※このレビューはネタバレを含みます。
3つの時間
「大きな物語」共有の時代が終わり,個々の小さな物語が日々消費される現代,物語に対する目はむしろ厳しくなったかもしれない。設定の整合性,ストーリーの面白さ,テンポの良さなどが評価軸の中心に据えられる。そんな時代の中,岡田麿里はあえて「母性」という情緒的なテーマを伝えることに舵を振り切った。これを岡田は,「流れる時間の違い」というファンタジーで成し遂げようとしている。
評論家の藤津亮太も指摘するように,この作品は「人間の時間」「国家の時間」「神話の時間」という3つの異なる時間が流れている。*1
「人間の時間」と「国家の時間」は,「人の歴史」という物語を生み出す(王から王子へさらにその子へという時間の流れ)だろう。しかしこれはよくあることである。さらにそこに岡田は「神話の時間」を付き合わせることによって,「絶対的な別れ」という宿命を生み出した。この「歴史」と「別れ」という設定のもとで,「母」はどう語られるのか。
母であること
「歴史」の中で自然に生まれた母=ディタと比べ、「別れの宿命」の元に置かれた母=マキア,レイリアは明らかに特殊だ。片や,時間がずれているばかりか血のつながりもない母子。人間とペットとの関係と本質的に同じであることが容赦なく暗示される。片や,血はつながっていても人の世界にとって異分子とみなされる母子。母ばかりか,子までも残酷に排除される。ではこれらの「母」のあり方は異常なのだろうか。
これに対する岡田の答えは意外とシンプルなのだろう。つまり「すべては同じ母性である」と。人種や住む場所ばかりか,時間すらも超越した普遍性が母性にはある。ややもすると押しつけがましいこの主張を,岡田はファンタジーという形式を借りて残りなく表現しようとした。一見この映画のストーリーは荒削りだったり説明不足だったりするのだが,岡田の主眼はそこにはなかったということなのだろう。設定や展開よりも,伝えたい思いを優先する。そんなエネルギーが感じられもした。
別れの宿命
そしてこの映画は,母性という圧倒的な絆の映画であると同時に,別れの映画でもある。
マキアとレイリアは人間の世界と決別し,神話の時間に戻ることを選ぶ。マキアはエリアルの死に際に立つことで,人との「別れ」と対峙することを選ぶ。バロウという人物の造形も興味深い。彼は人間とイオルフのハーフ(実は公式設定では長老ラシーヌと異母きょうだいの関係にあり,よく聞くとそれを思わせる台詞回しがある)である。マキアと再会した時にターバンを外した彼は,マキアに「人の世界で生きる」可能性を提示したのだろう。しかしマキアはそれを選択せず,別れを反復することを選択したのだ。
人と強くつながることを選び,人と永遠に別れることを選んだ,悲しい少女たちの話。
最後に,長くなるが,ラストカットに関する岡田の言葉を引用しておきたい。
ラシーヌが『イオルフは、里の外に出て人と出会うことで傷ついてしまう』と言うのは、バロウを見ても感じたことだと思うんですよ。それでも、みんな外の世界を見たいという気持ちは強い。今回は、外に出て汚れることになっても出会っていきたいのか、という話でもあって。外の世界に触れていかないと、という点はメザーテの(古の獣の)レナトが赤目病で死んでいくというところにも繋がっています。出会いも別れも、どちらも必要で……循環していかないと、というか。ラストカットの1枚絵は未来のイオルフの里。生き残っていたイオルフたちも戻って来たのですが、外の世界とも繋がったことで(血が混ざり)、いろいろな髪のイオルフが暮らしている。長寿は続いていかないだろうけれど、より豊かな場所になっているんだろうなって。あの絵は、そういう思いを込めたものなんです。*2