※このレビューはネタバレを含みます。
マンガ原作既刊分既読
「循環史」と「発展史」
ギャグ,グルメ,猟奇,歴史的if,パロディといった複数要素が盛り込まれながらも,エルドラド的なわかりやすい冒険譚が物語を推進していくために,決してバラバラの寄せ集めになっていない。かなり計算されたエンターテインメントである。
ところで,この作品の世界観の基底にあるのは,「循環」と「発展」という,2つの異なるダイナミクスである。
「循環」とは,簡単に言えば食物連鎖のことであり,とりわけこの作品の最大の特徴でもある食事のシーンによって暗示されている。作中ではしばしば狩りのシーンが詳細に描写され,グルメマンガさながらの食事シーンが頻出する。それに加え,大便についての言及が多いのも特徴的だ。二瓶の「勝負の果てに獣たちが俺の体を食い荒らし/糞となってバラ蒔かれ山の一部となる/理想的な最後だ」(なおこの台詞は原作のママである)はこのダイナミクスを雄弁に物語っているし,アシリパの「オソマ」への執着も,単なるギャグ要素にとどまらない,象徴的な意味合いを持っていると言える。
さらに,この狩り→食事→排便という循環は,アニミズム的なアイヌの伝承が語られることにより,宗教的な意味合いを帯びる。そこでは人間は特権的地位を与えられず,食物連鎖の中に組み込まれている。
一方の「発展」は,簡単に言えば直線的な歴史の流れのことである。日露戦争への言及によって,歴史的ストーリーが川のように流れていることが暗示されている(ただし,“土方歳三の生存”という“if”により,僕らとは別の世界線であることが暗示されてはいるが)。
こうした循環と発展という,本来ならば異質なダイナミクスのわずかな接点の上に描かれているのが,前者を出自とするアシリパと,後者を出自とする杉元との奇跡的な邂逅なのだ。
対立を超えて
もちろんこれまでにも,アニミズム=循環的な時間と歴史=発展的な時間を軸とした世界観は度々語られて来た。例えば,手塚治虫『火の鳥 太陽編』では,「狗族」と呼ばれる山神的な種族の娘マリモと,歴史に翻弄されるハリマとの出会いと運命が語られる。また,宮崎駿『風の谷のナウシカ』でも,自然の循環の理を知るナウシカと,国家の歴史を担うアスベルやクシャナとの出会いは,同様の世界観を舞台にしていると言えるだろう。
ところが,こうした作品では,しばしばアニミズム=循環的観念と歴史=発展的観念との対立が強調され,前者による後者の批判というメッセージ性を持つことが多い。“批判”という構えこそが,そうした作品が現実に対して意味を持つ契機となっていると言っても過言ではない。
しかし『ゴールデンカムイ』は完全にエンターテインメントに舵を切っている。早くも物語冒頭でアシリパと杉元が共闘することにより,上記のような文明批判的構えを見せない関係性がはっきりと築かれているのだ。そればかりか,アシリパに「わたしは新しい時代のアイヌの女なんだ」と語らせることで,両者の共存の可能性を示しているようにも思える。
サラダボウルの中に
異なる種族や価値観が,対立も同化もせず,共存する可能性。“この”僕らの歴史的世界線ではなしえなかった世界を夢想してしまうのは,僕だけだろうか。
“自然対文明”というような二項対立や批判的構えではなく,複数の登場人物が接触し,語り,対話する,ポリフォニックな世界。これがこの作品の最大の醍醐味であり,文字通り古代の神話のように,人とも物の怪ともつかぬ人物たちが次から次へと現れてはそれぞれの価値観を主張しながら消え去り,アシリパと杉元の周辺を賑わしていく様は,途方もなく面白い。土方が生きていたかもしれないあの世界は,そんなワクワクするようなサラダボウルだったかもしれないのだ。ひょっとしたら,こうしたポリフォニックで多元的な世界観こそが,原作者の野田サトルがこの作品に込めた最大のメッセージなのかもしれない。
惜しむらくは,この作品のもう一つの醍醐味であるパロディ性や美術面での様式性などの要素が,アニメでは再現仕切れておらず,面白さが削がれてしまっている点だ。よって「ドラマ」「メッセージ」をともに3.5の評価にしてある。
10月からの2期放映が決まった。今後に期待したい。