アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

デジャヴュからジャメヴュへ:アニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス』レビューに代えて

※このレビューはネタバレを含みます。

 

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は〈既視感〉という言葉がつきまとう作品だった。ネット上では「面白い」という意見が見られる一方で,常に「◯◯にあったシーンだ」といったような意見が飛び交っていた。


現代アニメにおいて〈既視感〉とはいったい何なのだろう。


それは〈オリジナリティの欠如〉ではないだろう。これだけ多くの作品が作られ続けてきたアニメ界で,作画・ストーリー・キャラクターどの点においても完全なオリジナルなどというものはあり得ないし,そもそも求められてもいない。むしろすぐれた現代作品はすぐれた引用の編み物である。高度な学術論文と同じように,過去の作品を真摯に研究し,敬意を持って引用する。


それが“コピペ”に堕すことがないのは,引用元に対して,作者の新たな解釈やリフレクション(あるいは戦略的誤読)が加わるからだ。『まどマギ』は「東映魔女っ子シリーズ」を引用しつつ,その世界観を完全に転倒させた。『化物語』は『ゲゲゲの鬼太郎』的な怪異譚を引用しつつ,その非日常性をマス・プロダクション的な〈反復〉の背景美術の中に布置した。

 

引用だろうがオマージュだろうがパクリだろうが,そこに自己という鏡によるre-flection(省察)が加われば,制作者のオリジナルになる。〈既視感〉を〈未視感〉に変える決定的な力だ。


さらに,これは特に昨今の大物布陣による高予算アニメに関して僕が感じていることなのだが,彼らはややもすると〈視聴者大衆が観たいと思うもの〉を(それこそ忖度して)作品にすることが多いように思う。確かにそれならある程度は売れるだろう。しかし大衆の顕在的な欲望を作品にしたところで,視聴者の意識上の欲望をなぞるだけだ。視聴者は既に自覚済みの欲望を見せられることになる。〈既視感〉の大部分を成しているのはこうした事態かもしれない。


おそらくすぐれた作品というのは,既成のモチーフを引用しながらも,大衆が自分では気付かないような〈潜在的欲望〉を掘り起こすのだろう。「そうなんだよ!俺たちはこういうのが観たかったんだよ!」というような,自らの意識下の欲望に気付かされる爽快感。見たことがあるはずなのに,初めて観るような〈未視〉の感覚だ。

 

はたして,『ダーリン・イン・ザ・フランキス』は僕らにジャメヴュを経験させてくれる作品になったのか。この問いに肯定的に答えることは,少なくとも80年代からアニメを観続けてきた僕には難しい。

 

いや,だがこうも思う。


ひょっとすると,アニメにおける“新しさ”というのは,ファッションと同じように反復回帰するものなのかもしれない。眉毛の太さやスカートの長さと同じように,太くなったり細くなったり長くなったり短くなったりを定期的に繰り返すのかもしれない。


世代は交代する。回帰だろうが反復だろうが模倣だろうがパクリだろうが,新しい世代はその都度“意外と新しいじゃん”と言ってくれる。そのように言ってくれる人が一定数いれば,評価は成立する。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』という作品は,そのような“アニメ・ファッション”のカリカチュアとして,立派に成立していたのかもしれない。それはそれで,とても面白い現象だと思うのだ。ただ,それを作品の表現において〈発展〉と言えるかどうかはまた別の問題だ。


さて,次に二足歩行ロボットとドリルのモチーフを踏襲しながら,僕らに延髄斬りのような衝撃を与えてくれるのは,いったいどの作品になるだろうか。