アニ録ブログ

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劇場アニメ『映画大好きポンポさん』(2021年)レビュー[考察・感想]:Myself in the Film

*このレビューはネタバレを含みます。

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『映画大好きポンポさん』公式Twitterより引用(なおコロナ感染拡大により,公開は2021年6月4日(金)に延期) ©︎2020 杉谷庄吾【人間プラモ】/KADOKAWA/ 映画大好きポンポさん製作委員会

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『映画大好きポンポさん』は,杉谷庄吾【人間プラモ】原作の同名マンガをベースとし,劇場アニメ『空の境界 矛盾螺旋』(2008年)やTVアニメ『GOD EATER』(2015年夏,2016年3月)などの平尾隆之が監督を務める劇場アニメ作品だ。原作に込められた濃厚な“映画愛”をコアとしつつも,平尾は独自の解釈を施すことでテーマをより深化させている。テーマ,キャラクター造形,ストーリーテリング,作画技術,どの面においても水準以上であり,近年の劇場アニメの中でももっとも評価されるべき作品となっている。

 

【あらすじ】ジーン・フィニは,映画の都・ニャリウッドで映画制作アシスタントとして働くシネフィルの青年だ。ある日彼はボスであるジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット,通称ポンポさんから,映画の15秒スポットを制作するよう依頼される。その出来栄えに大いに満足したポンポさんは,自身が脚本を手がける新作映画の監督としてジーンを大抜擢する。この瞬間,ジーン・フィニという稀有な異能者のキャリアが始まるのだった。

 

カメラ・アイ:すべてのリアリティはフィルムになる

カメラと人間の眼は,レンズ(角膜と水晶体)で屈折された像をフィルムないし撮像素子(網膜)上で捉える撮像光学系を成しているという点で,ほぼ同じ構造原理を共有している。つまりカメラは人の知覚の連続的な拡張に他ならないし,人の眼は時としてカメラのように被写体を捉えうる。カメラは人の眼と同様に“主観的”でありうるし,人と同様に嘘をつく。むろん,“映画的イメージ”と“生のイメージ”というような区別が実質的に存在しているわけではない。

だから映画と現実の違いを“虚構/事実”“人工/自然”などといった,人類史開闢以来ますます疑わしさを増している対立構図で捉えようとしてもほとんど無駄なのだ。とりわけ人生のすべてを映画に捧げたジーンのような人間にとっては,撮影現場と日常生活の差異など存在しないに等しいのだろう。ジーンの映画愛は,彼をして映画マシーンと化してしまうほど凄まじく,あらゆるものを映画的イメージとして知覚してしまう。だからバスの中から偶然ナタリーの姿を見かけたジーンが文字通り眼をカメラのレンズと化してその姿を捉えた時,それは“現実”であると同時に“映画”でもあったのである。そしてこの作品の面白さは,“映画”と“現実”の境界を曖昧にする様々な演出を随所に散りばめている点にある。

例えばジーンがコルベット監督の『MARINE』の15秒スポットを制作するシークエンスだ。彼は視聴者を「ミスリード」するため,ポンポさんが写り込んだオフショットを使用する。彼にとっては,映画のための映像と生の日常を撮ったオフショットの差異などどうでもよいのである(そしてこのジーンのセンスをポンポさんとコルベット監督が諸手を挙げて評価したところにも,本作の本質が表れている)。

ポンポさんが映画の尺の「90分」にこだわる理由をジーンに説明する件は,本作の中でも最も作為的に演出されているシーンである。ジーンが試写室に行き,『ニュー・シネマ・パラダイス』を研究し始めるのだが,スクリーンに映し出されるのはジーンとポンポさんの会話のシーンだ。まるでジーンが自分たちの会話そのものを映画として観ているかのようである。それだけではない。カメラは唐突にスクリーンの向こう側に移動し,“自分たちの会話を映画として観るジーン”を正面から映し出すのである。

〈映画を撮る人たちの映画〉という二重構造から,〈映画を撮る人たちを観る人(ジーン)の映画〉という三重構造へ。これはまだ映画序盤のシーンなのだが,すでにここにおいて,観客は現実/イメージの境界が極度に曖昧になった世界に投げ込まれていることに気づくのだ。この主客の関係を相対化する自己言及性は,この映画全体を貫くライトモチーフになっている。次のアランのエピソードにもそれが表れている。

 

アランの撮った“映画”

平尾が本作に盛り込んだ最も大掛かりなオリジナル要素が,「ニャリウッド銀行」の銀行員アラン・ガードナーにまつわるエピソードだ。

アランはハイスクール時代のジーンの同級生で,学生時代は有能な“陽キャ”だったのだが,銀行員になってからは失敗続きでうだつが上がらない。そろそろ辞め時かと悩んでいたところ,ジーンの『MEISTER』が資金繰りに困り,ニャリウッド銀行に融資を求めていることを知る。彼はその案件を引き受け,ジーンの夢を支えようと奮闘する。

平尾によれば,アランのキャラは「もの作りに携わっていない人でも感情移入できる映画いにしたい」*1 との思いから生まれたそうだ。実際,“陽キャではあっても天才ではない”アランというリアルなキャラが存在することで,本作は夢を追う人一般にアピールする作品に仕上がっている。しかしそれ以上に面白いのは,平尾がこのアランにもジーンと同じ“映像制作”を行わせている点である。

彼は『MEISTER』投資案のプレゼンにおいて,役員に無断で会議の様子を映像にとり,全世界にライブ配信をする。それにより一般市民からクラウドファンディングを募るという戦略である。その様子を観せられた頭取は心を打たれ,最終的に全会一致で『MEISTER』への投資が決まる。このシーンに表されているのは,会社の会議という“現実”をそのまま“映画”にしてしまうという,すぐれて現代的なトリックなのだ。かつてデジタルカメラやスマートフォンの普及による“一億総カメラマン”が喧伝されたものだが,アランの振る舞いはまさしく“一億総映画監督”時代の象徴と言えるかもしれない。ここにもまた,すべてのリアリティがフィルムになるという事態が示唆されている。

 

〈切る〉という覚悟

しかしもちろん,アランの“映画”とジーンの“映画”には決定的な違いがある。それは映像を〈切る〉という過酷な儀式だ。

『MEISTER』のクランクアップを終えたジーンは,膨大なフィルムをもとに映画を完成させるべく独り編集室に籠る。この編集作業のシーンもやはりアニメオリジナルであり,同時に本作の最も大きな見どころの1つでもある。映画の編集という比較的地味な作業をフィーチャーした作品も珍しいが,平尾はジーンの作業風景を比喩的にアクションシーンに仕立て上げることで見応えのある映像にすることに成功している。そして,そこまでして平尾がこの編集作業のシーンにこだわったのには重要な理由がある。それは人生の選択に必然的に伴う〈犠牲〉というテーマに他ならない。

ジーンは編集ソフトを使用しながら,最適解を得ようとカットを切ってはつなげていく。しかし作業を続けていくうち,どのシーンも重要に思えてきてしまい行き詰まってしまう。そんな時,彼はポンポさんの祖父・ペーターゼンがフィルムの保管庫に入っていく姿を見かける。そこでペーターゼンは古い映画のフィルムを趣味で編集していたのだ。

それまでPC上でデジタル作業をしていたジーンにスプライサーを用いた物理作業を見せることで,編集作業のフィジカルな“重み”を意識させている点が面白い。ジーンは編集によって〈切る〉ことの重さを自覚すると同時に,その必然性を知るに至る。

やがて彼は「何かを残すということは,それ以外を犠牲にするってことなんだ」という真理に至り,「残ったものを手放さないために」撮影した映像を(時に冷酷に)切る決意をする。ジーンがまるでRPGの勇者のように大剣を振るいながら映像をカットしていく姿は,紛れもなく本作最大のクライマックスだ。

生きることは選択の連続だ。1つを選択したら,それ以外は切らなくちゃいけない。だから,会話を切れ。友情を切れ。家族を切れ。生活を切れ。切れ!切れ!切れ!切れ!

この〈切る=何かを犠牲にする〉という決断は,人生の中の色々なものを犠牲にして最高の映画を作ろうとするジーンの生き様ともきれいに重なり合う。彼は学生時代に周囲と馴染めず,友達もろくに作ることができなかった。かつてのアランのような“リア充”的な生活をすべて投げ打って,彼は映画の世界に身を投じたのだ。彼にとっては映画こそが人生のすべてであり,その己の人生を輝かせるためには,他のすべてのものを犠牲にすることも厭わない。ややもすると勘違いされてしまうかもしれないが,本作の編集作業のシーンは,“無駄なものを省く“というような制作上の手順を具象的に説明しただけではない。むしろ人生の〈選択〉というものの業,そして〈選択〉に必然的につきまとう〈犠牲〉という業を,編集作業の形を借りて表現している。あるいは,映画作りにおける〈選択〉と〈犠牲〉の業を,人生哲学の重みを借りて説いていると言ってもいいかもしれない。

 

私のイメージから君のイメージへ

では〈切る〉ことによって残されるものは何なのか。

上述したフィルム保管庫のシーンで,ペーターゼンはジーンに「映画は誰のためにあると思う?」と問いかけていた。「それは…観客のため…ですかね」と自信なさげに答えたジーンに,ペーターゼンはこう諭す。

君は映画の中に自分を見つけたんじゃないかね?物語を通して,共感や夢,憧れ,現実を見た。さあてジーン君。君の映画の中に,君はいるかね?

この言葉に打たれ,再び編集作業に戻ったジーンは,『MEISTER』の主人公ダルベールの中に己自身を見出し,彼にアイデンティファイしていく。

映画『東風』(1970年)の中で「それは正しいイマージュなのではなく,ただのイマージュなのだ」と言ったのはジャン・リュック・ゴダールだが,ジーンにとっては「それは僕のイマージュなのだ」ということになるのだろう。

しかし映画の中に自分を見出すだけでは,独りよがりのマスターベーションに終わるだろう。それは誰にも出会うことなく,フィルム保管庫で寂しい隠遁生活を送ることになるかもしれない。映画は自分以外の誰かに観てもらった時に初めて映画になる。ここで思い出されるのは,『MEISTER』の打ち入りパーティでコルベット監督がジーンに与えた助言だ。

誰か1人,その映画を一番観てもらいたい誰かのために作ればいいんだ。そうしたらフォーカスが絞られて,作品の輪郭がグッと立つ

この時,コルベット監督の後方にいるポンポさんにフォーカスが当たる(これもアニメオリジナルである)。ジーンにとって「その映画を一番観てもらいたい誰か」が紛れもなくポンポさんであることをはっきりと示したカットだ。

映画を制作する人間も,映画を観る人間も,無色透明で無個性なヒトではない。どちらも,これまでの人生を背負いながら映画という媒体に向き合っている。ジーンという個性はポンポさんという個性に向き合いながら映画を作った。ちょうどルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』をアリス・リデルに宛てて書いたのと同じように。

その意味で,この映画は紛れもなく“ボーイ・ミーツ・ガール”の物語だ。しかしそれは恋愛でも友情でもなく,もの作りに命をかける人たちどうしの,信頼と敬意に満ちた“ボーイ・ミーツ・ガール"なのだ。 

無数にきらめくイメージの群の中から「私のイメージ」を切り出すことができた時,それは「私の映画」となる。そしてそれを「私の映画」として受け取ることのできた観客が,その映画に感動を覚える。ちょうどジーン・フィニの生き様を観た僕らが,そこに僕ら自身の姿を観て感動したように。

そして『映画大好きポンポさん』を観て感動した観客は,ポンポさんと共にこう言うだろう。

 

君の映画,大好きだぞ

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど

【スタッフ】原作:杉谷庄吾【人間プラモ】プロダクション・グッドブック/監督・脚本:平尾隆之/キャラクターデザイン:足立慎吾/演出:居村健治/監督助手:三宅寛治/作画監督:加藤やすひさ友岡新平大杉尚広/美術監督:二嶋隆文宮本実生/色彩設計:千葉絵美/撮影監督:星名工魚山真志/CG監督:髙橋将人/編集:今井剛/音楽:松隈ケンタ/制作プロデューサー:松尾亮一郎/アニメーション制作:CLAP 

【キャスト】ジーン・フィニ:清水尋也/ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット:小原好美/ナタリー・ウッドワード:大谷凜香/ミスティア:加隈亜衣/マーティン・ブラドック:大塚明夫/アラン・ガードナー:木島隆一 

【上映時間】 90(95)分

 

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 5 5
CV ドラマ メッセージ 独自性
4 5 5 5
普遍性 考察 平均
4.5 5 4.9
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
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商品情報

 

*1:「アニメージュ」2021年7月号,p.141,徳間書店,2021年。