アニ録ブログ

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アニメ『ひぐらしのなく頃に』レビュー:近接する物語 ー「不気味なもの」を受け入れよ

※このレビューはネタバレを含みます。

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©2006竜騎士07/ひぐらしのなく頃に製作委員会・創通

www.oyashirosama.com

キャラ モーション 美術・彩色 音響
4.5 3 3 4.5
声優 OP/ED ドラマ メッセージ
5 4 4.5 5
独自性 普遍性 平均
5 5 4.35
・各項目は5点満点で0.5点刻みの配点。
・各項目の詳細についてはこちらを参照。

 

(ゲーム原作『ひぐらしのなく頃に 粋』プレイ済。300時間に及ぶ『粋』のプレイで細部の知識があるために,もはやアニメ作品を純粋に評価することは難しい。以下,『ひぐらしのなく頃に1期』(以下『ひぐらし1期』)の範囲外の情報を含めたレビューになることをお断りしておく)

近接する物語

物語はますます我々に接近しつつある。

かつて物語が“勇気”“希望”“冒険”などといった大振りの意味を担っていた時代,僕らはそこにある種の“遠さ”を感じていたはずだ。主人公たちに感情移入はできるが,やはりそこに描かれた心理描写は多かれ少なかれ眩しく美化されたものだった。主人公たちが置かれた世界に憧れは抱くが,やはりそれは創られたものだった。

しかし近年,とりわけ「日常系」や「空気系」といったジャンルが注目された2000年代以降,物語はそうした豪奢でよそよそしい衣を脱ぎ捨て始め,もっと小振りで,もっと身近で,いわば等身大にまでミニマイズされたものが次々と生み出された。僕らは物語に対して“遠さ”よりも,“近さ”を感じるようになった。

『ひぐらし1期』は,そうした2000年代の時代的風潮の中で,「物語の近接性」を極めて陰鬱な形で利用した作品であると同時に,それを物語内の人物たちに経験させた上で鑑賞者に追体験させるという,特殊な構造をとった作品だった。

『ひぐらし1期』で語られる「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「目明かし編」「罪滅し編」(「暇潰し編」はやや異なるので除く)は,それぞれ登場人物はほぼ完全に一致しているが,そこで生じる陰惨な事件は,まるで別の物語のように展開を異にする(例えば「鬼隠し編」では,圭一がレナと魅音を惨殺するのに対し,「目明かし編」では詩音が連続殺人犯になる)。

『ひぐらし1期』の時点ではまだ暗示される程度だが,このまったく別の物語の列挙は,超常的な力を持った古手梨花が,誰も死なない平和な世界を望んでタイムリープを繰り返していることによって生じている。個々の物語はまったく違う世界線の話であり,梨花は“ちょっとしたきっかけで仲間たちが残虐行為に手を染めてしまう物語”のバリエーションを反復的に体験している。そして彼女は,自分だけが結末を知っているという孤独感の中で,半ば諦念の状態にある。

『ひぐらし1期』の中でもっとも劇的なのは,突如「罪滅し編」の圭一が「鬼隠し編」で自分が犯した罪(レナと魅音の殺害)を思い出すシーンである。圭一は,本来,絶対に交流するはずのない別世界での物語を“思い出した”ことで,自分が残酷な殺意を持つという可能世界の存在を認識する。「鬼隠し編」の残酷な圭一が,一瞬にして,あり得たかも知れない圭一として「罪滅ぼし編」の圭一に迫り,圭一は己のうちに潜む“残虐性”という不気味な側面に気付かされ,打ちのめされるのだ。

「不気味なもの」

そもそも近接する物語は,近いから親密であると同時に,近いからこそ不気味でもある。

かつてフロイトは,語源的データに基づき,「不気味なもの(das Unheimliche)」を「熟知したものや古くから知られているものによって生まれる恐ろしさ」と定義した。彼によれば,「不気味なもの」とは「もともとは新しいものでも異質なものでもなく,精神生活にとって古くから馴染みのものであり,ただ抑圧プロセスのために,疎遠なものになっていただけ」のものである(「不気味なもの」:中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫所収)。

「不気味なもの」は己の中にある。今や圭一にとって,「鬼隠し編」の“残酷な圭一”は,遠い世界のあり得ない存在ではない。むしろ,同じような残虐性は自分の中にもあるのであり,今ここにいる自分のすぐ近くに,1つの可能性として隣接している。こうした「自分の中の不気味なもの」に気付き,受け入れた事実を梨花は「奇跡」と呼び,この陰鬱な世界を平和な世界へと導くきっかけとして捉えるようになる。

物語に“近さ”を感じるようになった現代の僕らは,この圭一の体験自体を身近に,そして不気味に感じる。残虐性は彼方にあるのではない。ともすれば,僕ら自身の中にも存在するかもしれないのだ。

「不気味なもの」を受け入れよ

昔ある惨殺事件が起こった時,『ひぐらし』の影響が指摘され,メディアが「斧で敵を殺していく」ゲームだと紹介したことがあった。このように報道したメディアと,それに賛同した人々は,おそらく『ひぐらし』を自分とは無関係の“遠さ”へと放擲したのだろう。「あんな残酷な事件とそのきっかけになったゲーム(物語)は,私たちとは無縁である。だから排除せよ」というわけだ。無論,彼らは『ひぐらし』の中で描かれていた「不気味なもの」の本質に対して無理解だった。

作品と向き合わない人達の誤解は,作品を都合よく解釈した犯人の曲解と全く同じだろう。曲解が作品を貶め,誤解が作品を滅ぼす。

言うまでもないことだが,『ひぐらし』シリーズの本意は,いたずらに残虐シーンを描くことではなかった。続く『ひぐらしのなく頃に解』では,主人公たちが己の中に潜む「不気味なもの」をすべて引き受け,それを乗り越えつつ「平和な世界」を実現するという“物語”が導入されることになる。