アニ録ブログ

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アニメ『シドニアの騎士』レビュー:dia-logosに魅せられた,憐れで愛すべき種族

※このレビューはネタバレを含みます。

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公式HPより引用 ©TSUTOMU NIHEI・KODANSHA/KOS PRODUCTION COMMITTEE

knightsofsidonia.com

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4 4.5 3.5 5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
4 3.5 3 4.5
独自性 普遍性 平均
4.5 4.5 4.1
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。
 

マンガ原作既読

以下,2期の『第九惑星戦役』およびマンガ原作の内容を含めたレビュー。

 〈対話〉の危うさ

〈対話〉という理の,なんと脆いことか。

生粋のコミュ症である僕は,昔“ボイジャーのゴールデンレコード”(NASAが地球外生命体に向けて,地球上の様々な映像や音楽,とりわけ言語を記録した媒体をボイジャーに乗せて外宇宙に送り込んだもの)の話を聞いて,なんて甘っちょろい幻想だと感じたものだ。どうして地球外生命体に,地球の人類と同質の言語コミュニケーションが可能だという前提で接触を求めるのだろう?新大陸の先住民に銃を突きつけて,どなったりがなったりするのとは訳が違うのだ。

星白という少女が不思議なのは,ただ一人,このことを非常によく理解していたという点である。彼女は,奇居子は「人類の友人になりたがってる」のだと言う。ただ「あまりにお互いが異質過ぎて,正しい対話の方法がわからないだけかもしれない」と。コミュニケーションをとりたいのに,対話が不可能な存在。これほど恐ろしい存在はない。かくして,奇居子は〈ダイアローグ〉という,ソクラテス以来の人理の前提を徹底的に無視し,人を喰らい,取り込み,コピーするという手段で人とのコミュニケーションを成立させようとする。星白の悲劇は,このことをよく知る彼女自身が取り込まれてしまったということにある。

〈対話〉か,それとも〈融合〉か

対話を知らず,〈融合〉という原理に依る奇居子。アニメではまだ描かれていないが,落合も奇居子と同じこの原理に倣ったことは言うまでもない。自ら「融合個体」という完全生命体になることで,煩わしく不完全な“対話”を不要にすること。これが落合のプログラムだった。外宇宙にまで進出しておきながら,対話などという不完全な原理に頼る人類に対する苛立ち。僕は,落合は悪でもラスボスでもなく,むしろ唯一の正義だったのではとすら思う(だから中の人は子安氏にすべきではなかった)。

ヒト=〈対話〉に魅せられた種族

しかし人類は,少なくともシドニアの人たちは,この運命をよしとしなかった。彼らはこれからも不完全な対話を続け,人を理解しようとして失敗し,人を愛そうとして失敗し,失敗を繰り返しながら世代交代によって進化していくのだろう。生粋のコミュ症である僕にとって,この結末は甘っちょろい幻想に思えた。

だが,人類がそこまで〈対話〉に執着するというのであれば,最後までやってみろという気もある。対話を続ける人類はどこへ行き着くのか。永遠の対話か。やはり融合なのか。あるいは,対話も融合も越えた何かへと辿り着くのか。

 

本作唯一のマイナスポイントは,原作がきちんと終わっているにもかかわらず,中途半端なところで放置されていることだ(だから「ドラマの評価」を3.0にしてある)。特に上記の落合のプログラムがアニメ化されなければ,1つの作品として成立しない。もし制作されなかったら,僕はポリゴン・ピクチュアズを重力子放射線射出装置で吹き飛ばすつもりだ。