回「ふたりでトワイライト」では,あがた祭りの日に久美子が麗奈の自宅を訪れるシーンが描かれる。
高坂邸は久美子が驚いてしまうほどの大豪邸だ。グランドピアノはもちろんのこと,トランペットの演奏ができるスタジオも装備されている。父親はプロのトランペット奏者で,彼女が子どもの頃から英才教育を受けていたことが窺える。
久美子は“金持ちの家”の豪華さにはしゃいでいるようだが,この絵面が暗示する無情な現実は無視できない。麗奈のメリトラシーの下支えをしているものは,紛れもなく豊かな家庭環境なのだ。彼女と同じ境遇を91名すべての部員に期待することは到底不可能だ。“機会均等”というには,あまりにもスタートラインが違いすぎる。そこには「平等」というデモクラティックな条件が抜け落ちている。そして最大の問題は,麗奈がその瑕疵を自覚していないということだ。彼女は己のメリトクラシーをゲバルト棒のように振りかざし,自分と同じものを持たない“弱者”をそれと知らずに傷つけてしまう。
さらに言えば,麗奈の〈正しさ〉 には,滝という父性的存在への崇拝にも似た感情が混入している。おそらく彼女は,憧れの父に向けるべき畏敬の念と彼からの承認の喜びを滝に転移することで,「ライクではなくラブ」という感情的境地に至っている。第九回「ちぐはぐチューニング」で,滝の方針に愚痴を言う後輩に対して感情的な怒りを向け,「何より…滝先生は何も悪くないでしょ」と言う時,彼女は公平性に立脚しているというよりは,滝の父性性への愛敬という感情に絡め取られているように見える。*5
第九回「ちぐはぐチューニング」では,麗奈のメリトクラシーに伏在するこの2つの瑕疵に気づいた久美子が,率直な思いを麗奈に直接ぶつけるシーンが描かれる。
麗奈:久美子は滝先生の判断どう思う?
久美子:え?
麗奈:今のやり方は間違ってると思う?…思うのね?
久美子:いやそうじゃないよ。ただ去年までと違って,どうしてその判断になったのか理由が分からないことが多いだけで。
麗奈:そこに疑問を抱いたら全てが崩れる。指導者の方針に従うのは大前提でしょ。
久美子:みんな従ってるよ。ただ理解できないって言ってる人に,気持ちに蓋して盲信しろっていうのは無理でしょ?
麗奈:それは…理解できないんじゃなくて,自分の努力不足を棚に上げて思いどおりにならないって,そんな言い訳か文句が大半でしょ!
麗奈の「努力不足を棚に上げて」という言葉は,紛れもなく「実力[功績]主義の横暴」(マイケル・サンデル)*6 の洗脳を受けたクリシェだ。麗奈以外の部員が努力不足を棚に上げているとすれば,彼女は自分の家庭環境を棚に上げてしまっている。滝への「盲信」に囚われた彼女は,実力主義の陥穽に気づくことができない。
そして何より,麗奈の鋭利な言葉は,オーディションでソリを外されたばかりの久美子に致死的な刺し傷をもたらす。この時,久美子は合理的〈正しさ〉の裏面に,悲しみや悔しさといった〈感情〉がべったりと張り付くという事実に気づいたはずだ。人が正しくあろうとすればするほど,そのことで傷つく人が存在する。そのことに気づかなければ,〈正しさ〉の不完全性を乗り越えることはできない。オーディションに落ち,麗奈からも突き放された彼女は,徐々にその事実に気づき始める。
第十回「つたえるアルペジオ」では,「ひまわりの絵葉書」を頼りに久美子があすかに相談を持ちかける。あすかのアドバイスを受け,「思ったことをみんなにぶつける」ことを決意した久美子は,関西大会本番直前に大演説を打つ。少々長くなるが,引用しておこう。
私は1年生も3年生も同じ土俵で競い合えて,1つの目標に向かって進める北宇治が大好きです!その北宇治で,全国金を取りたい。2年間ずっと思ってきたけど,でも,どうしてもそこに届かなかった。ここにいる2年と3年,そしてきっと,滝先生も思ってる。なんでだよって。だから何かを変えなきゃいけないって幹部でそう考えて,今年はこのオーディション形式を提案しました。それが間違っていたとは思いません。より北宇治らしい方法だとも思いました。ただ,そのことで戸惑いを感じた人がいたことも事実です。部長として,この場で謝らせてください。すみませんでした!
この時の久美子の謝罪は,オーディションという合理的〈正しさ〉によって傷ついた人がいたことへの謝罪であり,その目に浮かぶ涙は,〈正しさ〉に否応なく付随する〈痛み〉や〈感情〉を象徴している。この大演説を聞いた部員たちは,部長・黄前久美子が〈正しさ〉と〈感情〉の両方を身をもって理解した人であることに心から安心したことだろう。
つながる〈演奏の時〉と〈社会の時〉
第十一回「みらいへオーケストラ」は,その話数タイトルが示す通り〈未来〉を主題としている。この話数では,久美子の〈演奏の時〉と〈社会の時〉が折り合うためのいくつかのきっかけが描かれる。
1つめは,久美子と滝が対話する職員室での場面だ。関西大会本番前の久美子の演説を称賛した後,滝が亡き妻とのエピソードを語る。
滝:ここで指導するようになって2年半。正直,最初はモチベーションを保てるか不安でした。毎年メンバーが代わる楽団で毎年一度しかない大会を目指すようなものですから。
久美子:確かに。そう改めて言われると…変ですよね。学校の吹奏楽って。滝:大学生だった頃,彼女に言ったことがあるんですよ。それは賽の河原で石を積んでいるようなものじゃないかって。久美子:奥さんはなんて答えたんですか?滝:石じゃないよ。人だよ…と。
指導者として,高みを目指すためにどれだけ努力を要求するとしても,相手が傷つきやすい「人」であることを忘れてはならない。滝のこの言葉は,〈正しさ〉に付随する〈感情〉を理解しつつある久美子にとって,心に大きく打ち響くものだったに違いない。〈正しさ〉は,正しいが故に柔らかい人の心の表面を擦過し,忘れられない痛みを遺す可能性もある。それを理解することが,指導者にとっての,本当の意味での〈正しさ〉である。この認識が第十二回「さいごのソリスト」の場面(後述)につながっていくことは言うまでもない。
2つめは,北宇治カルテットが緑輝の大学合格おめでとうパーティを開く場面だ。
緑輝:ミドリは思うんです。今の毎日は種まきみたいなもので,まだ知らない未来の楽しみをいっぱいいろんな所に埋めているようなものなんじゃないかなって。
久美子:学校でね,麻美子:うん。久美子:オーディションがあって,ソリが私から別の子になった…麻美子:うん。久美子:すごい練習して,うまくなって絶対取り返すぞって思ってる。けど,なんていうか…麻美子:うん,かわいい。あとは,グロスつけて完成ね。…まあ大人になるってそういうことかもね。
最後に,みぞれの演奏会の後の場面だ。
楽団で堂々とソロを吹くみぞれを見て,麗奈は深く感銘する。まっすぐ前を見つめるその姿を見て,久美子は内心でこう独白する。
きっと麗奈は想像しているのだろう。鎧塚先輩のように,より高みで吹いている自分の姿を。
麗奈は未来の自分を「想像」できている。それは〈演奏の時〉と〈社会の時〉が彼女なりの考え(「プロの奏者になる」)のもとで接続されているからだ。では久美子はどうだろうか。
希美に音大受験の話を振られた久美子は,みぞれにこう尋ねる。
久美子:鎧塚先輩。もし来年,私が先輩と同じ大学に入ったら,どう思います?みぞれ:なんとも思わない。久美子:なんとも?みぞれ:だってそんな姿,想像できない。久美子:ハッ…ですよね。
みぞれに言われて久美子ははじめて自覚する。音大に入学して奏者として演奏する自分の姿は「想像できない」。では彼女が「想像」したのは何か。それはこの時点では未だ朧げながらも,「今の自分と同じ若者たちを導く自分の姿」だったのだろう。それが彼女なりの〈演奏の時〉と〈社会の時〉の接合の仕方だった。彼女は麗奈に「音大には行かない」という最終的な決意を伝える。
ちなみに原作によれば,第十回「つたえるアルペジオ」に登場する絵葉書(前々作『誓いのフィナーレ』で久美子があすかからもらったもの)に写るひまわりは「サンリッチオレンジ」という種だ。その花言葉は「未来を見つめて」である。*7
本当の意味での〈正しさ〉
第十二回「さいごのソリスト」。全国大会前にソリの再オーディションを受けることになった久美子は,「実力主義」をより徹底すべく,奏者の姿を見えないようにした“覆面オーディション”を進言する。部員たちが作った白い幕は,あたかもジョン・ロールズの「無知のヴェール」のように潔癖だ。*8
その結果,久美子は麗奈の〈正しさ〉の貫徹によって,ソリの座を真由に譲る結果となる。平均的な“部活モノ”の筋立てからすれば誰も予想しえない展開に,多くの人が心を揺さぶられたはずだ。
しかしこの展開によって,久美子の中で起こりつつあった〈正しさ〉の意味のアップデートが決定的なものとなる。
久美子は覆面オーディションを提案した際,滝に「理想の人」について質問していた。
久美子:あ…あの…先生にとって理想の人ってどういう人…ですか?
滝:そうですね…正しい人…でしょうか。本当の意味での正しさは,皆に平等ですから。黄前さんは,どんな大人になりたいですか?
久美子:私は…私も,そんな人になりたいです!
〈正しさ〉はすべての人に平等でなければならない。だとすれば,久美子自身も〈正しさ〉によって平等に裁定されなければならない。例外はない。
そして何より,〈正しさ〉につきまとう深い〈感情〉も,すべての人に平等であるはずだ。
彼女が選択した〈正しさ〉は,真由,奏,麗奈,そして久美子自身に,深い感情に彩られた涙をもたらした。「石」ではなく,他ならぬ「人」が集団で高みを目指す時には,例外なくすべての人が痛みや悔恨に苛まれる可能性を考慮しなければならない。久美子はこの思想を胸に,将来,教壇に立つことを決意したのだろう。それは,指導者として天才的な手腕を振るった滝昇ですら到達し得なかった境地かもしれない。ここにおいて,久美子の〈演奏の時〉と〈社会の時〉は美しく融和することになる。
ところで,この作品における真由というキャラクターの描き方にも特筆すべきものがある。
ドライな見方をすれば,作劇上,真由は久美子のライバルとして現れ,久美子のキャラクターアークを促す“装置”にすぎない。音響監督の鶴岡陽太は,キャストの戸松遥に真由が「異物」として感じられるようにディレクションしていたという。*9 しかしその一方で,第七回「なついろフェルマータ」や第十二回「さいごのソリスト」などでは,久美子との相互理解を通して,彼女の人間性が十分に深掘りされている。
真由は久美子たちと同様に,仄暗い過去を抱えた1人の少女であり,「石」ではなく,傷つきやすい「人」である。純粋に他者を思いやり,他者と共感できる「人」である。だからこそ,第十二回におけるオーディション後の久美子の演説の後,深い感情の涙を流すのだ。
ちなみにBlu-ray特典のオーディオコメンタリによると,石原監督は真由のキャラメイクに関し「観ている人にも好きになってもらわなくてはいけなかった」と述べている。*10 また小川副監督も真由を「物語のギミック(しかけ)としてだけ扱ってしまうと,キャラクターとして人間味がなくなってしまう」ことを気にかけていたという。
仮に真由が単なる「石」や「ギミック」のように描かれていたら,久美子の〈正しさ〉の描写も不完全なまま終わっていただろう。京都アニメーションの的確な判断が生み出した魅力的なキャラクターである。
〈つながる〉時間
ところで,この作品には〈演奏の時〉と〈社会の時〉以外に,もう1つの〈時〉の流れが示されている。〈継承の時〉である。
第十三回(最終話)「つながるメロディ」。剣崎梨々花がオーボエのリードを自作する様子を,1年生の後輩・加千須みくが真剣な面持ちで観察している。バックには久美子の吹く「響け!ユーフォニアム」が流れている。
もちろん,このリードの作り方は梨々花が先輩のみぞれから教わったものだ。先輩から後輩への技術の〈継承〉。この後,場面は「響け!ユーフォニアム」を吹く久美子へと転換する。
久美子の「縄張り」へとやってきた真由に,久美子は「一緒に吹く?」と提案する。驚く真由。かつて占有し,閉ざしていた「響け!ユーフォニアム」(第六回「ゆらぎのディゾナンス」参照)の曲を,久美子はここで初めて他者へと開く。そこに闖入する奏。
奏は『アンサンブルコンテスト』でみぞれが開けず,久美子が開いた窓をーー半ば強引にではあるがーー開くことに成功する。久美子の“技”がそれと知らずに奏に受け継がれたのかもしれない。
奏が「私もこれから何かあった時,吹いてもいいですか」と問うと,久美子はあすかの「今度は黄前ちゃんが後輩に聴かせてあげてよ」というセリフを思い出す。
うん,これからはみんなに吹いてほしい。
あすからから久美子へ,久美子から奏への〈継承〉がここに完了する。
そのあすかが全国大会本番に姿を見せないのも意味深い。
この場面では,意図的に香織と晴香の姿を示すことで,あすかの不在を強く印象付けている。しかし久美子の表情は晴れやかだ。それほど,彼女はあすかのことを理解しているのだろう。あすからから久美子への〈継承〉は,すでに完了しているのだ。
大会本番直前の場面を見てみよう。
緑輝が求の顔に触れ,「求くんはカッコいい」と言う場面。先輩と後輩,師匠と弟子,姉と弟。この2人の多義的な関係性を見事に描写したカットだ。
奏が久美子に声をかけ,ふわりと猫パンチをしかける場面。このソフト猫パンチは,『アンサンブルコンテスト』以降の2人の絶妙な距離感をよく表している。
この作品でよく見られる「大好きのハグ」のゼロ距離感も面白いのだが,これら先輩と後輩の間の絶妙な距離感も美しい。
〈継承〉とは,人と人とが時を超えて「つながる」ことだ。『響け!ユーフォニアム』という作品以上に,〈継承の時〉を美しく描きだした作品はないかもしれない。
最終話の演奏シーンでは,楽曲とともに春夏秋冬それぞれの季節における久美子の思い出が映し出される。
「一年の詩」という〈演奏の時〉に濃縮された3年間。この〈時〉を胸に抱きながら,久美子は自らを未来へと投企していく。
石原監督によれば,久美子が3年生だった当時は2017年に設定されており,彼女が高校教師として働く最終話はそれから7年経っているという。*11
ユーフォニアムのケースに付けられたチューバくんはすっかりぼろぼろになり,久美子ベンチの前は護岸工事で拡張され,高架線を走るJRは複線になっている。
久美子はこの作品が放送された2024年の今,僕らと同じ〈時〉の中を生きながら,自らの〈正しさ〉のあり方を若者たちに継承している。そう考えると久美子という存在がぐっと身近に思えてくる。キャラクターに実在感を付与する粋な設定だ。
指揮台に立つ久美子が,ふと目の前の奏者に目を向ける。彼女が抱える金色のユーフォニアムを見ると,四番ピストンがサイドに付いている。満足気な表情を浮かべた久美子は,自己紹介をした後,「新入部員の皆さん,北宇治高校吹奏楽部へようこそ」と語りかける。
もちろんこの時のポーズは,滝先生から受け継いだものだ。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HP,Xアカウントなど
【スタッフ】
原作:武田綾乃/監督:石原立也/副監督:小川太一/シリーズ構成:花田十輝/キャラクターデザイン:池田晶子,池田和美/総作画監督:池田和美/楽器設定:髙橋博行/楽器作画監督:太田稔/美術監督:篠原睦雄/3D美術:鵜ノ口穣二/色彩設計:竹田明代/撮影監督:髙尾一也/3D監督:冨板紀宏/音響監督:鶴岡陽太/音楽:松田彬人/音楽制作:ランティス,ハートカンパニー/音楽協力:洗足学園音楽大学/演奏協力:プログレッシブ!ウインド・オーケストラ/吹奏楽監修:大和田雅洋/アニメーション制作:京都アニメーション
【キャスト】
黄前久美子:黒沢ともよ/加藤葉月:朝井彩加/川島緑輝:豊田萌絵/高坂麗奈:安済知佳/黒江真由:戸松遥/塚本秀一:石谷春貴/釜屋つばめ:大橋彩香/久石奏:雨宮天/鈴木美玲:七瀬彩夏/鈴木さつき:久野美咲/月永求:土屋神葉/剣崎梨々花:杉浦しおり/釜屋すずめ:夏川椎菜/上石弥生:松田彩音/針谷佳穂:寺澤百花/義井沙里:陶山恵実里/滝昇:櫻井孝宏
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商品情報
【Blu-ray】
【原作小説】
*1:アニメ版『響け!ユーフォニアム 2』に相当(久美子1年生編)。
*2:武田綾乃『響け!ユーフォニアム3 北宇治高校吹奏楽部,最大の危機』,pp.278-279,宝島社,2015年。
*3:同上,p.279。
*4:原作によると,「一年の詩」は滝,橋本,新山の音大の先輩が作曲したもので,父親が亡くなる直前の1年間を描いたものである。『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部,決意の最終楽章 後編』,pp.167-170,宝島社,2019年。
*5:ちなみに麗奈のメリトクラシーと家庭環境について,アニメでは明示的に言及されていないが,短編集『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』所収の「お兄さんとお父さん」では,まるでマイケル・サンデルが武田に憑依したかのような筆致で,麗奈の努力主義の暴政が描写されている。またこの短編のタイトル「お兄さんとお父さん」は滝と父を示しており,麗奈の中で“滝≒父”という転移的等式が生まれていたことを仄めかしている。『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話』,pp.229-238,宝島社,2015年。
*6:マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』,早川書房,2021年。
*7:『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のホントの話』,pp.89-107,宝島社,2018年。
*8:ジョン・ロールズ(川本隆史/福間聡/神島裕子訳)『正義論』,pp.184-192,紀伊国屋書店,2010年を参照。
*9:『響け!ユーフォニアム 3』Blu-ray第3巻所収「2023年11月23日 新情報発表会映像」より。
*10:『響け!ユーフォニアム 3』Blu-ray 第1巻初秋 第一話のオーディオコメンタリより。
*11:Febri「久美子の物語を丁寧に描いた「最終楽章」『響け!ユーフォニアム3』石原立也監督インタビュー②」を参照。