アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

TVアニメ『さらざんまい』(2019年)レビュー:人=未来へつながり続ける存在者

*このレビューはネタバレを含みます。

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『さらざんまい』公式Twitterより引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

sarazanmai.com

独自の映像感覚と難解な語り口で視聴者を翻弄しながらも,その都度アクチュアルなテーマに真摯に向き合い続けてきた幾原邦彦監督。彼の最新作『さらざんまい』は,前作『ユリ熊嵐』(2015年)と同様,性の多様性や愛といったテーマを扱いつつ,それらをより多角的に照射した作品となった。この作品を観た者は,ポップでアイロニカルな映像の背後に流れる「生と死」「欲望」「つながり」といった問題を否応なく思索することになるだろう。

作品データ(リンクはWikipediaもしくは@wiki)

【スタッフ】
原作:イクニラッパー/監督:幾原邦彦/チーフディレクター:武内宣之/シリーズ構成:幾原邦彦,内海照子/キャラクター原案:ミギー/キャラクターデザイン・総作画監督:石川佳代子/コンセプトデザイン:柴田勝紀/助監督:松嶌舞夢/美術監督:藤井綾香(スタジオPablo)/色彩設計:辻田邦夫/撮影監督:荻原猛夫/編集:黒澤雅之/音楽:橋本由香利/アニメーション制作:MAPPAラパントラック

【キャスト】 
矢逆一稀:村瀬歩/久慈悠:内山昂輝/陣内燕太:堀江瞬ケッピ:諏訪部順一/新星玲央:宮野真守/阿久津真武:細谷佳正/春河:釘宮理恵/久慈誓:津田健次郎/陣内音寧:伊瀬茉莉也/吾妻サラ:帝子/カワウソ:黒田崇矢/ゾンビ:加藤諒

 【あらすじ】
浅草に住む中学生の矢逆一稀,久慈悠,陣内燕太は,ある日「カッパ王国第1王位継承者」を名乗るケッピと出会い,尻子玉を抜かれてカッパにされてしまう。人間の姿に戻るためには「カパゾンビ」の尻子玉を奪い,ケッピの元に届けなければならない。彼らはカパゾンビとの戦いの中で何を知り,何を学ぶのか。そして怪しげな2人の警官の正体とは… 

生と死:平板化された人間たちの覚醒

周知の通り,アニメーションという言葉の元になっているanimateという動詞は,本来「anima=生命を吹き込む」という意味である。animationとは,少しずつ形の違う複数の静止画を連続撮影することにより,動き=生命を表現する技法なのだ。ところが『さらざんまい』というアニメには,意図的にanimationが施されていないオブジェクトが登場する。街中を往来するピクトグラム状のモブである。

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『さらざんまい』第一皿「つながりたいけど,偽りたい」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

白い平面体として描画されたこのモブは,同じ幾原監督の『輪るピングドラム』(2011年)にも登場していたが,看板や標識などのピクトグラムと同様,人の〈平板化〉〈無個性化〉〈マスプロ化〉を象徴していると考えて差し支えないだろう。

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『輪るピングドラム』01「運命のベルが鳴る」より引用 ©︎ikunichawder/pingroup

『さらざんまい』の美術は,実際の浅草の生き生きとした生活圏を計算されたパースで描画するリアリズムが基調となっているため,この平面的なピクトグラム人間の特異性がなおのこと際立っている。

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パースによって奥行きをリアルに描画した浅草の風景。『さらざんまい』第三皿「つながりたいけど,報われない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

幾原はなぜ『さらざんまい』というアニメの中に,敢えて魂を吹き込まない平板化された存在を呼び入れたのか。おそらくその答えは,幾原が本作に込めた死生観にある。Blu-ray/DVDの特典に納められたインタビューにはこうある。

命は目に見えないじゃないですか。昔,国や地域が貧しかった頃は,人の命は目に見えたと思うんですよ。道端で誰かが死んでいる……,それは命が目に見えていることだから。でも,現代社会では命はそんなに目に見えず,隠されている。*1

 

animateされ個性を与えられた一稀,悠,燕太,ケッピと違い,ピクトグラムのモブは生と死の危うさに関わることのない,平均的で量産的な存在だ。それは『輪るピングドラム』において,生と死と自己犠牲に直面しようとする主人公たちに対比させられた,街中のモブと同様の存在である。

哲学者のマルティン・ハイデガー(1889-1976年)は,主著『存在と時間』(1927年)の中で,人間の現存在の日常的なあり方を「ひと(das Man)」と定義した。ハイデガーによれば,「ひと」とは「特にだれということもできない中性的なもの」*2 であり,他の「ひと」と代替可能な存在である。人間は日常生活の中で,無個性的な「ひと」の状態に埋没しており,己の固有の存在,その“生と死”を忘却している。とりわけ死は,「現存在が存在するやいなやみずから引き受けるあり方」*3 として,常に自己の存在の中に可能性として内在しているにもかかわらず,「ひと」はそれを自らに隠蔽しながら生活している。ニュースで報道されるような他者の死を「死亡例」*4 として了解したつもりになりながら,「《死へ臨むひとごとでない存在》をおのれに隠すことを正当化し,そしてその隠蔽への誘惑を深める」*5。それが「ひと」という存在の本質的なあり方だとハイデガーは言う。要するに,人間は自分にしか訪れない〈固有の死〉が差し迫っていることを,日常的に忘れながら平均的な生活を送っているということだ。

『さらざんまい』のピクトグラム人間は,まさにこうした意味での「ひと」に他ならない。彼らは本来的な意味で死に触れることはなく,したがって生と死の間にいるカッパの姿が見えないのである。

それに対して,一稀,悠,燕太は「カパゾンビ」との戦いを通して,死者に向き合うことを強いられている。*6 また彼らには,自己の死や肉親の死など,リアルな死の重みが容赦なく突きつけられる。中学2年生という年頃にはあまりにも過酷な死の重圧を,幾原は時にコミカルなアイロニーも交えながら躊躇なく描き切る。それは彼らが「ひと」というあり方から覚醒し,自分という存在や他者との関わり方を捉え直し,新しい未来の生を生きるための,一種のイニシエーションなのかもしれない。

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『さらざんまい』第九皿「つながりたいけど,伝わらない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

もちろんここで重要なのは,幾原が実際に『存在と時間』を読んでいるかどうかではない。そうではなく,『さらざんまい』という作品が,偶然にせよ必然にせよ生と死をめぐる哲学的な問いに肉薄しているという事実なのだ。

他者の欲望の承認

一稀たちはカパゾンビとの戦いによって,死に触れるだけでなく,その「欲望」にも触れることになる。興味深いのは,尻子玉奪取の後,カパゾンビの倒錯的欲望が一稀たちの「そうか,◯◯だったのか」という台詞によって言語的に承認されるカットである。

人の〈欲望〉を現代思想的な文脈で理解する上でしばしば前提となるのは,人間的な〈欲望〉と動物的な〈欲求〉との差異である。現代思想において,人間の〈欲望〉は間主体的ものとして認識されることが多い。人間の〈欲望〉は,即時的で閉じた動物の〈欲求〉と違い,常に他者の承認が介在する。例えば精神分析学者のジャック・ラカン(1901-1981年)は,これを「他者の欲望」と呼んだ。ごく簡単な例で説明するなら,動物=“生存のために目の前の肉を食う”と人間=“評判がいいからあのラーメン屋まで行って食う”の違いということになるだろうか。動物は他者の承認などお構いなしに,端的に生きるために欲求する。一方人間は,他者が欲望したものを欲望する。

〈欲望〉が他ならぬ人間の〈欲望〉であるならば,例えどれだけ“不自然”な倒錯的欲望であったとしても,それは「他者」によって言語的に承認されていなければならない。ところが人は,他人に話して聞かせることのできる欲望が“正常な”欲望(「僕は◯◯さんが好きだ」)であり,人に話せないような欲望は“異常な”欲望(「私は女性に蹴られるのが好きだ」)であるとナイーブに考え,前者を承認する一方で,後者を拒絶してしまう。しかし欲望における“正常”と“異常”の境界はどこにあるのだろうか。普通,好きな女性の入った風呂の残り湯で蕎麦を茹でたいという欲望は,“異常”だとみなされるだろう。しかし,弟のために女装する一稀の行為はどうだろうか。女装する一稀にキスをする燕太,兄との絆を守るために犯罪に手を染める悠はどうなのか。

一稀,悠,燕太による欲望承認のカットは,自分たちの〈欲望〉とカパゾンビたちの〈欲望〉との間に本質的な違いがないことを示唆しているように思える。

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『さらざんまい』第四皿「つながりたいけど,そばにいない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

〈欲望〉が〈欲望〉である以上,他者によって言語的に承認されなければならない。したがって,一稀,悠,燕太の〈欲望〉も「漏洩」という儀式によって互いに晒されることになる。しかし彼らの〈欲望〉は容易に承認できるほど“普通”ではない(少なくとも彼らはそう思っている)。これはある意味で,人が「つながる」ことのリアリティだ。他者の〈欲望〉は,必ずしも自分にとって心地よいものとは限らない。他者と「つながる」ことには,他者の不快な〈欲望〉を知るというリスクがつきまとう。 「つながりたいけど,◯◯」という各話タイトルは,こうした「つながり」の危うさを表しているとも言える。

ここで言及しておかなければならないのは,一稀に対する燕太の同性愛的な思いだろう。幾原は本作において,同性愛を茶化したり笑いの対象にするのではなく,意識的に「ピュアな気持ち」として描いたのだという。*7 確かに,『ユリ熊嵐』では同性愛のモチーフが文字通り「百合」という表象として“消費”されていた感があるが,『さらざんまい』は燕太というキャラクターの気持ちに真摯に寄り添っている印象がある。

昨年開催された「幾原邦彦展」の折に開かれたトークショーで,『さらざんまい』が過去の作品と違い男性キャラクターが多い理由を問われた幾原は,「魂を削って戦う姿が美しいと感じている。そこに男女の違いはない。以前から男の子が中心の作品はやりたいと思っていた」 と答えている。『さらざんまい』は,燕太の思いを“ヘテロ/ホモ”といった安直な二文法に矮小化するのではなく,ヘテロセクシュアル,ホモセクシュアル,LGBT,兄弟愛,友愛といったものをすべて包括する「つながり」という概念の中で捉えようとしたのかもしれない。

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〈欲望〉には様々な形がある。善良な欲望,邪悪な欲望,倒錯した欲望,純粋な欲望。〈欲望〉は多義的であり,どの〈欲望〉を承認し,どの〈欲望〉を拒絶するかをめぐって,どうしても人は争わざるを得ない。しかし一つ明らかなことは,人は〈欲望〉を抱かずにはいられない生き物だということだ。人を堕落させるのが〈欲望〉だとすれば,人を成長させるのも〈欲望〉である。したがって幾原は『さらざんまい』の中で,玲央と真武に「愛か欲望か」という二者択一の台詞を言わせながらも,最終的には〈欲望〉を肯定する。だからこそ彼は,一稀たちにカパゾンビの欲望を承認させ,最終話でサラに「忘れないで/喪失の痛みを抱えてもなお/欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」*8と言わしめるのである。

「つながり」の意味を問う

以前と比べれば,現代は「つながり」が技術的に強化された時代だ。スマホとSNSで人と即座につながれるが故に,安心感だけでなく,煩わしさや危険性も増大している。メディアや世論はしばしば,そんなインスタントなつながりを“現代技術批判”という形で否定しようとする。しかし幾原はそうした構えに懐疑的である。安易に技術批判をしたところで,我々は技術が存在する前の時代に逆行することはできないからだ。*9 技術的な条件とは生活の条件であり,その中に生きている以上,それを否定することは不可能である。スマホやSNSのない時代に戻ることはできない。だとすれば,あくまでも現代的な条件に基づいた上で「つながり」の意味を問うていく他ない。幾原が『さらざんまい』や『ユリ熊嵐』でスマホやSNSのようなツールを積極的に登場させるのも,技術を否定するのではなく,技術について思索することを促す意図があってのことなのだろう。

技術に潜む危険性とは,技術そのものの危険性なのではなく,人が技術を当然のものであると誤解し,技術的な条件に埋没してしまうという事態なのではないか。技術によって得た「つながり」が所与のものとして当たり前になってしまった時,“他でもないこの人”と「つながる」ことの本質的な意味,そのかけがえのない価値を見失い,またもや「ひと」という平均的な存在へと埋没してしまうかもしれない。『さらざんまい』のエンディングでは,浅草の実写の風景の中に主人公たちのキャラが佇む姿が映し出されるが,彼らにはanimateが施されていない。このエンディングは,主人公たち自身がリアルな3次元空間の中で平面的なピクトグラム人間=「ひと」に埋没してしまう危うさを示しているようにも思える。

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『さらざんまい』エンディングより引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

「ひと」は「つながり」の意味を自覚的に問わないだろう。だからこそ,第八皿で悠が言うように,「誰だって切れてからつながっていたことに気づく」のである。「ひと」は死や断絶を受け入れた時初めて,生とつながりの意味を理解するのだ。

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『さらざんまい』第八皿「つながりたいけど,もう会えない」より引用 ©︎イクニラッパー/シリコマンダーズ

2020年,全世界的に「つながり」を絶たれた人類は,その本質的な意味を再考することを余儀なくされた。果たして「つながり」とは,精神的な絆のことなのか。そこに物理的な接触は不要なのか。技術は本当に「つながり」を保証してくれるのか。その最終的な答えを提示することは,全人類の知恵を持ってしても困難至極であることは間違いない。しかし人が独りでは生きられない生き物である以上,どんな形でも,どんなリスクを負ってでも,「つながり」を何処かに求めなければならない。それこそが,人が「未来」をつないでいく唯一の拠り所なのだから。*10

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 4.5 4 4
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 4 3 4.5
独自性 普遍性 平均
5 4 4.1
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

 

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存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)
 
存在と時間〈下〉 (ちくま学芸文庫)
 

 

*1:『さらざんまい』第1巻Blu-ray/DVD特典ブックレット,p.15。

*2:マルティン・ハイデッガー/細谷貞雄訳『存在と時間』,p.277,ちくま学芸文庫,1994年。言うまでもなく,『輪るピングドラム』で反復される「きっと何者にもなれないお前たち」という台詞もハイデガーの「ひと」を想起させる。

*3:同上,p.50。

*4:同上,p.65。

*5:同上,p.67。

*6:Blu-ray/DVD第八皿のオーディオコメンタリでは,「カパゾンビ」が妖怪や概念的な存在などではなく,玲央と真武によって殺害された後にゾンビ化した存在であることが監督と宮野真守の会話から伺える。

*7:『さらざんまい』第1巻Blu-ray/DVD特典ブックレット,p.17。

*8:第十一皿「つながりたいから,さらざんまい」より。

*9:Blu-ray/DVD第一皿のオーディオコメンタリ参照。

*10:こう考えてみると,作中各所に登場する「ア」は「阿吽」に由来すると考えるのが妥当だろう。「はじまらない/おわらない/つながらない」という呪いのような運命に対し,「阿吽」は宇宙の始まりと終わり,そして心の一致を意味する。「ア」は,「宇宙の始まり」として未来を暗示すると同時に,心の「つながり」を表しているのではないだろうか。