アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメとマンガを中心としたカルチャー雑記。

もっと違和感を!

小説,哲学書,映画,マンガ,アニメ,絵画,何でもいい。ある種の“難解な”作品を読んでいて,あるいは観ていて,どうしても「わからない」と思う瞬間がある。あるいは,登場人物のキャラクターにどうしても共感できない瞬間がある。そんな時,人はたいていその作品に少なからず苛立ちを覚えるものだ。僕にもそういう経験は多くある。

 

アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』は平易な用語なのに難解である。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読むと主人公の狂気に感染しそうになる。

テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』は歴史なのか物語なのかさっぱりわからない。

『serial experiments lain』は何度観てもさっぱりわからない。

 

この種の作品に遭遇した時,若い頃は「この作品は自分には合わないのだ」とか,あるいは端的に「つまらないに違いない」などと断定して拒絶することも多かった。わかりやすい物語や共感できるキャラクターを相手にしていた方がより健全だ。少なくとも読書や映画鑑賞をしながらわざわざストレスを感じるというのは,文化的な営みとしてどこか倒錯している気がする。

しかし近頃では,本当にそうだろうかと思うことが多くなった。今現在の思考・嗜好に合わないものこそ,自分の独善的な評価軸をいったんバラバラに解体し,1つひとつの要素を再検証し,新たな要素を導入した上で再構成するきっかけを与えてくれるのではないか。そうすることによって,作品鑑賞のレンジは大幅に広がるのではないか。

もちろん,共感すること自体が悪いというわけではない。登場人物への共感は物語世界への没入感を高めてくれるし,それによって作品理解は深まるだろう。しかしその共感があまりにも容易すぎるものだった場合,そしてそれが何度も繰り返されてしまう場合,まるで真っ直ぐなホースにただ水を流すだけのように,咀嚼も消化も吸収も起こらずに消費されてしまう可能性がある。そうなれば,作り手の側にも受けての側にも豊かな変化は生じないだろう。「なろう系異世界転生モノ」が再生産される現状に,生産性が乏しい1つの理由だ。

自分の価値観の外側にある作品と正面から向き合い,それを理解しようと努めることは,時として膨大な時間を要するかもしれない。しかしそれに少しでも成功すれば,自分の現在の脳細胞の組成と配列が根本から変わってしまうような体験ができるかもしれないのだ。

理解しようと努めた結果,やはり自分の価値観とは合わない,という結論に達するかもしれない。場合によっては“許せない”という所感を抱くかもしれない。そんな時は,その作品の価値世界を自分の外側に置いたままにすればいい。しかしその作品に触れたことで,ほんの少しでも自分の側に組成変化が起こったのであれば,もう一度それを評価し直すチャンスなのかもしれないのだ。

“違和感”こそチャンスである。“きれい”“かわいい”“わかる”に加え,“何だこれは?”という感動ポイントを作ろう。作品を鑑賞した時の違和感の疑問符が多ければ多いほど,次の作品鑑賞への広がりが増す可能性があるかもしれない。これが,僕がアニメ作品を鑑賞する際に心に留めていることの1つである。