*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

ガールズバンド・アニメというジャンルでありながら,その不穏な展開によって2025年冬アニメの話題を攫った,柿本広大監督『BanG Dream! Ave Mujica』(以下『Ave Mujica』)。従来の『BanG Dream!』ファンの間で賛否を呼んだことは否めないが,終始濃密な心理劇に徹した作劇は,ガールズバンドの常識を打ち破り,シリーズの世界観と可能性を押し広げたことも確かである。〈キャラクター〉の暗部に踏み込むストーリーテリングの一方で,〈キャラ〉の創作も巧みで,“キャラ推しコンテンツ”としても成功している。間違いなく,このジャンルの歴史に名を残す傑作と言えるだろう。
- あらすじ
- distorted
- 〈他者〉との邂逅
- L'enfer, c'est les autres
- ペルソナの解離 Ⅰ:睦/モーティス
- 〈他者〉からの承認:にゃむと海鈴
- ペルソナの乖離 Ⅱ:初華と初音
- 女神の復活
- 作品データ
- 関連記事
- 作品評価
- 商品情報
あらすじ
結成から間もないAve Mujicaは,豊川祥子の類い稀なるプロデュース能力と,三角初華,若葉睦,八幡海鈴,祐天寺にゃむの卓越したパフォーマンスにより,異例の速さで武道館デビューを果たしていた。しかしにゃむの奸計によって,トレードマークである仮面を外された彼女たちは,その正体を衆目に晒されてしまう。睦は極度の精神衰弱に陥り,早くもバンドは解散の憂き目をみることになる。
distorted

これは「#1 Sub rosa.」のBパート,父に「頼むからいなくなってくれ!」と言われ,家を飛び出た際に豊川祥子が見せた表情である。柿本監督をして「すごいいい顔なんすよ。全部出てる,顔に」と絶賛させた名作画だ。*1 怒りと覚悟が綯い交ぜになったこの表情は,思わず口を突いて出た「クソオヤジ」というセリフとともに,かつて祥子が帰属していた優雅・調和・上流の世界との訣別,そしてCRYCHIC的な温かな音楽性との訣別の印となったのである。
そして同時に,目元の影などに負の感情が深く刻み込まれたこの表情作画は,『BanG Dream! 2nd Season』(2019年)以降,制作会社サンジゲンが手がけてきた3DCGの“美少女作画”の様式美に〈歪み〉を呼び込んだ。手描きによる主線のブレをなくし,作画の均整と安定を保つ3DCG描画の世界に,改めて表情作画による〈歪み〉を再導入したのである。




この〈歪み〉のイメージは,オープニングアニメーションにおける狂気の表情,枯れたキュウリ,若葉睦のギターにかけられた深い歪みエフェクト,握りつぶされた燈のメモ等々によって引き継がれ,『Ave Mujica』という作品世界を隅々まで規定していく。こうして,祥子の怨嗟の念を発端とする〈歪み〉のモチーフは,睦のギターの7弦の音色のように,『Ave Mujica』という作品世界の奥底で“基調音”を成していくのである。
では,このオーディオビジュアル的な〈歪み〉の世界を背景に,個々のキャラ(クター)と物語はどう紡ぎ出されていったのだろうか。
〈他者〉との邂逅
英語のbandという語は,「帯」という意味のフランス語bandeが中英語に入ったもので,元は軍隊などの武装集団に用いられた語だった。兵士の一団が同色の帯や布切れを身につけていたことからこの意味が生まれたと考えられる。これが1660年頃に「楽隊」という意味に拡張されたのが,現在の「バンド」の起源である。*2
しかしAve Mujicaという“バンド”は,「同色の帯」によって連想されるような同質性・連体感といったものとは程遠い。祐天寺にゃむと祥子は反目し合い,八幡海鈴のコミットは浅く,三角初華は睦への嫉妬心に顔を歪める。彼女たちの間に働く心的な作用力は,“バンド”という言葉の語源に内在するような求心的な〈引力〉というよりは,互いを退けあう〈斥力〉のようですらある。
これまで『BanG! Dream』シリーズでは,専ら〈仲間〉という関係性によってバンドが誕生していた。それは突き詰めて言えば“身内”のような感覚と言ってもいい。例えば,『Bang Dream! 2nd Season』「#6 You Only Live Once」で語られるAfterglowの結成の経緯などはその典型例だ。5人のメンバーたちは「気づけば一緒にいた」幼馴染で,「一緒の時間」を作るためにバンドを結成し,「Afterglow」というバンド名を思いつく。したがってこのバンド名は,上記のbandという語源の通り,「同色の帯」そのものと言ってよい。無論,Afterglowのメンバーに“個性”がないという意味ではない。むしろこれまでの『BanG Dream!』シリーズと同様,個々のメンバーのキャラメイクは申し分ない。ここで言いたいのは,彼女たちが「Afterglow」 というバンド名=同色の帯のもと,“一緒にいたい”と思う仲間同士として,親密に連帯していたということだ。
一方,『It's MyGO!!!!!』以降,とりわけ『Ave Mujica』では,そうした親密さの濃度は相対的に低くなる。それは〈仲間〉というよりは,〈他者〉という関係性に近い。通っている学校も違えば,根本にある価値観も違い,パフォーマンスへの考え方も違う。祥子はCRYCHICを“忘却”するという個人的な目的のもと,相互に異質な〈他者〉を「運命共同体」として半ば強引に寄り集めたのだ。Ave Mujicaは,〈仲間〉ではなく〈他者〉同士が共存している場なのである。当然のことながら,祥子の“Ave Mujica”という世界観を共有する者はいない。
しかしにもかかわらず,にゃむは睦から目を離すことができず,海鈴は「信用」の縁としてバンドを必要とし,初華と睦は祥子に執着する。彼女たちは自己の存在意義の保証として〈他者〉を必要とし,その結果として,皮肉にもAve Mujicaという力場を必要としてしまう。彼女たちの間には,bandという親密な連帯意識とはまったく異なる〈引力〉が働いている。それこそが『Ave Mujica』という作品世界における,キャラクターたちの実存の有り様なのである。
L'enfer, c'est les autres
〈他者〉との邂逅という観点から見た時,『Ave Mujica』 の物語が「仮面」の剥脱から始まるのも偶然ではないことがわかる。
そもそもAve Mujicaは,楽曲の演奏以外に,演劇性を重視したバンドだ。それは意識的に〈見られる〉ことを主眼に置いている。しかし同時に,彼女たちは「仮面」によって素性を隠している。Ave Mujicaは,当初から〈見られる〉ことと〈隠される〉こととの矛盾を孕んだバンドだったのである。
その矛盾を図らずも解消したのが,「#1 Sub rosa.」 におけるにゃむの行動である。彼女は武道館コンサートでAve Mujicaが最も注目を集める今この時こそ,仮面を外すことでさらにバンドの話題性を高めるべきだと考えた。彼女はあろうことか,本番中に台本の筋書きと異なる行動をとり,メンバーの「仮面」を強引に剥ぎ取ってしまう。



にゃむのこの企みによって,メンバーの素性を秘匿するための「仮面」が剥脱され,彼女たちは観客という〈他者〉の眼に晒されることとなる。この顛末は,今後,彼女たちが〈他者〉のまなざしを受け続けることの不吉な予兆となる。
1944年,ジャン=ポール・サルトルはある有名な戯曲を発表する。その名も『出口なし』(原題:Huis clos)。そのあらましはこうだ。
新聞記者のガルサン,郵便局員でレズビアンのイネス,富豪の男と結婚したエステルの3人が,とある平凡な部屋にやってくる。そこは死者が送られる「地獄」である。彼らはそれぞれの事情ですでに世を去っており,それぞれに悪を働いた廉でこの部屋に送られてきた。しかし「地獄」には拷問具のようなものは一切見当たらない。鬼すらいない。やがてガルサンは,この閉ざされた部屋の中で,永遠に他者のまなざしに晒される状況こそが「地獄」だと気づき,こう呟く。
地獄とは,他人のことだ。*3
サルトルの言葉の中でも最も有名なものだろう。人は「対自存在」として常に自分を省み,「それがあらぬところのものであり,それがあるところのものであらぬ」存在(簡単に言えば「いつでも変われる可能性を持った存在」)として,常に「自由」である。しかし同時に,人は〈他者〉の眼に映る自己の像(他人が自分をどう見ているか)によって自己を規定され,自由を奪われるという苦しみを抱えている(永遠に自由を奪われた状態が「死」である)。*4
「仮面」の剥脱によって,Ave Mujicaのメンバーたちは〈他者〉のまなざしに晒される。初華は“sumimi の初華”として,祥子は“豊川グループの令嬢”として,にゃむは“動画配信のにゃむち”として,海鈴は“ディスラプション(など)の海鈴”として,そして睦は“大御所芸人と演技派女優の娘”として,〈他者〉からまなざされ,規定され,所有されてしまう。
ペルソナの解離 Ⅰ:睦/モーティス



「#3 Quid faciam?」より引用 ©︎BanG Dream! Project
睦は〈他者〉のまなざしに対して最も脆弱なキャラクターだ。「#3 Quid faciam?」では,仮面を剥ぎとられ,極度の神経衰弱に陥った睦が,演奏中にあり得ないミスをしてしまう。睦は心神喪失状態になり,椅子にへたり込む(という「演技」をする)。祥子の機転によってかろうじて事なきを得,スタッフはこの場面を意図的な“パフォーマンス”とすべく,睦だけにスポットライトを当てる。この時,独り睦だけが観客という〈他者〉のまなざしを一身に浴びる。きわめて象徴性の高いシーンだ。
仙台公演の後,新幹線のホームでバンドの方向性をめぐり言い争うメンバーたちーーそれはまさしく「地獄」絵図だーーを前に,ただ無言で佇む睦。睦の主観カットで映し出された諍いの場面に,かつてのCRYCHIC解散劇が重なる。



睦が黙したことにより,祥子とAve Mujicaを守りたいという想いは当の祥子には伝わらない。この時,睦は〈他者〉,とりわけ祥子という〈他者〉への一種の“防衛機制”として「モーティス」の人格を肥大化させていく。やがてモーティスは睦を完全に飲み込んでしまう。






睦とモーティスの人格が目まぐるしく交代し,さながら一人芝居の様相を呈する(“一人芝居”は後述する初華/初音でも繰り返される)。この場面自体が衆目=〈他者〉のまなざしに晒されているという点も重要だ。“階段落ち”も含め,きわめて演劇性の高い演出である。ここで睦/モーティスは,「#3 Quid faciam?」で彼女が眼にしたメンバー間の諍いと同じ強度の不和を自己の内部で再演してしまう。睦/モーティスは,相互に排他的な〈他者〉として対峙するのだ。
当初,モーティスは〈他者〉から睦を守るための“防衛機制”として生まれた。しかしそのモーティス自身が,睦にとって〈擬似他者〉と化してしまう。「#4 Acta est fabula.」冒頭のナレーションは,「“彼女”は“彼女たち”となり,世界はいびつに歪み出す」と語る。睦の〈内在他者〉は,まさしくこの世界の〈歪み〉の象徴なのだ。
ところで,一見すると睦/モーティスの人格交代は,解離性同一性障害(いわゆる多重人格)のように見える。しかし「#8 Belua multorum es capitums.」ーー「多頭の怪物」と題された話数だーーでは,睦を構成するすべてのペルソナが「演技」だったことが明かされる。



若葉家で生きるのに適したお人形さんのような“睦ちゃん”,社交的な“睦”,祥子と遊ぶ時の“睦”etc... すべてが睦が演じた「役」だった。やがて睦がギターと出会ったことにより,複数存在した「役」が影を潜め,“睦”と“睦を守る睦=前モーティス”だけが残ったというのである。つまり睦は,〈他者〉からのまなざしを受けて生まれた〈対他〉存在からのみなる人格なのであり,その意味で「空っぽの人形」というわけだ。
実は柿本監督は,睦/モーティスというキャラクターを作るにあたって,解離性同一性障害の資料や文献に依拠している。*5 つまりこのキャラクターは,少なくとも部分的には精神病理的な設定が背景にある。しかし上述の通り,「#8 Belua multorum es capitums.」ではそれが睦の「演技」だったという設定にすり替わっている。これは「二重人格だと思わせておいて実は演技だった」という物語上のサプライズを狙ったものと思われるが,これによって設定の厳密さが損なわれていることは否めない。
おそらく監督の意図としては,睦/モーティスのキャラクターにおいて,「精神障害か演技か」という設定の厳密さはさほど重要ではないということなのだろう。『Ave Mujica』の作劇上必要だったのは,1つのキャラクターの中で等価の2つの人格が発生したという筋書きそのものなのだ。柿本監督は,モーティスの誕生を「睦の中でもう1人キャラクターが増えた」ものとみなし,「別々の人格として捉えていく」と語ってもいる。その結果,スタッフたちも「モーティスはモーティスで好きになり,睦は睦で好きになってくれていた」というから面白い。*6
「#10 Odi et amo.」では,最終的にモーティスが「人格」から1つの「役」へと後退し,睦は“安定した”人格を取り戻す。柿本監督によれば,「役」は“人格予備軍”のようなものということらしい。*7 モーティスは完全に消滅したわけではないということだ。彼女は睦の背後に退きながらも,睦と共存している。「#13 Per aspera ad astra.」(最終話)での「顔」の演奏時には,睦は睦/モーティスのペルソナを自在にスイッチする様子が見られる。

それはフュージョン(融合)でもなければ,ましてやジンテーゼ(統合)とも違う。〈他者〉が〈他者性〉を温存したまま併存している状態と言ってよいかもしれない。まさに「多頭の怪物」の完成である。
「#13 Per aspera ad astra.」のラストシーンには,睦が手鏡を手にするシーンがある。睦が鏡を掲げると,そこにはモーティスらしき笑顔の少女が映る。このシーンの絵コンテには,「反射光が無くなり笑顔が写る(モーティスっぽい)」というディレクションが付されている。 *8


ちなみに,先に言及したサルトルの『出口なし』にも鏡のモチーフが登場する。ただし,鏡の“不在”としてである。「地獄」の部屋でエステルが化粧を直そうとするが,部屋の中のどこにも鏡が見当たらない。そこでイネスが鏡の代わりになることを提案し,こう言う。
もし鏡が嘘を突き出したら?それともあたしが眼をふさいで,あんたを見るのをいやだといつたら,あんた,その美しい顔をどうするの。さあ,怖がらないで。あたしはあんたを見なきやならない。あたしの眼は大きく開いてるのよ。*9
〈内在他者の併存〉を完成させた睦にとって,鏡はもはや客観的で透明な媒体ではなくなるのかもしれない。今後,睦が手にする鏡に映し出されるのは,常に自己の内なる〈他者〉のまなざしの残滓であり,それは時として,睦を満面の笑みでまなざし返してくるのかもしれない。
しかしこの「多頭の怪物」は,はたして非現実的で荒唐無稽なクリーチャーなのだろうか。逆に言えば,現実世界の僕らの一人称は,はたしてどれほどの内的一貫性や安定性を主張することができるだろうか。僕らは時として,自己の内で撞着し,対立し,自己の内で〈他者〉を生み出し,まなざし合うことがあるのではないか。むしろ“統合された自己”という認識自体が,ある種の幻想なのではないか。そうだとすれば,睦/モーティスというキャラクターはファンタジーではなくカリカチュアであり,カリカチュアとして,一定度のリアリティを反映したキャラクターと言えるかもしれない。彼女(たち)が僕らにとって魅力的に見えるのには,現実的な理由がある。
1つのキャラクターの中で,2つの人格が〈他者〉として相対しているという状況。この状況が,「運命」という強制力の下に寄せ集められたAve Mujicaの内部状況にも符合する。つまり,Ave Mujicaそのものもまた「多頭の怪物」なのである。その意味で,睦/モーティスはAve Mujicaを象徴するキャラクターでもある。
〈他者〉からの承認:にゃむと海鈴
にゃむと海鈴は,それぞれ別の形で〈他者の承認〉を得るべくAve Mujicaという場を切望するキャラクターである。
にゃむの場合
動画配信者でもあるにゃむは,Ave Mujica結成以前から常に不特定多数の〈他者〉のまなざしに晒されてきた。したがって彼女は睦とは対照的に,〈他者〉のまなざしに対する免疫力が最も高いキャラクターと言える。それどころか,彼女は将来「マルチタレント」になるべく,積極的に〈他者〉のまなざしを浴びることを好む。その彼女が,「#1 Sub rosa.」で仮面を剥ぎ取ることを目論んだのも当然の成り行きと言える。
しかしにゃむは,Ave Mujicaという「地獄」で睦と出会ってしまった。女優としての活動を視野に入れている彼女にとって,「座ってただけ」で人の目を引きつけてしまうその演技力は,まるで呪いのように脳裏に纏わり続ける。



そしてにゃむは,睦の才能との差において,自分の技能の未熟さを規定するようになる。そしておそらく彼女は,睦のまなざしと,その母・森みなみのまなざしとを重ね合わせている。したがって,睦との力の差は,芸能界における“偏差値評価”となって彼女に突き付けられる。彼女は才能という〈他者〉のまなざしに晒される責め苦を負っているのだ。
こうして自己を過小評価したにゃむは,森みなみがお膳立てした舞台出演のオファーを(そうとは知らずに)断ってしまう(「#5 Facta fugis, facienda petis.」)。にゃむの萎縮を見抜いた森みなみは,「(睦と)一緒にバンドやったくらいで逃げちゃうんなら,残念だけど,この世界向いてないんじゃないの?」と切り捨てる(「#8 Belua multorum es capitums.」)。この台詞は,睦と向き合うことを強制されたAve Mujicaが,にゃむにとって「地獄」に他ならなかったことをいみじくも言い当てている。
「#9 Ne vivam si abis.」では,にゃむはとあるオーディションを受けるが,「座ってるだけ」の睦の姿が脳裏をよぎったことでフリーズし,演技を盛大に失敗してしまう。



やがてにゃむは動画配信すらまともに取り組めなくなり,世間からのまなざしを受け取らなくなっていく。皮肉なことに,退路を絶たれた彼女には,Ave Mujicaという場しか残されていない。
しかしにゃむのレジリエンスは,Ave Mujicaのメンバーの中でも一際高い。にゃむの名は漢字で「若麦」と書く。そこには「踏まれて強くなる」という両親の想いが込められている(「#4 Acta est fabula.」)。その想いを胸に,彼女はAve Mujicaという「地獄」の中で,あえて睦のまなざしを受け続けることを選択する。
「#10 Odi et amo.」ーー「私は憎み,愛する」という意味だーーの冒頭では,にゃむが森みなみと純田まなの舞台を観劇しているが,その心はやはり「座ってただけ」の睦に向けられている。
あの子の演技に飲み込まれるのが怖いのに,目を離せない。大っ嫌い。大好き。
ここでにゃむは睦への“憎悪”をーーAmorisという二つ名の通りーー“愛情”へと反転させ,睦を能動的にまなざし返す。彼女は,睦と至近距離でまなざし/まなざされる場として,Ave Mujicaを必要とするようになる。



「#10 Odi et amo.」のAve Mujica復活ライブ直前のシーンにおける,にゃむと睦(実際にはモーティス)とのやりとりはきわめて印象的だ。
モーティス:にゃむちゃん嫌い!もう見ないで!あっち行って!
にゃむ:見たいわけじゃない。目が離せないだけ。あんたの演技見てると,あたしって何?ってなる。ずるいよ。ずるくて…羨ましくて…愛してる…
こうして,にゃむは睦とのまなざしの授受という関係性を成就することにより,Ave Mujicaという「運命共同体」へと束縛されていくことになる。“Ave Mujica祐天寺にゃむ”の完成である。



海鈴の場合
かつて海鈴は,所属していたバンドで仕切り過ぎたことが原因で反発を買い,重要なライブの当日に他のメンバーにボイコットされるという経験をしていた。



彼女はそのトラウマから,一種の「リスクヘッジ」として複数のバンドを掛け持ちするようになる。結果,特定のバンドへのコミットを低減させていき,本当の意味での〈他者〉との関わりが希薄になっていった。Ave Mujicaも例外ではなく,睦の人格乖離やAve Mujica解散劇に関しても,まるで安全圏から傍観するかのような態度をとる。
しかし「#6 Animum reges.」で立希に「本当にムジカやってたの?」と皮肉を言われた海鈴は,バンドメンバーとしての己の立ち居振る舞いを省みるようになる。その時彼女が目にしたのが,一次的に復活した“CRYCHIC”の演奏シーンである。



演奏技術の点でAve Mujicaよりもはるかに劣るにもかかわらず,強い精神的な絆を見せつけてくる“CRYCHIC”。これまでの己の冷めたコミットメントとの温度差に,海鈴は顔を歪めながら嫉妬する。彼女はその場で祥子と睦にAve Mujica再結成を呼びかけるが,すげなく断られてしまう。事情を聞いた立希に「そりゃふられるでしょ。海鈴,信用できないもん」と言われた彼女は,以来,「信用」という言葉を強迫観念として抱き続けることになる。



海鈴はモーティスを利用し,彼女を“エサ”ににゃむを呼び寄せる。掛け持ちしていたバンドをすべて辞める覚悟を祥子に示し,最後の縁をAve Mujicaに求める。
にゃむにとっては睦とのまなざし合いを強要される場として,海鈴にとっては責任を背負う場として,Ave Mujicaは「地獄」である。しかしにもかかわらず,彼女たちはそれぞれ“憎悪”を“愛”に,“怯懦”を“勇気”に反転し,Ave Mujicaの内に留まることを選択する。
ペルソナの乖離 Ⅱ:初華と初音
祥子を見つめ続け,祥子から見つめられ続ける。初華の願望ーーあるいは欲望ーーは一見シンプルだ。しかしことはそう簡単にはいかないということが,「#10 Odi et amo.」の復活ライブの中で象徴的に示されている。



「Imprisoned XII」の歌詞に祥子への想いを綴った初華は,歌唱の最中に祥子をまなざす。しかし祥子は彼女をまなざしていない。その後,今度は祥子が初華をまなざすが,やはり初華は祥子を見ていない。2人のまなざしは逸れ続ける。
まなざしのずれ。それは2人の心のずれであり,初華にとって,祥子という〈他者〉からのまなざしが即幸福には繋がらないことを予兆している。
そもそも初華と祥子のまなざし合いの回路は,楽園のように閉ざされていない。そこには睦の,時には燈のまなざしが介入する。初華がAve Mujicaにいる以上,“2人だけの楽園”が訪れることはないだろう。いや,たとえそのような楽園がーー例えばマンションの自室のような場所がーー実現したとしても,2人のまなざしの交流を否応なく阻害するものがある。そしてその原因は,“初華”自身の欺瞞にある。
“初華”の正体は,祥子の祖父・豊川定治と別荘の管理人との間に生まれた,初音という名の庶子だった。初音の母は定治の立場を気遣い,豊川の血が流れない初音を豊川家から遠ざける。やがて初音の母は島の男と結ばれ,初音とよく似た妹・初華をもうける。
初音は家族の中で疎外感を覚えるようになり,年に一度島を訪れる祥子と懇意になった初華にも嫉妬心を燃え上がらせる。嫉妬はコンプレックスへと変わり,初音の負の感情は増幅されていく。ある日のこと,初音は祥子に初華と間違われるが,祥子と遊びたいという一心から,正体を隠して初華のふりをしてしまう。欺瞞の始まりである。
その後,初音は祥子と再会することを願って島を出て東京に向かい,名前を“初華”と偽ってアイドル活動を始める。以来,初音は“初華”のペルソナを纏い,二重の人格を抱えていく。ちょうど睦/モーティスの人格乖離と同じように。
この経緯を説明した「#11 Te ustus amem.」は,ほぼ全編が“初華”の一人芝居で語られている。観客のいない劇場。舞台上には“初華”の姿だけがある。



しかし,話数中盤で初音が仮面を身につける仕草をした後,後半では舞台上に初音と初華の2人が登場する。父の死と祥子の件で初華は初音を罵り,2人は対立し合う。
これが睦の人格乖離を表した「#3 Quid faciam?」と「#6 Animum reges.」の“再演”であることは言うまでもない。初音は“初華”の仮面を帯びることで,“初音/初華”という二重の人格に乖離してしまった。どれだけ近くで祥子をまなざしていても,祥子はあくまでも自分を“初華”としてまなざしている。それは本当の自分ではない。初音からのまなざしと,祥子からのまなざしに決定的なずれが生じる。それが初音にとっての〈地獄〉である。
祥子からのまなざしに耐えられなくなった初音は,東京を出て島に戻る。しかし祥子は祖父からのスイス行きの命に逆らい,初音の元を訪れる。そこで祥子は初音/初華の真実を知る。



祥子は幼い頃の思い出のほとんどが初華とのものであったこと,しかし一緒に星空を見た思い出だけは初音とのものだったことを知る。祥子の思い出の中には,確かに初音とのまなざし合いがあったのだ。例えそれが欺瞞だったとしても。
祥子は東京へ向かうフェリーの中で,初音にこれまでのしがらみを一切忘れるよう説得する。
祥子:なかったことにしません?」
初音:え…?何を…?
祥子:あなたと私を取り巻く,不幸と後悔。しがらみのすべて。
初音:それって…
祥子:すべてを忘れて,なかったことにするんですわ。そうすれば,何にもとらわれない。



なお逡巡する初音を見かねた祥子は,すべてを吹き飛ばすかの勢いで「この…バカーーー!」と海に向かって叫ぶ。これぞ“忘却”の女神・オブリビオニスこと豊川祥子の作法というものだ。
どれだけ“忘却”の身振りをしたとしても,初音の中には“初音/初華”という欺瞞が残り続けるだろう。Ave Mujicaの中に居続ければ,他のメンバーをも騙すことになる。〈地獄〉の責め苦はいつまでも続くだろう。しかし,家を捨て,地位を捨てた祥子にとって,もはやその欺瞞を裁く法などない。何しろ,祥子自らがその法を司ろうというのだから。初音にとって,その「覚悟」のまなざしが〈地獄〉の中での大きな救いとなるのかもしれない。


女神の復活
彼女たちにとって,〈他者〉は地獄であると同時に,自己の存在意義を保証する絶対必要条件となった。〈他者〉同士の引力と斥力が織りなす,複雑で危うく,歪んだ力場,Ave Mujica。その儚い力場を守護すべく,豊川祥子は再び強く覚悟をもって彼女たちを束ねる決意をする。
私悟りましたの。運命を甘んじて受け入れる必要はない。神様などいない。ですから,私が神になります!
さながらフリードリヒ・ニーチェの「超人思想」のような意志の表明。しかし祥子がニーチェと違うのは,神を殺害するのではなく,自ら神として降臨したことだ。
「#12 Fluctuat nec mergitur.」のラスト,単身Win-Wing-Produtionに乗り込んだ祥子は,祥子の祖父の許可の話を持ち出してAve Mujica復活を阻止しようとする社長に向かい,こう言い放つ。
そんなもの必要ありませんわ。私を誰だと思ってますの?AveMujicaのオブリビオニス,豊川祥子ですわ!

この途方もない啖呵。「この人を見よ」と言わんばかりの大見得。しかしその姿は,「女神」と呼ばれるにふさわしい高貴な美しさを放っている。僕らもこの美しき女神を讃え,Ave Mujicaというバンドの成り行きを彼女の手に委ねてみようではないか。
地獄とは〈他者〉のことだ。しかしだからと言って,〈他者〉の不在が天国や楽園になるわけでもない。そもそもバンドがバンドである以上,それが窓のない孤独な対自存在だけで成り立つことはない。どれほど「地獄」であろうとも,バンドには〈他者〉の存在が不可欠であり,〈他者〉がいるからこそ,その楽曲は厚みと広がりを増す。〈他者〉との交わりがあるからこそ,音楽は真のエロス=快楽,愛に至る。これは『けいおん!』(2009-2010年)『ぼっち・ざ・ろっく』(2022年)『ロックは淑女の嗜みでして』 (2025年)など,およそすべてのバンドアニメに共通する真理である。地獄とは〈他者〉のことである。しかしだからこそ,楽しい。
〈他者〉が織りなす力場,バンド。その具体的な様相を,僕らが現実のバンドの中に目撃することはほぼあり得ないだろう。『Ave Mujica』という作品は,フィクションという形式において,バンドのリアリズムの一面を垣間見させてくれたのかもしれない。
最後に,「#10 Odi et amo.」で祥子が読んでいたヘルマン・ヘッセ『デミアン』のはしがきから一節を引用して,この記事を締めくくることにしよう。
私の物語は快い感じを与えはしない。それは,考え出された物語のように,甘くも,なごやかでもない。それは不合理と混乱,狂気と夢の味がする。自己を欺こうとしない,すべての人間の生活のように。*10
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HP,Xアカウントなど
【スタッフ】
原作:ブシロード/監督:柿本広大/シリーズ構成:綾奈ゆにこ/脚本:綾奈ゆにこ,後藤みどり,小川ひとみ,和場明子,晴日たに/キャラクター原案:ひと和,植田和幸/キャラクターデザイン:信澤収,もちぷよ/アニメーションキャラクターデザイン:茶之原拓也,八森優香,Shin Joseph/CGスーパーバイザー:奥川尚弥/モデリングディレクター:武内泰久,寺林寛/リギングディレクター:矢代奈津子,柏木亨/色彩設計:北川順子,石橋名結,松下由佳/撮影監督:奥村大輔/美術監督:山根左帆,対馬里紗/美術設定:成田偉保/編集:日髙初美/音響監督:柿本広大/音楽:藤田淳平(Elements Garden),藤間仁(Elements Garden)/音楽制作:ブシロードミュージック/アニメーションプロデューサー:松浦裕暁,保住昇汰/アニメーション制作:サンジゲン
【キャスト】
三角初華/ドロリス:佐々木李子/若葉睦/モーティス:渡瀬結月/八幡海鈴/ティモリス:岡田夢以/祐天寺にゃむ/アモーリス:米澤茜/豊川祥子/オブリビオニス:高尾奏音
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作品評価
商品情報
【Blu-ray】
【楽曲】
*1:YouTube「サンジゲンチャンネル」の「#1 Sub rosa.」コメンタリより。
*2:小島義郎/岸曉/増田秀夫/高野嘉明編『英語語義語源辞典』,pp.87-88,三省堂,2004年,および寺澤芳雄編集主幹『英語語源辞典』(縮刷版),p.96,研究社,2013年。
*3:ジャン=ポール・サルトル『出口なし』(「サルトル全集 第八巻」,p.149,人文書院,1952年。)
*4:ジャン=ポール・サルトル(松浦信三郎訳)『存在と無 現象学的存在論の試み』,ちくま学芸文庫,2007年。
*5:YouTube「サンジゲンチャンネル」コメンタリより。
*6:YouTube「サンジゲンチャンネル」の「#2 Exitus acta probat.」および「#3 Quid faciam?」のコメンタリより。
*7:YouTube「サンジゲンチャンネル」の「#8 Belua multorum es capitums.」のコメンタリより。
*8:「TVアニメ『BanG Dream! Ave Mujica』official guidebook」,p.89,ブシロードワークス,2005年。
*9:ジャン=ポール・サルトル『出口なし』(同p.122。
*10:ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『デミアン』,pp.8-9,新潮文庫,1951年。
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