アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

見える/見えないという〈視差〉のヴァリアンツ

*このレビューは『となりのトトロ』『電脳コイル』『輪るピングドラム』『さらざんまい』『サマーゴースト』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『若おかみは小学生!』『見える子ちゃん』『平家物語』の内容に触れています。気になる方は本編をご覧になってから本記事をお読み下さい。

視覚メディアであるアニメやマンガには,霊界や異世界などが〈見える〉キャラクターと,それらが〈見えない〉キャラクターとが併存することにより,多重的な世界観が構築されている作品が少なくない。ここではこれを比喩的に〈視差〉*1 と呼ぶことにする。〈視差〉をモチーフとした作品は枚挙にいとまがないが,今回の記事ではいくつかのアニメ作品を代表的な変種として抽出し,その使われ方の特徴を見ていこう。なお,取り上げる順序は必ずしも製作年順ではないことをお断りしておく。

 

『となりのトトロ』:子どもだけに見える世界

まずは“古典”から始めよう。宮﨑駿監督『となりのトトロ』(1988年,以下『トトロ』)は,伝統的な日本のパストラルな風景の中で〈子どもだけに見える世界〉を描き出したファンタジー映画だ。

母の療養のために田舎に引っ越して来たサツキメイは,そこで「トトロ」「ネコバス」「まっくろくろすけ」といった不思議な生き物と出会うが,その姿は大人たちには見えない。

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『となりのトトロ』公式提供画像 ©︎1988 Studio Ghibli

しかしこの作品の最大の特徴は,サツキとメイの父母やカンタの祖母のような大人たちが,〈子どもだけに見える世界〉を決して疑わない点にある。特にカンタの祖母は,幼い頃に「まっくろくろすけ(ススワタリ)」を見た経験があり,不思議な生き物たちの存在を自然に受け入れている。ここでは〈見える/見えない〉の視差が対立させられているのではなく,〈見えない者が見える者を理解する〉という共感が示されていると言えるだろう。

『トトロ』は〈視差〉を用いることで,子どもであることの価値と特権,大人になることの喪失感,そして子どもと大人との深い共感を提示している。この宮﨑流の優しく繊細な価値観の提示の仕方が,本作があらゆる世代に支持される理由の1つと言える。

『電脳コイル』:日常に冒険を読み込む

磯光雄監督『電脳コイル』(2007年)は,言って見れば『トトロ』的な〈子どもだけの世界〉のSF応用版である。

主人公のヤサコイサコフミエら子どもたちは,「電脳メガネ」と呼ばれるウェアラブル・デバイスを身につけることによって,現実世界の上に「電脳物質」の世界を拡張現実的に重ね合わせ,ありふれた住宅街や路地裏の中に冒険の世界を読み込んでいる。「電脳メガネ」は大人たちも利用しているが,特に子どもたちの間で大流行しており,ほとんどの子どもたちが「電脳メガネ」を装着して日常を過ごしている。殊に一部の子どもたちは,「メガシ屋」などから購入した違法なソフトウェア「電脳アイテム」を利用し,やや危険な「メガネ遊び」に興じている。彼ら・彼女らは,駆除ソフト「サッチー」に襲われるリスクを負いながら,ハッキングや違法アイテムの使用によって電脳世界を"裏技"的に攻略しようとしているのだ。そこは,リスクを負わない大人たちには見えない,子どもたちだけの特権的な世界である。

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左:『電脳コイル』第1話「メガネの子供たち」より引用/右:第2話「コイル電脳探偵局」より引用 ©︎ 磯 光雄/徳間書店・電脳コイル製作委員会

本作はほとんどのシーンが「電脳メガネ」を装着した子どもたちの目線で描かれるため,〈見えない〉者たちの世界が詳しく描写されることはほとんどないが,第24話「メガネを捨てる子供たち」では,子どもと大人の〈視差〉による価値観の違いがはっきりと語られる。ヤサコの母は日頃「電脳メガネ」をほとんど使用しておらず,ヤサコの飼う電脳ペット「デンスケ」の存在もあまり認識していない。彼女にとっては「触れるもの」が「信じられるもの」である。これに対しヤサコは「本物って何?手で触れられるものが本物なの?手で触れられないものは本物じゃないの?」と自問し,「間違いなく今ここにあるもの」として「胸の痛み」を"発見"する。仮に電脳の世界に手で触れることができないとしても,それに対して自分が強い感情を抱くのなら,それは確かに「今ここにあるもの」と言えるという認識だ。

ヤサコの実存的な問題提起は,バーチャル世界の比重が増しつつある現代において強いアクチュアリティを持っている。『電脳コイル』という作品が15年経った今でも色褪せない所以であろう。

『輪るピングドラム』『さらざんまい』:「生命の輪郭」

幾原邦彦監督『輪るピングドラム』(2011年,以下『ピンドラ』)と『さらざんまい』(2019年)は,現代社会において見えづらくなった死の意義と生の尊さを真摯に扱った寓話的アニメである。2つの作品に登場する「ペンギン」と「カッパ」は,物語内の特定の人物にしか認識できない特殊なキャラクターだ。幾原流の諧謔に満ちたユニークなキャラクターだが,そこには単なるマスコットという存在以上の象徴的な意味が込められているようだ。キーワードは〈生命〉である。

『さらざんまい』の「カッパ」については,物語上の設定が比較的はっきりとしている。第一皿(第1話)で,カッパ王国の王子「ケッピ」は,「尻子玉」を抜かれた後に発生する「欲望フィールド」を主人公の一稀らにこう説明する。「ここは『欲望フィールド』ですケロ。人の世の裏側。人間にはこの世界もカッパも見ることはできませんケロ。つまりあなたたちは,生きていて死んでいるのですケロ」。

ケッピのこのセリフからは,「欲望フィールド」と「カッパ」が死の世界に近い現象であり,一般の人の目には〈見えない〉が,主人公である一稀らには〈見える〉という〈視差〉が生じていることがうかがえる。このような設定の背後には,幾原が本作に込めた死生観がある。Blu-ray/DVDの特典に納められたインタビューで,幾原は次のように述べている。

命は目に見えないじゃないですか。昔,国や地域が貧しかった頃は,人の命は目に見えたと思うんですよ。道端で誰かが死んでいる……,それは命が目に見えていることだから。でも,現代社会では命はそんなに目に見えず,隠されている。*2

さらに第三皿(第3話)のオーディオコメンタリでは,高度経済成長期における「カッパブーム」に触れながら以下のような発言をしている。

妖怪って,死者と生者の間にいるじゃない。街が出来てきたりすると,命が見えなくなっていくじゃない。死ぬっていうのが見えなくなっていくじゃない。人は病院で死ぬからね,今大部分はね。昔はみんな生きるとか死ぬが生活の中にあったのが,都市になっていくと隠されていくじゃない。それを妖怪は教えてくれるみたいなさ。人って死ぬよねみたいなことを言うっていうさ。それでドキッとするみたいなさ。そうだよね,忘れてるけど,死ぬよね,みたいなさ。妖怪って生きてるってことを教えてくれる生き物っていうことが僕にはあるなと思って。そこが惹かれた理由だよ,カッパに。*3

カッパの姿が〈見える〉ということは,死が〈見える〉ということであり,その裏面である生が〈見える〉ということなのだ。

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左:『輪るピングドラム』02「危険な生存戦略」より引用 ©︎ikunichawder/pingroup/右:『さらざんまい』第一皿「つながりたいけど,偽りたい」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

一方,『ピンドラ』の「ペンギン」の登場はやや唐突であり,その存在の意味について物語内で説明されることはまったくない。ヒントになるのは,幾原の以下の発言である。

最近思ったんだけど,[ペンギンは]きっと「命」のようなものじゃないかな。いや,兄弟妹たちの命が姿を変えて存在している,って意味じゃないよ。もっと…何ていうか,生命の熱,輝き,みたいな。兄弟妹たちからはみ出した「生命の輪郭」みたいなものが形になって見えていたように感じるんだ。*4

『ピンドラ』では,主人公の冠葉と晶馬の日常が,妹の陽毬の〈死の可能性〉に直面することによって,非日常へと変容していく様子が描かれる。ペンギン=生命の輪郭が〈見える〉のは,〈死の可能性〉に触れた者の"特権"であり,そうでない者(日常的に生と死を忘却している者)にとっては〈見えない〉。ここでは〈見える/見えない〉の視差が,〈生と死の意味を己のこととして捉えているか否か〉という実存的な問いと重ね合わせられているのだ。

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『サマーゴースト』:メメント・モリ

目立った形ではないにせよ,『ピンドラ』や『さらざんまい』の根底には,上記のような実存的な死生観が通奏低音のように流れている。それを表立って主題化したのが,『ピンドラ』から10年後の2021年に劇場公開されたloundraw監督『サマーゴースト』である。ここでは,〈死の可能性〉に触れることによって〈生の尊さ〉を知るというテーマが,40分という短尺の中で的確に伝えられている。

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『サマーゴースト』公式Twitterより引用 ©︎サマーゴースト

「サマーゴースト」こと絢音は事故によって命を落とした女性の幽霊だが,その姿は「死に触れようとしている人」にしか見えない。主人公の友也,あおい,涼は,それぞれ何らかの形で〈死の可能性〉に接近しているために,彼女の姿が〈見える〉。絢音の遺体という生々しい死の形を目にし,さらに身近な人の死を経験した彼らは,やがて〈死を思いながら前に向かっていること〉を選択していく。

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『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』:"かくれんぼ"の終わり

『サマーゴースト』でも見られたように,〈見える/見えない〉という視差は〈幽霊の認識〉というモチーフと相性がいい。幽霊にまつわる〈視差〉を感動的な青春群像劇に用いた好例が,長井龍雪監督・岡田真里脚本・田中将賀キャラクターデザイン『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年,以下『あの花』)である。

第1話「超平和バスターズ」では,かつて事故で命を落としためんまの幽霊が,主人公じんたんの前に唐突に姿を現す。本作の特徴は,一般的な幽霊のイメージとは異なり,まるで生きている少女のように物理的な"重み"を持った存在としてめんまを描いている点だ。しかし,めんまの幽霊が〈見える〉のはじんたんだけであり,彼の幼馴染のあなる,ゆきあつ,つるこ,ぽっぽらには〈見えない〉。この〈視差〉は当初,彼ら・彼女らの間に確執を生んでいく。

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左:『あの日見た花の名前を僕達ははまだ知らない。』第1話「超平和バスターズ」より引用/右:最終話「あの夏に咲く花」より引用 ©︎ANOHANA PROJECT

めんまの「願い」を叶えるという目標に向かって協力し合う中で,やがてじんたん以外の〈見えない〉仲間たちもめんまの存在を徐々に信じるようになる。最終話「あの夏に咲く花」のラストの「かくれんぼ」のシーンでは,仲間たちにもめんまの姿が〈見える〉ようになる。じんたんたちは「かくれんぼ」を終わらせることによって,めんまに別れを告げる。〈かくれんぼの終わり〉というノスタルジックな哀切を加味しながら,〈見えない〉から〈見える〉への変化を圧倒的なほど感動的に仕上げた名ラストシーンだ。

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『若おかみは小学生』:輪廻転生

『あの花』のラストシーンでは,めんまが「生まれ変わり」を仄めかしていた。つまり〈輪廻転生〉の思想だ。令丈ヒロ子原作・高坂希太郎監督『若おかみは小学生!』(2018年)*5 でも,同じく霊たち〈輪廻転生〉の未来が暗示されている。

事故で両親を亡くした小学生のおっこは,祖母が女将を勤める旅館で働くことになる。おっこは幽霊のウリ坊(祖母の峰子の幼馴染),美陽(おっこのクラスメート真月の姉),鬼の鈴鬼と出会うが,その姿は他の人たちには〈見えない〉。ウリ坊,美陽,鈴鬼は,「若おかみ」となったおっこに寄り添いながら応援し,おっこもユニークな客の面々との出会いを通じて徐々に成長していく。しかしおっこが成長していくにつれ,ウリ坊たちの姿が見えなくなることが多くなり,鈴鬼はおっこに「お別れの日」が近づいていることを告げる。

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『若おかみは小学生!』より引用 ©︎令丈ヒロ子・亜沙美・講談社/若おかみは小学生!製作委員会

ラストの「神楽」のシーンでは,おっこと真月にウリ坊と美陽も加わり,4人が楽しげに神楽を舞う姿が描かれる。「本当にお別れなの?」と問うおっこに,ウリ坊と美陽は「また会えるて。生まれ変わってね。そしたら春の屋行って,成長したおっこに会うんや」と答える。このシーンによって,おっこの父母の〈生まれ変わり〉の可能性も暗示されており,子どもにしては過酷すぎる運命と悲しい別れの物語であるにもかかわらず,ラストはポジティブな雰囲気に満ちている。〈見える〉から〈見えない〉への変化が示されているという点では『あの花』と逆のベクトルだが,両作品は〈輪廻転生〉と〈めぐり合い〉という思想を共有している。

『見える子ちゃん』:ディスコミュニケーション・コメディ

〈見える/見えない〉という視差の設定をホラーコメディに応用したのが,泉朝樹原作・小川優樹監督『見える子ちゃん』(2021年)だ。

"化け物が見えるのに見えないフリをする"という緊張感の中で紡がれるコミカルなシチュエーションをベースに,父親や学校教師の遠野善などにまつわるシリアスな物語も織り交ぜられている。視聴者を飽きさせない多彩なストーリーテリングが特徴の秀作だ。

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『見える子ちゃん』第七話「見た?」より引用 ©︎泉朝樹・KADOKAWA刊/見える子ちゃん製作委員会

特に第七「見た?」では,〈見える〉みこ・ユリアと〈見えない〉ハナとの〈視差〉に,"みことユリアの見えているものが違う"という〈視差〉が加わることにより,見事なアンジャッシュ風すれ違いコメディが成立している。『見える子ちゃん』は,〈見える/見えない〉の視差のコメディ応用例の1つとして高く評価できる作品だ。

『平家物語』:知っている=見えている主体

最後に,〈見える/見えない〉の視差の中でも極めてユニークな事例を挙げよう。山田尚子監督『平家物語』(2022年)は,〈すでに知識を持った主体〉としての視聴者の目線を〈見える主体〉として物語内に導入するという特殊な設定を行なっている。

アニメオリジナルキャラのびわは,未来を見通すことのできる眼を持っている。平家に父を殺されたびわは,清盛の嫡男・重盛の元に引き取られる。重盛は亡者が見える目を持っており,二人は共に特殊な目を持つ者として共感し合う。やがて重盛は病に倒れ,その眼の力はびわに引き継がれることになる。

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『平家物語』第一話「平家にあらざれば人にあらず」より引用 ©︎「平家物語」製作委員会

古典作品において,異世界ファンタジーによく見られる"魔眼授受"のようなエピソードが語られるのも面白いが,何より興味深いのは,山田がびわというキャラクターを「観てる方の視点」つまり〈視聴者の視点〉として導入している点である。*6

視聴者の多くは,『平家物語』の「盛者必衰の理」を〈すでに知っている〉。つまりびわと同じく,平家の滅亡が〈すでに見えている〉のだ。そして視聴者の視線を神のような客観視点としてではなく,物語内の一登場人物として導入することにより,平家の登場人物へのスムーズな感情移入を促していると言える。

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見える/見えないという〈視差〉は,日常の内部に異質な存在や世界を読み込む。その意味では,森見登美彦原作・石田祐康監督『ペンギン・ハイウェイ』(原作:2010年,劇場アニメ:2018年)のアオヤマくんや,大童澄瞳原作・湯浅政明監督『映像研には手を出すな!』(原作:2016年-,TVアニメ:2020年)の浅草みどりのようなキャラクターも,〈見える〉権能を持っていると言っていいかもしれない。彼らは日常の内部にいながら,そこに〈物語〉を読み込む天才だ。*7

そしてこれらの作品に共通するのは,〈見える〉者が見ている世界こそが,何らかの形で重要な価値を持つという点であり,「見えている世界は虚構にすぎない」というテーマを根幹に持つ『マトリックス』シリーズなどとは対極にあると言えるだろう。

上に挙げた作品以外にも〈視差〉の事例は無数にあるし,今後も多くの〈視差〉の物語が生まれていくことだろう。今後そうした作品に触れる方にとって,本記事がガイドの役割を果たせば幸いである。

*1:「視差(parallax)」という語の辞書的な定義は「観測位置の違いにより生じる,物の視覚像の差異」というものであり,主に天文学や写真技術の用語として使われる。

*2:『さらざんまい』第1巻Blu-ray/DVD特典ブックレット,p.15。

*3:『さらざんまい』第三皿オーディオコメンタリより。

*4:「輪るピングドラム 公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて」,p.129,幻冬舎コミックス,2012年。

*5:ここでは劇場版のみを取り上げる。

*6:TVアニメ『平家物語』監督:山田尚子インタビューより

*7:〈視差〉という物語上のギミックが,宇野常寛の指摘する「拡張現実の時代」において頻出するのも偶然ではないだろう。〈視差〉は,日常の外部としての"異世界"ではなく,日常の内部に"異世界"を読み込む,すぐれて現代的な世界認識なのだ。宇野常寛『リトル・ピープルの世界』,幻冬舎,2011年。