アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

はじめに“フレーム”ありき

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《ばら》(1889年)

保育園に通っていた頃の記憶だから,自分にとって相当に印象深い出来事だったのだと思う。

ある日,トイレで用を足していると,目の前の小窓から一輪の花が見えた。何の花だったかは今ではさすがに覚えていないが,トイレの近辺に咲くぐらいだから,ごく平凡な野草の類だったのだろう。しかしその時の僕の眼には,それが天上の世界を淑やかに彩る,世にも稀な一輪に映ったのだ。

決して大げさではない。なにせ数十年経った今でも覚えているくらいなのだから。生まれて初めて美の崇高を体験した僕は,その花をもっと間近で見たいと思った。その場所は,子どもたちが立ち入ってはいけない“禁忌の領域”(おそらくは自治体が管理していたただの空き地)だったのだが,僕はぜひこの眼で美の詳細を確認したいと思い,意を決して外に周り,件の野花が咲くサンクチュアリに足を踏み入れた。

はたして,僕がトイレから観たあの奇跡の花は,そこには影も形もなかった。否,正確に言うならば,物理的に同じものは確かにそこにあった。トイレの窓から観たものと寸分違わぬものがそこにあった。しかし,それにもかかわらず,美的存在としては,それは実在していなかった。あれほど美しかった花が,ほんの数分で世の中から忽然と姿を消した。当時,ロジカルな推論力を持たなかった幼少の僕は,“存在するが存在していない”という矛盾に大いに混乱したのだ。

筆者撮影

では,トイレから見たあの花の美を成り立たせていたものは何だったのか。それは他ならぬ“窓枠”だったのである。ありきたりの野の花も,適切にフレーミングされれば,幼児の心を奪う“絵画”へと姿を変える。それどころか,ゴミ同然のつまらない事物ですら,一つの美的存在として成り立ってしまう。フレームは“地と図”の対立を生み出し,対象物に意味を与え,それを美的存在として立ち上がらせる。

筆者撮影

この経験が唯一の原因というわけでもないだろうが,僕がこれまで興味を抱いたものーー絵画,写真,映画,演劇,マンガ,そしてアニメーーには,おしなべて“枠”が存在した。僕は世界そのものには興味がなかった。枠によって切り取られた《世界》にのみ興味を抱いた。僕の《世界》においては,はじめに枠があり,常に枠が存在していた。

『上伊那ぼたん,酔へる姿は百合の花』OPアニメーションより引用 ©︎塀(秋田書店)/上伊那ぼたん製作委員会

だから僕が“アニメを観る”というとき,それは文字どおりアニメを観ていると同時に,それぞれのカットを形作るフレームと,そこに描かれた人物や事物との関係性(制作工程の用語で言えば「L/O」)を観ている。このブログではアニメの画像を多く引用しているが,基本的にトリミングの類はしていない。作り手が設定したフレーミングを尊重したいからだ。

左:『上伊那ぼたん,酔へる姿は百合の花』「第4話」より引用 ©︎塀(秋田書店)/上伊那ぼたん製作委員会

僕にとってアニメは,ゴッホの《ばら》と同じロジックで美しい。僕が保育園のトイレの窓枠から見たものは,彼がサン=レミの精神療養院で見たものと構造的に変わらない。そしてそれは,アニメのカットを縁取るフレームと構造的に等価である。

 

もしあなたが世界を退屈だと思うなら,視界をフレームで囲んでみるのもいいかもしれない。幸い,僕らにはスマホという便利なツールがある。退屈に圧倒されそうになったら,カジュアルに世界を切り取ってみるといい。

 

いつも心に“フレーム”を。

 

それがあなたの《世界》を創ってくれるかもしれない。