8/12開幕『MANGA都市TOKYO』展(六本木・国立新美術館)PR映像
2018年にパリで開催された「MANGA⇔TOKYO」展の好評を受け,凱旋展示として開催された「MANGA都市TOKYO」展。企画・運営を行った国立新美術館は,2015年に「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム」展を開催しているが,これを発展させヨーロッパ向けの展示として企画したのが本展示である。ゲストキュレーターに明治大学准教授・森川嘉一郎氏を迎えることで,「ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム」展よりもさらにテーマの輪郭がはっきりとした展示会となったと言えるだろう。
展示会データ
会期:2020年8月12(水)〜11月3日(火・祝)
会場: 国立新美術館
チケット:日時指定観覧券(詳細はこちら)
その他:一部写真撮影可能。展覧会コンセプト・ブック(1000円(税抜))の販売あり(森川嘉一郎氏の展示会コンセプトに関する論考や,マスコットキャラクターのデザインに携わった吉成曜,草野剛,コヤマシゲト各氏らによる座談会などが掲載されており,オススメ)。鑑賞所要時間の目安は「やや急いで鑑賞」で1時間30分。「じっくり鑑賞」で2時間。
展示構成
会場の中央には「1/1000巨大東京都市模型」が置かれ,その周囲を以下の1〜3までのセクションが取り囲むようにして展示されている。
イントロダクション:1/1000巨大東京都市模型
セクション1:破壊と復興の反復
セクション2:東京の日常
セクション3:キャラクターvs.都市
サブカル→MANGA
「MANGA都市TOKYO」という名称には,ちょっとしたミスリーディングが2つ含まれている。まず,本展で言うところの「MANGA」とは,マンガのみならず,アニメ・ゲーム・特撮までを指示する広い概念であるという点。そして「MANGA都市」と銘打ってはいるものの,決して“東京=サブカルの中心地”といった大都市中心主義的な措定がなされているわけではないという点である。
本展は,“サブカル(チャー)”という“上位/下位”の含意のある言葉をおそらくあえて使わず(そこにはもともとヨーロッパ向けの展示だったという事情もあるだろう),よりフラットな「MANGA」という概念の外延を大胆に拡張しつつ,その中で多種多様に表象される「TOKYO」という場の特殊性を示そうとした展示である。
廃墟を内包する都市
そうしたコンセプトのもと,展示の筆頭に「破壊と復興の反復」というセクションを置いたのは注目に値する。東京は,戦争,震災,大火といった様々な要因により破壊と復興を繰り返し,そのたび毎に風景を更新し続けてきた都市だ。一連の『ゴジラ』特撮映画,『AKIRA』,『ヱヴァンゲリヲン』シリーズは,こうした東京の歴史的特徴を現代や近未来へと翻案しながら,それを“カタストロフィの美学”とでもいうべき表現へと昇華している。とりわけ,復興しようとする「ネオ東京」を再び崩壊の渦に巻き込む『AKIRA』の〈破壊スペクタクル〉は,今観ても圧巻だ。
東京の焼野原をその目で見た磯崎新は,建築家でありながら,廃墟に魅せられた人である。彼は建築が永続する構築物ではなく,いつの日か朽ち果てて廃墟となることを常に見据えながら設計をしている。いや,というよりも,むしろそこにこそ美学を見出しているような節さえある。磯崎は建築が「構想されたときから,既に廃墟をみずからのうちに包含しているとみてもいいのではないか」*1 とすら言う。だとすれば,常に暴力的な力によって破壊と復興を繰り返してきた東京そのものを〈廃墟を包含する都市〉と呼んでもいいかもしれない。そして,爆破と崩壊をこの上なく細密に作画する日本のマンガ家やアニメーターたちの膨大なカロリーと美学も,こうした観点から考察しうる可能性もあるだろう。*2
変化するTOKYOの〈日常〉
一方で,「MANGA」は東京という場の日常風景と,そこに映し出される人々の心情を活写してきた。本展示の「セクション2:東京の日常」では,「Ⅰ:プレ東京としての江戸」「Ⅱ:近代化の幕開けからポストモダン都市まで」「Ⅲ:世紀末から現在まで」の3つの時代毎に下位分類し,それぞれの時代を写しとった多様な作品を紹介している。例えば『はいからさんが通る』などでは,飛躍的に発展する大正時代の東京のきらびやかな姿が,まさしく「はいから」という言葉によってポジティブに表象されている。今話題の『鬼滅の刃』も同じ大正時代を扱っているが,そのトーンは『はいからさんが通る』とは大きく異なる。両者の〈東京表象〉の仕方を比較するのも面白いかもしれない(本展示に『鬼滅の刃』の展示はない)。
個人的には,経済低迷以降,東京のきらびやかな都市風景から,小さな街区の何気ない風景に目線をシフトしていった作品群が面白かった。『3月のライオン』や『言の葉の庭』などは,東京の細部に隠れ潜む何気ない風景に情緒を見出すような場面が確かに多い。贅沢を言えば,この辺りの展示はもう少し深めて欲しかったところだが,良くも悪くも日本の低迷と「MANGA」の関わりは現在進行中であるから,今後の表象変遷をつぶさに観測していくことがどうしても必要となってくるのだろう。
またこのセクションでは,『がんばれゴエモン2』『STEINS;GATE』『セブンスドラゴン2020』といったゲーム作品が数多く展示されていたのも面白かった。ゲームは,都市風景の中をキャラ≒自分が歩き回る体験をするものが多い。これはマンガやアニメと大きく異なる点だ。
キャラ化するTOKYO
ところで,本展示のゲストキュレーターである森川嘉一郎は,「コンセプト・ブック」の中で極めて面白い視点を述べている。少々長くなるが引用しておこう。
マンガ・アニメ・ゲーム・特撮は,現代の新しいポップカルチャーだと見なされている一方で,その作品群よりも,その舞台となった東京の特定の場所の物理的な都市風景の方が,新しく,寿命が短く,上書きされて記憶が不明瞭になっていく,という状況が発生する。その時,〈現実の都市〉のイメージが堅固なリアリティの基盤となり,そこに立脚して〈フィクション〉が構築される,という虚実の序列的な関係があいまいになり,フィクションの中のキャラクターや物語、場面の記憶が,現実の都市のイメージと複合的なリアリティを形成し,それが新たなフィクションを成立させる基盤にもなる,ということが起こる。*3
東京は「MANGA」の舞台になると同時に,既に「MANGA」からの作用を受けてその風景を変容させてもいる。お台場に登場したガンダムの実物大立像,アニメキャラのラッピングバス,神田明神と『ラブライブ!』のコラボなど,「MANGA」のキャラクターが街中に溶け込む風景が確実に増えつつある。「セクション3:キャラクターvs.都市」では,こうした都市風景とキャラクターの親密な関係の起源を「信楽焼の狸」や「製薬会社のマスコットキャラクター」に求めながら,東京という場におけるキャラの浸透という現象を扱う。ただ,このセクションに関しても,コンセプトの例証となる現象が現在進行形で生まれつつある途上であり,十分に掘り下げられていたとは言い難いかもしれない。
さいごに:キャラ立ちするTOKYO
森川の言うように,現実と虚構の主客関係が曖昧になり,虚構が現実を規定しつつある今,〈東京〉という場そのものが〈キャラ〉として立ち上がりつつあるのかもしれない。だとすれば,今後必要となってくるのは,他の地域との関わりにおいて〈東京というキャラ〉を考察する視点だろう。既に東京という場を他の都市や地域との関わりにおいて表象する作品は少なくない。『空の青さを知る人よ』(2019年)は,東京が直接登場するわけではないものの,舞台を群馬に設定し,東京との微妙な距離感に揺れ動く若者たちの心理を描いた。現在放映中の『アクダマドライブ』(2020年)は,戦争によって「カントウ」の属国になった「カンサイ」を舞台に,「アクダマ」と呼ばれる犯罪者たちが暗躍するというユニークな設定が注目を集めている。
東京は今後,「MANGA」というフィクションと現実の両方において,どう“キャラ立ち”をしていくだろうか。長引く不況とコロナ禍は,これに対してどう作用するだろうか。ネガティブな要因は,〈フィクション東京〉と〈リアル東京〉の双方をどう変えていくのだろうか。東京の未来は決して明るくはないだろうが,その闇すらも「破壊と復興の反復」という美学の中で楽しんでしまえるのではないか。「MANGA」にはその力があるのではないか。そんなことを深く考えさせてくれる展示だった。