アニ録ブログ

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Webアニメ『タコピーの原罪』(2025年夏)レビュー[考察・感想]:マスコットのおもかげ

*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読みください。

『タコピーの原罪』公式Xより引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

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2025年夏,タイザン5原作/飯野慎也監督『タコピーの原罪』全6話の配信が終了した。マンガ原作の酷烈な描写をいささかも希釈することなく,いやむしろそれをアニメ媒体固有の表現法によって濃化することで,本作に込められた問題意識と感情を改めて視聴者に突きつけた傑作となった。アニメは人の悪意にどこまで向き合えるか。それを物語としてどう克服できるのか。無論,本作がその最適解を出したとまでは言えないだろうが,作り手と受け手の双方に深い考察を促したという点で,高く評価されるべき作品だろう。

 

あらすじ

宇宙に「ハッピー」を広めるべく,太陽系第三惑星・地球に降り立ったハッピー星人・タコピー。彼は自分の窮地を救ってくれた久世しずかに恩義を感じ,彼女を「ハッピー」にしようと決意する。しかし,雲母坂まりなから壮絶ないじめに遭っているしずかの惨状は,人の悪意を知らないタコピーの理解を遥かに超えたものだった。はたしてタコピーは,しずかやまりなたちとどう向き合っていくのか。

 

現実世界とマスコット

僕らは多くの〈マスコット〉に囲まれながら暮らしている。部屋にはぬいぐるみの類が飾られ,キーホルダーがカバンを賑わせ,デフォルメされたキャラが文具を彩る。仮にそうしたものを所有していなくとも,街を歩けば,そこかしこにマスコットが溢れかえっていることに気づくだろう。

僕らは無慈悲で過酷な現実の中で,時にマスコットの柔らかな非現実感に救いを求める。もちろん,マスコットが世界の現実を変えることは微塵もない。しかしその存在に心を救われる場面は少なくないはずだ。マスコットは人の心を癒し,他者とのコミュニケーションを生み,人と人とを繋ぐからだ。ただそこに“在る”だけでいい。そういう存在だ。

第1話「2016年のきみへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

タイザン5の描く地球世界の描線は,“ある意味で”極端なほどリアリスティックだ。キャラクターを構成する主線は曲がりくねり,プロップや背景の情報量も極めて多い。まるでこの現実世界ののっぴきならぬ複雑性を映し出すかのように。アニメ版は,この描線を制作上操作しやすい単純な線にクリンナップすることなく,原作通りにーー場合によっては原作以上にーー複雑な線として再現している。

それが最も顕著な形で示されているのが,第4話「東くんの救済」である。ここでは,東直樹の抱えるコンプレックスとその転位が生んだ悲劇が,極めて印象的なタッチで描かれている。

医者の家庭に生まれた直樹は,“母の期待に応えなければならない”という強いオブセッションに囚われている。しかしそれを達成できず,母を失望させてばかりいる彼は,母への想いをしずかに転位している(つまりひそかに心を寄せている)。やがて彼は,まりな殺害の隠蔽工作に加担してしまい,それもまもなく大人たちの知るところとなってしまう。

第4話「東くんの救済」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

この話数を手がけた大島塔也は,明らかに他の話数とは異なる演出方針をとっている。直樹を取り巻く世界の描線は情報量が多く,極端に歪んだ構図も多用されている。カットによっては,直樹自身もラフデッサンのように“荒さ”を残した主線で描かれている(上図・右)。

第4話「東くんの救済」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

直樹の目に映る現実は大きく歪み,捩れ,揺れている。まるで母からもらった,もはや度の合わなくなった眼鏡を通して見た世界のように。彼が認識する過酷な現実は,もはやシンプルな描線で表すべくもない。歪みも捩れも揺れも,彼にとっての過酷な“現実”の忠実な再現なのだ。

第1話「2016年のきみへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

さて,そんな複雑度を極めた地球世界に現れたタコピーは,H・G・ウェルズ『宇宙戦争』(1898年)以来のいわゆる“タコ型異星人”の類型に則りながらも,これまでのどのタコ型異星人よりも単純化された,滑らかな曲線のみで構成されている。単純で非現実的な描線が,複雑で現実的な描線の世界に介入する。タコピーの特異な身体性は,過酷で複雑な地球の現実を柔らかに批判し,優しく宥めているかのように見える。まるで雑然とした部屋の片隅に置かれた,マスコットのぬいぐるみのように。

 

〈触れ合い〉から〈暴力〉へ:境界の越境

ハッピー星人の使命ーー“本能”と言ってもいいかもしれないーーは,〈命を繋ぐ〉こと,すなわち「きみ」と「きみ」を繋いで「きみ“たち”」にし,命を存えさせることだ。だからタコピーは,本能的にしずかやまりなに「おはなし」を促し,「仲直りリボン」で人と人とを繋ごうとする。ハッピー星には「“一人で”ハッピー星に戻ってはならない」という掟が存在するが,これはいわゆるエイリアン・アブダクションのようなものではなく,〈命を繋ぐ〉という至上命令の象徴的言語化である。

しかし地球人たちを取り巻く現実は,そんなハッピー星人の思惑を遥かに上回るほど過酷だった。その1つが,地球人たちの間に蔓延る〈暴力〉という実態である。

ナイーブなタコピーの身体は,物語当初,暴力という“悪意”を知らない。彼にとって身体的接触は単に“触れる”ということでしかなく,そこには強弱の差があるだけだ。どこかの閾値を超えたとき,それが暴力という排他的悪意に転じるという可能性は,彼にはいまだ知られていない。*1 しかし彼はその後,いくつかの場面において,暴力の悪意を身をもって知ることになる。

「第1話 2016年のきみへ」の中盤の場面を見てみよう。

タコピーは「へんしんパレット」でしずかの姿に変身し,まりなと「おはなし」をしようと試みる。しかし,まりなの不興をかったタコピーは,彼女から容赦ない暴力を振るわれてしまう。

第1話「2016年のきみへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

このとき,タコピーは自らのマスコット的身体ではなく,しずかの現実的身体において,いわばしずかの“内側”からまりなの暴力を身に受けている。したがって,ここでタコピーが経験したものは,異星人に対する外的暴力などではなく,地球人同士の内的暴力に他ならない。そしてそれは,触れる=命を繋ぐことの対極にある,信じ難いほど排他的な力の行使であった。ここにおいて,タコピーは身体的接触が悪意を伴う暴力に転じる可能性を知ってしまう。〈触れ合い〉と〈暴力〉との間に境界があることを理解してしまう。これが,彼にとって最初の“知恵の木の実”となる。

しかしこの後タコピーは,“暴力に至る閾値”を自ら越境してしまうのだ。

第2話「タコピーの救済」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

第2話「タコピーの救済」では,しずかを守るために行動したタコピーが,誤ってまりなを殺害してしまう。このとき彼は,皮肉にも「ハッピー道具」の1つである「ハッピーカメラ」を殺人の道具として使ってしまう。人を「ハッピー」にするはずの道具が,正反対の結果を招くという,痛烈なアイロニーだ。

思えば「ハッピー道具」の無力は作中で度々示されている。「パタパタつばさ」は子ども一人を運ぶこともできず,本来〈命を繋ぐ〉はずの「仲直りリボン」は,こともあろうにしずかの自殺に使われてしまう。「ハッピー道具」は,もはや地球人の〈命を繋ぐ〉という目的にとって,決定的な力不足を露呈している。地球人たちを本当の意味で「ハッピー」にするために必要なのは「道具」の類ではない。他の,もっと本質的で根本的な手立てなのだ。後にタコピーは,その手立ての正体を知ることになるだろう。

 

主観カメラ:〈罪〉の内化

まりな殺害の事件後,タコピーは「へんしんパレット」でまりなの姿に変身し,彼女の“身代わり”として生活することになる。この辺りの経緯は,率華が演出を手がけた第3話「タコピーの告解」で語られている。タコピーの中の“贖罪意識”の芽生えを描いた,極めて印象深い話数である。

この話数では,まりな(タコピー)の主観カットが2度用いられている。1つめは,まりな(タコピー)が帰宅する場面である。

第2話「タコピーの救済」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

カメラがまりな(タコピー)の完全主観に切り替わり,まりな・タコピー・視聴者の視線が重なる。その視線に映るのは,まりなの父母の壮絶な言い争いの現場である。ここで視聴者は,タコピーの目線を経由してまりなの悲惨な日常を垣間見ることになる。タコピーとまりな双方への自己同定を視聴者に促す仕掛けだ。

2つめの主観カットは,本話数ラストの「告解」の場面である。

左:第3話「タコピーの告解」より引用/右:第1話「2016年のきみへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

まりな(タコピー)の言葉遣い(「◯◯っピ」)に腹を立てた母は,まりな(タコピー)を平手打ちにする。ここでタコピーは,まりなという現実的身体において,母からの暴力を身に受ける。おそらくこのときタコピーは,第1話でまりながしずか(タコピー)にくらわせた平手打ちが,母のこの平手打ちを正確にトレースしたものであることに気づいたはずだ(上図)。まりながしずかに向けた暴力の“起源”を,彼はここで身をもって知ることになる。暴力は“継承”されてしまうのだ。

しかしこの平手打ちは,まりな母のあまりにも重く深く捩れた“愛情”を発端とするものだった。母はまりな(タコピー)が本物のまりなでないことを直感的に見抜き,涙ながらに「まりなを返してください」と訴える。ここでタコピーは,まりな殺害の罪の深さを改めて省みるに至る。

第3話「タコピーの告解」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

まりな(タコピー)は,まりなの自室で「まりなちゃん ごめんなさい まりなちゃんのパパとママ まりなちゃんじゃなくてごめんなさい いっしょにいられなくしてごめんなさい まりなちゃん 殺してごめんなさい」と涙ながらに懺悔する。主観カットが登場するのはこの時だ。

第3話「タコピーの告解」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

まりな(タコピー)の前には姿見が置かれている。タコピーは,まりなの身体の“内側”から,鏡の反映というメディア=媒体を介してまりなの身体を省みつつ,まりな殺害という暴力の罪を省みる。自分が「殺人」という暴力を差し向けた身体は,まさにこの身体であり,この父と母が愛する身体である。ここで彼は,暴力という罪を“自分事”として完全に内化するに至るのだ。

こうしてタコピーは,地球に蔓延る暴力という悪意の本質を知る。後に2022年の“過去”を思い出した彼は,まりなに不幸をもたらしたしずかを「悪」と再認定し,「久世しずかを殺さなきゃ」「完膚なきまでに命を壊さなきゃ」という強烈な殺意を抱いてしまう。

第5話「2022年のきみへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

しかし,これまでの経験で悪意の本質を知った彼は,その殺意そのものが悪意に他ならないことを直ちに認識したはずだ。そもそも,しずかに対するまりなのいじめも「悪意」であり,自ら犯したまりなの殺害も「悪意」なのだ。タコピーは,悪意をもって悪意を滅することの矛盾,その自家撞着を痛感する。

タコピーはかつて,“悪を制する”という観念に囚われ,まりなを孤独に置き去りにし,その挙句に〈命を繋ぐ〉という使命を果たせなかった。これこそが,「一人でいること」を許さないハッピー星人の,最大の禁忌だったのだ。

しかし悪意は本当に“純粋悪”なのか。人の悪意は“純粋善”=「ハッピー」によって根絶されるべきものなのか。すでに暴力と悪意と罪を内化したタコピーには,直樹の「そりゃいいとこも悪いとこもあるだろ」という素朴極まりない“真理”を受け止める精神的土壌ができあがっている。だとすれば,いま彼が成すべきは,道具の類に頼って悪意を抹消することではなく,悪意と善意を併せ持った子どもたちに身をもってーー文字通りその身体性をもってーー寄り添いつづけることなのだ。

第6話「2016年のきみたちへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

タコピーは再びしずかと相対する。彼は暴力に囚われたしずかを宥めようとする。しかし,しずかはそんなタコピーを踏み躙り,殴りつける。今度は,タコピーは自らのマスコット的身体において,しずかの暴力を身に受ける。タコピーの身体を象る描線は激しく歪み,捩れる。まるで,苛ついた子どもになぶられるぬいぐるみのように。

ここでは,かつて手塚治虫が直面した「記号的身体は死と暴力を表彰し得るのか」という問題が再提起されていることに気づくだろう。*2 タコピーの記号的身体は,相変わらず非現実的だ。しかし,そこに降りかかるしずかの暴力はこの上なく現実的である。タコピーの身体がどれほど虚構であっても,そこには確かな“痛み”が発生しているのである。

 

〈キャラ〉の強度

しかしそれでもタコピーはしずかに寄り添い続ける。彼は優しくしずかの手に触れ,「一人にしてごめんっピ」と謝りながら,しずかとの〈繋がり〉を保とうとする。これがハッピー星の掟を破ったことの贖罪にもなっていることは言うまでもないだろう。

第6話「2016年のきみたちへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

その後タコピーは,自らの「ハッピー力」(おそらく生命の力のようなものだろう)を犠牲にして「ハッピーカメラ」を再起動し,再び時を“あの日”に戻す。「ハッピー力」を使い果たしたタコピーは,しずかの前から永遠に姿を消す。

しかし実際には,タコピーは“消えた”わけではない。むしろ“残った”のだ。

ここで1つ寄り道をしておこう。マンガ評論家の伊藤剛は,かつて〈キャラ〉の概念を〈キャラクター〉から区分けした上で,〈キャラ〉を以下のように定義している。当ブログではしばしば言及している話題だが,改めて引用しておこう。

多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの *3

ミッキーマウス,スヌーピー,ドラえもん。長きにわたって子どもにも大人にも愛される〈キャラ〉は,確かにシンプルな描線で描かれていることが多い。シンプルでわかりやすい描線であればあるほど,〈キャラ〉は作品そのものの文脈を離れてもなおその強度を保ち,学校の机の上,家の壁,道路などに描かれてもその存在の輪郭は失われない。そう,たとえそれがノートの端に何気なく描かれた“落書き”だとしても。

第6話「2016年のきみたちへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

タコピーを象る描線が,子どもでも描ける単純な線だったからこそ,しずかはその姿をノートに描き,それにまりなが気づき,2人の間に「おはなし」が生まれたのだ。2人は共に泣き,共に笑うことができるようになったのだ。タコピーは,しずか・まりな・直樹のが置かれた過酷な状況を微塵も変えることはできなかった。しかし彼は自らの〈マスコット〉的な存在感,その〈キャラ〉の強度そのものによって,彼らを繋ぎ,さもなければ失われてしまったかもしれない命を繋ぎ止めたのである。

第6話「2016年のきみたちへ」より引用 ©︎タイザン5/集英社・「タコピーの原罪」製作委員会

繰り返そう。マスコットは世界を変えることはない。相変わらず,しずかは母親に顧みられず,相変わらず,まりなの顔には深い傷が残っている。しかし,彼がただそこに“在った”ことが,彼女たちの命を繋ぎ,彼女たちを本当の意味で「ハッピー」にしたのだ。

 

 

作品データ

*リンクはWikipedia,@wiki,企業HP,Xアカウントなど

【スタッフ】
原作:タイザン5/監督・シリーズ構成:飯野慎也/キャラクターデザイン:長原圭太/プロップデザイン:10+10中井杏/2Dワークス:アズマ10+10/美術監督:板倉佐賀子/色彩設計:秋元由紀/CGディレクター:茂木邦夫/カラースクリプト:大谷藍生/撮影監督:若林優/編集:坂本久美子/音響監督:明田川仁/音楽:藤澤慶昌/アニメーション制作・プロデュース協力:ENISHIYA

【キャスト】
タコピー:
間宮くるみ/しずか:上田麗奈/まりな:小原好美/東:永瀬アンナ

 

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作品評価

キャラ

モーション 美術・彩色 音響
4.5 4.0

5.0

4.0
CV ドラマ メッセージ 独自性

5.0

4.5 4.5 4.5
普遍性 考察 平均
5.0 5.0 4.6
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

商品情報

【原作マンガ】

 

 

*1:正確に言えば,タコピー主観の時間においては,彼はすでに2022年のまりなから身体的暴力を受けている。しかしそれは悪意というよりは,不器用なまりなの好意の裏返しのようなものであり,かつその記憶はタコピーから消去されている。

*2:大塚英志『教養としての〈まんが・アニメ〉』,講談社現代新書,2001年。

*3:伊藤剛『テヅカ・イズ・デッドーひらかれたマンガ表現論へ』p.126,星海社,2014年。下線強調は引用者による。