※このレビューはネタバレを含みます。
Wir nur einmal lugen.
英題(?)は“GIRLS und PANZER”,制作委員会の名称は“GIRLS und PANZER Projekt”,劇場版の声優にジェーニャを起用するなど,近年,アニメ業界に“間違いだらけの○○語”が蔓延する中,各国語の監修に関しては比較的慎重で丁寧な作品である。
ならば,なぜ“GIRLS”なのか。なぜ“メートヒェン&パンツァー”ではないのか。なぜ英語とドイツ語を並列するのか。
僕はこの“GIRLS und...”というハイブリッドな表記が,この作品が“どんな嘘をつくのか”の告知を行っているのだと思う。つまり,言語に関しても,戦車の知識に関しても,音の作りに関しても,徹底的に事実に基づいた作り込みをするが,主人公である“女の子”については,逆に徹底的に嘘をつく,という態度表明だ。
単離された“ミリタリー”
世のミリタリーオタク・戦争映画オタクを唸らせるほどの作り込みをしておきながら,主人公は女子高生。しかも,どんな乱戦をしても一切ケガをしない。アザのひとつすらない。もちろん死にもしない。日本のアニメが“日常系”というジャンルの中で培養してきた,生老病死を連想させない“女の子”の造形である(以前『がっこうぐらし!』のレビューで「アホ毛は死なない」という書き方をしたが(『がっこうぐらし!』評「ゆるふわ彼女の見ている“日常”は」参照),それに「アニメJKの太ももはアザにならない」を付け加えてもいい)。
僕はこうした設定が,現代日本におけるミリタリー趣味の本質を表していると思う。死や負傷から安全に単離された“ミリタリー要素”。それは戦争の現実を連想させないだけに,ホビーとしての純度を増した純日本産の文化趣味のあり方であり,「戦車道」というユニークな表現の中にそれは見事に表されている。「戦車道」と「華道」を接続する五十鈴華のキャラは,現実の戦争につきまとうマチスモをきれいに霧散させる存在感を持っていると言える。
死をいかに描かないか
それは大塚英志が手塚治虫の中に見い出した,「記号的でしかありえない表現が現実の死をいかに描き得るか」*1という実存的な問いかけからは,あっさりと訣別している。このような価値観は,手塚のような戦中世代の作り手には理解しにくいかもしれない。しかし,戦中・戦後から時間的距離を置いた現代だからこそ可能な趣味のあり方として,むしろ評価されるべきだと僕は思うのだ。
それは死を忘却することではない。そうではなく,本来死をもたらすものであったはずのテクノロジーに,死以外の価値を積極的に見いだすという“発見”である。僕ら現代日本人が,比較的長い平和の時代の中で見いだした,貴重な文化的発明品である。
*1:大塚英志『キャラクター小説の作り方』p. 147。星海社新書,2013年(2003年の講談社現代新書版を底本とした改訂版)