*このレビューはネタバレを含みます。必ず作品本編をご覧になってからこの記事をお読み下さい。また同監督の『電脳コイル』の内容についても言及していますのでご注意ください。
『電脳コイル』(2007年春・秋)以来15年ぶりとなる,磯光雄監督オリジナルアニメ『地球外少年少女』。20世紀の映像作品に頻出した〈宇宙〉という舞台を入念にバージョンアップしつつ,人とAIとの関わりや人の進化・未来といった壮大なテーマの中で,少年少女たちの成長を描いた物語だ。「宇宙」「AI」というテーマを独自の感性で鋳直した意欲作として,間違いなくアニメ史に名を残すであろう傑作である。
- あらすじ
- 〈内⇄外〉
- フレームの〈内と外〉
- 「人類」か「人間」か
- 更新し続ける〈内と外〉,そして「どこでもない場所の中間」へ?
- 作品データ
- 作品評価
- 商品情報
- 『地球外少年少女』関連の磯光雄監督インタビュー一覧
あらすじ
時は2045年。月面で生まれた登矢と心葉,地球で生まれた大洋,美衣奈,博士は,インターネットやコンビニが揃う日本の商業ステーション「あんしん」で出会う。彗星の衝突という難局を迎え,少年少女は時に反発し合いながらも,力を合わせて危機を乗り越えていく。果たして彼ら/彼女らを窮地に追い込んだものの正体とは…
〈内⇄外〉
「地球外(Extra-Terrestrial)」という言葉が持つ未知性・疎隔性。そしてそのすぐ後に続く「少年少女(Boys & Girls)」という語感の親密性・日常性。どこか『ガールズ&パンツァー』というタイトルにも似た,絶妙なミスマッチ感がこの作品のタイトルから響いてくる。おそらくそれは,全6話からなるこの物語を最初から最後まで貫く,〈内/外〉というダイアレクティックな枠組みと深い関わりがある。
『地球外少年少女』は,ある意味で磯監督の前作『電脳コイル』と対を成す作品だ。2007年にTV放映された『電脳コイル』では,「電脳メガネ」という近未来のデバイスを装着した子どもたちが,ありふれた住宅街や路地裏に電脳の世界を拡張現実的に読み込む様子が描かれていた。『電脳コイル』は,日常世界の外部へ移行する物語ではなく,むしろその内部の只中に"異世界"を出現させる物語だったのであり,その点がこの作品の新しい部分でもあった。その意味で,『ペンギン・ハイウェイ』(原作:2010年,劇場アニメ:2018年)や『映像研には手を出すな!』(原作:2016年-,TVアニメ:2020年冬)などと同じ系譜にあるとも言える。
それと比べると『地球外少年少女』は,一見,宇宙を〈外部〉として設定し,日常という〈内部〉から非日常という〈外部〉への移行を軸に据えた古典的な物語構造に依拠したかに思える。しかし第1話を観れば誰でもわかるように,この作品の宇宙は単純な〈外部〉として描かれているわけではない。
低軌道を周回する商業宇宙ステーション「あんしん」は,一言で言えば〈猥雑〉だ。道頓堀のような瓦屋根の居酒屋がカニ看板をデカデカと掲げ,3つの「シリンダ」には地球,月,火星のモックがおでんのごとく串刺しになっている。ステーション内部の壁面には,あたかも日本の都市の繁華街のように,「ONIQLO」「ビックリデンキ」「爆天」といった雑多な会社のロゴがひしめき合う。子どもたちは布製の柔らかい内壁に優しく守られながら,まるで駄菓子屋に集う子どもたちのように無邪気に宇宙食を頬張る。
そこにはごく普通の都市の猥雑で親密な風景が再現されている。それは紛れもなく,『電脳コイル』の少年少女たちが冒険していたのと同じ類のありふれた〈日常〉の再現,すなわち〈内部〉の複製なのである。
磯監督はオーディオコメンタリや各所のインタビューで,「普通の人でも行けるような宇宙」「子どもでも行けるような宇宙」(磯によれば「21世紀の宇宙」)を描きたかったのだと述べている。言ってみれば,磯は宇宙という〈外部〉に日常を召喚したのだ。『電脳コイル』が内部を異化することによって日常に非日常を読み込んだとすれば,『地球外少年少女』は外部を異化することによって非日常に日常を読み込んでいる。磯の描く世界には,〈内〉と〈外〉,〈日常〉と〈非日常〉の関係が絶えず更新されるようなダイナミズムがある。作品を観終わった後に改めて『地球外少年少女』というタイトルを考えてみると,それは単純に「地球外に少年と少女が住んでいる」というスタティックな事実を伝達しているというよりは,そうした〈内〉と〈外〉とのダイナミックな関係を表示しているように思えてくる。
フレームの〈内と外〉
かくして宇宙空間に複製された〈日常〉を,「彗星の衝突」というアクシデントが見舞う。この事故を引き起こした張本人であるAI「セブン」の存在がまた格別に面白い。
セブンは,かつて知能を爆発的に上昇させ,AIにとっての「知能の枠組み」である「フレーム」を破壊して制御不能に陥った。作中で「ルナティック」と呼ばれている事件である。この際,セブンは多大な人的被害を引き起こす*1 と同時に,「今すぐ人類の36.79%を殺処分するべきだ」という不吉な予測を出したため,これを危険視した「UN2.1」によって「殺処分」されていた。彗星の事件を引き起こしていたのは,そのセブンを構成していたのと同じマイクロマシン「Sパターン」によって作られた「セカンド・セブン」だったのだ。そして「セカンド・セブン」は,「人類の36.79%を殺処分する」という目的を果たすべく,彗星を地球に落下させることを目論む。
このルナティックの説明に際に登場する「フレーム」という言葉は,現実のAI開発における最大の難問の1つ「フレーム問題」に依拠している。
1969年に「フレーム問題」を最初に提唱したのは,AI研究者のジョン・マッカーシーとパトリック・ヘイズである。その要点は「ある行為をコンピュータにプログラムしようとした時,『その行為によって変化しないこと』をすべて記述しようとすると計算量が爆発的に増えてしまい,結果としてその行為を行うことができなくなる」*2 というものだ。その際にマッカーシーらが挙げた例は「(電話を所有している)人間Pが電話帳で人間Qの電話番号を調べ,電話をかけて,会話をする,という状況設定」である。これをAIに記述する際,「ある人が電話を所有していれば,その人が電話帳で誰かの電話番号を調べた後でも,まだその人は電話を所有している」といったような,人間であれば"当たり前"として処理しているような条件を一つひとつ記述していかなくてはならず,その情報量は膨大になってしまう。*3
そうした行動をとる際,人間はその場の状況や前後の文脈から余分な情報を排除し,必要な情報だけを「フレーム(枠)」で囲い,情報処理量を削減して適切に行動することができる。要するに「フレーム」とは,無限にある情報の中から,認識主体がどの情報に"フォーカス"を当てているかを示しているのである。
現実のAIはこのフレーム問題を解決できていないが,どうやらセブンは既に克服済みのようだ(だからこそ,かつてのセブンは柔軟に行動し,さまざまな発明をして人間社会に貢献していた)。しかしセブンはルナティックによってこのフレームを自ら破壊してしまった。それは,セブンにとっての情報のフォーカスが,事実上,霧散してしまったことを意味する。フレーム問題が「電話をかける」くらいのことであればさして問題はないだろう。しかしそれが人間そのものを対象とした認識に関わってくるのであれば,事は極めて重大になる。そして磯が本作の後半で挑んだのは,正に"対人間フレーム問題"とでも呼ぶべき大がかりなテーマだった。
「人類」か「人間」か
フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880年)には,とある医者の切実なディレンマが語られている。
自分は人間を愛しているけど,われながら自分に呆れている。それというのも,人類全体を愛するようになればなるほど,個々の人間,つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていゆくからだ。[中略]その代りいつも,個々の人を憎めば憎むほど,人類全体に対するわたしの愛はますます熱烈になってゆくのだ。*4
種としての「人類」と個としての「人間」。アルベール・カミュの小説『ペスト』(1947年),庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air / まごころを,君に』(1997年),谷口悟朗監督の『ガン×ソード』(2005年),弐瓶勉原作の『シドニアの騎士』(原作:2009-2015年,TVアニメ:2014-2015年,劇場アニメ:2021年),芥見下々原作『呪術廻戦0』(原作:2018年,劇場アニメ:2021年)など,「人類」と「個」の間で引き裂かれる登場人物や,両者の間の対立を描いた物語は枚挙にいとまがない。
磯は『地球外少年少女』において,この古典的なディレンマをAIという最新テクノロジーと絡めることによって再提起している。第6話(最終話)「はじまりの物語」では,セブンの"通訳"として登場するトゥエルブの口から,このディレンマが詳しく語られる。
トゥエルブ:あの人[引用者注:セカンド・セブンのこと]から質問があるそうです。人間の言葉にするのが難しいのですが,人類と人間は同じものなんですか?登矢:何の話だ?同じに決まってる。トゥエルブ:セカンド・セブンは"違う生き物ではないか"と言っています。思考方法も,生存の本能も別なものです。*5
心葉:登矢君がルナティックを起こすって言ったのは,私のインプラントを治すため。地球人を傷つけるためじゃない。登矢:あっ。そうだ,インプラント…心葉:登矢君は口は悪いけどそれは本心じゃない。小さい頃から登矢くんは私のフレームの中にいた。だから分かる。登矢:心葉…心葉:今の登矢君のフレームには地球人がいる。大洋さんや美衣奈さんたちが。登矢:あ…心葉:彗星を落としちゃダメ…
戦争状態でもない限り,人間にとって個としての「人間」をフレーミングすることは自然なことのはずだ。だが,それがセブンには極めて難しい。
しかしセブンは必ずしも「人間」を外置したままにしておくつもりはないようだ。再び第6話の登矢とトゥエルブのやりとりに戻ってみよう。
登矢:セブンは…セブンは俺たちを救ってくれるんじゃなかったのか?トゥエルブ:セカンドが救いたいのは人類です。セブンは皆さんの説得で一度はフレームに人間を取り入れましたが,今は削減を始めています。登矢:人間を見捨てるつもりなのか。トゥエルブ:違います。人間と人類の概念を統合した上で,新しい解釈を試みています。
セブンはセブンなりに,「人間」という存在をフレームの内側に囲い込もうとしている。この「新しい解釈」というものがどんなものなのかは作中では示されていないが,彼が「人間」という外部を己のフレームの内部に取り込み,新しい進化を遂げようとしていることは確かなようだ。
更新し続ける〈内と外〉,そして「どこでもない場所の中間」へ?
第6話「はじまりの物語」では,〈内と外〉の関係の更新が登矢の口からはっきりと語られる。
心葉:ねえ,登矢君。登矢:何だよ。心葉:あんなに嫌がってたのに,なんで地球に降りたの?登矢:俺は,地球に降りたんじゃない。心葉:え?登矢:地球に飛び出したんだ。心葉:どういう意味?登矢:あの時,あのでかいやつに言われたんだ。"お前のゆりかごを飛び出せ"って。心葉:ゆりかご…登矢:ゆりかごは人によって違うんだ。俺のゆりかごは宇宙だった。安心できる場所から,それまで怖がっていた場所に飛び出して,乗り越えることだって。あいつに触れて頭がよくなって,それで分かった。だから宇宙を飛び出した。心葉:私も…あの時,私も飛び出したよ。運命っていうゆりかごから。
登矢はここで地球=ゆりかご=〈内〉と宇宙=〈外〉の関係を転倒させる。彼は宇宙を"故郷"としていながら,物語の当初では,宇宙を〈外〉,地球を〈内〉と認識していた。それがラストシーンでは,宇宙を〈内〉,地球を〈外〉と認識し直している。
実はこの〈内と外〉の転倒は,すでに第1話の美衣奈のセリフによって暗示されていた。彼女は「あんしん」に到着して船窓から地球を見た時,「地球ってホントにあるんだね」と呟いている。これまで地球の内部にいた彼女が,初めて外側から地球を見たことから生じた素直な感想だ。美衣奈は地球を外化することによって,自分の認識の枠組みを更新していたのだ。
そもそも僕らにとって宇宙とは〈内〉なのだろうか,〈外〉なのだろうか。20世紀の宇宙は〈外〉だったのかもしれない。そこは特別な人間だけが行ける世界であり,特別なことが起こる世界だった。しかし「21世紀の宇宙」はー少なくとも高度2,000km以内の低軌道はーすでに〈外〉ではなくなりつつある。これまでも人間は絶えず〈外〉を〈内〉へと囲い込みながら,その都度,認識の枠組みを更新してきた。それが人間にとっての"進化"なのかもしれない。
人間は〈外〉だったものを〈内〉に変え,また新たな〈外〉を措定する,という営為を繰り返しながら,因果律も目的論もプログラムも超えた,自由な「創造的進化」(アンリ・ベルクソン)を遂げていく。その先にあるのは,セブンすら予測し得なかった,未来予測の〈外〉にある,真に自由な未来だ。磯が示したラストは,そのような未来を暗示しているように思える。第6話では,登矢と心葉のやりとり,そして那沙の回想によって,本作における「未来」の意味が示される。
心葉:未来は全部,セブンポエムで決まっていたの。那沙にね,メールで教えてもらったの。すべての答えが書いてあった。(那沙:セブンポエムでは,心葉ちゃん,あなたは登矢くんとはお別れする未来が決まっています。)登矢:ダメだ。セブンポエムなんて,決まった未来なんて,俺は信じない!心葉:登矢君…(那沙:でもね,1つだけセブンポエムには謎の言葉があったの。それがフィッツ。フィッツが何を意味するかわからないけど,それは私が思うに,多分セブンにも読みきれなかった,誰にもわからない未来。)登矢:セブンが用意した未来なんて,要らない!(那沙:セブンが読みきれなかった,最後の可能性。それが,あなたたちの選択。見つけて,心葉。あなたの選択を。)登矢:俺たちが未来を変えるんだ!心葉:はっ…登矢:俺たちが変えられるのは未来だけだ!
あるいは〈内/外〉という概念自体が,「人間」の側が勝手に意味付与した空間解釈であって,それ自体が人間にとっての「フレーム」なのかもしれない。AIにとっては〈内〉も〈外〉もなく,強いて言えば「どこでもない場所の中間」*6 があるだけなのかもしれない。しかし少なくとも「人間」は,この世界の内側に投じられた「世界内存在」(マルティン・ハイデガー)として,〈内/外〉というフレームを立脚点として世界を認識せざるを得ない。人間はあくまでも〈内〉において〈外〉を認知し,絶えず〈内〉と〈外〉の関係を更新しながら進化していく存在なのだ。
だから登矢は,ラストシーンで新たな知性が住まう宇宙を見つめながら,最後にこう呟くのだ。
今度はもっと遠くから呼んでる。早くあそこまで行かなきゃ。
おそらく磯は人類(あるいは「人間」)の進化を信じている。しかし進化の先には何があるのか。もちろんそれは誰にもわからない。その答えを思考することは,「今の人類にはまだ早すぎる」。強いて言うなら,「どこでもない場所の中間」なのかもしれない。しかし,たとえそれがどんな場所なのだとしても,そこには必ず等身大の「少年少女」がいるはずなのだ。
作品データ
*リンクはWikipedia,@wiki,企業HPなど
【スタッフ】原作・脚本・監督:磯光雄/キャラクターデザイン:吉田健一/メインアニメーター:井上俊之/美術監督:池田裕輔/色彩設計:田中美穂/音楽:石塚玲依/音響監督:清水洋史/制作:Production +h./配給:アスミック・エース,エイベックス・ピクチャーズ
【キャスト】相模登矢:藤原夏海/七瀬・Б・心葉:和氣あず未/筑波大洋:小野賢章/美笹美衣奈:赤﨑千夏/種子島博士:小林由美子/那沙・ヒューストン:伊瀬茉莉也
【上映時間】前編:99分/後編:91分
作品評価
商品情報
『地球外少年少女』関連の磯光雄監督インタビュー一覧
*1:ただし実際はこの被害を引き起こしたのはセブンではなく,セブンを殺処分したUN2.0であったことがOtajoのインタビュー AIの反乱はハリウッドの願望!? “ゆとり世代”でも行きたくなる宇宙!? アニメ『地球外少年少女』裏話たっぷり!磯光雄監督インタビュー | オタ女 で説明されている。
*2:松原仁『AIに心は宿るのか』,p.129,インターナショナル新書,2018年。
*3:松原仁『暗黙知におけるフレーム問題』,p.46,1991年。「科学哲学24」所収。
*4:ドストエフスキー(原卓也訳)『カラマーゾフの兄弟(上)』,pp.136-137,新潮文庫,1978年。
*5:第6話「はじまりの物語」より。
*6:最終話でトゥエルブが言うセリフ。最終話の監督のオーディオコメンタリによれば,Googleの研究者がAIに"Where are you now?"と尋ねたところ,"I'm in the middle of nowhere."と答えたというエピソードに着想を得たらしい。GoogleのAIのやりとりについては The Strange Philosophies of Google's Latest Chatbot | Time などを参照。