アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

2025年,未来に自分をぶん投げる

*このレビューは『ネガポジアングラー』『響け!ユーフォニアム 3』『劇場版 進撃の巨人 完結編 THE LAST ATTACK』に関するネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

 

新年明けましておめでとうございます。

 

マルティン・ハイデガーの実存哲学の用語に「投企(Entwurf)」というものがあって,ジャン・ポール・サルトルの哲学のコア概念でもある。人間はこの世界に受動的に投げ込まれている。これを「被投性(Geworfenheit)」という。しかし同時に人間は,己の可能性に向かって開かれた存在でもある。常に自己を未来の可能性に向かって「投げる」存在。それが人間なのだ。僕はこの「投企」という言葉を2024年のアニメレビューの中で何度か用いた。それはおそらく〈時間性〉,とりわけ〈未来〉を描いた作品が目立ったからだろう。

2024年のオリジナル作品の中でも僕がとりわけ高く評価したのが,上村泰監督の『ネガポジアングラー』だ。病を患い余命2年と宣告された主人公・佐々木常宏が,鮎川ハナや躑躅森貴明といった釣りをこよなく愛する面々と出会い,釣りを通して前向きに生きることの価値を知っていくという話だ。病気という被投性=ネガを負った常宏が,釣りの“キャスティング”という前方投企=ポジの動作を反復することで,徐々に未来へと牽引されていく。結局,彼の病気は完治しなかったかもしれない。しかしそれでも,彼は病気と向き合うことで,仲間と楽しく釣りをしながら未来に生きることを主体的に選択した。人の「被投的投企」という在り方を爽やかに描いたアニメだった。

堂々の完結を迎えた『響け!ユーフォニアム 3』では,主人公・黄前久美子らが高校3年生になったことで,〈現在〉(レビューでは「演奏の時」と呼んだ)だけでなく〈未来〉(レビューでは「社会の時」と呼んだ)にも志向していく様が描かれた。真由というライバルの出現とオーディションでの敗北という運命を受け入れつつ,強い思想と豊かな感情を得た久美子は,それらを胸に抱きながら“高校教師”という未来へと自らを力強く投企する。最終話で2024年の久美子が教師として活躍する様子が描かれたことで,吹奏楽部時代が“回想”だったという時間構造がとられていたのも面白い。7年前に久美子が未来投企した久美子は,僕ら視聴者にとってリアリティを持った存在になった。2025年の今も,黄前久美子は京都のあの高校で顧問として活躍しているのかもしれない。

これと非常によく似た時間構造をとっていたのが,『劇場版 進撃の巨人 完結編 THE LAST ATTACK』である。2023年にTV放送されたものの再構築版だが,重要なのは,原作にあった“現代編”が追加されたことだ。そこに登場するエレン・ミカサ・アルミンは,どうやら『進撃の巨人』を“過去の物語”として鑑賞している。あの“大木”のカットが挿入されたことにより(原作にはないアニメオリジナル),現在と過去の同質性が強調されている。憎しみと争いと流血の連鎖の中で積み上げられた文明。そこに築かれたきらびやかな大都市の只中,最高の劇場環境で『進撃の巨人』の完結編を鑑賞するという壮絶な〈歴史の皮肉〉。ポップコーンを頬張りながら『進撃の巨人』を観るエレン・ミカサ・アルミンの姿は,『進撃の巨人』を観る僕らにとっての“鏡像”に他ならない。僕らが生きるこの文明にも,血塗られた過去がある。そして僕らが深夜アニメ鑑賞に興じている今この瞬間にも,人類は無数の悪を累々と積み上げている。

結局,エレンにとっての〈未来〉は“人類”ではなかったのかもしれない。あの壮絶な戦いの後も,人類は戦いをやめなかったのだから。彼にとっての〈未来〉は,“人類”という匿名の悪魔ではなく,“ミカサ”や“アルミン”というかけがえのない固有名と,そのミニマルな生活世界だったのかもしれない。僕らが守るべきものは,“人”ではなく,“この人”であるべきなのかもしれない。

 

21世紀も四半世紀が経つ。2001年の僕らは,はたしてどんな未来を見ていただろうか。その未来は現実となっただろうか。2025年の僕らが自らを投じる先の未来が,どうか誰も傷つけることのない「優しい世界」(『ダンダダン』第7話のアイラの言葉より)でありますように。