アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

劇場アニメ『劇場版SHIROBAKO』(2020年)レビュー[考察・感想]:神々の“俺たたエンド“

*このレビューはネタバレを含みます。

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『劇場版SHIROBAKO』公式Twitterより引用 ©2020 劇場版「SHIROBAKO」製作委員会

shirobako-movie.com

『SHIROBAKO』TVシリーズ(2014-2015年)は,宮森あおいと「武蔵野アニメーション(通称「ムサニ」)」が『第三飛行少女隊』の制作を終了したところで完結していた。今回の『劇場版SHIROBAKO』は,その4年後の「ムサニ」の面々を描いた作品である。実時間と同じ経年設定をすることで,“アニメ制作の現在進行形”を描き出した本作は,〈アニメとドキュメンタリーの距離〉を考察する上でも興味深い作品となった。

作品データ(リンクはWikipediaもしくは@wiki)

【スタッフ】

原作:武蔵野アニメーション監督:水島努 /シリーズ構成:横手美智子キャラクター原案:ぽんかん⑧キャラクターデザイン・総作画監督:関口可奈味美術監督:竹田悠介垣堺司色彩設計:井上佳津枝3D監督:市川元成撮影監督梶原幸代特殊効果:加藤千恵編集:髙橋歩/音楽:浜口史郎音楽制作:イマジンアニメーション制作:P.A.WORKS

【キャスト】

宮森あおい:木村珠莉安原絵麻:佳村はるか坂木しずか:千菅春香藤堂美沙:髙野麻美今井みどり:大和田仁美宮井楓:佐倉綾音矢野エリカ:山岡ゆり安藤つばき:葉山いくみ佐藤沙羅:米澤円久乃木愛:井澤詩織高橋球児:田丸篤志渡辺 隼:松風雅也興津由佳:中原麻衣高梨太郎:吉野裕行平岡大輔:小林裕介木下誠一:檜山修之葛城剛太郎:こぶしのぶゆき

【あらすじ】

宮森あおいが務める武蔵野アニメーションは,『第三飛行少女隊』の制作を成功させた後,とある事件によって仕事の依頼がすっかり減っていた。廃墟のように寂れたスタジオのビル。座る人のいない作業机。笑顔の消えたスタッフ。見る影もなくなった「ムサ二」のもとに,ある日,新作劇場アニメの制作企画の話が舞い込む。その名も『空中強襲揚陸艦SIVA』。はたして「ムサ二」は無事納品に漕ぎ着けることができるのか。 

これはドキュメンタリーではない

曖昧な境界:アニメがアニメを表象する

『SHIROBAKO』はアニメ制作の現場をリアルに描いていると言われる。だとすれば,『なつぞら』のような実写ドラマとの違いはどこにあるのか。

それは言うまでもなく,『SHIROBAKO』それ自体がアニメ作品として創作されており,アニメを制作する登場人物たち自身がアニメのキャラクターだという点である。これにより,アニメのキャラクターとアニメ内アニメのキャラクターの“共演”がより容易になる。この作品において,このことが極めて重要な要素であることは間違いない。

もちろん実写ドラマでも,人間の役者とアニメのキャラを“共演”させることは技術的に可能だ。しかしそれはあくまでも,2次元と3次元という異なる媒体を並置させ,両者の差異を際立たせるーーつまり「違う媒体が一緒に演じているからこそ面白い」ーー技法に他ならない。一方,『SHIROBAKO』のような〈アニメがアニメを表象するアニメ〉は,“アニメキャラ”と”アニメ内アニメキャラ”が完全に同一次元上で演じるという点に特徴がある。

このような表現法は『SHIROBAKO』以外の最近のいくつかの作品にも見られる。例えば大童澄瞳のマンガを原作とするアニメ『映像研には手を出すな!』(2020年)は,高校でアニメ制作に携わる主人公たちが,現実の世界から,自分たちが作り出したアニメ設定の中へとシームレスに移行していくシーンが魅力だ。その意味で,『映像研』はアニメ化されるべくしてアニメ化されたと言えるかもしれない。また,アニメ制作の話ではないが,『ハイスコアガール』(1期:2018年,2期2019年)のアニメでは,キャラクターが3DCGで描画されており,ポリゴンで作られたゲームキャラとの親和性が高い世界観になっているのが面白い。

今回の『劇場版SHIROBAKO』では,このような現実と空想の境界を曖昧にする演出をTVシリーズ以上に前面に押し出した作りになっていた。代表的なシーンは,本作の最大の目玉でもあるミュージカルシーンである。

夜道を一人歩くあおいが何気なく歌(挿入歌「アニメーションをつくりましょう」)を口ずさむと,これまで観た作品や制作に携わった作品のキャラクターが次々と現れ,やがて一緒に歌い踊り出す。曲が終わるとキャラクターたちは姿を消し,再び夜道にあおいが一人で残される。

辛い現実と同調するかのような夜道の寂しさと,メルヘンチックなミュージカルの陽気さの対比によって,あおいの心境の変化を表したなかなかの名シーンだ。同時にこのシーンにより,本作における現実と空想の境界の曖昧さが改めて強調される。

これは本作の劇作上,重要な意味を持つ表現法だ。ムサ二の制作シーンを淡々と描くだけでは盛り上がりに欠け,印象的な劇伴も挿入しづらい。現実と空想(アニメ)の境界が最初から曖昧になっていれば,心理的温度の低い日常シーンからハイテンションのファンタジーシーンまでシームレスに盛り上がることができる。これが最大限に活かされたのが,終盤で描かれる『SIVA』の脱出シーンである。

ムサ二のスタッフは何とかして『空中強襲揚陸艦SIVA』の制作を終える。しかしラストの仕上がりに納得できない木下監督は,宮森の熱い気持ちにも押され,公開ギリギリで作り直すことを決意する。ムサ二のスタッフたちは,技術と熱意が込もった最高のラストシーンを仕上げるべく,再度奮起する。

制作のシーンから,派手な劇伴の付いた『SIVA』のキレのあるアクションシーンまで一気に盛り上がり,ムサ二スタッフたちの「カタルシス」と『SIVA』の「カタルシス」がぴったりと同期する。境界の曖昧さを活かした見事なクライマックスだ。

ミムジー&ロロ:ファンタジーからリアルへのハリセン

『SHIROBAKO』を語る上で忘れてはならないのは,ミムジーとロロというマスコットキャラである。

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『SHIROBAKO』公式HPより引用 ©「SHIROBAKO」製作委員会

周知の通り,このペアキャラには3つの役割が当てられている。「①アニメの制作に関する用語の説明をすること」「②東映のアニメ作品の伝統を継ぐ〈動物キャラ〉によって,ファンタジーテイストを加味すること」「③宮森あおいの心情を代弁すること」の3つである。①に関しては,彼らはすでにTVシリーズでその役目を終えているので,劇場版ではもっぱら②と③の役回りに専念している。現実と空想の境界が曖昧な本作において,「ファンタジーの世界から主人公の内面を代弁する」という彼らの役割は不可欠だ。

例えば,TVシリーズ版最終話のミムジーとロロのシーンを思い出してみよう。

『第三飛行少女隊』の納品を無事終え,新幹線の車内でひと息着くあおいに,ロロがこう尋ねる。「これからどうしたいのか決まった?このままアニメを作りたいのか,作りたいとしたらなぜなのか」あおいが逡巡しながら「んと…これからゆっくり考える」と答えると,ロロは「甘ったれんなー!」といいながらあおいにパンチを喰らわす。ロロのいつになくアグレッシブな振る舞いに,さすがのミムジーも驚きを隠せない。

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『SHIROBAKO』#24「遠すぎた納品」より引用 ©「SHIROBAKO」製作委員会

僕の記憶する限り,ミムジーとロロがあおいに対してここまではっきりと物理干渉をするシーンは多くない。最終話らしく,彼らマスコットキャラがアクティブに活躍する微笑ましいシーンだ。

これと同様のシーンが劇場版にも見られる。公園のブランコで肩を落とすあおいに,ミムジーとロロがハリセンでツッコミを入れるシーンだ。TV版最終話と同様に,ファンタジー世界からの干渉によってあおいは目が覚め,再び前を向く力を得る。

こうした彼らの存在を客観的に解釈するならば,“宮森あおいの内面的葛藤のメタファー”ということになるのだろうが,そんな野暮な解釈を許容しないほど,ミムジーとロロのキャラは”立って“いる。*1 ミムジーとロロが現実と空想との間を繋ぐ名バイプレイヤーであることに異論はなかろう。

『SHIROBAKO』はアニメ制作をリアルに描いたというよりは,アニメ制作という現実を“翻案”した一種のファンタジーなのだ。ゆえに,本作に対して「アニメ制作の現実を描いていない」などと批判するのは御門違いも甚だしいということになる。これはドキュメンタリーではないのだから。

神々の戦いは続く

『SHIROBAKO』はアニメの制作現場を舞台としている都合上,登場人物が極めて多いのが特徴だ。TVシリーズは24話あったために,この超群像劇を余裕で処理していた。一方,劇場版は,2時間という尺の割には,やや無理をして主要キャラクター以外の人物に多く時間を割いていた印象がある。例えば,演出の山田や原画の遠藤のエピソードなどは,もう少し短くしてもいいと感じた人もいたかもしれない。 しかし僕はこの演出上の判断に,”ムサニのレギュラーメンバーの一人一人にスポットを当てる”という監督の強い意志を見て取る。

前回の記事で,僕はアニメの制作者を神話の神々になぞらえた。アニメはスタープレイヤーのような単数形の〈God〉ではなく,互いに力を合わせる複数形の〈gods〉が創り出す文化生産物だ。 *2

www.otalog.jp

宮森をして「アニメを作る人が好きだから」と言わしめた水島監督の思いがここに込められている。この作品は何よりもまず,アニメを作る人たちーー僕の言葉で言えば〈神々〉ーーの物語なのだ。

「空中強襲揚陸艦SIVA」を『神仏混淆 七福陣』の「宝船」のイメージとオーバーラップさせたのもいい演出だった。宮森あおい,安原絵麻,坂木しずか,藤堂美沙,今井みどりの5人が夢見る『神仏混淆 七福陣』の制作。彼女たちの前を悠々と過ぎ去る「宝船」と,宇宙空間を航行する「SIVA」のイメージはぴったりと重なる。夢の実現まではまだ時間がかかるかもしれないが,『SIVA』の成功は,それが単なる夢物語ではないことを暗示しているように思える。 

やっぱりこれはドキュメンタリーである

先程「これはドキュメンタリーではない」と述べたが,訂正しよう。『SHIROBAKO』は,それでもやはりドキュメンタリーである。

もちろん,一般的な意味での“記録映画”とは言い難いだろう。しかし,どんなに優れたドキュメンタリーも“事実そのもの”ではない。被写体の選択,カメラワーク,編集,音楽などにより事実は少なからず加工され,〈事実についての表象〉と化す。『SHIROBAKO』は,ドキュメンタリーというものが持つそうした宿命を逆手にとり,〈アニメの実態をアニメで表象する〉ことに徹した作品に他ならない。その意味でこの作品は,“ドキュメンタリーの中のドキュメンタリー”と言ってもいいほどだ。「アニメーション業界の今が,ここにある。」というキャッチコピーは伊達ではないのである。

ところで,本作と併せて,西位輝実の『アニメーターの仕事がわかる本』を一読するのもよいだろう。後日当ブログでもレビューする予定だが,西位の語るアニメ業界は紛れもなく“事実”である。だが,その彼女の語りですら事実そのものではない。そこには,アニメ業界の現状に対する西位の夢と希望が混入し,すでに彼女独自の〈ファンタジー〉の様相を呈しているのだ。

アニメーターの仕事がわかる本

アニメーターの仕事がわかる本

 

だからと言って,西位の語りにリアリティがないということではない。アニメファンを含め,アニメに直接的・間接的に関わる人間に,この業界の過酷な現状を知らない人はもはやほとんどいないだろう。しかし,この状況を生み出したのが人だとすれば,それを変えることができるのも人である。そして間違いなく,ほぼすべての人が,いつの日か日本のアニメ制作の現場に光が差すことを願っている。アニメの業界を変える原動力となるのは,いつの日かこうなって欲しいと願う人たちの〈ファンタジー〉だ。いつの日か,それが数年後か数十年後かはわからないが,未来のアニメーターたちが『SHIROBAKO』や『アニメーターの仕事がわかる本』を手に取った時,「昔はこんな状況とこんな人の願いがあったのだ」と驚きとともに回顧する日が来ることだろう。その時,これらの作品は確かに〈ドキュメンタリー〉としての価値を持つことだろう。

『劇場版SHIROBAKO』は,アニメ業界の明るい未来を願う人々の思いを紡いだ,〈ファンタジーでありながらドキュメンタリーでもある作品〉なのだ。

だから日本アニメを創造する神々よ,どうか黄昏れないで欲しい。あなたたちの戦いは,これからなのだから。 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 4 4.5 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4.5 4 4.5
独自性 普遍性 平均
4 4.5 4.4
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

*1:TV版最終話のエンディングで,ミムジーとロロが久乃木愛に“見つかる”シーンがある。最終話なりの特別サービスだろうが,こんなシーンも現実と空想の境界を曖昧にすることに一役買っている。

*2:変な話,TVシリーズで原作者を表す「God」という言葉を茶沢に語らせ,ネガティブな含意を持たせたのも偶然ではないと僕は考える。