アニ録ブログ

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劇場アニメ『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021年)レビュー[考察・感想]:(de)odor

*このレビューはネタバレを含みます。

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『エヴァンゲリオン』公式Twitterより引用 ©︎カラー/Project Eva. ©︎カラー/EVA製作委員会 ©︎カラー

www.evangelion.co.jp


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』『Q :3.333』版予告・改2【公式】

 「さらば,全てのエヴァンゲリオン。」というコピーの通り,『エヴァンゲリオン』というコンテンツに決定的な終止符を打った『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン・エヴァ』)。はたして造物者たる総監督・庵野秀明は,己の被造物『エヴァ』をどう締めくくったのか。

 

作品データ(リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど)

【スタッフ】
企画・原作・脚本:庵野秀明/総作画監督:錦織敦史/作画監督:井関修一金世俊浅野直之田中将賀新井浩一/副監督:谷田部透湖小松田大全/デザインワークス:山下いくと渭原敏明コヤマシゲト安野モヨコ,高倉武史,渡部隆/CGIアートディレクター:小林浩康/2DCGIディレクター:座間香代子/CGI監督:鬼塚大輔/CGIアニメーションディレクター:松井祐亮/CGIモデリングディレクター:小林学/CGIテクニカルディレクター:鈴木貴志/CGIルックデヴディレクター:岩里昌則/動画検査:村田康人/色彩設計:菊地和子Wish/美術監督:串田達也でほぎゃらりー/撮影監督:福士享T2 studio/特技監督:山田豊徳/編集:辻田恵美/音楽:鷺巣詩郎/音響効果:野口透/録音:住谷真/台詞演出:山田陽(サウンドチーム・ドンファン)/総監督助手:轟木一騎/制作統括プロデューサー:岡島隆敏/アニメーションプロデューサー:杉谷勇樹/設定制作:田中隼人/プリヴィズ制作:川島正規/制作:スタジオカラー/配給:東宝東映カラー/宣伝:カラー東映/製作:カラー/エグゼクティブ・プロデューサー:庵野秀明緒方智幸/コンセプトアートディレクター:前田真宏/監督:鶴巻和哉中山勝一前田真宏
総監督:庵野秀明

【キャスト】
碇シンジ:緒方恵美神木隆之介/アヤナミレイ(仮称),綾波レイ,碇ユイ:林原めぐみ/式波・アスカ・ラングレー:宮村優子/真希波・マリ・イラストリアス:坂本真綾/葛城ミサト:三石琴乃/赤木リツコ:山口由里子/渚カヲル:石田彰/碇ゲンドウ:立木文彦/冬月コウゾウ:清川元夢/鈴原トウジ:関智一/相田ケンスケ:岩永哲哉/鈴原ヒカリ:岩男潤子/伊吹マヤ:長沢美樹/青葉シゲル:子安武人/日向マコト:優希比呂/高雄コウジ:大塚明夫/鈴原サクラ:沢城みゆき/長良スミレ:大原さやか/北上ミドリ:伊瀬茉莉也/多摩ヒデキ:勝杏里/加持リョウジ:山寺宏一/加持リョウジ(少年):内山昂輝

【上映時間】 155分

【あらすじ】
「フォースインパクト」が不可逆的に進行する最中,碇シンジ,アヤナミレイ(仮称),式波・アスカ・ラングレーの3人は,「二ア・サードインパクト」の避難村である「第3村」を訪れる。幼子のようなアヤナミレイは,村民と触れ合い,共に労働に勤しむことにより,村に自分の居場所を見出していく。そして罪の意識から廃人同様となっていたシンジも,人々との心の交流を通して徐々に気力を取り戻し,やがて「AAA ヴンダー」に再乗艦することを決意するに至る。葛城ミサト率いるWILLEは,旧南極のNERV本部を強襲すべく,「ヤマト作戦」を決行する。

コア=中心のない世界:Tokyo

映画は,パリのエトワール(シャルル・ド・ゴール)広場に突き刺さった「ユーロネルフ第1号封印柱」の復元シーンから始まる。

封印柱の上空に浮かぶ「ヴンダー」から,(さながら昭和の特撮映画のごとく)ワイヤーで釣られた艦隊が降下し,封印柱を中心にゆっくりと回転し始める。臨時戦闘形態をとったマリのEVA8号機もジャイロのように回転し,遠心力を利用しながらNERVのEVAシリーズを撃破していく。封印柱が発動し,コア化によって赤く染まったパリの街並みが元の姿を取り戻す。 

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』より引用 ©︎カラー/Project Eva. ©︎カラー/EVA製作委員会 ©︎カラー

アヴァンの中で終始示されるこの円運動は,この作品のアクションシーンが類稀なる技術によって制作されていることを示すと同時に,パリという都市の持つ幾何学的な特徴を強く印象付けてもいる。

封印柱のあったエトワール広場からは,シャンゼリゼを含む複数の街路が放射状に伸び,星(エトワール)のような形状を成している。〈中心〉という特異点が,都市空間の中に克明に刻み込まれているのだ。またパリの街区自体も,ルーヴル美術館を含む第1区を中心とした同心円状を成している。アヴァンで描かれる印象的なアクションシーンは,パリという都市の〈同心円性〉を忠実にトレースしている。

〈都市と円〉ということでは,ここでフランスの思想家ロラン・バルト(1915-1980年)を経由するのも面白いかもしれない。彼のよく知られた短いエッセイによれば,ヨーロッパの都市の同心円性は,すぐれてヨーロッパ的な〈真理〉の充溢を示しているということであった。

じつに数多くの(歴史的,経済的,宗教的,軍事的な)理由によって,西欧は十二分すぎるくらいにこの法則,つまりはいっさいの西欧の都市が同心円的であるという法則を,心得ぬいていた。だがまた,いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学の歩みそのものに適応して,わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。*1

確かに,街並みを見渡しながら赤木リツコが漏らす「かつて華の都と謳われた街がこの有様とは…」という台詞や,伊吹マヤが捧げる「この街を残したかったあなたたちの想いを引き継ぎます」という祈りの言葉は,パリという中心を満たす実質的機能(歴史的,文化的,経済的,軍事的機能)の存在を暗示しているとも言える。あるいは,本作の隠れたキーワードでもある「コア(中心)化」を,「リリンの王」碇ゲンドウの父権的エゴイズムで世界を満たす〈汎中心化のプログラム〉と捉えてもよいかもしれない。

バルトがこの西欧的同心円性と対置させたのが,東京という都市の〈空虚〉であった。東京の中心にある皇居は,「禁域であって,しかも同時にどうでもいい場所,緑に蔽われ,お濠によって防禦されていて,文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所」として,「神聖なる《無》」を隠蔽している。

その中心そのものは,なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく,都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて,動きの循環に永久の迂回を強制するために,そこにあるのである。*2

日本の都市に,意味の充実ではなく,意味の欠如を見る。こうした典型的な“オリエンタリズム"の有効期限がすでに満了しているとは言え,バルトの幾何学的な見立てが今もなおスリリングであることは間違いない。

日本のアニメ・マンガの表象文化という文脈では,この〈空虚〉あるいは〈無〉を〈破壊〉と読み替えてみてもいいかもしれない。昭和の『ゴジラ』(1954年)以降,東京は繰り返し破壊の場として描かれてきた。言ってみれば,イマジナリーな東京は,その中心に〈破壊〉を内包する文化的記号である。

ところが『エヴァンゲリオン』の世界設定の面白さは,バルト的な〈空虚〉も日本のアニメ・マンガ的な〈破壊〉も再利用しなかった点にある。『エヴァ』の世界では,当初からすでにバルトの見た東京は姿を消しており,「第3新東京市」という架空の場が舞台となっていた。さらに『シン・エヴァ』になると,それまで破壊の場の記号としてかろうじて機能していた〈東京〉という名すら消去され,「第3村」という文字通り〈コア=中心なき場〉が現れる。昭和『ゴジラ』から『AKIRA』(1988年)を経て『シン・ゴジラ』(2016年)に至るまで,破壊と創造の反復の場として表象されてきた〈東京〉という記号が,ここに至って完全に消滅する。全シリーズにおける『シン・エヴァ』の特異性は,「エヴァンゲリオン」そのものへの別離に先立って,破壊の舞台そのものを消去したという点にある。第3村というリアリティの中では,居住者にとってトラウマであったと同時に,創作者にとってオブセッションでもあった〈戦闘と破壊〉は一切発生しない。劇中,唯一シンジがエヴァに搭乗して戦う「ゲンドウとの殴り合い」のシーンは,現実の都市の代替物として設られた特撮ミニチュアという,パロディ化された場で行われるのだ。 

第3村:〈匂い〉に満ちた世界

第3村では,これまで『エヴァ』ではほとんど描かれてこなかった,人々のミクロな生活世界がクロースアップされる。そこはコア=中心=絶対的父権が及ばない世界,〈一人一人が生きること〉という素朴な原理だけが存在する世界であり,〈破壊〉ではなく〈守ること〉の象徴である。事実ここでは,「王」ゲンドウという孤独な男の姿とは対照的な,生き生きとした女たちの姿が描かれる。彼女たちは田植えをし,森からささやかな恵みを得,幼児に乳を与えている。このプリミティブな生活世界の中で,心身ともに機能不全に陥ったシンジとは対照的に,アヤナミレイ(仮称)は挨拶の意味,苗と土の手触り,湯の温かさ,人の手の温もりといった,様々な感覚体験をインプットしていく。この素朴な生活感と人々の触れ合いが,やがて「碇君が好きだから」という言葉として結晶化し,最終的にシンジの心を溶かしていくのだ。

もちろん,庵野秀明はこのシーンによって,ジブリ的村落共同体への帰郷,大地とコミューンへの回帰を説きたかったわけではないだろう。もしそうだとすれば,第3村に居場所を見つけたレイを消滅させる必要はなかったろうし,そのレイの死を前にしたシンジにヴンダーへ戻る決意をさせることもなかったろう。式波・アスカ・ラングレーの言う通り,第3村は彼らの「居るところ」ではなく,「守るところ」なのだ。シンジは第3村という大地との結びつきよりも,ヴンダー=ラピュタに帰還することを選択し,やがて守るべき場所を自分の手でリビルドすることになるのだから。

『シン・エヴァ』が長々と第3村のシーンを迂回してまで描こうとしたものは,レイの心のタブラ・ラサに書き込まれていった数々の感覚体験に他ならない。故に,第3村における〈匂い〉の想起のシーンは特別な意味を持つ。加持リョウジと葛城ミサトの息子との出会いの後,棚田に佇むシンジが「土の匂い…加持さん…」と独り言つ。これが『破』の中で,加持のスイカ畑の手入れをしながら彼が呟いた「土の…匂い…」という台詞のリフレインであることは言うまでもない。

このシーンに限らず,TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年秋-1996年冬,以下『TV版』)と『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを,君に』(1997年,以下『旧劇』)を含め,『エヴァ』のシリーズには〈匂い〉への言及が複数見られる。

例えば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年,以下『破』)で「日本海洋生態系保存研究機構」を訪れるシーンでは,やはりシンジと加持が,還元された青い海を見ながら次のような会話をする。

シンジ:でもこの潮風って,何だか生臭い変な匂いがしますね。

加持:海の生物が腐った匂いだ。生きていた証なのさ。あの何もない赤い水とは違う。本当の海の姿なんだよ。本来,この世界は広くて,いろんな生命に満ち満ちている

視聴者は『シン・エヴァ』でヴンダーに積載された「方舟」を目にした時,このシーンの〈匂い=生命〉というアソシエーションを瞬時に想起したはずだ。またTV版第拾四話「ゼーレ,魂の座」には,初号機に搭乗したレイが「碇君の匂いがする」と言い,零号機に搭乗したシンジが「綾波の匂いがする」と言うシーンがある。『シン・エヴァ』の土の匂いへの言及は,さながらプルースト効果のように,これらの感覚体験を一挙に想起させるように仕込まれている。 

〈絞首〉から〈抱擁〉へ

海と土と人の匂い。ここで言う〈匂い〉とは,1つの感覚であると同時に,〈他者性〉の知覚でもある。これこそ,碇ゲンドウが用意周到な「人類補完計画」でもって真っ先に消し去ろうとしたものだ。『シン・エヴァ』の終盤,ゲンドウは,セカンドインパクトが「海の浄化」,サードインパクトが「土の浄化」,そしてフォースインパクトが「魂の浄化」であったことを明かす。ゲンドウの「人類補完計画」とは,〈匂い〉という身体的感覚が脱臭された,超潔癖な世界である。かつて電車の中で父のS-DATのイヤフォンを装着し,他者との接触を絶ったシンジの精神性と完全に同一だ。それは“スメル・ハラスメント"という無粋な造語によって,他者の排除という悪意を糊塗する現代人の潔癖性に通じるところがあるかもしれない。しかし第3村での感覚世界を経験したシンジは,すでにこの類の心的潔癖を乗り越えている。彼は積極的に他者を受け入れる心の構えを手に入れているのだ。だから彼は,加持リョウジへの「好き」という気持ちを意外なほど率直に葛城ミサトに伝える。

砂浜に横たわるアスカにシンジが「ありがとう。僕を好きだと言ってくれて。僕も,アスカが好きだったよ」と伝える終盤のシーンが,旧劇の最終カットの焼き直しであることは明らかだ。もちろん,シンジはもうアスカの首を絞めることはないし,アスカも「気持ち悪い」とは言わない。しかし,嫌悪で具現化されたATフィールド=心の壁は,他者の他者性=匂いを知覚することから発生する。したがって「気持ち悪い」も「好き」も同根の感性なのだ。そういう意味では,『シン・エヴァ』は旧劇の発展・反転型と言えるかもしれない。

「好き」というレイ由来の言葉がいささか面映いとすれば,〈相補的承認〉と言い換えてもよいかもしれない。そして『シン・エヴァ』で決定的なのは,この〈相補的承認〉がシンジとゲンドウの間にも生じたという点だ。これにより,ゲンドウからシンジへの〈抱擁〉という,この四半世紀の間誰もが夢にまで見た(あるいは夢にも思わなかった)行為が実現する。

さらに,ゲンドウのピアノへの執着とカヲルのそれとが一致した時,これまで不可解であったカヲルの「円環」への言及とシンジへの愛着の正体も了解される。カヲルはゲンドウの人格の裏面(あるいは表面)である。「円環」は,ゲンドウがシンジという他者との邂逅のやり直す物語であり,その真の「幸福」を探し求める旅路だったのだ。

消えるエヴァの〈匂い〉

ラストシーンにマリが登場することに関しては様々な考察が可能だろう。冬月によって「イスカリオテのマリア」と呼ばれた彼女は,ユダなのか,マリアなのか。なぜシンジとマリは恋人同士なのか。あるいはマリは,マンガ版で示された碇ユイとの絆をシンジに求めたのか。ここで最終的な解を提示することは難しい。

しかしもうお分かりかと思うが,本記事のコンテクストで言えば,ラストにおけるマリの登場の理由はシンプルである。

ラストシーンで,マリは駅のベンチに座るシンジの首元に鼻を寄せ,「相変わらずいい匂い。大人の匂い」と言う。これは「ヤマト作戦」の直前でシンジの元を訪れた際,彼女が言った「ちと変わったね。大人の香りってやつ?」というセリフを受けると同時に,『破』の初登場シーンで,彼女がシンジに対して言った「君,いい匂い…L.C.L.の香りがする」というセリフの“伏線回収"でもある。つまり彼女は,シンジからL.C.L.,すなわちエヴァの匂いが消えたことを告知する役目を負ったのだ。L.C.L.は,エヴァと人の感覚器官を繋ぐ液体だった。マリのラストシーンは,そのL.C.L.の喪失とエヴァとの別離を感覚器官による知覚で示している。この上なく『エヴァンゲリオン』らしく演出された,エヴァンゲリオンとの別離である。

  庵野秀明  

物語は,庵野秀明の出身地である山口県宇部市の実写映像で「終劇」を迎える。この映画が,そして『エヴァ』という作品総体が,総監督自身の"私小説"であったことを意外なほど直截的に伝えたラストだ。これが総監督自身の発案であったのか,それとも監督の鶴巻和哉,中山勝一,前田真宏の“忖度"のようなものだったのか,それはわからない。これが四半世紀にわたって続いた『エヴァ』という物語の最適解だったのか,もちろんそれもわからない。今回示されたリアルな生の讃歌,父性の確認,母性の再確認,「相補的関係」への素朴な信頼,そしてリアリティへの回帰といったテーマ群は,これまでの陰鬱とも言える内面世界の肥大化とそれによる世界の破壊の物語への終止符としては,あまりに直球すぎる印象がある。また,碇シンジ≒庵野秀明による〈世界の再創生(ネオンジェネシス,リビルド)〉というプログラムにも,肥大化したエゴイズムの残り香を相変わらず漂わせている。

ただ1つ言えるのは,僕らが“庵野秀明"という特異点を設定し,そこからの偏差で『エヴァ』という作品を捉え続ける限り,いつまでも“庵野秀明の『エヴァ』"という円環世界から抜け出すことはできないだろうということだ。それは『エヴァ』を語るにあたって,常に“庵野秀明"という主体を参照し続けることを意味する。そうなれば,碇ゲンドウという絶対的父権を舞台から降ろし,『エヴァ』という円環に裂け目を入れ,『エヴァ』を終わらせた庵野自身の意志に背くことになるだろう。僕らは,いずれ"庵野秀明"というバイオグラフィから脱したところで,『エヴァ』の真価を評価しなければならない時が来るはずだ。しかしそれを実行するには,庵野秀明という人物のアクチュアルな影響力はあまりにも大きい。僕らはこの課題を後世に委ねることになるかもしれない。その意味で,『シン・エヴァンゲリオン』の価値はまだ定まっていない。ある思想家の言葉を借りれば,「作品の歴史は作品の批評を準備し,それゆえ歴史的な距離が批評の力を増す」。*3

作品評価

キャラ モーション 美術・彩色 音響
5 5 5 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
5 3.5 4.5
独自性 普遍性 平均
5 4.5 4.7
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

 

商品情報

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [Blu-ray]

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  • 発売日: 2009/05/27
  • メディア: Blu-ray
 

 

*1:ロラン・バルト(宗左近訳)『表徴の帝国』,p.52,ちくま学芸文庫,1996年。

*2:上掲書,p.54。

*3:ヴァルター・ベンヤミン『ゲーテの『親和力』』(ヴァルター・ベンヤミン(浅井健二郎訳)『ベンヤミン・コレクション』,ちくま学芸文庫,1995年に所収)