*このレビューは劇場版『チェンソーマン レゼ篇』および『人狼 JIN-ROH』に関するネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読み下さい。また『レゼ篇』以降の原作の内容にも一部触れています。原作未読の方はご留意ください。

鬼才・藤本タツキ原作『チェンソーマン』は,中山竜監督のもと,2022年にTVシリーズとしてアニメ化された。今回レビューする𠮷原達矢監督『劇場版 チェンソーマン レゼ篇』(以下『レゼ篇』)はその続編である。主人公・デンジの行動原理とも言える「心」の意味を示唆した重要なエピソードであると同時に,ヒロイン・レゼの“芝居”や,都市トポスとその破壊のスペクタクルなど,アニメーション作品としてきわめて見応えのある傑作となった。
あらすじ
チェンソーの悪魔・ポチタを心臓に宿すデンジは,佐渡らによるテロ事件の解決後,ひとときの日常を満喫する。憧れのマキマによって己の「心」の所在を確認したデンジは,彼女への“一途な”想いをいっそう募らせるも,突如現れた美少女・レゼにたちまち「心」を奪われてしまう。しかしデンジに急接近したレゼの正体は,彼の心臓を狙う悪魔・ボムであった。
路地裏Ⅰ:都会のネズミ
物語は路地裏の夢から始まる。
少年時代のデンジが独り歩いている。ネズミが餌を漁っている(アニオリカット)。デンジの前に“扉”が現れる。その向こうにはポチタがいる。デンジが「ポチタ出てこいよ 夢の中くらい撫でさせてくれ」と話しかけるが,ポチタは「絶対に開けちゃダメだ」と警告する。
この冒頭のシーンには,『レゼ篇』において,いや『チェンソーマン』という物語において決定的に重要な2つのイメージがすでに示唆されている。〈都市〉と〈閉ざされた扉=心〉のイメージである。
映画前半の学校構内のシーンに,レゼが「デンジくんはさ,田舎のネズミと都会のネズミ,どっちがいい?」(強調は引用者による)と問う場面がある。問われたデンジは「都会のネズミがいーな」と即答する。それに対し,レゼは「田舎のネズミ」がいいと答え,天使の悪魔(別場面とのカットバック)も「田舎のネズミ」の生活へのノスタルジーを語る。
「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」は『イソップ寓話集』 の1つ「田舎の鼠と町の鼠」に由るモチーフだ。この寓話のあらましはこうである。町暮らしのネズミが田舎暮らしのネズミの住処を訪れるが,あまりの貧しい暮らしぶりに呆れ返る。そこで今度は町暮らしのネズミが田舎暮らしのネズミを己の豪華な住処に誘うが,田舎暮らしのネズミは人間に脅かされる恐怖に慄いてしまう。結局,二匹のネズミの価値観は相容れずに終わる。*1
この物語は“価値観の相異”や“質素な暮らしの価値”を説く寓話と理解されるのが通例だが,そうした“多様性志向”や“ミニマリズム賞賛”のような温い解釈がこの『レゼ篇』に当てはまるとは到底思えない。というのも,『チェンソーマン』という作品そのものが,本質的に〈都市の物語〉だからである。
『チェンソーマン』における「悪魔」が,名前(概念)への人の恐怖から生まれるのだとしたらーーそしてこの作品の世界においてスマホ等のデバイスやソーシャルメディアがまだ完全に普及していないのだとしたら*2 ーーその主要舞台が〈都市〉になるのは必然だ。人の恐怖は,不特定多数の人が寄り集まる大都市においてこそ,効果的に拡散され増幅される。現代の恐怖の物語の多くが,物理的に近距離にある人々の間での口承,すなわち“都市伝説”として生まれたのと同じロジックだ。つまり『チェンソーマン』において,〈都市〉は恐怖の“媒体”なのであり,この物語における登場人物が〈都市〉に住まうのは必然なのだ。
〈都市〉は,食欲と性欲と金と名声と暴力と死が高濃度で圧縮された場だ。そこでこそデンジは人として生き,チェンソーの悪魔として恐れられるための滋養を得る。その意味で,デンジ=チェンソーマンは生来の「都会のネズミ」なのだ。
一方,天使の悪魔は,もともと漁村で生まれたということもあり,「田舎のネズミ」としての生活に憧憬を抱いているが,マキマの支配力によって〈都市〉の暮らしを強制されている。*3 このことを象徴的に表すシーンが『レゼ篇』後半の戦闘シーンにある。


天使の悪魔が台風の悪魔の暴風によって吹き飛ばされそうになる。この刹那,彼は念願の死を覚悟し,かつて愛した漁村の娘を想起する。彼は暴風によって都市から離脱=解放され,田舎の想い出へと回帰することを願う。しかしその彼を,アキが死を賭して繋ぎ止める。アキが天使の悪魔を抱き止め,電柱=都市風景の一部に踏みとどまるカットが印象深い。この場面は,表面上は天使の悪魔とアキとの“絆”を示しているように見える(そしてそう解釈して全く問題ない)。しかしこれもその実,天使の悪魔を〈都市〉に繋留しておくためのマキマの奸計だった可能性がある。天使の悪魔は「都会のネズミ」としての運命を強制されていたのだ。
岸辺によれば,ソ連の母親たちは子どもを躾ける際,軍によって「モルモット」にされた子どもたちの話を“脅し話”として使う。そしてレゼは,実はもともとその「モルモット」の1人だった。いわばレゼは“都市伝説”の申し子として生まれたのだ。そして映画前半部では,そんな彼女が日本の都市風景の中で生き生きと生活する姿が描かれる。
日常“芝居”:都市-内存在
『レゼ篇』は,都市と人物との関わりが前半と後半で大きく変化するのが見どころの1つである。
物語前半,デンジとレゼは都市の日常風景に親密に馴染んでいる。都市の街並みは,“背景美術”として作品を彩ると同時に,登場人物の行動を制約し,条件づける“環境”として機能している。特にレゼの日常芝居に関しては,都市を背景にきわめて生き生きとした姿で作画されているのが印象深い。彼女は電話ボックスの中で頬を赤らめながらデンジに微笑みかけ,表通りを軽やかに歩き,階段を登り,路地を通り抜けーーここでもまた路地のイメージであるーーアルバイト先の喫茶店「二道」に向かう。客の滅多に来ない暇な「二道」で,エプロン姿で給仕をし,時にデンジの隣で学校の勉強をする。彼女はごく普通の少女として都市の風景に溶け込み,いわば〈都市-内存在〉として日常生活を送っている。ここではこれを都市トポスへの〈内定位〉と呼んでおこう。



しかしこのレゼの“日常芝居”は,彼女がデンジに近づくーーあるいはおびき寄せるーーための“芝居”だった。彼女はかつてソ連で受けた訓練によって,表情や仕草をコントロールする能力を得ていた。アニメーターによる渾身の作画としての〈日常芝居〉が,実はレゼの〈芝居〉だったという結末。当ブログではこれまで多くの作品の〈日常芝居〉を見てきたが,その際に評価の要点となるのは,単なる作画のリアリティではなく,物語との関わりである。そして『レゼ篇』における作画的な見所の1つは,作画班による洗練された〈日常芝居〉が,キャラクターによる〈芝居〉であったという,ある種のメタ構造的な仕掛けにあると言える。作画と物語との絡み合いが実に美しい。
その後,夏祭りの場面で,デンジとレゼの関係はキス=ゼロ距離の密着状態から,舌の切断=決別へと一気に転調する。そしてこの〈切断〉のイメージを合図に,2人は都市への〈内定位〉を一旦中断する。彼らは都市の日常から逸脱し,都市トポスから遊離し,都市を破壊する大立回りを演じていく。

戦闘:飛翔,破壊
『ゴジラ』シリーズ(1954年-),『AKIRA』(アニメ:1988年),『エヴァンゲリオン』シリーズ(1995-2021年),『呪術廻戦 渋谷事変』(2023年)。日本の多くの文化表象において,都市は被破壊のトポスとして描かれてきた。こうした作品では,都市は人々の日常的な生活の場であると同時に,いわば〈破壊のスペクタクル〉が発生する場,ある種の美学的価値を持った場として扱われていると言える。
『レゼ篇』の後半では,このスペクタクルがアニメ班渾身の作画で描写される。
レゼとデンジ&ビームは都市から浮遊し,都市の上空を飛翔する。2人はもはや「都会のネズミ」ではない。両者の激戦が周囲の構造物を内外から破壊し,破壊されたコンクリートやアスファルトは台風の悪魔の暴風によって舞い上がる。さながら巨大な洗濯機のように,都市の構造物が暴力的に破砕され攪拌されていく。まさに〈破壊のスペクタクル〉だ。そしてこの飛翔と破壊という“図”を際立たせているのは,前半における〈内定位〉的日常芝居という“地”に他ならない。あるいは後半の飛翔と破壊があるからこそ,前半の日常芝居の価値が際立つとも言える。周知の通り,“地と図”の関係性は常に相対的で交換可能である。




劇場パンフレットによれば,後半のアクションシーンはアクションディレクターの重次創太が担当している。*4 重次と言えば,同じMAPPA制作の『呪術廻戦 渋谷事変』にも原画として参加していたことが記憶に新しい。特に「#41 霹靂-弍-」では,両面宿儺と魔虚羅が正面対決する場面において,『レゼ篇』と同様の“破壊のスペクタクル”を演出している(下のXポストを参照)。
#呪術廻戦 41話はこの辺やってました
— ホネほね (@Hone_honeHONE) 2023年11月16日
2ヶ月ほど毎日MAPPA来て作業してたんですがめちゃくちゃ楽しかったです!土上さんの神修正でいい感じにして頂けてありがたかった…
お世話になった皆様本当にありがとうございました! pic.twitter.com/vIMJi3MP1s
異形のものたちの凄まじい力の応酬が,途方もない物量の破壊をもたらす。この点において,『渋谷事変』と『レゼ篇』は同じ表現文法を共有している。それは単なる“流行り”や演出担当者の“手癖”であるというよりは,現代の都市トポスとその構造物が潜在的に内包する〈破壊・廃墟〉のイメージの具体的表れであり,「未来都市は廃墟である」と言い放った建築家・磯崎新の美学の文化的表象の一例であると言える。あるいは磯崎に限らず,現代人の(とりわけ日本人の)深層意識の中には“構造物は壊れるもの”という認識があるのかもしれない。そのような文化的無意識が,多くの作品で〈破壊のスペクタクル〉として表象化・顕在化されてきたのかもしれない。その意味で,『レゼ篇』は『ゴジラ』的美学の後継者なのであり,都市を必然的な場として描く『チェンソーマン』において,〈破壊〉描写そのものが必定なのだとも言える。
磯崎新の「廃墟論」については以下の新海誠『すずめの戸締まり』のレビュー記事を参照いただきたい。
両者の壮絶な戦いは終わる。デンジは「魚の骨がノドに突っかかる気がする」という「心」の趣からレゼを許し,2人で一緒に逃げることを提案するが,レゼはデンジの首を折って逃亡する。そして2人は再び都市への〈内定位〉へと回帰し,「都会のネズミ」の姿に戻る。
路地裏Ⅱ:地の温もり
物語は路地裏の現実で閉じられる。
レゼは再び表通りを歩き,路地裏を通り抜け,デンジの待つ喫茶店「二道」に向かおうとする。しかその時,彼女の前に大量の「都会のネズミ」を使役したマキマが現れる。レゼはマキマと天使の悪魔の刃にかかり,喫茶店の“扉”を開けることなく息絶える。天使の悪魔は一匹のネズミに「ねえ…都会はいいトコかい?」と問いかける。このシーンが冒頭のデンジのシーンのリフレインであることは明白だ。




冒頭のシーンに戻ろう。デンジの前に現れた“扉”の向こうにあるものは,ポチタであり,デンジの心(の臓)であり,彼の幼少時代の記憶*5 であり,そしてとりわけ,彼の「心」が愛する家族のような存在である。原作の『レゼ篇』以降のシーンを先取りするなら,“扉”を開けた先にアキ *6 やパワー*7 が姿を現す様子が描かれ,どちらの場面でもデンジの耳には「開けちゃダメだ」という警告の声が聞こえる。
“扉”のイメージは,『ルックバック』など他の藤本作品でも重要な役割を演じている。“閉ざされた扉を開ける”という行為によって敷居を越境し,その先に真理,あるいは大切なもの・かけがえのないものの所在が見えてくる,というイメージだ。デンジにとってそれは,かつて自らが手放した家族のような存在であり,その発端となった事件についての記憶である。*8
そしてこの〈閉ざされた扉=心〉のイメージは,ラストの路地裏のシーンにも反復されているのだ。結局,レゼはデンジの待つ喫茶店の“扉”を開けることができない。それは彼女が,最終的にデンジの「心」に触れることができなかったことを示している。そして彼女自身の「心」もまた閉ざされたままに終わる。レゼを大写しにした「公開後ビジュアル」(本記事冒頭の画像)のキャッチコピーには,「誰も知らない,少女の心」とある。彼女は死に際に「なんで…初めて出会った時に殺さなかったんだろう」と自問する。その答えと真の「心」の内を伝えることなく,彼女は事切れる。
そしてレゼの代わりに“扉”を開けたのは,血の悪魔の魔人・パワーだった。
藤本タツキによれば,『レゼ篇』の物語は沖浦啓之監督『人狼 JIN-ROH』(2000年)をインスピレーションの1つにしている。女が正体を偽って男に近づき,陥れようとするが,最後に殺されてしまう。果たして2人の間に真の心の触れ合いはあったのか,という問いも含め,確かに『レゼ篇』と『人狼』の間には,プロットや人物配置の点で共通点は多い。しかし両者には決定的な違いがある。
『人狼』では,雨宮圭を殺害した伏一貴のもとには何も残らない。彼の心に致命的な欠損が残されたまま,物語は容赦なく幕を閉じる。一方,レゼを失ったデンジの元には,パワーが駆けつける。
パワーは魔人でありながら比較的人の理性を多く残しており,特に愛猫・ニャーコとの関わりにおいては,人と同じーーあるいはそれ以上のーー「心」を持ったキャラクターとして描かれている。原作第2巻でニャーコを抱きしめながら「血は暖かくて気持ちがいい…」と独り言つシーンはなどはとりわけ印象深い。*9 そして彼女は(曲がりなりにも)女性でありながら,唯一デンジが性的対象として見ないキャラクターでもある。
『チェンソーマン』という作品は,そのキャラクターも物語も基本的にクレイジーでナンセンスだ。善悪も道徳も倫理も愛も相対化された,ミッシュマッシュでエログロナンセンスな世界こそが面白い。しかし,この作品のそこかしこに,“血の温もり”を感じさせる何かがあり,それこそがデンジの行動原理の1つになっていることも確かなのだ。

これは藤本タツキの他の作品,例えばこの秋に配信が始まる『藤本タツキ短編集 17-26』にも言えることだ。この短編集に収められた8つの作品は,どれも「心」の触れ合いを描いている。そして物語の狂気の度合いが高い作品(例えば『予言のナユタ』)ほど,却って“血の温もり”が強く感じられる作劇になっていると言える。今後,『チェンソーマン』がどれほど狂った展開を見せようと,デンジという“ダークヒーロー”から「心」の所在が失せることはないのかもしれない。
しかしその「心」は,そして“血の温もり”は,「都会のネズミ」に幸福をもたらすのか,あるいは禍いをもたらすことになるのか。それはこの先の物語である。
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作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】
原作:藤本タツキ/監督:𠮷原達矢/脚本:瀬古浩司/キャラクターデザイン:杉山和隆/副監督:中園真登/サブキャラクターデザイン:山﨑爽太,駿/メインアニメーター:庄一/アクションディレクター:重次創太/悪魔デザイン:松浦力,押山清高/衣装デザイン:山本彩/美術監督:竹田悠介/色彩設計:中野尚美/カラースクリプト:りく/3DCGディレクター:渡辺大貴,玉井真広/撮影監督:伊藤哲平/編集:吉武将人/音楽:牛尾憲輔/配給:東宝/制作:MAPPA
【キャスト】
デンジ:戸谷菊之介/ポチタ:井澤詩織/マキマ:楠木ともり/早川アキ:坂田将吾/パワー:ファイルーズあい/東山コベニ:高橋花林/ビーム:花江夏樹/暴力の魔人:内田夕夜/天使の悪魔:内田真礼/岸辺:津田健次郎/副隊長:高橋英則/野茂:赤羽根健治/謎の男:乃村健次/台風の悪魔:喜多村英梨/レゼ:上田麗奈
【上映時間】100分
作品評価
商品情報
*1:中務哲郎訳『イソップ寓話集』,pp. 262-264,岩波書店,1999年。
*2:『チェンソーマン』第一部「公安編」の年代は1997年に設定されており(第9巻,p. 103。『レゼ篇』でも電話ボックスの中の「タワワページ」に「'96.3-'97.2」という年代が記されている),この時点では携帯やスマホなどの通信手段は一切登場していない
*3:第9巻,pp.84-88。
*4:劇場パンフレットの𠮷原達矢監督インタビューより。
*5:藤本タツキ『チェンソーマン』第10巻,pp.57-62,集英社,2021年。
*6:同第9巻,pp.129-140,2020年。
*7:同第10巻,pp.38-41。
*8:原作第10巻pp.57-62で明かされる,父親殺害のこと。
*9:同第2巻,p.32,2019年。





