アニ録ブログ

あるオタクの思考と嗜好をキロクしたブログ。アニメ・マンガ・ゲーム・フィギュアを中心としたカルチャー雑記

アニメレビュー雑感:カノンとの小さな戦い

〈カノン〉に争う

蓮實重彦は,ことあるごとに映画史の〈カノン〉を忌避する発言をしている。

〈カノン(canon)〉とは宗教教義における「正典」のことであり,要するに「映画を語りたければこれを観ろ」というような規範のことだ。映画界はしばしば「ベスト〇〇」といった形で「観るべき作品」をリストアップし,大衆もそれをありがたく受け入れる。しかしこうした規範意識は映画界だけでなく,アニメーションの世界でも繰り返し生み出されている。例えば,ある程度権威ある評論家が「平成アニメベスト10」を作れば,それは容易に〈カノン〉となりうるし,すでにそのようなものはネットや雑誌においていくつも作り出されている。そして僕らは,ある一面においてそれを欲している。

ところが映画批評における権威であるはずの蓮實は,この〈カノン〉の存在を悉く忌避する。その理由を,彼は「ある種の動きを止め,それ以外の作品に対する好奇心を低下させてしまうから」だと述べている。

ある種の権威ある存在が,そのような形で数を限定してしまうと,映画史をかたちづくるおびただしい数の作品とどうつきあえばよいかわからなくなり,これを見ておけばよいという怠惰さから,見る作品が限られてしまいがちなのです。*1

蓮實はこの絶対的〈カノン〉に対して,批評家の「複数性」の重要性を説く。「この傑作を見なければ失格だというような権威ある声」ではなく,仮にその時々で注目されていなくとも,その作品を好きになってもいいと言ってくれるような「複数の声」。そのような声こそが,世にある膨大な量の作品に対し,鑑賞者の心を開かせてくれるのだ。僕が目指すのも,そのような「複数の声」の1つとしてのアニメレビューである。

集合知としての〈カノン〉

しかし〈カノン〉という力を完全に無効化するのは実は極めて困難だ。すべてのアニメ作品を観ることは原理的に不可能であり,仮にすべてのアニメを観ることはできたとしても,すべてのアニメを論じることはやはり不可能だろう。だとすれば,アニメの評価には〈選択〉の問題が常につきまとう。そして〈選択〉が行われるやいなや,他者による既成の評価と鑑賞者自身の評価軸に基づいた〈カノン化〉がたちまち進行してしまう。仮にそれが,無名のレビュワーによる軽微な〈カノン化〉だったとしても,ネット上で増幅されればたちまち大きく権威的な力を持ちうるだろう。要するに,今日争うべき〈カノン〉の創造者は1人の人間ではなく,ネット上で増幅された非人称的な集合知なのかもしれない。

〈大きなカノン〉vs〈小さなカノン〉

結局,僕ら市井のアニメレビュワーが成すべきなのは,既成の権威的〈カノン〉に抗い,それを相対化しつつ,己の価値基準の〈カノン化〉にも抗い,それを最小限に止めることだ。私の書いたレビューは私自身の小さな物語である。それが偶さかあなたの目に留まり,あなたの作品鑑賞の間口を広げるきっかけになれば僥倖だ。そうした,ささやかではあるが,個々人の鑑賞体験を確実に豊かにするような態度が,結果としてアニメ視聴者の感性を豊かにするだろうと僕は信じる。

「批評家が評価しているから観る」という態度をやめよう。「ネットでみんなが評価しているから面白いのだ」という判断をやめよう。大きな単数的な声に縛られるのをやめよう。小さな複数の声に耳を傾けよう。*2

自分が面白いと思った作品を評価し,同じように評価するレビューに出会い,小さな喜びを感じる。自分が観たことがない作品を評価しているレビューに出会い,新たな世界に触れる。そうした小さな鑑賞体験の集まりが,多声的なレビューの空間を構成する。権威的で、単数的で,制限的な批評空間よりも遥かに豊かで刺激的ではないか。

映画論講義

映画論講義

 

*1:蓮實重彦『映画論講義』p.10,東京大学出版会,2008年

*2:ただし僕は,「大衆ウケする作品は無条件に批判する」という態度は認めていない。それは実に貧相な天邪鬼であって,冷静な作品評価の対極にあるものだ。