※このレビューはネタバレを含みます。
細田守監督は,これまで「世界改変」「異界」「極限状態」といった大がかりな設定で物語を作ってきたわけだが,本作ではそうした仕掛けを一切禁じ手にし,ミニマムな物語を作ることに徹している。舞台はほぼ家の中のみ。大きなドラマもない。またタイトルやPVから誤解しがちだが,この作品は“タイムトラベルもの”ではない。「犬の人化」と「未来からの来訪」というまったく異なる現象が無条件で並列されている点で,そこにSF的な設定の厳密さはない。むしろ単なる少年の夢だったと解釈できる程度の要素だ。
昨今,劇場アニメですら大振りの物語を作ることが困難になりつつある。これまで誰もが目を背けてきたこの現状を真正面から認め,自覚的にミニマムな作品を提示したという点で,これはある意味画期的な作品かもしれない。
本作で語られる一つ一つのエピソードは,まるでビーズのように小粒で魅力的だ。例えば,主人公の少年と,どういうわけか人化したペットの犬と未来から来た妹に課せられる最大のミッションは,「お父さんにばれずに雛人形を片付ける」というもの。世界を変えるでもなければ,愛する人との別離に耐えながら子育てするわけでもない。観客が小さな小さな出来事を微笑ましく眺めることの出来る作品。これまでの劇場アニメにはなかった極小の娯楽かもしれない。
しかし,この作品を全体として見た場合,どう評価すればいいのか大変に悩むのだ。「子育て家族や,子育ての終わった人には評価されるだろう」という意見を目にするのだが,果たしてそうだろうか。確かにこの作品が,子育てという行為に何らかの思い入れがあり,一定水準以上の生活を営む人たち―言葉は悪いかもしれないが“リア充家族”― に向けられているのは確かだろう(逆に言えば,非リアには見向きもされないことを覚悟しており,その意味でもこの作品はミニマムだ)が,その当のターゲットに対して,「ファミリーヒストリーは尊い」「子育てには学びがある」以上のメッセージは伝わっているのだろうか。
あるいは,細田は「[夫婦は]子どもが生まれた瞬間に自分たちがどういう役割分担で,どういう心構えで,どういう夫婦関係でやっていくかをもう一回話し合わないと,前に進めない。[…]つまり,関係性を『再定義』しないと,やっていけないわけです」と言っているのだが(『未来のミライ』パンフレットより),こうしたことは,子育て家族にとって「子育てあるある」以上のことではないのではないか。
細田は「『家族を知る』話=『世界を知る』話にしたかったんです」とも言っている(同上)。「家族」を「世界」とみなすことには異論はない。ミニマムな世界を描くことに徹しようとした彼の自覚から生まれた思想なのだろうから,なおさらだ。しかしだとしても,この作品に「知る」契機となるほどのメッセージ性があると言えるのか。
あるいは細田は今後,観客が「あるある」といって自己の体験を追認しながら微笑む,極小の喜びを作品化していくのだろうか。だとすれば,劇場アニメはかなり大きな岐路に立たされたのかもしれない。大きな物語を語り続けた宮崎駿の「後継」と目された人物(その言い方自体,僕はいろいろな意味で疑問に思うのだが)が,ここまでミニマイズされた物語をスクリーンに映すという実例を作ったのだから。