*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読み下さい。
『サマーゴースト』は,小説『君の膵臓をたべたい』(2015年)のイラストや,TVアニメ『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021年 春)のキャラクター原案などで知られるloundrawが監督・原案を務める短編映画だ。40分という短尺ながら,光と影の演出や丹念な色彩設計によって独自の世界を描き出し,「死」に近接(メメント・モリ)しながら生の意味を問い直す若者たちの姿を的確に伝えた珠玉の小品である。
あらすじ
ネットで知り合った友也,あおい,涼の3人は,花火をすると現れると噂される女性の幽霊「サマーゴースト」を探すべく,夕暮れの飛行場跡を訪れる。やがて線香花火をする3人の前に絢音という名の幽霊が唐突に姿を現す。しかし彼女によれば,その姿は誰にでも見えるわけではないという。はたして,サマーゴーストの姿が見えた3人に共通するものとは…
狭間の世界
薄暮。映画は昼と夜の狭間の刻から始まる。
飛行場跡の自由な広い空に,昼の名残りの光と夜の始りの闇とが境を接する。友也,あおい,涼の3人は,ちょうどその境目で線香花火をしている。〈この世と隠り世の狭間〉という本作のコンセプトを,映像によって明示的に伝えた印象的なカットだ。
このシーンに限らず,本作は全編を通して〈光と影〉のコントラストを強く打ち出している。主に夏が中心の物語ということもあるが,昼夜を問わずほぼすべてのカットにおいて,登場人物の顔や背景に濃い影が差している。結果,世界は一様であることをやめ,光と影が境を接する〈狭間〉が常に画面上に現れている構図になる。
場面ごとに変化する色彩設計も面白い。この映画ではシーンごとにコンセプトとなる色が設定されており,それぞれのシーンに視覚上の統一感がもたらされている。劇場プログラムに掲載された説明によると,「ひとつのカットを1枚の絵(イラスト)としてみたときにコンセプトが明確になるように『白』『赤』『オレンジ』『黄』『緑』『青』『紫』などシーンごとに軸となる色を設定し,一色にまとめて仕上げることを重視」したということらしい。*1 「白」「赤」「オレンジ」「黄」「緑」「青」「紫」は大別すれば「暖色」と「寒色」だ。この2つの色味の絶えざる交替もまた,本作のビジュアル面の際立った特徴の一つだ。
光と影,暖色と寒色によって世界が二重化され,友也,あおい,涼の3人ーそして劇場の暗闇で輝くスクリーンを見つめる僕らもまたー は,この世界と隠り世という2つ世界の〈狭間〉に置かれることになる。
〈見える=非日常/見えない=日常〉という視差
『サマーゴースト』という作品は,以上のようなビジュアル的な〈二重世界=狭間の世界〉の舞台上に〈見える/見えない〉という幽霊モノ特有の“視差”を発生させながら,〈生きること〉の本来的な意味を模索しようとする若者たちの姿を描いている。
「サマーゴースト」こと絢音によれば,彼女の姿は「死に触れようとしてる人だけ」にしか見えない。学校で悪質ないじめを受けているあおいは,日頃から「死にたい」と思っている。大病により余命9ヶ月と告げられた涼は,最も間近で現実的な死の可能性に瀕している。そして,大人が決めた“型”を強制され,本当にやりたいことができない友也は,どこかに「死ぬ理由」を見つけ出そうとしている。それぞれの形で「死」に触れようとしている3人には,絢音の姿がいわば特権的に〈見える〉。逆に言えば,(直接的な描写はほとんどないものの)それ以外の人には彼女の姿は〈見えない〉。こうした仕掛けによって,本作の世界は〈見えている人たちの世界=非日常〉と〈見えていない人たちの世界=日常〉とに二重化されている。
“霊”あるいは“死(者)”というギミックを用いて〈見える/見えない〉という視差を発生させ,〈非日常/日常〉への世界の二重化を図った作品は少なくない。 長井龍雪監督のTVアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年 春),幾原邦彦監督のTVアニメ『輪るピングドラム』(2011年 夏・秋)『さらざんまい 』(2019年 春),高坂希太郎監督の劇場アニメ『若おかみは小学生!』(2018年),そしてごく最近の作品で言えば泉朝樹原作/小川優樹監督『見える子ちゃん』(2021年 秋)など,近年のアニメ作品に限っても枚挙にいとまはないだろう。こうした作品に共通するのは,何らかの形で他者(あるいは自己)の死に触れた主人公が,一般的な人には見えない死者や死者の世界を視認する力を獲得し(視差による世界の二重化),自己の生を新たな視座から捉え直していく,というプロットである。*2
こうした〈死→世界の二重化→自己の生の再解釈〉という認識展開は,もちろんアニメやマンガなどのフィクション作品の専売特許というわけではない。それはむしろ,人の奥底に根差した現実的な問題意識であり,とりわけ死生観を中心とした神学や実存主義哲学と高い親和性を示すはずだ。したがって,「死へ臨む存在」としての実存を思考した哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976年)が,彼が「本来性/非本来性」と名付けた〈見える/見えない〉の視差によって「存在」を多重露光的に考察したのも,おそらく単なる偶然ではない。
可能性への先駆
ハイデガーは主著『存在と時間』(1927年)の中で,人間=「現存在」の「死」のあり方を以下のように定義している。
死とは,現存在がいつもみずから引き受けなくてはならない存在可能性である。死においては,現存在自身がひとごとでない自己の存在可能(sein eigenstes Seinkönnen)において現存在に差し迫っているのである。*3
死がすべての人に起こりうる出来事であるというのは,ある意味で当然のことだ。しかし僕らはそれを事実として了解していながらも,日常的には己に訪れる死の可能性を忘却しながら生活している。人間は「さしあたりたいていは《死へ臨むひとごとでない存在》を,それに臨んで逃亡しつつ,おのれに覆いかくして」おり,*4 「死へ臨んでそれを隠しながら回避することは,日常生活を根づよく支配する態度である」。*5 これが「非本来的」な死との関わり方である。では,「本来的」な死との関わり方とは何だろうか。
ハイデガーは,現存在が本来取るべき死との関わり方を「可能性のなかへの先駆(Vorlaufen in die Möglichkeit)」*6 と呼んでいる。
《死へ臨む存在》が先駆となるとき,それはある存在者の存在可能のなかへ先駆するのであるが,この先駆は実は,その存在者そのもののあり方なのである。この存在可能が先駆において露呈されることは,現存在がおのれ自身のもっとも極端な可能性について自己を自己自身に開示することなのである。そして,ひとごとでない自己の存在可能性へむかっておのれを投企するということは,このようにあらわにされた存在者の存在においておのれ自身を了解することを意味するのであり,これがすなわち,実存するということなのである。*7
簡単に言ってしまえば,自己の「死」という究極の運命から目を逸らすのではなく,その可能性を真正面から引き受けることこそが自己を理解することであり,そのようにして自己の生を生きることが「本来的な」生である,ということだ。そしてそれは,〈見えない=日常〉の状態から〈見える=非日常〉の状態への跳躍でもある。
それぞれの形で「死」に近接した友也,あおい,涼は,絢音というより現実的な「死の可能性」に直面することで,死の「可能性のなかへの先駆」を実行する。物語終盤の絢音の遺体を捜索する行為は,「可能性のなかへの先駆(Vorlaufen in die Möglichkeit)」を具体的な行為として示したものに他ならない。友也が「僕は絢音さんを見つけたい」と言った時の絢音のセリフは示唆的だ。
きっとそれで全部わかるね。命の終わりは友也くんの未来で,私の過去。2人のちょうど真ん中だから。
「死」という出来事を生者と死者の両方の視点から時間軸的に捉えた意味深いセリフだ。友也は「死」の未来に向かって先駆し,絢音は「死」の過去に向かって立ち戻る。ちなみにドイツ語のVorlaufenは「前に向かって走る」という意味だ。絢音の遺体が入ったトランクに向かって「走る」友也,あおい,涼は,まさしくこの「先駆」を身体的に体現しているのである。
とりわけトランクを開けて中を見た友也は,「死」という出来事を生々しい事実として目撃したはずだ。こうして友也は,そしておそらくはあおいも涼も,絢音との出合いによって「死の可能性」を「ひとごとでない」ものとして引き受けたのだろう。友也,あおい,涼は,死という「可能性への先駆」を実践し,そこから自己の生の意味を逆照射した若き哲学者となったのだ。
生きる=選択すること
生きるということは,無限に近いルート分岐において常に〈選択〉をし続けるということだ。“生きていれば必ずいいことがある”などという空々しい美辞はおそらく無意味だが,しかし少なくとも,生きていれば何らかの能動的な“選択”の可能性は与えられる。死者である絢音には自分の体を見つけるという選択すらできないが,友也たちにはそれができる。
友也はノートではなくキャンバスを前にすることを〈選択〉し,あおいはビニール傘と震える声で悪意に立ち向かうことを〈選択〉した。そして涼は,残されたわずかな時間の中で得た友と生きることを〈選択〉した。その選択が楽しいものなのか,幸せなものなのか,あるいは苦しいだけのものなのか,それは誰にも分からない。だから友也は「もしかしたら,言われた通りにしてた方が楽だったかなって,時々思うよ」と留保する。しかし選択によって世界にささやかな抵抗を試み,自己の生を実感することができるのは,生きることの意味を“死”への近接から知り得た人たちの特権なのかもしれない。死を思いながら前へ向けて生きること=メメント・モリは,決して否定的でも暗いことでもない。むしろその真逆なのだ。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】杉崎友也:小林千晃/春川あおい:島袋美由利/小林涼:島﨑信長/佐藤絢音:川栄李奈
【キャスト】原案・監督・キャラクター原案:loundraw/脚本:安達寛高(乙一)/音楽:小瀬村晶,当真伊都子,Guiano,HIDEYA KOJIMA/アニメーション制作:FLAT STUDIO/企画:FLAGSHIP LINE/製作・配給:エイベックス・ピクチャーズ
【上映時間】40分
作品評価